第二六編 針山の人形少女

 ――身体中に、視線が突き刺さっていた。

 自分が今、悪寒すらもよおすほどに注目されていることを理解している俺は、思わず真冬の雪原の中にたたずんでいるかのように両腕をさすろうとして――出来なかった。というより、ほとんどまともに動くことすらままならない。もちろん、身体を拘束されているとかそういうわけではない。物理的にではなく、精神的に出来なかったのである。

 俺が少し顔を上げると、不躾ぶしつけな視線たちは一瞬のうちに霧散する。が、しばらくもしないうちにチラチラとこちらを窺うような目は復活し、あっという間に元通り、視線の針山状態に戻ってしまった。


 そして俺は、下手に周りを刺激したりしないようにこっそりとため息をつき、チラリ、と視線をすぐ隣の席に向ける。

 ちなみにこの場所は朝の教室。私立初春はつはる学園高等学校一年一組、通称〝特待組〟の教室である。言うまでもなく、特待生ではない俺こと小野悠真おのゆうまの在籍するクラスではない。

 それなのにどうして俺が今、居たくもない他所よそのクラスで針のムシロになっているのか。その原因が、そこに座していた。


 それは、およそ同じ人間とは思えないほどに美しい少女だった。

 長くつややかな黒髪。宝石のように綺麗な瞳。

 学園指定の制服を一切着崩すことなく普通に着用し、校則に反するようなアクセサリーや派手な化粧も一切なし。〝着飾る〟という概念からもっとも遠いような姿をした彼女は、しかしそれでも、テレビで人気を博するアイドルや芸能人が凡人と変わらず映ってしまうほどの美しさを誇っていた。

 その手にの中には、なにやら小難しい漢字のタイトルが記された、分厚い本が収められている。彼女はそのページを時折めくる他には余計な動作は一切せず、ただ静かに、窓際の席に着いているのだ。


 そんな彼女の一つ手前の席に横向きに腰掛けた俺は、もう一度小さくため息をついてから――我慢できなくなったかのように、彼女に言った。


「……なあ。やっぱりめちゃくちゃ見られてないか?」

「――そうね」


 俺の問いかけに、彼女――七海未来ななみみくはさして興味もなさげにペラリとページを捲った。


「いやまあ、分かってたけどな? なることは。お前みたいな女の側に居たら、そりゃなるよな」

「…………」

「でもさ……その上で、敢えて言わせてほしい」


 俺は相変わらず、とんでもない量の視線を受けながら、ぼやくように言った。


「どうしてこうなった?」

「あら、もう忘れたのかしら」


 やはり興味もなさげにページを捲り――ちなみにこの女、本を読み進めるペースが異常に速い――、七海未来は応える。


「私が〝貴方の欲しい情報〟を仕入れてくる代わりに、貴方は学校で私の〝警護〟をする。そういう〝契約〟だったはずだけれど」

「そりゃ……そうなんだけどさ……」


 事の次第を大まかに表すなら、今この女が言った通りだった。

 俺は昨日、「久世真太郎くせしんたろうの好みのタイプを知りたい」という、聞く人が聞けば〝そっち側の人〟と勘違いされかねない要望を、七海未来に対して提示したのだが……その〝対価〟として彼女が求めてきたのが、今のこの状況である。


