一章  狂犬の教鞭(数学)

「…………」


「………………」


 夏の日差しが桜夏を描いている時よりも痛烈さを増しているのが窓から入り込む光でもありありと分かる位には眩しくなってきた今日この頃。普段ならこの殺人的な陽気と戦いながら屋上で暇を潰している筈なのだが、今の俺は冷房の効いた室内でアイスコーヒーを飲みながら太陽光で照らされた本を優雅に読んでいた。時刻はまだ九時を少し回った所、ぼちぼちと部活動の生徒が集まり動き始めた頃合いなのか、先程からどこかの部活の掛け声が聞こえてくるが、この場所が思いの外防音がなされているのか随分と声が遠い。耳に入るのは快適な環境を維持する為の機械音と近くの木に止まっているらしいアブラゼミの鳴き声、それと多少の鉛筆を動かす音だけの静かな一時を過ごしている。


「昨日まではあの胸がデッカイ図書委員から借りてた心理系統の本を読んでたのに、今日はいきなり荘子だなんて……。咲良って本当に活字なら何でも良いの?」


 俺が適度に集中して本を読んでいた所を、この夏休みが始まった時からずっと憑き纏われている一匹の幽霊が呆れながら邪魔をしてきた。彼女の名前は橘御影。この学園で噂されている七不思議の一つである『桜に哭く少女』にて登場する幽霊そのものであり、俺に成仏する方法を探すのを求めてきた傍迷惑な存在である。


『荘子は良いぞ。俺も無為自然の境地を見たいものだ』


 半ば呆れた様な口調で喋りかけてくる橘に対して、俺は本を片手に持ち替えて机の上に置いておいたルーズリーフで筆談をする。俺以外の人には姿は見えない、声は聞こえない橘と会話をする際は細心の注意を払わなければならない。周囲に人が居ない時は普通に会話をしても問題は無いのだが、今みたいに近くに人が居る状態で話をしようものなら確実に変人扱いされてしまう。なので、そんな時は今みたいに紙に書いての筆談か前に決めたハンドサインで簡易的に返事をするかで対応するという取り決めを作った。これによって無視される事が少なくなった橘は大層機嫌を良くしたがハンドサイン表を作って覚えた際はブチブチ文句を垂れながら反感を持っていたのに現金な奴だと思ってしまうのは俺の器量が狭いからだろうか。


「無為自然ねぇ…。人が人である時点でその道は険しいと思うよ?私は。ホラ、なんだっけ…。私は人間だから~みたいな台詞あったじゃん?」


『相変わらずお前の感性は分かんねぇな…今の流れでテレンティウスが出てくるか?普通…』


 火葬で燃やされたスカスカの頭を振り絞って橘の思い出した名言は想像の斜め上を行くものであった。ここまでの浅い付き合いで何となく分かった事であったが、橘御影という女の感性や発想は中々にエキセントリックである。生前に読んでいた本や覚えた知識が偏っていたのか、発言の端々から出てくる単語やうろ覚えの知識は、高校生活を何も考えずに暮らしていたら半分くらいの生徒は出会わないであろうものなどがあったりする。今のように運良く俺が分かるものだったらまだ良いが、これが俺の知らない知識だったりすると、橘はドヤ顔で知識をひけらかしてくるので中々に面倒臭い。


ちなみに、今の橘の言葉を自分なりの解釈をすると恐らく、人間の人間らしさを突き詰めると本能と理性の両立であり、どちらか片方を無くした時点でそれは人では無く、なればこそ作為をせずにあるがまま感じて生きるのは人の身では無理である。と言いたかったのだろうと思われる。ならば最初から胡蝶の夢を引き合いに出せば良かろう物をなんでそんな回りくどい、かつ分かり辛い所から引用してきたのかは謎だ。


「なにさ~?結構良い感じで捻りの効いた所を思い出せたと思うんですけど~。じゃあ咲良だったらどんな名言で無為自然について考えるのさ」


 俺の返事が気に食わなかったのか、橘は俺に対して喧嘩腰に無茶ぶりを要求してきた。偉人の言葉に対して偉人の言葉で自分の考えを表現せよだなんてどんな罰ゲームかと溜息を洩らしかねないが、ここで雑にあしらうと後々が面倒になる。機嫌を損ねると憑き纏われている分気疲れが増えるので、俺は顎に手を置いて少しだけ考えながら、筆を動かす。


