生け巣/Dagon_3-10
「なんだ……これは?」
中へ降りた亜門たちを待ち受けていたのは、驚愕の光景だった。
研究所の世界に広がる、上層部からは考えられないほど開放的な空間。そこには200を超える数の水槽が並べられ、奥に続く通路を形成していた。
水槽内に魚介の類はおらず、液体に満たされた水槽には、驚くべきことに剥き出しになった脳が浮いていた。
水槽に貼り付けられた紙には持ち主である人物の名前が記されている。そのほとんどが警察の名簿にあった事件の、頭のない死傷者のものだった。
「攫った人間の脳を保存しているのか……!」
「まだ停止してはいないね。魔力を搾取するために延命されているよ。これを生きていると称するか、死んでいると称するかは、判断が難しいところだけど」
「なんていうことを……」
目の前の惨状に、思わず亜門は声を漏らす。
まるで家畜同然、あるいはそれよりも非道な処遇だった。意識があるのなら死んではいないのだろうが、彼らは既に警察により死人として扱われ、戻る肉体は既に死体として処理されている。生き返ることは限りなく望みが薄かった。
「……セラ、水槽と名簿を照らし合わせてくれ。なるべく全てを記録する」
「そんなことをしても、彼らは元には戻らないよ」
「それでもだ。得られる情報は全て得ておく。それが……彼らに対するせめてもの供養だ」
どれだけ嘆いたとしても、水槽に佇む彼らに亜門がしてやれることはない。だが、だからこそ亜門は、一刻も早い事態の収拾が、彼らに対する供養になると信じたかった。
水槽の名前と名簿を照らし合わせながら進むと、部屋の奥に更なる空間が広がっているのを発見した。
(何の部屋だ? 大型の装置がある……それに、やけに臭うな)
入ってみると、そこは実験室のようだった。薬品の並べられた棚が並び、中央には台が一つ設置されていた。周囲を機械に囲まれたそれは手術台のようだった。血の跡が生々しく残されている様子から、今まさに施術を行った印象を受ける。
(自動で施術を行う機械か……どうやらここで被害者の脳を取り出していたみたいだな)
機械の履歴を探ると、つい最近稼働したばかりだということが分かった。手術時間は5時間を超え、かなり大掛かりな手術であると推測できる。
「亜門、下を!」
慌ただしい様子でセラが口を挟む。
セラの指示した場所を見ると、手術台の下、布の隙間から、深きものの生気のない瞳がこちらを見ていた。
「っ!? こいつどこから?」
「待って! 魔力を感じない。彼は生きてはいないよ」
すかさず身構えた亜門を、セラが制する。
よく見ると、そこにあったのは深きものの頭部だった。台の下に隠された頭部が、見るも恐ろしい形相で亜門を睨んでいた。
「頭、だけか……」
死体の頭が転がっているにも関わらず、亜門の精神は比較的落ち着いていた。
深きものが人からかけ離れた容姿、というのもあるが、頭部から出血があまりなかったというのが要因としては大きい。周囲に血溜まりはなく、首の切断面は驚くほど鮮やかだった。
「これは手術痕だろう。状況から察するに、この機械で手術を受けたものと見て間違いないな」
「今まで見た死体から取られたものじゃないね。変生している」
「周囲に身体は……ないな」
辺りを見回しても、死体の首から下は見当たらなかった。首だけが部屋の中に転がり、密室の中で異様な存在感を醸し出していた。
(なぜ首だけがここに……?)
謎は深まる。しかし考えるばかりで、答えは一向に出てこない。
そのうちに、亜門は機械以外にも目を向け、めぼしいものがないか手をつけていくことにした。するとそう時間も経たないうちに、手術台とは別の場所で亜門は怪しげな機械を発見する。
それは顕微鏡のような装置だった。
光で対象物を照らし、その形を写し取る、所謂複写機と呼ばれる機械である。しかし、流通しているような複写機とは形状が異なっていた。
その複写機は特定の物を写し取る目的のためのものだった。
複写機と共に保管された物に、亜門は目を奪われた。
「まさか、この学都に本物の本があるとはな……」
それは本だった。インナーユニバースが生み出す仮想の物ではなく、質量を持つ本物の書物。それが二冊、隔離されるように保管されていた。
年季の入った表紙に彩られた書物は、どちらも亜門が初めて見る代物だった。しかし、その内の一冊に記されていた文字には見覚えがあった。
「この古い印……ダゴンが変生した時のものか!?」
「彼らの魔導書のオリジナルみたいだね。反応が消えていたとはいえ、まさかこんな場所にあるとはね」
厳重に保管されていたのは、データ化されていない本来の魔導書『ネクロノミコン』。深きものが持つ魔導書、その原典だった。
「彼らこそボクが追っていた、この都市に現れた最初の魔導書だよ」
懐かしむように、セラはネクロノミコンへ触れる。
「お前と同じ、魔導書か」
