凍ったその血が枯れるまで

多和島かの

第1話




「僕は恐らく、あと数年で死ぬだろう」


「え?」


思わずネイラは耳を疑った。不死身故に何百年も生きてきた彼の言葉にしては、あまりにも軽く、信じ難い。


「だから、君には僕が死ぬのを看取ってほしいんだ」


そう言った男の瞳は穏やかな光を灯していたが、反面もはや命令ともとれる程の力強さを纏っていた。

吸血鬼の居城。古城の冷えた空気がネイラの体温を無慈悲に奪っていくにも関わらず思考は熱に浮かされたように上手く働かない。彼の瞳は、言葉はあまりにも真摯だった。


「僕は絶対に君の血液を口にすることはない。だから君は、僕が死ぬまで側にいて」


甘い言葉だ。さすがにこの言葉の真意を読みとれない程幼くはなかったネイラは迷子の子供のように目線を彷徨わせた。彼の血肉になる覚悟を決めてきたというのに、その覚悟はひらひらと柔らかく散っていったのだ。激しい動揺にネイラの心臓は鼓動を激しくさせる。きっと今、自身の心臓は彼の食料をせっせと作り出していることだろう。血液が体内を足早に巡るせいで、冷えきっていた頬は次第に温まってきた。


「僕の願いはたったそれだけなんだよ。ネイラ」


男がそっと、ネイラの手に自らの手を重ねてきた。血の通っている気配すらしない、凍るように冷たいその手に彼が不死者の王と呼ばれる種族であること、それがネイラの恐怖の対象であることを思い出させてくる。しかし血のように紅い瞳をとろけさせ、縋るような視線を向けてくるこの吸血鬼を、ネイラは一度ゆっくりと見つめたのだった。





吸血鬼に若い娘を花嫁として差し出すことは、その国にとっては呼吸も同義であった。


妹のシェーラが恐怖に身体を震わせる振動が、彼女を抱きしめるネイラの腕に生々しく響いた。ネイラに縋るように抱き着き袖口を強く握ってくる妹の力が思ったよりずっと強く、指先が白くなっているのが見える。それも全て抱え込むように、ネイラは妹を強く抱きしめ直した。それに呼応するように、とうとう妹のシェーラはしゃくりを上げながら大粒の涙を零し始める。その音無き嗚咽が余りにも悲痛で、ネイラまでつられて泣きそうになってしまう。しかし、口を引き結んで耐える。彼女を落ち着かせる為に頭を撫でてやる優しい手つきと、それから自身の覚悟を決める時間と冷静さが、ネイラが今最も欲しいものだった。


「大丈夫。大丈夫だよシェーラ」


声が震えてしまったが、ネイラはなんとか穏やかな声を冷たい喉元から発する事が出来た。そっと片手で妹の艶やかなブロンドの髪を撫でる。

真っ赤な目元を隠そうともせずこちらを見つめる彼女が痛々しい。ネイラは放心したような瞳で、ふと高い位置にある天窓に目を向けた。

未だ高い位置にある太陽は不自然な程に朗らかな光を纏い、まるで今夜上る月の怪しげな笑みなど知らないかのようにそこに咲いている。ネイラは唇を噛み締めた。今夜の月は、間違いなく黒い光を降らせるのだ。


月の光が黒い夜。

それは森の奥深くに住む吸血鬼に生贄を捧げる夜であることを表していた。


深い森の入り口にあるその村は酷く閉鎖的で、まるで現世から隔離されたように息づいていた。しかしそれでもその村は細く、しかし根絶することなくそこに在り続けている。

理由があった。その村が、そこに在り続ける理由が。


その国は、国土の1/3が森に覆われている。森はその奥にある未開の地まで続いており、その先は学者の妄想ともいえる想像と、子どもに寝しなに聞かせるおとぎ話の中でしか解明されていなかった。

国が誇る長いの歴史の中で、残念ながらその奥に辿りついた者は誰一人いないのだ。そこへたどり着く直前に、皆文字通り消え失せてしまうからである。

深い森の、未開の地と人間が住まう土地の中間点。そこに一人の男が気の遠くなるほど長い時間、城を構えて住んでいるのだ。


彼は唯一、人間の寿命をものともしない生き物だった。彼は唯一、人間のような生命活動をしない存在だった。人間の血液を食料とし、人間以上の感覚を持ちながら、本能を理性で支配出来る知性を備えていた。