『……我思う、故に我あり。って所か』


「かーっ、とんだ哲学かぶれだね咲良は!デカルトと荘子じゃ似ても似つかないってモンだよ!世代とか!人ありきの考え方とか!」


 俺が思うがまま書いた言葉を見た橘は吐き捨てるように批評してきた。今の言葉が全て自分にも刺さっている事を自覚しているのかは分からないが、とりあえず棚上げして説明をして見る事にする。


『無為自然の解釈は色々あるだろうが大方一致している部分は、人は宇宙や大いなる存在の一部であるって認識でその流れに逆らわずにあるがままを否定せずに生きろと言う部分だ。天と地は全てを為すだろう。だがその認識をするのはあくまで「己」だ。ならば、天と地の為す事とは何か?世界とは何か?神の意思とは何か?全ては自己の認識でしか存在し得ない。世界と自分は等価であると考えられるのだから、大いなる存在の流れすら自分の認識一つで変わると思わないか?だからこそのデカルトだ。文句は受け付けるぞ』


 書きながらも、独我論と無為自然を並べようなんて実にナンセンスな話であると鼻で笑ってしまいかねない事であったが、それでも自分が信じている事が自分の全てであり、世界であるのならば大いなる世界など何の意味も無いのではないかと思ってしまう。突っ込みどころは沢山あるであろうが、それも含めてのデカルトである。


「む~…何かそれっぽい言葉並べられて御託こねられた感が否めないけど…う~ん…」


 俺の講釈を読んだ橘は何かもやもやするような所はあったものの、それを言葉にする程の語彙力が存在しないのか唸るだけで続きが出てこなかった。そういう所が偏っていると思うのだが、二人の時でもそんな事を口にすれば、奴は確実に臍を曲げる。機嫌を取るのも大変である。


 そんな感想を抱きながら大きく伸びをすると、ルーズリーフの横に置いていたタイマーからアラームが鳴った。もう十分が経ったのかと思いながら俺はタイマーを止めて俺が此処に居る理由に話しかけた。


「おーい木ノ崎、生きてるか?さっきからペンの動く音が聞こえてなかったが」


 俺が生存確認をすると、左斜め前に座っていた木ノ崎は声を発せずシャーペンを握っていない方の手でグッと親指を立てた。どうやら辛うじて生きてはいるらしい。


「とりあえず十分経ったから一旦回収するぞ。俺が採点を終えるまでは休憩してろ」


 言いながら俺は木ノ崎の横に寄って奴の体に潰されている問題用紙を破らないように引っ張って回収する。今の親指と紙の回収の際に少しだけ紙が取りやすいように頭を数ミリ上げた以外は動きが無いので殆ど死に体であるのには間違いない。だが今日の問題はこれまでよりも難しくしておいたから、ある意味では当然の状況ではあると言える。木ノ崎の状況がそんなものであるから問題の回答具合も見た目通りかと高を括って俺も赤ペンを握る。だが、意外にも問題用紙は白よりも黒の方が多い程度には埋まっていた。


「…ん?なんだ、なんだかんだ言って全部の問題には手を付けてはいるのか。感心感心」


 チェックをしている限りしっかり解けているのは五問中問三の一つだけ。だが他の問題も少なからず解こうとする意志は感じ取れる答案であった。これが初日だったならば確実に投げ出していただろう問題群なので随分と成長したものだと頷きながら解けなかった問題の式に添削をしながらヒントを書き足す。


「あの~…名蔵先輩?いつか言おう言おうと思いながらも今日までずっと言えませんでしたが……。俺が名蔵先輩に最初頼んだ事、ちゃんと覚えてます?」


 そんな所で、屍の状態から復活した木ノ崎が恨みがまし気に俺に文句を垂れてきた。


「勿論覚えているぞ。一学期の数学が赤点だったせいで補講を受ける羽目になって皆に馬鹿を見せるのが嫌だから池上先輩に勉強を教えてもらおうとしたら予想以上に厳しかったから湖宮に助けを求めて一安心かと思ったら今度はダダ甘過ぎて勉強にならないから助けてくれ、なんて内容忘れるわけ無いだろ」


