第2話

ネイラが重い扉を押して開いた儀式の間は、入ってすぐ感じられるほどの湿気に満ちていた。むわりとした独特な空気をまとった室内は、日が落ちてきた空に寄り添うように暗くなりつつある。この場に来るのは己の命の期限を悟り絶望している花嫁か、夜目が利く花婿こと吸血鬼しかいない。故に明かりなど必要ない、むしろ明かりは吸血鬼にとって煩わしいもの、という認識から儀式の間には明かりがないというのは聞いていた。吸血鬼の姿を見ないままで済むかもしれないという辺りからも、花嫁にとっては明かりなどない方がよいのかもしれない。


踵の高い靴がなかなか履きなれなくて少しばかりよろめきながら中へ入れば、御者の男が静かに扉を閉め、重たい音を立てて鍵を掛けた。馬車の音がゆっくりと遠ざかっていく音を分厚い鉄の壁越しに聞きながら、ネイラは身を翻す。

扉を閉めたことで一層暗くなった儀式の間の中は元が教会だったこともあってか荘厳な雰囲気を保ちながらも、どこか陰鬱とした空気が流れていた。ネイラの背にも冷たい空気が走り、思わず身震いをする。むき出しになっている肩が粟立つのを擦って温めながら、コツンコツンと乾いた靴音を響かせて、奥へと自らの足で進んでいく。


「……」


扉が閉まる前も、閉まった後も、どれほどの花嫁がここで涙を流し、気が狂いそうに、否、狂わせながら己の死を待ったことだろう。この部屋で、どれほどの花嫁達が『死ぬほど』怖い思いをしてきたというのだ。


「……」


カタカタと自分の手が震えていることに、ネイラはようやく気がついた。それが寒さ故かはたまた別の理由かは考えたくなくて、その決心が揺らぐ前に狭い室内で慣れない靴を引きずるように小走りになりながら奥にある台座に座り込んだ。豪奢な黒い花嫁衣装がネイラの心中とはかけ離れていくようにふわりと広がって、ネイラの周りに柔らかな円を作る。大理石で出来た台座は空気で冷え切り、体温を一気に奪っていく。それを言い訳にネイラは歯をカチカチと鳴らしながら涙だけは流すまいと一度強く目を瞑って、ゆっくりと解く。そこでネイラはようやく儀式の手順を思い出した。


「あ、水……」


儀式の間に入り、台座についた花嫁は天窓から月が見えるようになったら小瓶から一口水を飲み、婿を待つ。

たったそれだけの手順ではあるが、恐怖や狂気に飲まれたら忘れてしまいそうな程、些細なことだ。最期に水を飲ませる、という温情のつもりなのだろうか。

ネイラは先ほど渡された小瓶をそっと取り出した。小さなインク瓶程の大きさの容器に、半分程の量の水が入っている。それをくるくると回すように揺らしてから、ふたを開ける。それを一気に煽ると、少量の水なのに喉がゴクリと鳴った。


最期に口にした水。そう自覚すると、ネイラを飲み込むように恐怖が襲い来た。それを胸元をギュウ、と押さえ込み、こみ上げそうな負の激情を押さえ込む。怖いと口にすれば、そのまま狂気に包まれ、思わず笑い出してしまいそうになる。そうなる前に早く顔も知らぬ化け物に一滴残らず血を吸われてしまいたかった。自分が、自分でいるうちに。


「来るなら早く来なさいよ……!」


自分でもそう叫んだことに、全く気がつかなかった。

そしてそのまま、ネイラの意識は唐突に途切れる。最後に黒い月と目があった気がしたが、それを認識する間もなくずぶずぶと闇の中へ沈んでいったのだ。




暗く沈んだ意識が浮上するまで、果たしてどのくらいの時間を要したのか。それは気を失った当事者のネイラが預かり知ることではなかった。酷い頭痛に苛まれながら薄く瞼を開けば、先ほど居た儀式の間と同じように暗い場所に横たわっている。冷たい床は薄いストッキングでしか覆っていないネイラのくるぶしを容赦なく冷やし、その冷気が背筋を這い上がりゾクゾクと肩を震わせた。