「……つーか、〝警護〟とか言ってるけど、俺はお前を何から守ればいいんだよ。こう言っちゃなんだが、俺は弱いぞ?」

「それくらい見れば分かるわ。それに貴方にそんなこと期待していない。そういう警護なら、もの」

「は?」


 当たり前のように言ってくる七海未来に、俺は疑問符を浮かべた。しかし彼女はその疑問を解消することなく、話を続けてくる。


「〝警護〟と表現しているけれど、別に貴方に『私の身の安全を守れ』と言っている訳じゃないわ」

「ああ、そういや昨日もなんかそんなこと言ってたような気がするけど……」


 曖昧な記憶を辿る俺。というのも、昨日はあの後すぐに仕事に戻ってしまったため、詳しい話はまだ出来ていなかったのである。


「でも……じゃあ本当に、俺は何からお前を守ればいいんだ?」

「そうね。一言で言えば――『他人ひとから』かしら」

他人ひとから……?」


 怪訝けげんな顔をする俺に、七海未来は構わず続ける。


「貴方には何度か話したかもしれないけれど、私にとって読書は一種の処世術。他人から声を掛けられないようにするための手段の一つ」

「…………」


 それは確かに、以前に彼女から聞いた話だった。

 集中して読書をしている人間に話し掛ける者など、そうはいない。やむを得ない用事がある者か、あるいは――俺のような無礼者か。


「――私は、他人ひとが嫌い」


 ポツリと、七海未来が言う。それは衆人環視に等しいこの状況で言い放つには、あまりにも攻撃的な一言だった。


傍迷惑はためいわくな〝勇気〟を出してくる他人ひとも、求めてもいない〝気遣い〟をしてくる他人ひとも、そして――」


 彼女は視線を本に向けたまま、淡々と告げる。


「――ただそこに居るだけで〝目立つ〟他人ひとも」

「!」


 俺は思わず、この一組に在籍しているイケメン野郎の机に目を向ける。……どうやら、今朝はまだ登校していないらしい。

 そんな俺に構わず、七海未来は続ける。


「貴方は、そういう他人ひとたちを寄せ付けないために、ただそこに居てくれればそれでいいわ。貴方が居れば、誰も近寄っては来ないでしょうから」

「…………俺が人から避けられてる、みたいな言い方はやめろ」


 一応ツッコミを入れはするが、正直まったくそんな気分ではない。

 七海未来。彼女は出会った瞬間から今まで、ずっとだ。

 他人ひとを嫌い、他人ひとを寄せ付けず、他人ひとの気持ちを汲もうとしない。

 傍迷惑はためいわくな〝勇気〟を出してくる他人ひと――彼女に想いを寄せる連中のことだろう。

 求めてもいない〝気遣い〟をしてくる他人ひと――いつも一人でいる彼女に声を掛けてくれる人のことだろう。

 そして、ただそこに居るだけで〝目立つ〟他人ひとは――久世真太郎のことだろう。

 ……なるほど、久世は「どうして未来に嫌われているか分からない」と言っていたが……それもそのはずだ。そんなこと、言われなければ分かるはずがない。というか、ほぼ理由なく嫌われているに等しい。〝目立つ〟なんて、能力の高い人間にとっては不可抗力のようなものなのだから。


「…………そこまでして他人を避けたいかよ?」


 俺は、以前久世が浮かべていた悲しげな表情を思い出し、少しだけ怒気のこもった声で七海未来に問う。しかし彼女はそんなことは気にも留めない様子で、「軽蔑するかしら?」と返してきた。


「別に貴方に私の考えを理解しろと言うつもりはないわ。やりたくないというのなら、この〝契約〟は白紙に戻して構わない。けれどその場合――」


 やはり淡々とした口調で、七海未来は続ける。


「〝貴方が欲しい情報〟も、私から教えることはないけれど」

「……っ!」


 それを言われ、俺はぐっと言葉に詰まった。

 ……現状、〝久世の好みのタイプ〟を知ることは、桃華ももかの恋を応援すると決めた俺にとって、最優先の課題と言える。

 だがそれと同時に、「これでいいのか」と訴える自分も、間違いなく俺の中にいた。


 恐らく、「誰とも付き合う気はない」と公言しているらしい久世の〝好みのタイプ〟なんてものを知っている生徒は、おそらくだが初春学園の中にはいない。居たとしても、それは俺の知り合いではないだろう。

 つまり七海未来、正確には彼女の知る〝久世の好みを知る人〟以外に、俺がその情報を得る手段は現状ないと言っていい。


 しかしだからといって、七海未来の言う〝契約〟を受け入れても良いものか。

 だってそれは、彼女を想う〝誰か〟の恋を邪魔立てするような行いだろう。

 いくらなんでも、赤の他人の恋路まで応援してやる義理は俺にはないが……それでもここまで露骨に邪魔者に、しかも自ら進んで成るというのには抵抗があった。

 それになにより――


「……俺が本当にその〝警護〟をやり遂げたとしたら――お前は、〝一人〟になるんじゃないのか?」


 恋人も出来ない。友人も出来ない。

 居るのはただ、〝対価〟として自分を守る〝警護〟の俺だけ。

 この〝契約〟は一見、七海未来にも見返りリターンがあるように見えて――実際のところは、彼女にはなんの利益もないんじゃないのか。

 そういう意味を込めた俺の言葉に、しかし七海未来は平然とこう言った。


「それでいいわ。私は、一人で居たいもの」

「……!」


 その黒の瞳の奥には、一切の迷いすら感じられなかった。

 ……やはり彼女は、こういう人間なのか。

 何者よりも美しい。まるで精緻せいちな人形のように。

 そして、何者よりも冷たい。まるで無機質な人形のように。

 彼女は人形じみていた。良くも悪くも。

 この七海未来という女は、俺と決定的に〝価値観〟がたがっている。


「――答えを聞こうかしら」


 ――視線の突き立つ針山で、人形の女が聞いてくる。

 その美しい問い掛けに、俺は無意識のうちに、ごくりと唾を飲み込んだ。

 既に俺の中で答えは決まっていた。いや、俺がどう答えるかなんて、おそらくこの女だって分かっているのだろう。

 それでもこうして聞いてくる。明確な答えを聞いてくる。

 ――これは、〝契約〟の名を借りた人形ののろいなのかもしれない。

 そんなホラーじみた考えが脳裏をよぎるが――しかし、俺の答えはやはり変わらなかった。


「……分かった」


 短くそう答えると、七海未来はほんのわずかに笑みを浮かべ、そして少しだけ柔らかな声音こわねで、俺に告げる。


「――契約成立ね」


 そう呟いて微笑ほほえむ少女の顔は、真夜中の月明かりに浮かぶ人形のごとく、恐ろしいほどに美しかった。

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