 ヒントを書きながら思い出すだけでも呆れてしまう様なものを木ノ崎に改めて話す。頼み込んだ時は無我夢中だったのであろうが改めて聞かされると随分恥ずかしい内容だからだろうか、木ノ崎は短く呻いてまたも机に突っ伏してしまう。


そう、今の俺は風紀委員室で木ノ崎の学力向上を図っていた。


事の発端は四季桜の盗み出しに成功した翌日の月曜日、もはや日課の一部に入れても良い能代との朝練を終えて、昼までの暇潰しがてら橘と喋りながら外でクリップボードを使い宿題を解き進めていた頃。突然木ノ崎が校舎口から駆け出してきたので何事かと二人して顔を上げた。その瞬間、奴と目が合ってしまい木ノ崎の進路が学園の正門からこちらに変更。そのまま俺の方にタックルと思われても仕方ない速度で飛び込んできて、半泣きになりながら今口にしたような旨の助けを求めてきた。


最初は訳も分からず飛びつかれたので思わず叩き落としてしまいそうだったが、その後やってきた湖宮から詳しい話を聞いて渋々木ノ崎の頼みを受けることにした。引き受けた要因は湖宮の悔しそうな表情が見たいからと暇潰しにはなるだろうと言う思惑が8:2位であったが、木ノ崎はまるで地獄から解放されたかのようなテンションで喜んでいたので前任の二人はよほど苦痛だったのだろう。他意など一切気にせず喜々として俺に感謝を述べた。そんな約束を交わしてから今日で四日目となる。


「オラ、問三だけは出来てたからあと四問だ。ヒントはくれてやったから気張って解け」


言いながら俺は採点が終わり解き方のヒントを書いた答案と真っ白な答案の二枚を木ノ崎に渡す。木ノ崎は蛙が踏まれたような声を出しながら肩を落として意気消沈したものの、愚痴をボヤキながらもすぐさま問題を解き始めた。一度泣き言を言って手伝ってもらっている手前手は抜けないと思っている所だろうか。俺は再びタイマーを十分に設定して時間を測り始めた。


「咲良が採点している時に思ったけどさー…、今日の問題いつにも増して難しくない?今までのもそこそこに難しかったけど今日は輪を掛けてと言うか…あんなの咲良も解けるの?」


 頭をフラフラさせながら問題に取り組む木ノ崎を見て流石に不憫に思ったのか橘も木ノ崎を擁護するような疑問を口にする。それを聞いた俺はハンドサインで返事をしようか悩んだものの伝えるのが面倒だったので再びルーズリーフの余白で筆談を始める。


『解けるも何も、初日以外のプリントにある問題を作ったのは全部俺だ』


「うぇっ⁉今までのって…今日までの問題全部⁉あれ自作だったの⁉私てっきり問題集から引っ張ってきたのかと思ってたんだけど」


『問題集から引っ張ってきた場合、改訂されてない場合はズルが出来る可能性があったからな。初日に実力を測る為に使った以外は問題集に触ってない。自作とは言え一応俺も三回は解き直しをしているからな。問題は無い筈だ』


「うわぁー…咲良もスパルタだねぇ……。てかあんな問題を普通に作って解ける咲良も咲良だけどさ。その頭は聖君に似たのかねぇ…」


 問題の出自を聞いてきた橘は俺の答えに目を丸くしながらもしみじみとそう呟いた。実際、この話は登校中の世間話で能代にも話したがアイツからは「嫌々と言っていた割には真面目に教える辺り名蔵らしい」なんて評価を貰っている。個人的には教える事自体面倒この上ないのではあるが、後輩に泣きつかれて無碍にできる程俺は図太い神経は持ち合わせていなかったので、やるからには仕方なくでも真面目に補講を乗り切れる程度には教えるつもりでいた。だが正直、木ノ崎は途中で投げ出すとおもっていたが今日までちゃんとついてきたのは少し驚きである。


