家出の六日目-5


 僕の眼下には知らない場所が広がっていた。中央には塀に囲まれた家が見え、大きな屋敷のような家と、綺麗な芝生の庭が見える。その芝生に木刀を手にした一人の少女が寝ころんでいて昼寝でもしているのだろうか。

 袴姿の少女がいきなり起き上がると、庭の端っこの方にある茂みの方に向かって走り出した。どうしたんだろう? 茂みに何かあるんだろうか。

 茂みの前で木刀を構えた袴少女は警戒をしながらも徐々に茂みの中に入って行き、遂には全身が茂みの中に入ってその姿は僕からは見えなくなってしまった。


 なぜか空中に浮いている僕はもう少しよく見える場所にと思い、下に降りようとするが、下に降りられない。

 体が動かない訳ではない。体は動いているのだが、位置が全く変わらないのだ。前に進んでみようと空中で足を動かしてみるが前には進まない。それならと思い、両手をクロールのように動かしてみるが、どうやっても位置が変わる事はなかった。

 何だ? どういう事だ? 意志を持って歩いているのだが前に進まないという不思議な感覚に僕の頭の中はクエスチョンマークで一杯になる。


 そんな僕を差し置いて袴少女が茂みから出て来た。手に持っていた木刀を口に咥え、両手をおっさんの脇に入れ引きずっている。

 状況が全く分からないので何とも言えないが、見ようによっては少女がおっさんを茂みの中に隠しておいて取り出してきたようにも見える。そのおっさんは非常食なのか?

 少女はおっさんを引っ張り出した後、おっさんの周りをうろうろしている。どうして良いか分からない様子で少女に「人を呼んできた方が良いぞ」と声を掛けようとするが、声も出ないらしい。

 口は動いているので空気さえ震えさせることができれば音は出るはずなのだが、どうも上手く行かない。

 手も足も出ない状態にモヤモヤ感が凄いが、暫くするとおっさんが首を振って起き上がった。どうやらおっさんは死んでいたのではなく、気を失っていただけのようだ。


「おじさん大丈夫? なんであんな所に居たの?」


 袴少女がおっさんに声を掛ける。こちらの声は届かないが、向こうの声はかなり距離があるのだが鮮明に聞こえる。


「ここは何処だ? 俺は死んだはずなんだが……」


 おっさんは周囲をしきりに気にしている。距離があるせいなのだろうか、おっさんの顔は良く見えず何か靄みたいなのが掛かっているようだ。

 あれ? 靄が掛かって顔が見えないはずなのに、どうして僕はこの人物の事をおっさんと思ったのだろう。僕が考えている間にも会話が進んでいるので考えるのは後回しになってしまう。


「アハハハッ。おじさん何言ってるの。死んだ人は起き上がれないし喋れないんだよ」


 全く持って袴少女の言う通りだ。おっさんはまだ寝ぼけているのだろうか。しきりに頭を振ったり周囲を見回したりして明らかに挙動不審な様子だ。


「あぁ、それはそうなんだがな。俺も混乱しているようだ。お嬢ちゃん、ここは何処だい? お父さんはいるかな?」


「ここは私の家だよ。お父さんは今、会合ってのをやってるからいないんだ」


 多分、おっさんが聞きたかった事は誰の家かって事じゃなく、この場所がどこかって事だろうけど、袴少女には少し難しかったようだ。


「ねぇ、おじさんは誰? 泥棒って言う人?」


 どうやらおっさんは泥棒に間違えられているらしい。もし、おっさんが本当に泥棒なら人の家の茂みの中で寝ているなんて、中々豪胆な泥棒だ。待てよ。茂みの中で夜になるのを待ってたという可能性はあるのか。


「俺は泥棒じゃない。俺は――。あれ? 名前が思い出せない」


 おっさんは自分の名前を思い出せないらしい。記憶喪失なのか? 本当に泥棒だったとしたら名前がバレるのを防ぐためにわざと名前を忘れたフリをしているのかもしれないが、おっさんの様子からは本当に忘れているように思える。


「おじさん面白ーい。じゃあね。私が名前を決めてあげる。うーん。そうだなー。何が良いかなぁー。可愛い名前が良いなー。そうだ! チャッピーって名前はどう?」


 これは女性が付けそうな名前なんじゃないか? おっさんが名乗るような名前ではない。もう少し真面な名前は思いつかなかったのだろうか。


「うん、とりあえずはそれで良いや。それよりも家の人はいつ帰ってくるんだい?」


 良いのかおっさん。これからチャッピーって呼ばれるんだぞ。僕だったらさすがに違う名前にしてもらう。チャッピーと呼ばれて駆けて行くおっさんの姿を想像すると笑えて来る。