森と未開の地の中間地点に存在する古城。そこに住む吸血鬼である彼の存在全てが、ネイラとシェーラが住む村の存在理由だった。



太陽は先ほどと全く姿を変えないまま、天窓の真ん中に微かに存在していた。ネイラは薄暗く、眩さを微塵も感じないその光に一度目を細めてから、妹のシェーラを見つめる。シェーラは未だ身体の震えが止められず、ネイラの服の袖を握る力は増していくばかりであった。


「シェーラ」


ネイラが小さな声で妹の名を呼ぶ。そんな姉の声さえ彼女には刺激なのか、シェーラはビクリと身体を大きく揺らした。そんな妹が憐れで、また唇を噛む。しかし彼女の頭を撫でる手つきはどこまでも優しくできた。覚悟が決まったのだ。


「シェーラ。シェーラ大丈夫だよ」


その声が余りに柔らかかったのか、妹は驚いたように顔を上げた。彼女の琥珀の瞳が、涙で一度大きく揺らぐ。それさえも目に焼き付けておこうと、ネイラはじっと、妹の瞳を強く見つめてこう言ったのだ。


「私が行くよ。私が行くから大丈夫。だから、大丈夫」


シェーラの瞳が大きく見開かれた。その衝動に任せてボタボタと大粒の涙が彼女の頬を滑っていくのと同時に、ネイラの体に軽い衝撃が襲う。シェーラが思い切り抱き着いて必死に首を横に振った。顔を一旦上げて一度ネイラと目を合わせてから何かを叫ぶように大きくパクパクと口を動かし、もどかしそうに再び何度も首を振る。小さな時分より声を出すことが出来ない彼女は悔しそうに顔を歪めてから、それでもいやだいやだと首を振り続けた。


ネイラには、それだけで十分だった。こんなにも悲しんでくれる人がいる。それだけで自分は喜んで妹の身代わりになれる。


「大丈夫。どうせ奴にとってはどんな女でも食料であることに変わりないんだもの。入れ替わったって気付きもしないかもしれないわ」


だから大丈夫だよ。とネイラは一度微笑んだ。もしかしたらその口元は引き攣っていたかもしれないが、今出来る一番の笑顔を妹に見せてあげられたはずなのだ。その結果か否か、妹は大きく肩を揺らしてまた泣き始める。彼女が声を出せないことが、今ばかりは助かってしまったのかもしれない。もしシェーラが大声で泣いてしまっていたら物置へ逃げてきた意味もなくなり、生け贄が入れ替わるという禁忌を犯すことを村人が察してしまうかもしれない。


ネイラはもう一度、シェーラの頭を優しくしっかりと撫でた。今生の別れと、少しの心配と、これからは共にあれない悲しみを混ぜて妹の髪を撫でれば、シェーラは声の出ないその喉で出来る限りの慟哭をしているようだった。


「シェーラ、ありがとう」


元気でね。と告げてから、ネイラは素早く物置から飛び出した。辺りからは姉妹の名を呼ぶ村人たちの声がする。吸血鬼に捧げる生け贄を失ってはまずいと探しているのだ。


そのままネイラは「私はここです!!すみませんでした!」と大声で叫んだ。その瞬間、周囲を捜索していた村人たちの目が一斉に声の元を見た。皆が皆目を血走らせ、呼吸も整わないまま一斉にネイラへと近づいてくる。普段は優しい村人の鬼気迫る反応に、ネイラは思わず足を竦ませるが、すんでのところで踏ん張った。


「私が、私が生け贄です。逃げてしまってすみませんでした……」


「ネイラ、お前の方だったのか……」


「はい。私がいなくなったら妹がどうなるか心配で、逃げました。許してください」


「いいんだ。こうして出てきてくれただけ、お前は勇気ある娘だ」


「国からのお達しですから……」


ネイラは嘘を吐いた。吸血鬼に捧げる生け贄には黒い月が出る前夜、国からの使者が王宮に届いた一通の手紙を持って現れる。使者が直接その家に手紙を持ってくるが故に、どの家の娘が選ばれたかは村人が知っていても、その家のどの娘が選ばれたかは、その家にしか分からないようになっていた。故にシェーラがが選ばれたことを知っているのはネイラと張本人のシェーラのみだった。

それを知った姉妹が村の中を一晩逃げ仰せたのは、恐らく村人達の温情も混じっていたことだろう。昨夜から一晩、ネイラはシェーラと村の中を逃げ回り、ようやく覚悟を決めたのだった。


二人の両親は、数年前に流行った病でとうに天へと旅立っている。『敬虔な村人』であった両親がいたらネイラの策ももはや通用しなかっただろう。その点に関しては、ネイラは親不孝と天の両親に罵られようとも安堵の息を吐かざるを得なかった。