 それにしても橘は頭が良い=遺伝子的な問題=親父側の方だと口にしたが、俺としては親父の方に似ていると言われるのはあまり好ましいものでは無い話で、改めて否定をしようと俺は紙を裏返して話を続ける。


『個人的にアレに似ていると言われるのは御免だな…。まだ雪根さんに似たと言われる方が万倍マシなんだが、雪根さんの成績はどうだったんだ?』


「はっはー、咲良も相変わらず聖君の事は嫌いだねぇ、まぁ歳的には反抗期真っ最中だろうし仕方ないと思うけど。でも残念ながら成績勝負では断然聖君のが上でしたー!雪根ちゃんも良い方だったけどねー」


『悪くは無かったんだろ?なら俺の頭は雪根さんに似たって事に俺の中でしておこう。そっちのが精神衛生上良い』


 文字を書きながら俺は無意識の内に深呼吸をする。桜夏の一件を調べている最中に浮き出た親父の尻の軽さを考えると、似ているなんて言われる事が恥なような気がしてならない。更に昔を掘り起こせば両親どちらに対しても嫌悪感はあるが、まだ雪根さんに似ていると言われた方が、まだダメージは少ない。


「にしても本当にハイスペックだよねー…咲良って。剣道?はメチャメチャ強かったし絵も描けて勉強も出来るだなんて…。逆に何が出来ないの?」


『自分から弱点を露出するなんて真似をする気は無いんだが…。まぁ真っ先に挙がるのは料理だな。これまでの人生で一切成長しなかった』


「あ、普通にダメな所あるんだ。でもそれは能代ちゃんがカバーしてくれるから問題無さそうじゃん。もっとどうしようもないのを晒してよ!」


 俺としては本当に致命的な問題だと思っているのだが、橘には些末なものだと一蹴されてしまう。一年以上独り暮らしをしていた時期があったと言うにも拘らず全く伸びなかった時には本当にセンスを感じなかったもので、この先の将来が不安になった程なのだが。これ以上のものを言えとなるとそうパッと出てこない。


『他にはゲームとかも苦手だな。前に矢矧の相手をさせられた時には勝負にならなかった。あと苦手と言えば水泳系も得意じゃない、カナヅチと言う程では無いがどうにも水の中の勝手が分からん』


 橘が不満な様子だったので、とりあえず他にも自分で思いつく短所を上げ連ねてみる。我が事ながら割とボロクソに言ったつもりではあるが、これでも橘的には足りないらしく頭上からは不機嫌そうな面で見下ろしてきている。


「なーんか別に全部回避できそうな感じの欠点でつまんない……。もっとどうしようもないのとか無いの?咲良」


『お前に面白味を提供する為に生きてるわけじゃないしな…。それにどうしようもないものが自分で分かってるなら治そうとするか上手い事回避できるように生きるだろ。大体は自分で分からないからどうしようもないものだ』


 ここまで書いた所で、俺は一息つきながらシャーペンを置く。もしこれで横に能代がいるのならば一発なのだろうが、個人ではこの当たりが限界である。寧ろこの幽霊は俺の欠点について何かないのだろうか。


『お前は俺の欠点とか何か思いつかないのか?出会ってそろそろ十日ぐらい経つしある程度は見えてるんじゃないのか?』


「えっ、…そこで私に聞くの?……うーん。咲良の欠点ねぇ…、なんか言われるとパッと思いつかないなぁ……逆に咲良は私の短所とか長所って言えたりする?」


 俺が何となく質問をすると、橘は答えに窮した結果質問で返してきた。もう少し頭は使えなかったのだろうかと思わず目頭を抑えてしまったが、その動作の間だけでも口煩い事や知識の偏りやお節介焼きなどボロボロと短所が俺の脳内で列挙される。ちらりとタイマーを見れば残り時間は三十秒弱であったので、この辺りで筆談を切り上げることにした。


『一分じゃ書ききれない程度にはパッと思いついたな。また後でな』


 読んだ瞬間に憤慨した橘だったが、それとほぼ同時にアラームが鳴りだす。荒れている橘を放置して木ノ崎の様子を確認する。先程の回収時はただのしかばねの様な状態であったが今度はどうであろうか。筆談でそちらに気を回せてい無かった為、若干心配をしていると案の定先程とほぼ変わらない机に突っ伏した状態で木ノ崎は項垂れていた。