ゆっくりと体を起こし、未だ重く鈍い頭を緩く動かして周囲を臨む。が、やはり今自分がどこにいるかはわからなかった。それどころか自分か置かれた状況さえまともに把握出来ていない。儀式の手順通り最期にと渡された水を飲み込んだ辺りから、まるで糸をプツンと切ったかのように記憶が断絶しているのだ。


「……う、」


頭が一度ズンと痛み、ネイラは思い切り眉をしかめた。耐えきれなくなって一度床にへなへなと倒れ込み、そのままじっと冷たい床に身を預ける。すっかり冷えた身体は無意識の内にガタガタと震えながら、酷く掠れた声で「寒い」と呟いていた。何かから身を守るように動きの鈍い背中を、手足を赤ん坊のように丸めれば、身に纏った黒の花嫁衣装がサラサラと軽やかに鳴った。


「あぁ、やっと起きたのかい」


しかしその刹那、自分ではない誰かの声がして震えていたネイラの身体はビシリと動きを止めた。『ここはどこ』よりも先に『誰の声』という恐怖がネイラを埋め尽くす。

コツンコツンと硬い靴音が、小さく背中の方から聞こえてくる。その時点で今ネイラがいる場所が儀式の間ではないことがわかってしまった。儀式の間は、そう広くない。

そこから導き出される答えなど、たった一つだ。そう、ネイラは何故こんな衣装を着てあんな場所に居たのか。


「よかった。調子はどうかな」


足音が、背中のすぐ後ろで止まった。硬い靴底が床を叩く音は確かに聞こえるのに、その気配はあまりに希薄だ。ネイラは一層ガタガタと身を震わせる。寒さのせいではないことは、彼女自身がよくわかっていた。

あふれ出しそうになる涙をなんとか留めて、ネイラは一度浅く息を吸った。わかっている。背後にいるのは間違いなく、


「さぁ顔を見せて。僕の花嫁」


吸血鬼だ。


それを脳が理解した瞬間、必死に止めていた涙は冷たい頬を滑った。これから自分がどうなるのかはわからないが、行き着く先は既にわかっている。

思考は完全に動きを止めてしまった。今自分が何を考えているかもわからない。あれだけ妹を心配していたはずの自分はとうに息絶えたのか、シェーラの顔すら浮かんでこない。

ただただ、これから直面するであろう『死』という概念に、身を震わせて怖がることしか出来なかった。


「大丈夫? 具合が悪いのかな」


そんな言葉と共に、不意に背後からひやりとした空気が近づいてきた。小さな悲鳴を上げようにも声は出ず、恐怖で固まった身体はそのまま伸びてきていたであろう手によって抱えられ、冷たい床から離れる。背後にいた人物が、ネイラを抱えたのだ。その手はドレス越しにわかるほど、冷たい。


「ごめんね。こんな冷たい床に花嫁を寝かせてしまって」


そう言いながら、背後の人物は優しい手つきでネイラの身体をゆっくりと床に座らせた。ドレスがふわりと広がり、円を描くように彼女を飾る。靴が半分脱げたままだが、そんなものは既に意識から抜けていた。暗闇の中、慣れてきたネイラの目は様々なものを映し始めたのだ。


まず、その氷のように冷たい手の持ち主と目が合った。薄暗いその場所でも一層際立つ紅い瞳が、ネイラをじっと見つめている。頬は血が通うことを知らないかのように白く、そんな顔に掛かる髪は恐らく黒髪のような暗い色をしているのだろうか。暗い影に溶けるように、けれど妖しく鈍く光るように見えたのが、たった一目だけでも深く、ネイラに男の印象を刻みつけてくる。


「あなたが、吸血鬼」


ようやくネイラの喉元から声がこぼれた。自分の声とは思えないほど、恐怖に震え、乾いている。

しかしそんなネイラの声とは相反するように、妙に弾んだ声音で男は微笑んだ。口調はまるで、年若い青年のようだ。


「そうだよ。そして君が、僕の花嫁」


「……はい」


ネイラは一つ、小さくうなずいた。これでもうネイラの命の期限が決まったのだ。花嫁は、ただ目の前の男に血を吸われる為だけに、ここにいる。しかしそれを見た目の前の男は、じっとネイラの瞳を見つめて不意に眉を寄せた。


