2 闇の中




 最悪な気分だ。苔むしたコンクリートの上にできるだけ触れないよう、相本樹里は好きでもない制服の裾を引っ張った。それでも水分を吸った苔からじゅわりと汁が滲み出て尻の辺りに不快な染みを作り出す。最悪だ。なんだってこんな目に合わなければならないのか。

 隣で寄りかかりながら泣くかのんの体温や菜穂美が目の前でいじり続けるスマホ画面の光さえ鬱陶しい。

 あるかないかも分からない窓から漏れる光は外が夜であることを示していたが、今日も連日通りの熱帯夜で肌に触れる空気は重苦しく吸ったそばから内臓が茹で上がりそうだった。

「…………親から連絡が来ない。またスマホ見てないのかな……」

「菜穂美の親、スマホぜんぜん使えないもんね」

「樹里とかのんの方は?」

「あたし充電切れた……」

 舌ったらずな声でかのんが言う。

「……私のも充電切れ」

 素っ気なく言って樹里はそっぽを向いた。向いた先は相変わらず闇の中だったが。

なぜこんなところにいるのか。教室で眠くなり、目覚めたらここだった。まるで下手なサスペンス映画の導入だ。しかも目覚めた場所でヤギなんかに襲われて、莉緒とも逸れた。あと一人誰かもいた気がするが、覚えていない。

 散々だ。本当に散々だ。私たちがなにをしたって言うのだろう。樹里はイラついた気持ちをぶつけるように近くに生えていた苔をもいで遠くに投げた。

「……これって何かの罰なのかな」

 かのんが小さく呟く。

「罰?なんの?」

 菜穂美が苛立ったように聞き返す。

「わかんないけどさあ……。うちら絶対にいい子ってわけじゃないじゃん。だから、これは罰で、私たちはなにか悪いことをしたんじゃないかなあ」

 高く甘めな声がひどく耳障りだ。

 罰。罪を犯したものには罰が与えられる。馬鹿馬鹿しい。私たちが一体なんの罪を犯したと言うのか。

「やめろよかのん。急にシスターみたいなこと言うんじゃねえよ」

 わざと強い語気で返せば、怯えたような顔でかのんに見上げられる。わざとらしくて気に触る目つきが嫌で、樹里は肩にもたれたかかるかのんを押しやった。菜穂美はこっちを見ていないふりをしてまだスマホにしがみついている。

 最悪だ。いつもはこんなのではない。もっとバカな話題でへらへらと笑っていたいのに。

「まじねえわ。最悪すぎ。こっから出たらまず真っ先にこんな目に合わせた変態を引きずり出して死刑にするから!」

 虚勢を張った声がコンクリートの壁に響く。それに呼応するように一つの音が帰ってきた。


カツ、カツ、カツ、カツ


 時を刻むかのごとく正確な歩調でそれが近づいてくる。

 樹里もかのんも菜穂美も身構えた。闇の向こう側からなにが現れるのか、予測はついていた。

「また、あのヤギ……?」

「ヤギくらいなんでもないっしょ……。さっきは菜穂美のカメラでビビらせたのが悪かったんだし」

 樹里は立ち上がって闇からくるものをよく見ようとした。そこからやってくるのはただのヤギだ。ヤギに違いないはずだ。


カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ


 生ぬるい風が樹里の頬を撫でる。ふと、樹里はこの密室空間ではじめて風を感じたことに気がついた。


カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ


 突如として不安が過ぎる。向こうからやってくるものは本当にヤギだろうか?

カツ、カツ、カツ、カツ、カツ

カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ、カツ

カツ、カツ、カツ、カツ、カツ

 闇の向こうから蹄の音が響く。なんだかその音は四つ脚で響かせるにはやけに音が多い。多重奏のように幾重にも音が重なり、反響音を繰り返す。音がどんどん近づいてくる

 そこにいるのは、そこからくるのはなんだ?