「無理……無理…、名蔵先輩はドS…はっきりわかんだね………」


 強いて違う所を言うなれば体が痙攣しているかの様にビクビク小刻みに震えているのと俺への悪口に拍車がかかった程度か。そんな感想を抱きながら俺は席を立ち再度紙を回収する。


「甘やかしても伸びないからな。こんぐらいが丁度良いだろっと…。ん、今回はパッと見そこそこ解けてるんじゃないか?」


 あの状態を見た瞬間は今回も期待は出来そうもないと思っていたが、各式の最後の方を見ると大体合ってそうな雰囲気を醸し出していた。まだ二回目だと言うのにこの感じなら次辺りで全問正解になるだろうかと期待しながら赤ペンを走らせる。前回合っていた問三から丸付けを始めて、残りを上から順に採点していく。


「……初日からずっと思ってたんだけど、なんでわざわざ一回解けた問題まで何度もやらせるの?理由なくない?」


 問二までの採点を終わらせて四に行こうとした際、俺の勉強方法に疑問を持っていたらしい橘が聞いてきた。二択とかならまだしも採点中に理由を質問されても答えられるわけが無いので、俺は右手の人差し指と中指で肩を二回叩く。これを見た橘は一瞬だけムスッとしたが状況的に答えられないのを分かっていたのかそっぽを向いた。今の動きは前に奴と取り決めたハンドサインの一つで、意味合いは「後でな」である。


「…おぉ、結構良い線行ってるじゃないか」


 粗を見つけようと何度か見直したが、間違っていたのは一番難しく設定した問四だけであり他は全部合っていた。初日ならば速攻で諦めるレベルの問題群だった筈なのだが、これは偏に木ノ崎の地頭の良さだろう。四日間で良くここまで伸びたものだと感心した。


「ほれ、問四以外は全部合ってたぞ。その問四も凡ミス程度だからすぐ終わるだろ。これが解ければ終了だ」


 俺がヒントを書くまでも無さそうなミスの所だけ指摘をしてやりもう一度白紙の紙とセットで渡す。受け取った木ノ崎はエビ反りになりながら頭を抱えて悲鳴を上げたがそれも一瞬。すぐさまもう一度問題を最初から解き始めた。その姿を確認した俺は一息ついて背もたれに寄りかかる。そんな気が緩んだ際に、ふと風紀委員室の外から誰かの気配がした気がした。


とある一件で人の気配には一般的な人よりは鋭くなってしまったが、四谷さんなどの歴戦の兵隊であるマハーカーラの人間に言わせれば毛が生えたようなレベル。自分に対して敵意が向いていればまだしも、その辺を歩いている人間の気配を辿るのは自信が無い。そんなこんなで部屋の壁越しに廊下の方を睨んでいると、木ノ崎も何かに気づいたのか俺の顔を見て口を開いた。


「あー、確かに誰か来てますね。でもどーせこんな時間に来ちゃうような勤勉なアホなんて達哉位ですよ。池上先輩は基本十時の十五分前くらいに来ますし、それ以外の人だったら別に気にする事無いですよ。そもそも、その池上先輩も俺の勉強見て貰う為に名蔵先輩をここに呼んでるの知ってますし」


 俺の考えている事が分かったのか木ノ崎は軽口を叩きながら鉛筆を動かす。今木ノ崎が口にした直哉というのは木ノ崎のクラスメイトの厳島達哉の事である。木ノ崎の勉強を見る前には剣道部のイザコザで顔だけは見た事がある程度であったが、ここ最近は、木ノ崎が言った通り普通の集まる時間より早めに顔を出す為よく顔を合わせている。俺よりも図体が大きいので並ぶと自分の方が下級生に見えてしまう。最も、礼節はきっちり弁えているので俺に対しては物腰が低い。勝手に来ているのは自分の方なので気を使われると逆に申し訳無くなってしまうのだが、どうやら性分らしい。そんな相手に気を使わせるのは申し訳がない。