「やっぱり具合が悪そうだね。もしかしてまだ薬が抜けていないのかな」


「薬? 」


うん。と吸血鬼が頷いた。


「あの部屋に入ってからすぐ、村人から持たされた水を飲んだでしょう。あれは眠り薬なんだ。君たち花嫁はあれを飲んで眠る。そうしたら僕が花嫁を迎えに行く」


「…抵抗しないように?」


吸血鬼は首を横に振る。


「ううん。いや、それもあるけど…眠ったままの方が、幾らか楽だから。君たちも、僕も」


「あなたも?」


「……えっと…」


言い淀む理由が、ネイラにはわからなかった。今まで何人もの女の血を啜ってきた吸血鬼が、今更血を吸いやすくするためだと生け贄に伝えることを躊躇う意味など、無価値に等しいはずだ。


「じゃあどうして、私は」


目を覚ましたのか。そう掠れた声で訪ねる直前で、再びネイラの意識は奈落の奥へと沈んでいった。ぐらりと揺れた彼女の身体を、紅い瞳の男は慌てて支える。その小さな肩は、完全に血の気を失っていた。

男は黒いドレスの花嫁をそっと抱えて、その場から立ち上がる。緋色の長い絨毯の敷かれた古城のエントランス。突き当たりの大きなステンドグラスには黒い光をたたえた月が、こっそりと男を見つめていた。




ーじゃあ、僕もそっちへ連れていってよー


青年が、女の服の裾を強く掴んだ。

何を言っているの。と女は青年の手をふりほどく。


ーだってそうすればー


青年の声が、じわりと涙に滲み始めた。泣くのはずるい。女はすっかり困り果てる。


ーずっと一緒に……! ー


青年が叫んだ。

そんな彼の頬を、女はそっと撫でる。

ああ初めて己から触れることが出来た、と。女の心は歓喜に満ちたのだ。 




夢を見たような気がしたせいか、まるでぐっすりと眠った日の朝のようにネイラはパチリと瞳を開いた。


頭はスッキリとしているものの視界に入る景色はやはり薄暗くて、心地よい目覚めとは裏腹に酷く気分を落ち込ませた。幾分軽い動作で、ネイラは身体を起こす。そこでようやく気がついたのは、今自分が眠っているのは先ほど倒れ込んだ冷たい床ではなく、狭く苦しい棺桶の中でもなかった。

もしや既に血を吸われ冥界にでもいるのだろうかとも思ったが、ふと窓の先の月が黒く鋭い。その時点でネイラはまだ呼吸をしていることは間違いないようだった。


「……ベッド」


小さく呟きながら、ネイラは身体にかけられた布団をおずおずと外した。柔らかく軽い布団はどうやら羽が入ったもののようである。貴族が使うような上等のそれを掛けて眠る意味がわからなくて、せっかく先ほどの頭痛から解放されたというのに、混乱に足先を浸さねばならぬことが大層に不快だった。


しかし、いやいや、とネイラはすぐさま首を横に振ってその不満から目を逸らした。なぜ生け贄として連れてこられた自分が高級な布団で眠っているのか。それが最も大きな疑問である。もしや吸血鬼の城から抜け出したのだろうか。そんな僅かな期待がじわりと滲み出てきそうになるが、自分の命に期待することはしたくなかった。既にここ数日で一生分の絶望を浴びたのだ。


どうしていいかわからずに手持ちぶさたになってしまった身体をとりあえずベッドから離そうと、ネイラは足をベッドから下ろすべく、身体を捻った。が、その動作はここでピタリと動きを止めた。


コンコン、と部屋をノックする音がネイラのいる部屋に響いた。無防備な神経を引き裂くように鳴ったその音に過剰に肩を跳ねさせれば、その音に続いて小さな声がする。


「入るよ」


先ほどのやりとりが夢でなければ、そしてネイラの記憶が歪曲していなければ間違いなく、吸血鬼の声だ。ネイラは身体を堅くしながら吸血鬼に身構えた、が、不思議を先ほど感じた思い出したくもない恐怖心は僅かに薄くなっていた。恐怖もだが、それ以上に知りたいことがある。それを知ってからでないと純粋に恐怖して死ねそうになかった。

ネイラは一応佇まいを直すように足をベッドに下ろして座ろうとしたが、入ってきた男が「だめだよ」とそれを制した。訳も分からずベッドの上で半身を起こした状態のまま、恐ろしい客人を迎え入れる。