 樹里は月明かりと暗闇の界へ目を凝らした。闇の中から薄ぼやけた存在が泥の中から浮かび上がるようにゆっくりと輪郭を顕す。

 灰色の角が月光を受けてそれは現れた。蹄を高らかに鳴らし、細長い瞳孔を動かしながらヤギは樹里を見上げた。

「メエェ」

 小さく鳴いて黒ヤギは首をかしげるような動きをした。

「……ほら、やっぱただのヤギじゃん」

 安堵のため息をついて、樹里はそこで自分が初めてひどい冷や汗をかいていたことに気がついた。

「ほんとビビらせないでよ……」

 驚かされた仕返しに樹里はヤギの角をそっと撫でる。

「メェエエ」

「なんだよ。意外と可愛いじゃん」

「メェェエエ、メェエエエエ、メエエエエエヘエエッヘエエエエエエエッヘエエエエヘヘヘヘヘヘヘッヘヘ!」

 ヤギが突然人のような笑い声をあげ、樹里は思わず硬直した。

「エヘエエエエ、エヘエエエヘヘヘヘ、ヘエエエエエエエエ」

 ヤギは甲高い笑い声をあげながら樹里へと突進した。

「痛っ……!」

 角が腹部に食い込み、鈍痛が襲う。樹里は腹を抱えながら蹲る。後ろではかのんと菜穂美が悲鳴をあげているのが聞こえる。

「メエェエエエエエッヘエッヘエッヘエッヘエ!」

 ヤギは樹里の隣を通り過ぎ、かのんと菜穂美の方へと歩いていった。

「なんでこっちくるの!」

「来んな来んな来んなぁ!」

 悲鳴をあげながら二人が逃げていくのが聞こえる。悪態をつきながら樹里が上を見上げると、ヤギはまだそこにいて樹里のことをじっと見下ろしていた。

前脚をカツカツと蹴り上げ、鼻息を荒くして今に樹里へと襲い掛かりそうだ。

「や、やだぁ……やだぁ……!!」

 樹里は這い蹲りながらヤギから逃げようと足掻く。制服が何だかよくわからない薄汚れた水を吸って汚れるが、構わない。

 廊下の端に寄って怯える樹里に対し、ヤギは二、三首を振ると大きく首をもたげた。

『罰だ!罰だ!罰だ!』

 突然ひび割れたノイズのような声が響いて、樹里は思わず耳を塞いだ。

「ヒッ……!」

『哀れな罪人よ。己の罪を悔やむがいい!』

 信じられない。ヤギが喋っている。

 黒いヤギの喉から人の声で自分を責め立てる声が聞こえる。

訳がわからなくて樹里は泣き出してしまう。恥も外聞もなく子供のようにわんわんと泣いた。

「ひっ……ひぐっ……うぅ……うええええええええええん……!」

 なんなのだこれは。意味がわからない。突然廃墟に閉じ込められかと思えば、ヤギに襲われ、友達には見捨てられ、ヤギに罪を問われている。

「あたっ、あたし、が……!なにしたって、いうのぉ!!」

 垂れ流される鼻水を制服の袖で拭うが、とめどなく鼻腔の奥から熱い液体が溢れ出してくる。ただでさえ崩れていた化粧はドロドロに溶けてみっともないことこの上ない。

『何をしたが、わからぬというか』

 首を傾げながらヤギは歌うように低く問いかける。

「わっかんねえよ!くそ、ヤギのくせに喋るんじゃねえよぉ!!」

 樹里は精一杯の虚勢を張るが震えた声では威嚇にもならない。

『ならば我が命令にひとつだけ従え。さすれば汝をここから出そう』

 その言葉に樹里は顔を上げた。一体このヤギは私になにをさせようというのか。

やがて告げられた言葉に、樹里は絶望の表情を浮かべた。

「は、はあ…………?そんなの、聞くわけないだろ?馬鹿じゃねえの…………」

 震える声で拒絶する。

『ならば、ここで永遠に罪を悔いるがいい』

 鼻息荒く息を吐きだして、ヤギは踵を返してそのままどこかへと消えてしまう。

カツカツという足音が遠のくのを聞いて樹里は深く息をついた。熱帯夜だというのに、体は酷く冷たかった。



「ねえ、やっぱり戻ろうよ……」

 かのんが菜穂美のカーディガンの裾を掴みながらいう。菜穂美はかのんのその態度に苛立ちを覚えた。かのんは絶対に、樹里を思って戻ろうと言っているのではない。自分が罪悪感を抱えることが嫌で、樹里を見捨てたくないのだ。