「ネイラ、かわいそうだが、すぐ準備をする。こちらももう一日しか、猶予がないのだ」


「はい」


村人の口調はいやに作業めいている。仕事の時間に遅れてしまう、とでも言うようにネイラの絶命の時間を急かしてくるのだ。その村人を押し退けるように、村長である老人がネイラの前へと出てきた。悲しげに歪んだ彼の瞳には、村長としての義務と、一人の老人としての悲哀が滲んでいた。ネイラは一つ深々とお辞儀をしてから、馬小屋の方を振り返った。

そこには妹のシェーラが、村の女たちに支えられながら泣きじゃくる姿があった。ネイラは一つ、彼女に手を振る。


今度こそ、柔らかい笑顔を向けられたように思う。


「村長、シェーラのことをよろしくお願いします」


「ああ。引き受けよう……すまないネイラ」


ネイラは静かに首を振った。そうして自身が犯そうとしている罪を、振り切ろうとしたのだ。


そのままネイラは今までの花嫁達と同様に教会の控え室に連れて行かれた。村の女達の手によって真っ黒な、しかし形はウエディングドレスをした衣装を着せられる。身体を丹念に清め、慣習通り左手首にはシルバーのブレスレットをつけた。そこに小さく瞬くロザリオのチャームは、人間によるせめてもの抵抗である。ドレスは高級な絹をふんだんに使っており、窓から入る太陽の光に柔らかく溶ける。それは色さえ黒いものでなければ大層可愛らしい形をした、紛れもないウェディングドレスなのだ。


「……この村から花嫁が出れば、より綺麗な衣装を着せてあげられるなんてひどい皮肉ね」


目に涙を溜ながら、ドレスの裾直しをしていた仕立屋の女将が呟いた。そう、ネイラの村が森の端にある理由はそこにある。この村は吸血鬼が花嫁を欲した際に一切の儀式進行をする為に存在している村なのだ。

この村は先祖代々儀式の衣装から祭具までを用意するのが仕事である。故に、衣装を準備する場所に早々に張本人である花嫁がいる場合は花嫁の希望になるべく沿った衣装を準備することが出来た。


「ねぇネイラ、もう少しレースを足しましょうか。どちらかというと可愛らしい形の方が、貴女に、合って……」


そこからは、部屋の中に女達の泣く声がまるでさざ波のように連鎖した。儀式を遂行する為に存在する村など小さいものであり、ネイラが小さな頃から知る人物ばかりだ。両親が死んだ時も皆が助けてくれた思い出だって、ネイラの中には静かに眠っている。


「ありがとうございます。時間が許すなら、思い切り素敵にしてください」


ネイラが笑ってそう言えば、仕立て屋の女将は「ぐ、」と小さくのどを詰まらせ、嗚咽を漏らす。自分が泣き崩れることで花嫁がより辛い思いをすることをなにより知っているのは、この村の仕立て屋として幾人ものドレスを仕立ててきた彼女なのだ。


そのまま髪を整え、すっかりと化粧を施されたネイラは黒耀石のイヤリングをはめた。イヤリングなどしたことがなかったネイラにはそれがひどく重く、思わず眉間に皺を寄せる。都に住む貴族の令嬢のように毎日着飾ることは望まない。けれど、人生に一度くらいは体感してもよい、と感じる重みである。ヴェールを乗せてくれようとする女将に断って、ネイラは姿見を一度見つめた。形はふわりと広がった裾が軽やかに揺れるデザインで、レースがふんだんにあしらわれていた。色さえ黒一色でなければどこかの姫君の婚礼衣装のようだ。


「ドレス、とっても素敵です。ありがとうございます」


ネイラは姿見の前でくるりと回ると小さく微笑んだ。それを見て、女達の中でまた涙をこらえきれなかった者がいたのだろう。小さなしゃくりが聞こえた。


「私の髪、結構黒に映えていいかも」


綺麗に結い上げられた髪を崩さぬ程度に触れながら、ネイラは自分の赤い髪を姿見越しに見つめた。

その国では、赤い髪は血の特性上、癖の強い髪で生まれるはずである。しかしネイラの髪は色こそ赤いものの、ブルネットの髪を持つ者のようにすんなりとまっすぐな髪をしている。幼い頃はそれで虐められたものだったが、妹のシェーラはそんなネイラの髪が好きだと伝えるように声が出ない代わりにと触れてくれたものだった。

黒いドレスに、赤い髪は綺麗に映える。


「白いドレスの方が似合うに決まっているでしょう。赤い髪に、紺の瞳だもの。白いドレスが似合うに……決まって……」


女将がそう小さく呟いて、下を向いて震えた。ネイラは聞こえなかったふりをしながら女将の手を取る。そして一歩下がってから女将に、手伝いの女達に丁寧に頭を下げてから「妹のシェーラをよろしくお願いします」と彼女のたった一つの願いをはっきりとした口調で告げたのだ。