「よかった。起きたんだね」


先ほども同じようなことを言われた気がするが、とりあえず一つ、「はい」と返事をした。これもやはり先ほどと同じ返事だろう。


「強い眠り薬というのは自然に抜けるまで時間がかかるし副作用があるから心配だったんだ。もう大丈夫?気分は悪くない?」


「…はい」


「よかった。せっかく目が覚めたのにまた急に倒れてしまったから、焦ってしまったよ」


部屋の隅にランプが置いてあったのだろう。吸血鬼の男は持ってきた燭台の火をそちらに移すと、とたんに薄暗かった部屋が火の柔らかな橙に包まれて、心なしかネイラの身体から僅かに力が抜けた。コツコツと固い床に靴音を響かせて、男がベッドに近づいてくる。不意に緊張で上がる心音に気がつかないふりをしながら、ネイラは顔を上げた。そこにはやはり、先ほどの男が心配そうな顔をこちらに向けている。明るくなった室内で改めて彼の顔を見つめてみれば、黒ではなく、夜の空のような濃紺の髪に赤い瞳を持つその姿は暗闇で見た吸血鬼が夢ではなかったことを思い出させてくる。


「若い……」


思わず、ぽろりと言葉がこぼれた。先ほどの薄暗い闇の中、混乱したような状況では髪色や瞳の色を見るので精一杯だったが、明かりの灯った部屋で目の前にいる男は何百年も生きているとは思えないほどに若い容貌をしていた。


「はは、僕? こう見えてもとっても長生きなんだけどね」


年寄りかと思ったかい?

そう笑った男は自身の緩く癖のついた濃紺の髪を摘んで少しばかり弄んだ。

そう、男は長生きである。何百年も、沢山の生け贄の血を吸って、この化け物は生き延びてきたのだ。


ネイラは柔らかな明かりとベッドのせいで溶け始めていた恐怖と、吸血鬼に対する憎悪を思い出す。そうだ。自分はこの男の食料になるために、ここにいるのだ。

事実を一気に記憶の奥底から引きずり出すと、ネイラは嫌悪を示すように男から顔を逸らした。


「どうしたの? 」


しかしそんなネイラの真意などまるで読み取りもせずに、男は心配している、とでも言いたげに眉を寄せ、ネイラの顔をのぞき込んできた。それがまた、ネイラのもどかしさを煽ってくる。ネイラは勢いよく掛け布団を足下に追いやると、ベッドの上で姿勢正しく座り込んだ。すぐさま、男の「えっ?! 」という困惑の声が額に投げかけられる。ネイラは小さな声で、呟いた。


「あなたが、吸血鬼様で間違いないですか」


「……うん。そうだよ」


冷や汗がつつ、とこめかみを濡らすような感覚を覚えながら、ネイラは急激に渇く喉をなんとか唾液を飲み込んで湿らせてから、自らの手で自らの命の果てを探るべく、口を開いた。


「あなたの生け贄になることに、不満など一つもございません。しかし、一つお聞きしてもいいですか? 」


「何個でも、どうぞ」


礼を述べ、頭を下げたネイラに向かって慌てるように「顔を上げて」と言う男の言葉は、聞かないふりをした。


「どうして私はここにいるのでしょうか」


「…ん? どういう意味? 」


「眠り薬はもう、切れてしまいました。なのになぜ、私は生きているのでしょうか」


「……」


薬の副作用か、酷く痛む頭が抱えた記憶でも、はっきりと覚えている。この男は眠り薬を飲んで眠った花嫁の血を吸っていると、そう言っていたではないか。なのに自分はその薬が切れるまで放置され、そのまま気を失った後、こうして別の部屋でベッドに寝かされている。ネイラの頭で考えられるのは、今のところ二つしかない。


一つは、なんらかの理由で吸血欲が失せている。


「私はシェーラ・リーベリアです。今回選ばれた花嫁、です。なのにどうしてあなたは私を生かしているのでしょうか。」


緩んだはずの緊張は、一気にネイラの背を駆け抜けていた。もう一つの理由は、ネイラの覚悟をあっと言う間に亡きものにするものだからだ。


そう、もう一つの考えうる理由は、


「だって、僕が今回花嫁に選んだのは君じゃないもんね。ネイラ」


生け贄の替え玉が、吸血鬼にお見通しだった場合である。

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