ピンク・ゴールド・デイ

麻(asa)

  

 大学受験に失敗した。

 私は、髪の毛をピンク色に染めた。


 それは、一種の賭けのようなものだった。

 中学のころ、周りよりも少しだけ勉強が得意だった私は、当然のように進学校に入ることになった。そしていずれは偏差値の高い大学に進み、いい会社に就職することを期待されていた。

 けれど、私が本当にやりたいことは、もっと別のところにあった。

 ヘアメイクアーティストになりたい。

 数年前、たまたまコンビニで大人の女性向けのファッション誌を立ち読みして、息が止まりそうになった。ドラマの脇役として有名な、あまりぱっとしない印象の女優。その顔が、さまざまな色と光に飾られ、輝いていた。

 私もこんなふうに、誰かを美しくしたい。そのための技術を身につけたい。はっきりと、そう思った。

 いよいよ志望大学を決める時期になり、三者面談が行われた。私は教師と親に、いくつかの美容専門学校のパンフレットを差し出した。教師は動揺し、母は慌ててそれらを鞄につっこみ、逃げるように学校をあとにした。自宅に戻ると、「何を考えてるんだ」「恥をかかせるな」と両親にさんざんなじられ、せっかく取り寄せたパンフレットは資源ゴミとして処分された。

 そして私は、親と教師にすすめられるまま、東京の有名私立大学を受験することになった。

 夢を否定されたからといって、受験を放棄しようとは思わなかったし、夢を諦めようとも思わなかった。大学を卒業してから、美容の勉強を始めても遅くはないと思っていたから。

 けれど私は、大学受験に失敗した。すべり止めはひとつも受けていなかったので、おそらく浪人して、予備校に通うことになるだろう。目当ての化粧品ひとつ手に入れるのもままならないような、この田舎町で。


 学校のパソコンルームで合格発表の画面を見つめながら、そこまで考えて、何かがぷつりと切れた。財布の中には、貰ったばかりの今月分のお小遣いが入っている。

 携帯に絶え間なく着信が入っているのも無視したまま、私は学校を飛び出した。そして、町でいちばんおしゃれな美容院に駆け込み、いきおいよく言った。「ピンク色に染めてください」と。


 会計を済ませると、財布の中身は小銭だけになってしまった。こっそり買い続けていたファッション雑誌も、今月号は立ち読みするしかなさそうだ。

 美容院のそばにある大きな書店に入ると、いくつもの視線を感じた。この制服が、県内でもトップクラスの進学校のものであることも、この髪色がそれにどれだけそぐわないものであるかということも、大概の人が知っている。そういう田舎町なのだ、ここは。


 雑誌のコーナーで目当てのものを見つけ、ぱらぱらとめくる。ああ、やっぱり手元に置いておきたかったな。そんなことを思っていると、隣に人の気配を感じた。妙に近い。痴漢だったらいやだな。

 おそるおそる目を向けると、私と同じようなピンク色の髪で、同じ年頃の女の子が、私の顔をのぞきこんでいた。

「あー、やっぱりイインチョだー!」

 無邪気なその笑顔を、私はよく覚えていた。



 私の通っていた中学校は、身だしなみにとても厳しかった。毎週クラスごとに、生徒指導の教師による服装検査が行われ、そのルールに違反した生徒が1人でもいたクラスは、連帯責任としてペナルティを与えられる。3年になると、クラス全員の内申点にひびくという噂もあった。

 そんな大切な年にうっかりクラス委員長になってしまった私は、とにかく違反者を出さないため、検査当日の朝はクラスメイト全員に目を光らせるようになった。

 私の視線を感じて、たいていの子は慌ててシャツの裾をズボンにつっこんだり、折って短くしていたスカートを直したりするのだけれど、それがまったく通用しなかったのが行沢帆南(ゆきさわほなみ)だ。

 ゆるくぶら下がったリボン、短いスカートは当たり前。ピアスをつけたまま、小指の爪だけマニキュアを落とし忘れている、なんてこともしょっちゅうだった。いつの間にやら、私は週に一度の朝、つきっきりで彼女の面倒をみることが習慣になっていた。

 椅子に座らせ、アクセサリー類をはずさせる間に、肩より長い髪を梳かしてひとつに縛る。今度は立たせて、襟元を整え、巻かれたスカートのウエストを元に戻させる。

 一連の流れを終えると、いつも彼女はこう言って、にへらと笑うのだ。

「イインチョ、いつもありがとう〜」


 聞くところによると、彼女は入学当初からこんな調子だったらしい。毎週ペナルティを受けなくてはいけないクラスメイトたちは彼女を疎み、上級生に目をつけられることも少なくなかったようだ。

 中学最後の年になって、彼女はようやく、そんな状況から脱却することができた。それを私のおかげだと言って、毎回欠かさずお礼を伝えてくるのだ。


 けれど私は、複雑だった。こうして彼女の世話をするのは、検査で引っかからないようにするためであり、つまりは彼女以外のクラスメイトのため、自分自身のためだったから。

 何より、彼女の格好は、彼女にとても似合っていた。小さな一粒ピアスに、華奢なゴールドのブレスレット。細くふんわりとした髪は茶色がかっていて、縛るより下ろしていたほうが可愛いに決まっていた。それらを、ただ3年間過ごす場所のルールに従ってやめさせなければいけないことが、本当はひどく後ろめたかった。