「あっ。お父さんが帰って来た。おとーさーん!」


 袴少女が呼ぶとお父さんと呼ばれた人が寄ってきた。恰幅の良い体格の男性だが、おっさんと同じように顔には靄が掛かっているためどれぐらいの年齢かは分からない。


「どうしたんだい? アルテア。この人は誰だ?」


 は? 袴少女のお父さんは今何て言った? アルテアだと? 僕が知っているアルテアは一人しかいない。同姓同名の可能性もあるが、良く見ると袴少女は僕の知っているアルテアの面影がある。


 だとすると、ここはアルテアの生まれた所か? いやいや、アルテアは今僕の隣に――。あれ? どうして僕はここに居るんだ? 確か布団でアルテアの隣に寝ていたはずなのに……。


「俺は……。すみません、記憶がなくなってしまっていて」


「そうか。それは難儀だな。こんな所でもなんだ。家に入りなさい」


 あれ? 急に周りが暗くなった。ここがどこかさえまだちゃんとわかってないのに暗くなってしまっては情報がなくなってしまう。しかし、暫くすると、さっきより少し成長して、今のアルテアに近づいた袴少女の姿があった。

 さっきが小学校低学年ぐらいの見た目だったが、それよりは身長が伸びている所を見ると何年か経過しているのかもしれない。


「チャッピー本当に行っちゃうの? また戻ってくる?」


 結局おっさんはずっとチャッピーのままなのか。それで良かったのかおっさん。それにしても「本当に行っちゃう」と言う事はおっさんはどこかに行ってしまうのだろうか。


「あぁ、少しこの国を見て回ったら戻ってくると思う。その時まで覚えておいてくれよ」


「うん。私、忘れない。ずっと覚えてる。そしてチャッピーの息子さんと結婚するんだ。約束だよ」


 おっさんには子供が居たのか。記憶がなくなっているみたいなことを言っていたが、ある程度は記憶を思い出したのだろうか。

 それにしても小アルテアは可愛いな。子供が「この人と将来結婚するの」って言うのは良く言う事だが、おっさんの息子さんとはどこかであったのだろうか。その場面が出て来てないので良く分からない。


「あぁ、息子もアルテアに会ったら喜ぶと思うぞ。良し。じゃあ、俺の事を忘れないようにこれを上げよう」


 おっさんがポケットから何かを取り出すと小アルテアに手渡した。ここからでは見えないが、おっさんの手のひらに入り切るほどの大きさだからそれほど大きなものではないのだろう。おっさんがアルテアの方に何度も振り返って家を出て行く。小アルテアもおっさんが見えなくなるまで何時までも見送りを続けている。

 段々と辺りが暗くなり、遂には真っ暗で何も見えなくなってしまった。何となくだが僕はアルテアの記憶を覗いているのではないだろうかと思う。どういう理屈でアルテアの記憶を覗く事ができるようになったのかは知らないが、多分、間違いないだろう。

 周囲が明るくなり始めると、今度はかなり成長し、今のアルテアとほとんど変わりない姿となったアルテアが居る。場所は――どこだろう。部屋の中と言うのは分かるが、広い空間で道場と言った感じの場所だろうか。


「隊長! 『弑逆しいぎゃく死神モルス』の討伐に私も連れて行ってください! 私も一緒に戦いたいんです!」


 隊長と呼ばれた男性の顔には靄が掛かっていて良く顔が見えない。男性だけ靄が掛かっているのか、アルテア以外の人間に靄が掛かっているのか分からないが、とにかくアルテア以外は顔が分からない。


「駄目だ。お前には使命があるだろう。相手は王を殺すほどの凶悪な者たちだ。連れていく訳にはいかない」


 どうやら王を殺した相手を倒しに行こうとしているらしい。アルテアからレガリア争奪戦が始まったのは王が死んでしまったからと聞いていたので、この王様が死んでしまった事が発端となっているのだろう。

 それにしても『弑逆しいぎゃく死神モルス』とはどんな人物なのだろう。名前の雰囲気からだとかなり強い感じがするが、隊と言う事は何人も動くって事だろうから何人ものグループなのかもしれない。

 それでも食い下がるアルテアだが、隊長は頑として首を縦に振らない。


「アルテアよく聞け。君にはこの後に待っているレガリア争奪戦に参加してもらわなければならない。これは人間族から王を出すという悲願のためだ。私とアルテアがこの討伐に行ってしまえば誰がレガリア争奪戦に参加するというのだ」


