1999年8月17日

「昨日はつい酒が入り過ぎてスミマセンでした!」


 出かけようとしていたところ、健民ジェンミンがこめかみを押さえながら訪ねてきた。無視した俺になおも甘ったれた声ですがってきた。


「アニキィ!この通りだ。勘弁してくださいよぉ!」


 その情けない姿を昨日のチマチョゴリに見せてやりたい。拳を何度か握りなおしているうちに怒りが再燃してきた。


 昨晩、高麗花園賓館でのこと。

 その女性は運んできた冷麺にバチバチとハサミを入れると、そのまま立ち去ろうとした。実際には若いかもしれないが、表情がないのでよくわからない。


「(休日はどう過ごしているんですか?)」


 通じるか分からなかったが、試しに中国語で話しかけてみた。

 彼女は立ち止まって目をパチパチさせると「(休日はありませんが幸せです)」と短い中国語を返してきた。澄んだ瞳でそう言うと盆にハサミをのせて奥へと下がっていった。


 北朝鮮がを、津軽海峡越しに落下させたのは1998年8月。同年3月には能登半島沖で不審工作船騒動があり、以来日本でも国防を見直す世論が沸騰している。

 世界は経済制裁を選んだ。北朝鮮の深刻な飢餓を表す「痩せこけた兵士のポートレート」が流出したのは、それからしばらくしてのことだった。栄養失調の軍隊を抱えた体制がどこまで維持できるか世界は注目し続けているが、そんな北朝鮮の内情からすれば、屋根のある場所で三食約束されるている以上に望むことなどないのかもしれない。

 だが誇りはどうした。衣食住の他に何が必要かなど他人に聞くことではない。自ら問うことを捨てたからこそ、健民ジェンミンのように自分は権力側だと酔いしれている連中に馬鹿にされるのだ。


 丹東ダンドンと北朝鮮を隔てている鴨緑江ヤールージャンには、約1キロの鉄橋がかかっている。かつて日本軍が建造した橋で、朝鮮戦争後は「中朝友誼橋」と名前を変えて今に至る。

 川辺に、北朝鮮グッズを並べた露天商があった。あちらの偉い方々の紙幣やラベルの曲がったビール瓶などが夏の日差しにさらされていた。

 北朝鮮の硬貨セットはいずれもアルミ製で、少し力を入れたら曲がってしまいそうな代物だった。


「たぶん中国で作られた観光客向けの偽物ですよ」


 勝手についてきた健民ジェンミンが横から言った。わざわざ土産用に偽造硬貨までこしらえるとは、どこまでもふざけた街である。

 鴨緑江ヤールージャン沿いに並ぶホテルのパンフレットには、押しなべて”river side view”という格好いい文句が書かれている。高級リゾートのようなキャッチフレーズが指すそれとは、対岸にかすむ北朝鮮・新義州シニジュの景色であり、あるいは北の将軍様が北京やモスクワにお出かけする際の国際列車のことだ。なるほど、たしかにロマンチックなリバーサイドビューである。


 鴨緑江ヤールージャンに浮かぶ遊覧船は、北朝鮮の岸辺から十数メートルまで接近した。


「――あれは日本統治時代に王子製紙が作った工場の煙突です。煙が上がっているの見たことないですね」


 健民ジェンミンが指さす先に2本の煙突があった。他に倉庫らしき建物も見えるが、鉄を叩く音や工作機のエンジン音もない。昨晩ホテルの窓から首を伸ばしてみたが対岸は押し黙ったように真っ暗だった。

 さびた漁船に描かれた北朝鮮国旗に雑巾をかけている男がいた。岸辺に座って足をぶらぶらさせている集団もいる。ところが、話し声ひとつ聞こえてこない。動くものがないことより、音がないことに戦慄を覚える。


「――新義州シニジュなんて何もないですよ。まあ平壌ピョンヤンまで行ったけど何もなかったですけどね」


 しつこく断ったつもりだが、韓国行きの船が出る港まで再び悪徳警官の車に乗せてもらうことになった。ピョンヤンには親父について行ったという。どうせヤツの言う<何もなかった>とは、「一晩の愉快を提供してくれる店すらなかった」という意味なのだろう。

 ところがそんな北朝鮮について、日本国内で旅行ガイドブックが販売されている。

 出版元は「中外旅行社」という北朝鮮専門の旅行代理店であり、朝鮮学校の修学旅行や万景峰号に用事がある人々のための窓口になっている。

 大型書店でそのガイドブックを見つけて手に取った。ピョンヤンのページには、万寿台記念碑や主体思想塔、金日成広場など様々なモニュメントが写真付きで紹介されていた。なるほど健民ジェンミンのいう通りで観光に値するものなど何もない。


「――おまえ、将来どうするんだ?」


 親に全て出してもらって留学したにもかかわらず、半年も経たず逃げ帰った小僧に聞いてみた。

 健民ジェンミンはハンドルを握る父親に聞こえないように、「カネ貯めてカラオケボックスでもやろうかな」とニヤけた。どうせ外貨稼ぎで送り込まれてくる女たちをはべらせ、毎日酒臭い息を吐きたいのだろう。やはり聞く価値はなかった。

 俺はおまえが小動物以下だと知っている。弱い者には親父の背中に隠れて罵声を浴びせ、遠慮なく噛みつく俺のような人間には、臆面もなく平身低頭する。中国に戻り、少しは更生したかと期待した俺がバカだった。せいぜいこれからは「首なし死体」となって親父の手を煩わせないよう行儀には気を付けることだ。


 香港から丹東まで中国沿岸沿いに3,000キロを上ってきた。いよいよその出口となる港が見えてきた。出港を待つ大きな船体は、霞の中で浮かんでいた。

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