NEONE 〜最初の支配者、最後の魔導書〜

ninjin

序章/四方明/■■■■■

《天候……雨、気温……19℃、湿度……90%》



 黒々とした曇り空に、現在の気象情報が映し出される。


 これは実際の空に文字が映っているわけではない。管理局が導き出した学都の気象情報がネットワークを介し、空を見た人間にその映像をリアルタイムで映し出しているのだ。


 これこそが、この町を覆う唯一にして最新の通信インフラ『インナーユニバース』。そしてそのネットワークが張り巡るこの町こそ、夜刀浦人工島に設立された数多の大学が集う技術産業都市、通称『学都ユニバーシティ


 この町に住んでいれば、実際の景色上に仮想的な情報が表示される事など茶飯事だった。


 そんな、おおよそ自然とは言いがたい町の片隅で、刑事である四方明ヨモアキラは佇んでいた。


 空に文字が映ることに驚きや鬱陶しさを感じることはない。

 それよりも注視すべき事が目の前にはある。



 四方の視線の先には、頭のない死体が転がっていた。



 服装は乱れ、こびりついた血から事件の凄惨さが窺える。体つきはかろうじて女性だと判断できるが、一番の判断基準になる頭部が首元から欠損していたため、彼女がどういった人間であったのか、どれほどの年齢であるのか判断することは難しかった。


「こりゃまた、派手にやられたな」


 刑事という職業柄、多くの遺体を見慣れていた四方でさえ、一言発さずにはいられぬ惨状だった。


「警部、管理局より被害者の視覚映像の視聴許可が下りました」


 そう言って駆け寄ってきたのは部下の林だった。四方が現れるより早く現場に到着した警官であるが、さすがに現場の凄惨さ目の当たりにしたせいか、その表情には並々ならぬ緊張感が漂っていた。


「そうか、見せてくれ」


 言うなり、四角い物体が飛来し、四方の目の前で停止する。


 それは『本』だった。しかし本物ではない。インナーユニバースから抽出された情報データが圧縮され、人の手に渡りやすく変換されたものだった。


 物理的な法則を無視して空中に佇む『本』を、四方は慣れた手つきで開く。


《『米道頼子/0501/19:23』映像を再生します》



 映し出されたのは、今四方が立っている路地だった。場所と時間から、それが、そこでまだ息をしていた被害者の最後の視点だと言うことが分かる。


 動揺しているのか、被害者の呼吸はひどく乱れていた。まるで何かに追われているかのように、しきりに辺りを見渡し、人の気配のない裏路地を急ぎ足で走る。動くものは蛍光灯の点滅だけなのに、被害者は何かを警戒することを一向に止めなかった。


 突如、何もなかった目の前に、人影が現れる。


「!?」


 物陰から湧き出るように現れたのは、裸の男だった。


 不規則に体は揺れ、その口から言葉のような、あるいは呻きのような奇妙な声を上げていた。

 濡れた長髪に覆われ、顔はよく見えない。しかしその様子から、男の状態が尋常ではないことが伺えた。


 亡者のように見えたのは僅かな間のこと。男はこちらの存在に気づくと、曖昧な様子からは考えられないほど素早く接近した。被害者の視界が反転し、気がつくと、馬乗りになった男の顔が目の前にあった。


 男の顔は大きく歪んでいた。膨らむ輪郭の中で瞳を血走せ、絶え間ない苦痛に耐えるような表情を浮かべながら、男は擦れる声ではっきりと、一節の言葉を口にする。



『NE……ONE』



 その時だった。男の身体に変化が起こる。


 男の周囲に未知の文字が浮かぶ。同時に苦悶の表情はさらに歪み、ついには自らの手で己の顔を掻き毟り始めた。掻き毟った箇所から皮膚が剥がれ落ち、中から青白く光る鱗のようなものが覗く。骨格が隆起し、腕や喉を突き破り、無数のひれとなる。男の体躯を一回り……さらに一回りと肥大化させる。


 それは、まさしく変貌だった。


 路地裏に人間の男など存在しなかった。そこにいたのは目玉の飛び出た、人の頭を丸呑みにするほど巨大な口と顔を持つ、正真正銘の怪物だけだった。


 被害者の視界が恐怖で揺れる。言葉すら発せない被害者が渾身の力で拘束を解こうと藻掻くが、万力のような腕力で押さえられ、身動き一つ取ることができない。


 やがて怪物の口が大きく開く。口内に覗くのは、もはや人のものではない何十にも生えそろった鋭利な歯だった。視界一面に映るそれらがどんどん大きくなり、やがて視界が黒一色に覆われる。


 一瞬のノイズを合図に映像は終了ロストした。



「被害者の身元は米道頼子よねみちよりこ。第三学区の三年生。二日ほど前に部屋に戻らなかった被害者をルームメイトが通報、現在の発見に至ります。生体認証バイオコードは99%一致、服装も当時着用していたものと一致しています。唯一異なるとすれば、その……頭部が存在しないことだけです」