いい子ぶりっ子なかのんのこういう所が菜穂美は大嫌いだった。

「知らないよ。かのんだけ戻れば?」

「ええ?なんで?」

 なんで。とは。

 まるで自分の主張が通って当たり前とでも言うようにかのんは首をかしげる。その行動にさえ、今すぐ舌打ちをして無視を決め込みたい。

「ねえ、きっと樹里も迷ってるよ……またあのヤギが出たら危ないし……」

「嫌だ。私だってあのヤギに会いたくない」

 かのんの手を振り払う。「あ」という、困惑したような声が聞こえたが今度こそ無視を決め込んで菜穂美は前に進み始める。

握りしめたスマートフォンは圏外と電波一本の間を彷徨っている。もう少しで電波が届くはずだ。

 もう少し。もう少し。

 ピコンという甲高い電子音がして、スマートフォンがSNSを受信する。

「あ、来た」

 菜穂美は先ほど、自分のSNSアカウントでヤギの写真を投稿していた。自撮りや流行りものを載せるアカウントとしてそこそこ人気があるせいか、ほとんど暗いだけの写真でもいくつかの返信が付いていた。

 電波の向こう側から人の気配を感じて菜穂美はほっとする。ヤギの写真を載せた投稿は思うよりも伸びていた。しかし安堵した心も、からかいや見当はずれな返信を目にするとたちまちしぼんで苛立ちへと姿を変えた。


SDo:怖!新しい脱出ゲームですか?

あみ太:ガチ誘拐案件?警察に連絡した方がよくない?

KT6:コラ画像乙。加工を練習してから出直してください。


「コラ画像じゃねえよくそが…………」


 画面をスクロールし、なにか有益なものは情報のひとつでもないかと探ると、一つの返信に目が付いた。


茄子美:これT山にある廃墟っぽい。戦時中の実験施設で地下にあるとこ。たしか何年か前に写真家が立ち入り禁止なのに入り込んで問題になっていなかった?


 T山は学校にほど近い山だ。しかしその中に廃墟なんてあっただろうか?

「T山の廃墟ってさ……森ティーの言ってたやつじゃない?」

 いつの間にか画面をのぞき込んでいたかのんが言う。

「なにそれ。知らないんだけど」

 かのんの前から画面を隠して菜穂美は聞き返す。

「歴史の授業で言ってたじゃん。学校のあたりは疎開地でもあったけど、実験施設もたくさんあったって。ほとんどが戦後取り壊されたけど、中には残ってるかもしれないって。あいつなんか戦争オタクだからそういうの詳しいんだよ」

 そうなのか、と菜穂美は初めて知るような顔で返事を返す。歴史関係の授業は全部寝ていた。

「実験施設ってさあ、なんの?」

「え、それは……わかんない。なんかグロい話しはじめたから耳ふさいじゃったし……」

 顔をしかめて言うかのんにまた苛立ちが増す。肝心なところで本当に使えない子だ。それでもかのんが聞きたがらないということはろくでもない場所には違いない。実験施設というだけで肌にまとわりつく空気に嫌な感触を覚えてしまう。

「ま、戦争で使われてたってんならロクなもんじゃないでしょ。人体実験とかしてたんじゃない?」

「やめてよそういうこと言うの!」

 わざと恐ろし気なことを言えばかのんが悲鳴をあげる。それだけで菜穂美は随分気持ちが楽になった。自分より怯えている人間がいると少し冷静になってくる。

 ここが実験施設であるというのであれば、出口は限られてくるはずだ。窓が上部分にしかないということは、半地下なのかもしれない。ならば出口は階段を見つけて登ればいい。

 次にどうすればいいかわかるとなんだか希望が湧いてくる。

「とりあえず先に出口を探して助けをつれてこよう。その方がきっといい」

「……うん。わかった」

 菜穂美はかのんを連れ立って歩き出す。早くここから出て水でも飲みたい気分だった。


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