「それはそうですが……だけど、『弑逆しいぎゃく死神モルス』を放っておく事はできません!」


 隊長はアルテアからの勢いに負け目を瞑って腕を組んで何やら考え事をしている。だが、結果は変わらないようだ。隊長はアルテアに連れて行けない事を告げる。


「君の父上からも言われている。やはり君を連れて行く事はできない」


 その言葉を聞いてアルテアは唇を噛んで悔しがっている。目尻には涙が浮かんでおり、握った拳からは血が滲んでいる。


「お前を一緒に連れて行けない詫びとして、この刀をお前に預けよう。私が長年使っても刃こぼれすらしていない業物だ。この刀でレガリア争奪戦に勝ってみよ」


「良いんですか? この刀は『雪月花』ですよね? こんな業物私には勿体ないです」


 隊長が腰から刀を抜くとアルテアの前に差し出す。アルテアは受け取る事を遠慮しているが、隊長が引かない事を悟るとアルテアは刀を受け取った。

 スッと鞘から日本刀を引き抜くと本当に今まで隊長が使っていたのか疑ってしまうほど綺麗な姿をしており、新品のような刃は空気でも斬れてしまいそうだった。

 この日本刀がアルテアが今も使っている日本刀なのだろう。予期せぬ所でアルテアが武器を手に入れた所を見てしまった。


「頼んだぞアルテア。君の手で悲願を達成するんだ。……以上! 君は持ち場に戻れ!」


 隊長のビシッとした命令にアルテアが「はいっ!」と背筋を伸ばして答えると、隊長は踵を返して去って行ってしまった。


 また暗くなって場面が変わる。今度はどこか狭い部屋でベッドが一つだけ置いてあり、部屋の前の大きな部屋に男が一人立っている。

 イメージとしては学校の更衣室のロッカーに入って、その前に立っている人を見ているような感じか。


「よくぞ集まった。九つの種族の代表者たちよ。これから私が使う魔法で君たちはここではないどこかに行ってもらう。そこで先ほど渡したレガリアをすべて集めた者だけがこちらに帰って来れ、王を選出する事ができるのだ」


 どうやらここは僕たちの世界に来る前の様子のようだ。目の前で朗々と説明をする男性はやはり靄が掛かって顔がよく見えない。

 アルテアはしっかりと男性の方を向いて話を聞き洩らさないようにしている。他の種族の顔が見られれば有利になるかと思ったが、全員小部屋に入っているのか顔を見る事ができなかった。

 アルテアたちが他の使徒アパスルの名前や顔を知らないのはここに来るまで誰にも会わないようにされていたからなのだろう。


「まずは君達にはそこにあるコップの中身を飲んでもらう。その後ベッドに寝てもらい私が魔法を唱えた後は、幽体として転移されるので、そこで憑代ハウンターと契約をする事が最初の仕事となるだろう」


 なるほど。アルテアたちがどうやって僕の居る世界に送られてきたか謎だったが、こうやって一同が集められた所で転送されたようだ。


「それでは液体を飲んでベッドに寝てもらおう。次に目を開けた時、君たちは今まで見た事のない世界にいるだろう。そこが君たちの望んだ世界かどうかは君たち次第だ。それではいい夢を」


 その声に素直に従いアルテアはコップを手に取ると一気に呷る。他の部屋からもコップを机に置く音が聞こえてくるので他の使徒アパスルも飲んでいるのだろう。

 少し覚束ない足取りでベッドまでたどり着いたアルテアはベッドに体を預ける。その表情は緊張に満ちており、見ている僕まで緊張が伝わってくる。


「私は必ずレガリアをすべて手に入れて、またここに戻ってくる」


 アルテアはその一言を最後に目を閉じて、来るべき時に備える。

 他の部屋からも物音一つ聞こえなくなると前にいた男が魔法の詠唱を始める。声高らかに紡がれる詠唱によって部屋全体が光に包まれて行く。

 余りの光の強さに目を塞ぐが、その光は瞼を通り抜けて入ってきて、僕の視界は真っ白になってしまった。


 失明するんじゃないかと思えるほどの光に驚いた僕は布団から飛び起きた。周囲を見渡すとアルテアに貸している部屋の様子が目に入ってきて、失明はしていないのが確認できた。

 今まで空中に浮いていた感覚はなくなり、僕のお尻にはしっかりと重力が感じられ、少し体を動かすと動かした方に体が動いてくれた。

 どうやら元の状態に戻ったようだが、さっき見た光景はやはりアルテアの記憶なのだろうか。僕は隣を見るとアルテアはまだ眠りから覚めていないようだ。

 だが、僕が起きてしまった事で掛布団が捲りあがってしまい、アルテアの裸体が目に入ってきた。全裸で寝ていた事を忘れていた僕は慌てて掛布団を戻すと、再び一つの布団で寝ている状態になってしまった。


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