禁煙

七山月子

禁煙



ゴールデンバットが売ってなかった。

夜が襲ってくる。午前二時半、私は煙草も持たずに歩いていた。

星が瞬いているわけもなく、薔薇が美しいわけでもなく、蛇の鱗が畝り感動するわけでもなく、ただ横断歩道を渡り、柄の悪い人間がゲラゲラと下品に笑う横を通り過ぎ、コンビニの電気が点滅している路地裏に入り、宛てもなく歩いていた。

この街はくさい。誰かが言っていた。その言葉を聞いてからというもの、思い込みとは物凄い勢いで私を刺激させた、この街はくさいのだ。

それでもこの街に住む人間は、どこかしらでバカにしながらそんな街が好きだと言う。長年連れそった夫婦の、湿気った空気によく似た表情を浮かべて。

ゴールデンバットが売ってなかった。

夜は白くも黒くもないこの街を照らす。私のポケットに入れた手が当たったのが、もし鍵でなく首輪だったなら、私はそれを抱いて夜の淵で一人泣いたかもしれないが、残念ながら首輪など所有しておらず、寂しいキーホルダーに付けた家の鍵しかこの指には触れなかった。

だがその鍵が、私の家を思い出させた。

今夜家を出たのが、十時過ぎのことだ。母はテレビを見て居たし、父は眠そうな顔でヒゲを剃って居た。草臥れた我が家には、猫が一匹居たけれど、先日事故に合い死んだ。

死んだら生き返らないのだ、ということを知ったのは確か子供の頃に幾度なく触れた動物の死や遠い親戚の死によってだった。されど私が愛した者が居なくなったこの感情を知ったのは、これが初めてと言っていいだろう。

死んだ猫の目は見開き、常日頃から見つめるたびに宝石ほどの輝きを放って居たそれは静かに動くことなく、開いた口からは可愛らしい牙が相変わらず有ったというのに、それらは全て死んでいた。猫は今まで呼び続けた名前の者ではなく、全くの呼吸を捨てた物質と化したのだ。

愛飲したタバコを求めて居たこの足が、見上げた朧月夜の薄い光では見えなくなっていく。

立ち止まれば、握りしめた鍵の形通り、凸凹した気持ちになってしまう。

歩いても、歩いても、この世界のどこにも無いことを、思い知らされる。

私の街はくさくて、ゴールデンバットも無いし、公園の端にはラジオを聴いて布団にくるまったホームレスが生きていて、喫茶店のどれもが足並み揃えて禁煙になっていく。

とんでもない、寂しい街で、私はただ歩いている。

猫は二度とこの手に戻らず、私はただ、歩いている。

イチョウの葉が、降っている。秋の夜だ。月は雲を脱ぎ捨て、街を照らし、くだらぬ笑い声や車の走る音を拾う。

紛れてもいいだろうか。

この月が私をも照らす間だけ、ほんの、少しだけ。

かわいいあの子は、もう居ないけれど、ゴールデンバットすら、売ってないけれど。

「禁煙しよう」

心に浮かんだ、顔をしかめた猫の姿と、揺れた尻尾に涙した。

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