宝石小僧と白象の女伯爵

遠山李衣

第1話

 今日も少年は泣いていた。

「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 珍しい珍しい宝石小僧だよ!」

 見世物小屋のステージの中心に立つ少年が涙を流すと、端から宝石へと変わっていく。ルビー、サファイア、ダイアモンド……。全て本物のジュエリーだ。

 人々は歓声をあげ、棟上げの餅撒きのように輝く石へと群がっていく。

「……」

 少年は無表情でその様子を眺めていた。

 彼はちっとも悲しくなかった。泣かなければ叩かれる。泣かなければ食事を抜かれる。そんな恐怖も今では何処にもない。

周りが感情を高ぶらせれば高ぶらせるほど、彼の表情は固まっていった。世界は色を無くし、音を無くし、匂いを、味を、感触を、感情を無くした。

 九歳にして彼は、心を無くしていた。


 少女を見つけたのは“色”に気付いたからだった。少年は十二歳だった。

 ざんばら髪に痩せこけた頬。枯れ枝のような手足。申し訳程度に体を覆うぼろきれ。緑色の瞳だけがギラギラと輝いていた。

 見世物小屋に売られる前の自分を見ているようだった。

 漁師だった父を喪ってから、坂を転げ落ちるかのような人生が待っていた。母と祖母のために涙を流し、小さい弟妹たちのために涙を流し、必死にその日の食べ物をかき集めた。

 結局彼の涙の価値を分からなかった母と祖母に“ごくつぶし”とみなされた少年はこうして売られてしまったけれど。

 らしくもない感情を振り払った彼は、ふと“匂い”に気付いた。軽い香水の匂いが彼の鼻腔をくすぐった。

(オーデトワレ……)

 よくよく見ると、少女は右手に小さな瓶を握っていた。他の何かを失っても、これだけは手放さないとでも言うように強く。

 懐かしい匂いがした。何故かクッションを連想する。昔、同じ匂いを宿したクッションを胸いっぱいに抱きしめた記憶が……。

 今日はいやに昔を思い出す。彼女のせいだ、と認識したばかりの少女を見遣る、と。

「ぐうきゅるるぅ」

 音が、聞こえた。その細い体のどこから出るのかというくらい大きな音が。

 少年は手をぱたぱた振って、目に風を送った。瞬きをこらえて懸命に。やがて一滴の雫が零れ落ちた。エメラルド。

 彼は、辺りをキョロキョロと見渡し、その場を離れた。そして。

「食べたら」

 少女は耳にした。変声期前のソプラノ。それに導かれて顔を上げると、

「もぐもぐもぐ……」

 差し出された手の中にある袋を奪うと、頭から中身にかぶりついた。

 干したシシャモ。子どものおやつにぴったりだ。少女も夢中になってしゃぶりつく。

「……美味しい?」

 声を掛けられ、少女はハッと我に返る。「うん! ありがとう!」大きく頷き、にっこり笑う。笑窪の愛らしい年相応の笑顔だった。「はい」と少女が袋の中から一つ取って渡してくれる。「……ありがとう」受け取るとき、指先が軽く触れ合う。温かい“感触”。そのことに軽く狼狽しながらも少年はシシャモを齧った。旨味が凝縮した味が口の中に広がった。

(“味”がする……)

