1999年8月12日

 昼下がりの北京駅は相変わらずの混雑だった。

 にもかかわらず、しつこく声をかけてくるタクシー運転手は一人もいない。背中から束をのぞかせている青龍刀のせいだ。

 まるで武侠映画から抜け出してきたかのような頭の悪さである。この異様ないでたちに、商売熱心なタクシー運転手たちも声をかける勇気を失っているようだ。しつこい客引きに関する苦情はどのガイドブックにも寄せられているが、気になるようなら背中に青龍刀を担いでいったらよい。信じられない魔よけになること請け合いだ。

 

「――すまないが西城区のチャイナパレスホテルまでお願いしたいのだが」


 ぼんやりタバコを吸っていた一人の運転手が犠牲となった。

 無精ひげに青龍刀を背負った俺を見た彼は不運に目を見開いた。



 パリはたしかに素晴らしかった。プラハも美しかったし、シンガポールやバンコクも楽しかった。だが「世界で一番好きな街は?」と聞かれれば、間違いなく「北京」と即答する。詰まっている思い出の量が圧倒的に違うからだ。


 地元の区報に『日中青少年交歓キャラバン』募集要項を見つけたのは、17歳の夏だった。

 東京都北区と北京市宣武区(※2010年宣武区は西城区と併合)は、友好都市提携を結んでいる。他に墨田・大田・目黒など北京各区と友好協定を結ぶ区との合同で親善プロジェクトを行われた。

 軽い気持ちで応募したところ、区議会議員との面談などを経て、その年の親善大使に選ばれた。その前年に東京都主催の日中洋上セミナーに参加していたことが効いたらしい。ちなみに、その時訪れた上海で通訳として参加していたのが小莉シャオリーだった。


 日中青少年交歓キャラバン一行に対する中国側の歓待ぶりは過分だった。

 中国外務省の外郭団体である「北京国際友好協会」が窓口となり、北京各区からは副区長クラスが随行し、中国文化庁や外務省高官をはじめ、北京電視台(中国国営放送局)のクルーが我々の到着に列をなして待っていた。

 親善大使とはいえ、ただの無分別な高校生集団である。そんな我々を移動するたびに護衛車が囲んだ。まるで国賓レベルの特別待遇である。


<なんでホテルなんかに泊まってんだよ!?水臭いじゃないか!>


 北京滞在中は、同じく北京の各区から選抜された高校生が、それぞれペアとして当てがわれた。受話器の向こうでブチ切れている張宇ジャンユ―は、その時の俺の相方だ。

 チャイナピープルパレスホテルは、張宇ジャンユ―が住む宣武区から自転車で来れる距離だ。その配慮を張宇ジャンユ―は「俺たちは兄弟じゃなかったのか?」と怒り狂っている。


<――とりあえず今夜は父さんに料理を作らせるからウチに来て!>


 張宇ジャンユ―の父親は、各国首脳が宿泊する北京飯店内のレストランで副料理長を務めている。彼は一方的にまくしたてると、いきなり電話を切った。

 北京人は情に厚い。一緒になって巻き舌の北京語でやり返しているうちに、こちらも暑苦しい人間になっていく。ホテルを出ると、目の前の大きな百貨店で貴州マオタイ酒を包んでもらい、待ち合わせの宣武門駅までタクシーで急いだ。


 張宇ジャンユ―は雑踏に俺を認めると、それだけでワァと声を上げて泣きだした。俺もつられてワァと泣き、蒸し暑い北京の夕方でふたりは抱き合い、背中を叩きあって再会をかみしめた。

 その涙も渇かないうちに、今度は張宇ジャンユ―の両親と再会し、またみんなで声を上げて泣いた。まるで英雄が死んだかのような騒ぎである。



 テーブルには、鯉の甘酢あんかけを中心に北京料理の至極が並んだ。

 キッチンでは、急遽駆り出されたであろうお父さんの部下が、終始大きな北京鍋を振るい、火柱を上げている。


 北京側の高校生として選ばれた彼らは、その後全員一流大学に進学したことからも分かるように、家柄も含めて厳選された高校生たちだった。

 張宇ジャンユ―はその後名門・北京師範大学に進み、今はそこで金融を学んでいる。


「――今日は紹介できなかったけど、同じ大学に通う恋人もできたんだ」


 少し成績が下がったんじゃないの?という冷水がお母さんから向けられる。

 張宇ジャンユ―は自分に向けられた矛先を俺になすりつけた。


「そっちは例の上海人とどうなった?」

「…うん、昨日別れた」


 上海人嫌いの張宇ジャンユ―は、「やっと悪夢から目が覚めたか!」と俺の肩をバシバシやりながら盛大に祝った。


「じゃあ、そろそろ尹琳インリンに振り向いてやらないとな!」


 ここまでくると余計なお世話である。

 尹琳インリンは、張宇ジャンユ―と同じく宣武区から参加した高校生だった。当時の写真を見返してみると彼女はいつも俺の隣りに写っている。彼女は父親と同じく医学に進み、今は北京医科大学に通っている。


「――ところでその尹琳インリンのお父さんが亡くなった話は聞いているか?」


 俺の問いかけに、彼らは箸を落として絶句した。

 去年の7月、父が亡くなったという手紙を尹琳インリン自身からもらった。

 張宇ジャンユ―もお母さんも目に涙を浮かべ、やがて尹琳インリン本人もいないのに、みんなでワァワァと泣き崩れた。



 予想通り、「ここに泊っていけ!」という大騒ぎになった。しかし必ずまた立ち寄るからと押し切り、またみんなで泣いてお開きになった。

 北京初日だというのに、少なくとも5日分のエネルギーを消費した夜となった。だがこの人情に篤い人たちが待っている限り、俺は何度でもこの街を訪れるだろう。

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