 髪型を整えてメイクをしたら、きっととても綺麗なんだろうな。

 毎週決まった日の朝に、同じ顔を間近で見ながら、そんなことを思った。



 まだ家に帰る勇気は出なかったので、久しぶりに話したいという彼女の提案に乗ることにした。

 コートの前をかきあわせ、ファミレスに入る。けれど当然、周囲の視線の多くは、彼女のほうに向いていた。

 巻かれた長い髪は、やわらかそうなピンクアッシュ。襟元にたっぷりファーのついたコートに、クラシカルなグリーンのワンピース。長い脚に、レースアップのロングブーツがよく似合う。メイクはけして濃くなく、長いまつ毛とつやのある唇が目を引いた。

 東京ならいざ知らず、こんな田舎で、こんな人は今まで見たことがない。


 ドリンクバーで注いできた温かいココアを飲み、ひと息ついていると、同じように温かい飲み物を注いできた彼女が、席につきながら言う。


「イインチョの髪色は、ピンクベージュなんだね〜」

「ああ、うん。ちょっと赤っぽくなるから、そっちの方が似合うよって美容師さんに言われて」

「それってもしかして、あそこの美容院の人〜? ヒゲモジャの〜」


 道路を挟んで向かい側の、ついさっき髪を染めてもらった美容院を指差され、私は驚く。


「そうだけど、なんで」

「あそこね、私の家なんだ〜。お父さんとお母さんが美容師なの〜」


 ぜんぜん知らなかった。


「じゃあ……行沢さんも、美容師になるの」

「ん〜。美容師はお姉ちゃんがなったから、私はモデルになりたいんだ〜」

「専門とか、行くの」

「うん〜、お姉ちゃんが東京にいるから、私も東京の学校行くんだ〜」


 3年前と同じように、彼女はにへらにへらと笑う。頭に血が上るのがわかる。私が望んで望み続けたものを、彼女は当然のように手にしている。羨ましいのを通り越して、もはや妬ましかった。

 カップを握りしめたまま、下を向く。こんなひどい顔、見られたくない。


「ねえ、イインチョ。私、本当に感謝してるんだよ」


 声が出なくて、返事ができない。


「私ね、小学生のときから学校が嫌いで。東京にいるお姉ちゃんがくれたアクセとかそういうの、何か身につけてないと学校に行けなかったの」

 間延びした彼女の声のトーンが、少し下がった。

「でも中学って、校則厳しかったじゃない? 何度も注意されて、没収されて、みんなに白い目で見られて、もうダメかなって思ってたの。もう、学校行くの無理かなって。そしたら3年になって、イインチョが面倒みてくれるようになって。私の大事なもの、絶対バレないように隠してくれて。だから安心して、学校行けたの。だからちゃんと卒業して、高校にも行けたの」


 顔を上げる。彼女はやっぱり、にへらと笑っている。

 私は、どんな顔をしたらいいだろう。


「だから本当に、ありがとう。東京に行く前にお礼をしたかったんだけど、連絡先も知らないし、どうしたらいいかわからなくて〜」

「そんな、お礼なんて」


 別にいいよ、と言いかけて、ふと思いつく。


「……じゃあさ」

「うん、なになに〜?」

「メイク道具と洋服、貸してもらえないかな」



 そんなわけで私は、お城のような行沢帆南の部屋へやってきた。アクセサリーだけでなく、化粧品も洋服も、そのほとんどがお姉さんから贈られたものらしい。

 私がメイクにいそしんでいる間、彼女は巨大なクローゼットから洋服を引っ張り出してくる。


「あ〜このワンピ、私には丈が短すぎたのよね〜。あ〜、これもイインチョの髪の色にめっちゃ合いそう〜!」

「ちょっと、服はそんなに一度に着られないんだから、ほどほどにしてよ」


 彼女をたしなめる自分の声にも、興奮がにじみ出ている。雑誌を見ては憧れることしかできなかったものが溢れるこの部屋で、落ち着いていられるわけがなかった。


「それに、もう中学生じゃないんだから、委員長はやめてよね」


 小さくつぶやくと、鏡の向こうで、彼女が振り向く。


「んーじゃあ、ヨウちゃん? シオちゃん?」

「え」

「陽田のヨウと、栞里のシオだよ〜。他のがいい〜?」

「……や、なんでもいいよ」


 フルネームを覚えてるなんて、と思ったけれど、それはお互い様か。


「私だってユキサワさんなんて呼ばれるのいやだよ〜。ユキちゃんかナミちゃんにしてよ〜」

「じゃあ、帆南」

「呼び捨てかよぉ〜」


 恥じらいを隠すような口調で、帆南は顔をくしゃくしゃにして笑った。



「じゃあ、帆南が東京行く日までに、借りたものは返しに来るから」

「そのまま持っててもいいのに〜。どうせ着ないし〜」

「だめだよ、人から貰ったなんて親に言えないし。それに、返しに来ることに意味があるんだから」

「え〜。シオちゃん意味わかんない〜」


 眉根を寄せてみせる帆南に、頬がゆるむ。


「わかんなくていいよ」

「え〜じゃあ、特別にこれも貸してあげる〜」


 そう言って差し出されたのは、中学生のころ彼女が毎日身につけていた、ゴールドのブレスレットだった。


「これ、大事なものじゃないの」

「大事だから貸すんだよ〜。勇気がもらえるから付けていって〜」


 事情は何も話していないのに、雰囲気のようなものが伝わってしまっていたらしい。左の手首から、しゃらんと澄んだ音が鳴る。


「うん、ありがとう。がんばるね」

「うん、がんばって〜」


 手を振って、玄関の扉を閉める。外は薄暗く、冷たい風が吹いている。



 うまくいくかどうかなんて、わからない。

 だけど、後悔だけはしないように。

 今度こそ、勇気を出して、ぶつかってみよう。

 ちらちらと光る左手首を右手で握りしめ、深呼吸したあと、私は切っていた携帯電話の電源を入れる。

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