そうして大方の身支度を終えた花嫁は村の裏口から簡素な馬車に乗って、村のはずれのはずれにある小さな教会の跡地へと向かうのが慣例だった。漆黒の、しかし豪奢な衣装を身につけたネイラが大人しく馬車に乗るのを見て御者を務める村の男が一度ネイラの名前を呼んだが、ネイラはやはり聞こえないふりをした。自分が犠牲になるまで、本来の生け贄が妹であったことを悟らせてはならない。国からの手紙はとうに焼き払い、シェーラには言い聞かせた。彼女が何かしらの手段を用いて村人に真相を伝えてしまうのが唯一の杞憂だが、それを村人が信じて今更馬車を追いかけてくることはないだろう。


「……きゃ、」


馬車が一度大きく揺れて、思わず驚きの声をこぼした。

そんな風にごく自然に出てくる声も、シェーラは出すことが出来ない。今から自分が吸血鬼の生け贄になるというのに、ネイラはやはり、妹のことばかり考えていた。


ネイラは、捨て子だった。それを村と都を行き来しながら行商をしていたシェーラの両親に拾われたのが彼女の全ての始まりである。ネイラが拾われてから暫くして生まれたシェーラが赤子から子どもになった辺りから、母がシェーラを身籠って以降父一人で行っていた行商にもう一度母やネイラ、そしてシェーラも共について行くようになったのだ。

しかしいつものように行商の為に都に行くまでの道のりで、まだ幼かったシェーラが冬の川に落ちた。それをネイラは救うことが出来なかった。自分も川に落ちることを恐れて、手を伸ばせなかったのだ。父が決死の覚悟で川に飛び込み事なきを得たが、それ以来シェーラは恐怖故か凍てつく川に沈んだせいかは不明だが声を出せなくなってしまった。捨て子だった自分が命を惜しがったことが恥ずかしくて、しかし決して自分を責めない両親も、声が出なくなっても姉と慕ってくれるシェーラも、全てがネイラにとって優しい枷であったのだ。その時の贖罪が出来るのなら。今のネイラにとっては、それが全てである。


「村から花嫁が出るのは……何年ぶりだろうなぁ」


不意に、御者の男が呟いた。普段は木こりをしている彼は、やはり両親が他界したネイラ達をよく心配してくれていた。ネイラは黙って男の言葉を聞くだけに徹する。何か話せば自分は替え玉だというボロがでてしまうかもしれない。


「いくら儀式についてよく知る村の出身だからといって、気丈に振る舞うこたぁねぇぞネイラ。泣いて降ろせと叫んだって、いいんだ」


それは男の気遣いか、はたまた静かすぎるネイラに疑問を抱いたのか、よくわからなかった。ネイラは小さな声で「一晩逃げて、覚悟を決めましたから。ただ、妹が心配です」と言えば男が「大丈夫だ」と呟いた。それから男が何かを口にすることはなく、時折木の根を踏んで揺れる馬車に驚く声をあげることもなく、まるで本当にどこかへ嫁ぐ花嫁のように粛々と馬車は進んだのである。



やがて静かに、儀式の間へとついた。以前は教会だった場所の十字架を外し、吸血鬼に捧げる生け贄が待つ場所としたのだ。そこにも村人の激しい皮肉が込められているが、吸血鬼は気にもしていないのだろう。連れてこられた花嫁はそこで水を一口だけ口にして、夜まで吸血鬼が来るのを恐怖と戦いながら待つのだ。その花嫁達がどうなったかは、儀式の村に住む村人も、都の人間も知る術はない。帰ってきた者など、未だかつて一人もいないのだから。


馬車の御者が、小さな小瓶をネイラに手渡した。中に最後に口に含む為の水が入っている。それを受け取って重い鉄の扉を開ける音を聞きながらネイラは少し、目を伏せた。

心は不気味な程に澄み渡っている。自分の命の期限がほんのわずかだというのに、どこか冷静なのが自分でも不思議だった。


「逃げるか?」


儀式の間へ入る直前、男が呟いた。今にも泣きそうな、悲しげな目をネイラに向けた男に、ネイラは微笑んで首を横に振った。花嫁が逃げたことが発覚すれば、男が打ち首なのは疑いようのない事実になってしまう。

ネイラは一つ彼にお辞儀をしてから、重たい音を響かせて自ら儀式の間の扉を閉めた。

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