「今はもう違うけどね。彼らは電脳化されていない本来の魔導書。ボクはインナーユニバースに適応した代わりに、実体をなくした魔導書。どちらも情報という存在ではあるけど、その在り方は異なるよ。それに、彼らは既に抜け殻だ。キミたち風に言えば、とっくの昔に息を引き取っている」
亜門は義眼で本を見る。魔力の源であるはずの魔導書に、何の色も灯ってはいなかった。
亜門にもはっきりと分かっていた。魔導書は完全に沈黙、停止していた。
「どういうことだ? 書物であるお前たちに、死はあるのか?」
「いや、キミたち人間のように代謝が止まれば機能が停止するなんてことはあり得ない。あるとすれば、内容に重大な欠落が起きたか、もしくは、ボクのように中身を移動させたか、そのいずれかだろうね。そして朗報だよ亜門。最後の魔導書の正体が分かった」
「本当か!?」
セラは保管された二冊の魔導書の内、残りの一冊を指し示す。
「その名は『ルルイエ異本』。キミたち人間が西暦という暦を使うより以前に産み出された、ボクより少し先輩の魔導書だよ。ボクを含め、旧支配者について記された魔導書は多岐に渡るが、あの異界、ルルイエについての詳細が記された魔導書は、彼しかいないよ」
「ルルイエ異本……異界を生み出した魔導書か」
亜門は魔導書を手に取る。
不思議な感触だった。表紙には特殊ななめし加工が施されているのか、本は妙に艶めかしい質感で、仄かに湿り気を帯びているようだった。皺が集まる様子は一見すると人の顔のようにも見え、その書物の持つ異常さをより一層強調していた。
(なんの動物の皮だ?)
疑問を抱きながら亜門は洋書の手触りを確認する。少なくとも動物性。どこかで触ったことのあるような感触であることは分かるのだが、何の動物かについてまでは考えが及ばなかった。
「分からないかい? キミも触ったことがあるだろう。これは、人間の表皮で装飾された魔導書さ」
「!?」
亜門は驚きで目を見開き、ルルイエ異本の実物に奇異な視線を向ける。悪趣味な魔導書は、機能を停止しているにも関わらず、まるで生きているかのように怪しい光沢を放っていた。
「不思議な目をしているね。何故人間なのか、他の生物ではないのか。勿論理由はあるよ。彼らの作りはより生物に近いもの。
「……それで人皮か」
魔導書という存在は記録媒体でありながら、知能を備えた生命体のように振る舞う。この魔導書も例外ではなく、セラよりもずっと生物的な傾向が強かった。活動を維持するための
「でも、奇妙だね」
「奇妙? 何がだ?」
「先程も言ったけど、彼の作りは生物を模した特殊なものだ。ボクのように知識を移動すればインナーユニバース上に適応できるというものではないよ。本という形でしか知識を与えられないのに、どうやら彼の知識で異界は広げられている。そこにボクは矛盾を感じているよ」
「ふむ……電脳化されていなければあり得ない、だが電脳化には問題がある魔導書というわけか」
「簡潔に言えば、そういうことだね」
「……逆を言えば、条件さえ整えれば電脳化することも可能なんじゃないのか?」
「え?」
手詰まりかと思われたその時、亜門が進言する。
思いも寄らない言葉に、セラは驚愕の表情を浮かべる。
「そんなことが可能なのかい? 人皮で装飾された本を電脳化する環境なんて」
「難しい話ではないはずだ。人の皮が必要なら、その下で信号を走らせればいい。荒唐無稽な話だが、人間の肉体に情報を刻み込むことができるならば、その人間は生きた魔導書だと言えるのではないか?」
「……たしかに、そうすればルルイエ異本は電脳化できるかもしれない。だけど亜門、キミも見ただろう。深きものやダゴンは魔導書を直接脳に記録していたが故に自我が崩壊した。魔導書の内容は膨大な数に及ぶ。それらを全て人の身体に記憶させるなんてことは不可能としか言えないよ」
「できるとすれば? 本と同じ環境を再現し、記載された魔術を全て記録し、さらに自我すら崩壊しない、そんな方法があるとすれば?」
亜門は確信を得ていた。この恐るべき所業を行った人物が、どのような方法を用いて魔導書を電脳化させたのかを、その真実を。
「その方法があるとすれば……皮膚だ。皮膚の奥に色素を埋め込めば、表皮に模様として文字を残すことができる。加えて、電気信号によって色を変えることができる塗料があれば、人体に情報を埋め込むことは十分に可能だ。脳に記録しなければ自我は崩壊しない。義眼にお前を埋め込んだ俺のようにな」
「なぜ、そこまで分かるんだい?」
亜門の推測は理にはかなっていた。とはいえ限られた情報の中で組み立てられた仮定でしかない空論を、まるで真実であるかのように告げる亜門の様子には側にいるセラから見ても違和感しかなかった。
しかし、亜門はこの隠し部屋に降りた時から、一つの疑問を持っていた。
生け簀の脳。頭部しかない深きもの。そして特殊な構造の魔導書。一見不可解なこれらの要因が、その疑問に答えを与えたのだ。
「それができる男を一人、俺は知っている」
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