 少女につられたのか、少年も自然と口角が上がるのを感じた。

 表情筋がこんなに働いたのは、いつぶりだろう。

 十二歳の少年と、十歳の少女は、このまま時が止まればいいのに、と思いながらシシャモを食べ続けた。


 あれから七年。少年は十九歳の青年になっていた。オーナーの金遣いが荒く、嫉妬に塗れたライバルに嵌められ、見世物小屋は解体する運びとなった。

 青年は、宝石小僧としての能力を重宝され、貴族の家に使用人として買われることになった。

 今日は、新しい主人が青年を迎えに来る日だった。髪の毛から足の爪先まで清く整え、主人が前もって用意してくれた上等な衣服に身を包む。

 新しい場所に行ったって、今までとやることは変わらない。求められたら涙を流す。金のなる木としての役割に徹するだけだ。


 主人は象に乗ってやってきた。雪のように白い象。普賢菩薩さながらに、仏教では神聖視される白象に乗って……。

 後光を背にした主人は、象の上からひょいと青年を覗き込んだ。

 複雑に編み込まれた、柔らかく白金色の絹のような髪。そばかすひとつない滑らかな肌。何より、こぼれんばかりの大きなエメラルドの瞳は、希望に満ち溢れていた。

 新しい主人は、若く美しい女伯爵だった。

「迎えに来たよ」

 むんずと腕を掴まれる。細い体のどこにそんな力があるのか。

 気付くと青年は象の上にいた。

「さ、しっかり掴まっててね」

 伯爵とは思えない物言い、笑顔を青年に向ける。そして、神聖なる白象は動き出した。

 それは、ゆっくりと。


 青年は主人といつも一緒にいた。だのに、彼女は一度も涙を流すことを求めなかった。それどころか、使用人には勿体ないくらい上等な部屋やプレゼントを与えられたし、気安く声を掛けられた。声を掛けるといっても、青年の部屋に入り浸り、持ち込んだ菓子を食べては三時間ぶっ続けで一方的に愚痴をこぼしているだけなのだが。

 実際女伯爵は苦労していた。商才に恵まれ、身一つでみるみるうちに出世し富を得た彼女は、やがて爵位を与えられる。当然、嫉妬や羨望の眼差しを向けられ、宮廷において彼女はいつも孤独だった。

「なぜ、ご主人様は、涙を流せと言わないのですか?」

 彼がそう尋ねたのは、主人が変顔を披露している最中だった。

「え? あなた、Mなの? 泣かされたい系?」

「いえ、そうではなく……。いえ、なんでもありません」

 結局青年は押し黙った。女伯爵は、変顔の手を止めると、困ったように微笑した。

「私、お金や宝石に困っていないもの」

 じゃあ、何故自分を買ったのか。そう聞こうとした彼の唇に主人は人差し指を当てることでとどめた。

「私はただ、あなたを笑わせたいの。喜んでほしいの」

 そこで初めて青年は、主人が自分にプレゼントを与えたり、変顔を見せる目的を知った。目的はわかったけれど。

「意味が、わかりません」

 泣くことでしか役に立てない自分を笑わせる意図が、彼にはどうしてもわからなかった。

「お礼だよ」

「お礼?」

「私、小さい時、あなたに助けられたんだよ」

 それも二回。そう言う主人の浮かべた笑窪に、輝くエメラルドグリーンの瞳に、記憶が鮮明に蘇った。


 父がまだ生きていた頃。父の手伝いをしていた彼は、砂浜で行き倒れた少女を見つけた。

 母の目を盗んで、こっそり少女を隠した小屋へと干しシシャモを運んだ。父も少年の流した涙を売って、必要なものを揃えてくれたりと、さりげなく協力してくれていた。冷たかった少女の肌は、次第に赤みを取り戻した。

「お礼がしたい」

 シシャモにかぶりつきながら少女は言った。

「じゃあ、将来金持ちになってさ、白い象に乗って、僕を迎えに来てよ」

 何故馬ではなく象だったのか。今ではわからないけど、この時の少年は本気で答えていた。彼女もまた「うん、わかった」と大真面目に決意を込めて頷き、くすくすと笑いあうとやがて眠りについた。

 翌朝、少女は消えていた。オーデトワレの仄かに香る手縫いのクッションを残して。


「君は、あのときの……」

「十年前と七年前。干しシシャモをくれた優しい人のことを忘れたことはなかった。あなたに逢いたくて、必死に頑張ったの。見世物小屋に逢いに行ったとき、あなたは笑顔を失っていた。私はそれを取り戻したかった。あなたのことが……」

 使用人は最後まで言わせず、女伯爵を抱きしめた。否、十九歳と十七歳の、ただの男女の姿がそこにはあった。あの日の少年は心を取り戻していた。

 一番の笑顔で見つめあうと、青年は身分違いの恋人に顔を寄せる。

 

 いつかの匂いが漂った――

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宝石小僧と白象の女伯爵 遠山李衣 @Toyamarii

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