第5話
遊馬さんと別れ、僕は人の気配に警戒しながら、自分の部屋へと戻った。
最後まで気を抜かなかったおかげで、無事に誰にも会わずに済んだ。
時間的には、まだ緋郷は起きていないだろう。
そのため気をつかって、静かに扉を開ける。
「……ただいま」
「ああ、おかえり。今日は随分と長い散歩だったね」
「うわ。起きていたの」
扉を開けて中に入る時、小声で挨拶をした。
返事を期待していない挨拶だったのだけど、驚いたことに声が返ってくる。
こんなに朝早く起きていることは今までになかったから、態度には出さなかったけど、内心ではとてつもなく驚いてしまった。
変にこだわりがあって、自分の時間で動いている。
いっそ狂っていると言ってもいいほど。
そんな緋郷の中で、睡眠時間というのも重要な意味を持っているはずだったのだが。
変えるような、何かがあったのだろうか。
「どうして、こんな早くに起きたの? 珍しい」
僕は部屋の中に入り、着ていたカーディガンを脱いだ。
ここは比較的過ごしやすいから良かったのだけど、今日色々な人に会ったせいで嫌な汗をかいてしまった。
せっかくお気に入りを着ていたのだが、今日は別のものにするしかないみたいだ。
ため息を吐いて、僕はカーディガンを取りかえた。
「何だか、もうすぐ良いことが起こりそうだったからね。目がさえてしまったよ。とても清々しい気分。早起きも良いものだね」
「ふーん、そう」
僕が思っていたより、緋郷の中で睡眠は大事ではなかったのか。
新たな発見を心の中でメモをし、彼の様子を横目で窺う。
清々しい気分といったのは、どうやら本当みたいだ。
軽やかに紅茶を淹れている様子に、機嫌が悪くなくて良かったと安心する。
更には僕の分まで淹れてくれているみたいなので、どれほど良いことが起こるのかと思っているのかと、逆に恐ろしくなりそうなのだけど。
「それで?」
「……何?」
「どうして、今日は散歩が遅かったのか、説明はしてくれないのかな?」
淹れ終えた紅茶をテーブルの上に置いた緋郷は、僕を見て満面の笑みを浮かべた。
そういう時は、最初から最後まで話さないと納得してくれないから、僕は出てきそうになるため息を必死に呑み込んで、テーブルの近くにあるソファにゆっくりと座る。
「紅茶、ありがとう」
「良いんだよ。代わりに、面白い話が聞けそうだからね」
先にソファに座っていた緋郷は、紅茶の香りを楽しみ、一口飲んだ。
満足そうな顔をしているから、とても上手く淹れられたのだろう。
僕も一口飲んでみたけど、あいにくそういうのは詳しくない。
だから、茶葉の種類でさえも分からなかった。
そういうことを言うと機嫌が悪くなるので、とりあえず笑っておく。
まあ渋くなければ、何でも飲める。
そういう舌馬鹿だから、あまり紅茶を淹れてくれないのかもしれない。
紅茶を飲んで落ち着いた僕は、散歩中にあった出来事を最初から最後まで覚えている限り全てを話した。
まずはいつものように、お気に入りであるカルミアの花がある場所を見に行ったこと。そこで今湊さんと会い、少しだけ話をしたこと。
その次に、ランニング中の鷹辻さんと槻木君と会い、成り行きで何故か明日一緒に走る羽目になってしまったこと。
誰にも会いたくないと屋敷に帰ろうとしたら、飛知和さんと賀喜さんに会い、賀喜さんのことをやっぱり嫌だと思ったこと。
屋敷まで辿り着き安心していたところで、遊馬さんに会ってしまい、何だか気に入られて名刺までもらってしまったこと。
それはもう事細かに、どうでも良いところまでしっかりと話をした。
話しているうちに嫌なことばかりを思い出してしまい、今日何度目かの沈んだ気分になってしまった。
「……大体、こんな感じかな。特にこれといった収穫は得られなかったよ。僕が疲れになる結果になっただけ」
「なるほどねえ。なかなか興味深い。まあ、今のところは特に使えないだろう情報だけどね」
「興味を引けたのなら良かった。本当、明日体をはるかいがあるよ。本当……」
全てを話し終えると、緋郷は楽しそうに笑って、紅茶を飲んだ。
「ああ、つい話を聞くのに集中してしまって、すっかり冷めてしまった。せっかく美味しく淹れられたのに、もったいない」
しかしぬるくなってしまったそれに、顔をしかめた。
今度は僕が淹れようかと言ってみたら、ものすごい勢いで断られてしまった。
前に淹れた時のことを、まだ根に持っているらしい。
あれは、置いておく時間を間違えただけだから、もう上手く淹れられるはずなのだけど。
緋郷にとって、あれは結構なトラウマになっているみたいだ。
本当に申し訳ないと思っている。あの時も、随分と謝ったのだが。
まだ許してくれていないみたいだ。
自分で淹れ始めた緋郷の姿を見ながら、僕は一度あくびをした。
二度寝が出来る体質ならば、ここでもう一度寝ても良いのだけど。
絶対にありえない状況に、僕はゆっくりと目を閉じる。
紅茶の良い匂いが漂ってきて、リラックスするのを感じた。
飲むのは好きじゃないけど、こういう匂いを嗅ぐのは好きだ。
「ねえねえ。もらった名刺は、まだ持っているのかな?」
リラックスをしていたら、紅茶を淹れ終えた緋郷が尋ねてくる。
「ん? まだ持っているよ。でもどうやっても読めるものじゃないけど。いらないからあげる」
僕は目を開けて、ポケットの中からごみを取り出した。
それをテーブルの上に置くと、緋郷は興味深そうにそれをピンセットでつまみ上げる。
彼もゴミだと思っているみたいだ。
つまみあげたそれを、しばらくの間いじくりまわすと満足したのか、ごみ箱に捨てる。
僕は許可をしていないのだけど、まあ捨てようと思っていたから別に構わなかった。
それに中身は、緋郷の頭の中に全て入ったのだろうから、もう持っている理由も無いだろう。
僕は何も言わず、冷めた紅茶を飲む。
苦味を感じて、僕は顔をしかめる。
今の僕の気持ちを、代弁しているかのような味だった。
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