第二三二編 『初恋の終わり』


 錆び付いた鉄扉、屋上への唯一の出入り口の鍵は開いていた。

 彼は既にこの扉の向こう側にいるのだろう。そう思うと緊張が呼吸器をぎゅうぅ、と締め付けてくるような感覚を覚える。

 少女――桐山桃華きりやまももかは、扉に手を掛ける前に大きく深呼吸をした。吸って、吐いて、吸って、吐いて……緊張は紛れなくとも、心拍数は多少落ち着いたような気がする。


『行っておいでよ。……応援、してるから』


 親友の言葉が脳裏をよぎる。思えば彼女には、ずっと助けられっぱなしだった。きっと彼女が居なければ、桃華じぶんは今ここに立ってはいなかっただろう。

 そして――


『頑張れ、桃華――頑張れよ……ッ!』


 ほんの一分足らず前、幼馴染みの少年に言われた言葉を思い返す。

 彼はどうしてわざわざあんなことを言いに来たのか、いやそれ以前にどうして桃華がこれから告白に行くことを知っていたのか。それはさっぱり分からなかったが……。


「(……なんか、勇気貰っちゃったな……)」


 彼の真剣な声援は、確かに桃華の背中を押した。〝あと一歩〟を踏み出すための、最後の一押しをくれた。

 緊張はある。恐怖もある。けれど「逃げ出したい」という気持ちだけは微塵もない。二人の幼馴染みからあれほど真剣な後押しを受けておきながら、今さら逃げ出せるものか。

 ここで逃げたら、女がすたる。


「(――行こう)」


 決意の表情とともに、桃華が重たい鉄扉を押し開ける。外の冷たい空気が頬を撫で付け、朝よりも強さを増した降雪が肌に触れた。

 そしてそんな屋上の真ん中に、傘も差さずに空を見上げている男が一人。


 久世真太郎くせしんたろう――約一年前、桃華が一目見て初恋に落ちた少年だった。


「ご、ごめん、真太郎くん。こんな雪なのに、呼び出してごめんね?」

「! 桃華……」


 なにか考え事でもしていたのだろうか。決して音を殺していたわけでもないのに、真太郎は桃華に声を掛けられて初めて彼女の存在に気が付いたようだった。


「ううん、気にしないでくれ。……少し、頭を冷やしたかったところだったんだ」

「……? そう、なんだ……」


 ほんのわずか、瞳な悲しげな色を浮かべた真太郎に桃華は内心で首を傾げる。しかし彼女が口を開くよりも先にいつもの温和な笑みに戻った真太郎は「あっ、そうそう」と手にしていた紙袋を差し出してきた。


「これ、バレンタインデーのチョコのお返しにと思って持ってきたんだ。受け取ってくれるかい?」

「えっ? い、いいの!?」

「もちろん。ごめんね、本当はホワイトデー当日に返すべきだったんだけど、昨日は君も僕もバイト休みだったから……」

「ぜっ、ぜんぜん大丈夫だよ! ありがとう、真太郎くんっ!」


 喜んで袋を受け取って胸に抱き、笑顔でお礼を伝える桃華。するとそんな彼女に真太郎は微笑しながらも、やや浮かない表情で「……うん」と頷いた。まるで今の桃華の仕草にを重ねたかのように。


「……それで、君も僕になにか用事があるんだよね?」

「あっ……う、うん。大事な……すごく大事な話」


 ――いよいよだ。

 ごくん、と唾を飲み込み、桃華はそのまま真太郎の立っている方へ歩を進めた。そしてそのまま真太郎の横を通り過ぎ、彼に背を向けた状態で立ち止まる。

 深呼吸を二回。それから両手で頬をぱちん、と強めに挟み込むことで己に喝を入れ――覚悟を決めて振り返った。


「真太郎くん。私……私ね――」


 ――そう口にした途端、桃華の脳内にこの一年間の記憶が蘇る。


 バレーボールをする彼の姿に目を奪われ、瞬く間に恋に落ちたこと。

 整った顔立ちだけでなく、優しく真面目な性格故に多くの女生徒の憧れの的であると知って怖じ気づいてしまったこと。

 親友の少女に話をし、「このトシで初恋かよ」とからかわれたこと。

 他の女の子たちに混じって、何度も教室まで彼の姿を眺めに行ったこと。


 恋に落ちて半年ほど経ち、どういう巡り合わせか彼と同じアルバイトをすることになったこと。

 当初の予定が狂った結果、まさかの二人きりでクリスマスを過ごし、そして彼が抱える重い過去を知ったこと。

 一緒に勉強会をしたり、幼馴染みの誘いで遊園地に遊びに行ったこと。

 その間たった一度の例外もなく、彼のことだけを一途に想ってきたこと。


 走馬灯のように浮かんでくる記憶のすべてを言葉に込め――少女はまっすぐに彼の顔を見つめて言った。



「あなたのことが、ずっと前から好きでした」



 その瞬間、真太郎が大きく瞳を見開く。対する桃華は、自分で思っていたよりもずっと冷静でいられた。


「――私と付き合ってください」


 思い切ってしまえば、存外すんなりと言葉が出てくるものらしい。なんの変哲もない、単純で飾り気のない告白だが……そこに彼女の想いの丈のすべてが込められていた。


 頬が熱い。きっと今、桃華じぶんの顔が真っ赤になっていることがはっきり分かる。頬の熱さに、雪空がもたらした寒さなど欠片ほども届かない。

 だが冷静クリアな頭に反し、身体の震えは止まらなかった。特に指先と肩の震えが強い。


「――答えを聞かせてくれますか、真太郎くん」


 時間をけてしまえば声にまで震えが伝わってしまうと考え、桃華は畳み掛けるように言葉を紡いだ。緊張や恐怖に背中が曲がりそうになるが、必死に堪えて胸を張る。

 顔や目を逸らすわけにはいかない。今、この瞬間だけは。


「――ありがとう」


 最初に耳に入ってきたのは、その五文字だった。

 真太郎は柔らかな笑みを浮かべたまま、静かに続ける。


「君の気持ちを、心から嬉しく思う」

「真太郎くん……」


 桃華の瞳に、強い期待の色がにじむ。時間の流れが急激に遅くなり、むやみに明瞭な思考回路が返答の続きを早く、早くとせっかちに促す。

 時間すればほんの二、三秒足らず。しかし桃華にとっては無限にも等しいほどの間を置いて――ようやく彼は答えた。



「――だけどごめん。



 ガツンッ――そんな幻想の衝撃が、桃華の心を打ち抜く。


「だから――君と付き合うことは出来ない」


 ……澄み切った冷たい空の下に、場違いな吹奏楽部の合奏の音が響き渡っていた。

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