 順々と四方の視界に表示されていくデータの中には、被害者の個人情報が事細かに記されていた。その中には生前に付いてであろう彼女の頭部も映し出される。


「にわかには信じられん映像だな。……加工や立体視の線は?」


「ありません。全て、現実の映像だそうです」


 あまりの現実離れした映像に、四方が偽りの可能性を示唆するが、返ってきたのは偽りようのない事実だった。


 頭部の失った遺体、そして最後に映った怪物、これらの要素から導かれる答えは一つだった。


「人が人を食ったのか……。いや、そもそもこいつは人間なのか? なんにしろ、このヤマは常軌を逸している。おい、この犯人は今どうなっている!?」


「行方不明、とされています。犯行後、文字通り姿を眩ませたと……」


 映像の末部を繰り返し確認する四方が、部下の報告に眉をひそませた。


「姿を眩ませた? あれほど大きな目立つ姿をした奴だぞ。逃げられるはずがない」


「それが……。現状で容疑者の姿を捕らえたのは、その被害者の映像だけだそうです」


 あり得ない話だった。


 ありとあらゆる情報媒体をインナーユニバースへと移し替えたこの街では、人の一挙手一投足が、町を観測する機器に何かしらの影響を与える。大通りへ出れば、至る所に仕掛けられた小型カメラが、人の表情や指紋、果てには体温すら捕らえるのだ。


 もし、先ほどの映像のような怪物が監視カメラの前に現れたのなら、たちどころに異常対象として警察に通報が来ることだろう。ここから他の学区や住宅街へ向かうには、そのカメラが配置された開けた大通りを行くしかなく、痕跡を残さず逃走することはまず不可能だった。


 そう、普通であればあり得ない。


特Aウィザード級のハッカーがいるのか? それかもっと別の方法でインナーユニバース干渉したか……」


「ハッキングですか? 確かに一流のハッカーであれば映像の書き換えを可能とする技術はあります。……しかしこれほどの規模での書き換えを行えるハッカーとなると、都市伝説でしか聞いたことのないような眉唾ものの存在でしかあり得ません。実在するかどうかも分からない人間を当てにするのは、現実的ではないかと」


「しかし現にそうしなければ説明がつかんだろう。それこそ魔法にかけられたでもなければな。なんにせよ今は情報がない。真実がどうであれ、捜査を前に進めるためにもハッカーの関与を断定。今後は奴の痕跡を追う。……もちろん怪物の追跡も続行する!」


 四方の意見は正論だった。どれだけ非現実的な事件だとしても、死者が出た以上、現実に起きた出来事なのだ。たとえ仮定が強引でも、そこに何かしらの因果関係を見出せなければ捜査は進展しない。


 見上げるような怪物であろうとも、存在するか怪しい姿を消す魔術師であろうとも、それを事件と結びつければ捜査の方向性が定まり、事件解決に近づくはず。


 四方明という男は、今時珍しい、そういった信念を持つ刑事だった。


「まず、カメラの検索範囲を周囲100メートルから300まで拡大。映像も認証ではなく直接視認するように手筈を整えろ。どんな些細な違和感でも構わず報告してくれ。後で俺も確認する。書き換えた映像にボロが出るかもしれん。それから……」


 テキパキと指示を出す四方だったが、ふと、何かに気づいたように口を止める。


 違和感を覚えたのは手元にある『本』だった。被害者の最後の視点の記録にして、この事件で最も重要な手がかりが納められた情報端末。しかし今はただ路地の壁を移しているだけの『本』である。


 その『本』に四方は何か引っかかるものを感じていた。


「あれ? 起動していますね」


 部下の言葉で違和感の正体に気づく。停止したと思っていた映像だが、新たに路地を映し続けている。


 まだ再生が終了していない。それは新しい映像だった。


 四方の表情が険しくなる。


「待ってください。その映像の履歴が上書きされています。最新終了時刻は……え!?」


「どうした?」


「記録状態が更新中になっています。つまり……今映っている映像は、現時刻での被害者の視点です!!」


 映像の設定を確認すると、確かに配信状態だった。


 IDやアドレスに変化はない。今、『本』に映されているのは紛れもなく、死んだ被害者の視点に他ならなかった。


「なんなんだこれは。バグか? 一体どうなってるんだ?」


「警部、操作も受け付けません!」


「ひとまず管理局へ通達……いや待て!」


 慌てる部下を四方は制した。理由は一つ、路地の壁を映していただけの映像に変化が起きたからだ。


 映像はゆっくりと、雨に濡れる壁を映し続けたまま横に移動する。


 機械的ではなく、上下に。人の歩調に合わせるように、視点は揺れる。


 やがて視界に赤い文字が映り込んだ。壁に書き殴られたそれらは、複数の列に渡って綴られ、一つの短い文章を形作っていた。

 


『支配者はただ一人


 旧きものから新たなるものへ


 我々は……    』



 そこで映像は終了した。


 続きの記録は存在しなかった。


 夕餉の蛍光灯ネオンに照らされる、頭のない死体。停止した『本』の最後に映る光景は、四方達の目の前に広がるものと同じだった。


 唯一違うのは、『本』に映っていない赤の色。即ち、死体の血で彩られた最後の文字だった。




 『NEONE新しき支配者

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