「……耳が良いんだか気配に敏感なんだか…。どの道厳島だったらここに陣取っているのはマズいだろう。席を開けなきゃな」


 俺は言いながら広げていた紙類を乱雑に纏めて席を立ち、尻を置いていた部分を手で軽く払う。そうこうしている内に足音がだんだん近づいてきてドアが開かれて外から大柄な男が入る。失礼します、と頭を下げながら律義に挨拶をして男はこちらに話かける。


「お早うございます名蔵先輩。連日の監督役、お疲れ様です」


「ん、早いな厳島。悪いがまだ木ノ崎のノルマが終わってない。もう少し邪魔するぞ」


「気にしないでくださいよ。徹の個人勉強会は元々池上委員長が行う所を、本人の我儘で名蔵先輩を巻き込んでいるので先輩は立派な客人ですよ。寧ろ池上委員長が匙を投げた問題児に毎日勉強を教えるなんて頭が下がります。…ですのでそんな気を使わなくても良いですよ?」


 俺が厳島に詫びを入れると、逆に彼は苦笑しながらそう返してきた。彼が部屋に入る時にはギリギリ椅子から離れていたのだが、彼の目線はしっかりと俺と自分の椅子を交互に見ていたので俺が立っている理由は気づいているのだろう。気を使わない皮肉屋の木ノ崎と友人関係でいるのが本当に不思議な程気配りが出来る男だと感心しながら、俺は肩をすくめて厳島に返事をする。


「席の主が来たってのに腰を据えられる程俺は不躾な人間じゃない。それに、確かに席を離れたのはお前が来たからってのが主だが、それだけじゃない」


 そう言って、俺は鞄を担いでスタスタと木ノ崎の後ろに移動して腕を組みながらニヤリと笑う。


「こっちのが鬼教官っぽいだろ?」


 俺の冗談に厳島は違いない、と笑いながら自分の席に移動して荷物を下ろす。


「うわああぁん……背中から視線を感じるぅ…俺の背後に立つなぁー…」


「お前はスナイパーかよ……」


 位置を変えた俺に対する文句か、木ノ崎はペンを動かしながら泣き言を口にした。文句のチョイスが些か古臭いような気もするが俺も適当にツッコミを入れる。この手のギャグを無視すると大体不貞腐れるのはこの四日間で分かっている。分からないものはしょうがないが、分かるものは拾ってやらなければ奴のモチベーションに直結する。何とも面倒臭い話だ。


「いや、気分的にはパルバトスだったんですが…あーでも名蔵先輩はゲームやらないんでしたね」


「いや、ゲームやってたとしても同じゲームをやってる確率なんて相当低いだろ…何でもやるじゃないか、お前って」


「うるしゃー!細けぇこたぁ良いんだよハゲ!」


「誰がハゲだコラ」


 俺のツッコミが的外れだったのか、木ノ崎は首を傾げながら何かを呟き、それを厳島が冷静に拾っていた、内容ももっともな意見である。俺がそう思いながら頷いていると橘も二人の会話を聞きながら感慨深そうに呟く。


「本当にこの二人は凸凹コンビって感じだよね…。身長と言い物腰と言いで、何で気が合うんだろうね?」


 橘の問いに声を出して返すわけにもいかないので、俺は肩をすくめるような仕草で答える。俺としても知り合って数日の人間の仲なんて分かる訳が無い。それよりも木ノ崎の口が動いてしまっている所為で手が動いていない方が問題である。


「オラ木ノ崎、さっきから手が止まってねぇか?五問中四問が解き方わかってるからってのんびりしてると制限時間が来ちまうぞ」


 腕を組み直して木ノ崎を注意すると、木ノ崎は気の抜けた声を出しながら空いてる左手をヒラヒラさせながら口答えをしてきた。


「だってだってー、さっきの解答だって要はただの符号ミスだったじゃないですかー。あんなのちょいと式確認すれば防げる程度ですし、てことは考え方自体は間違ってなかったワケで。イージーゲームっすよ、もう………ッと!これでお終い!どうっすか⁉」


催促に対する反論をしながらも高速で筆を動かした木ノ崎は一気に答案を書き上げて、シャーペンを叩きつけながら俺に勢い良く渡してきた。存外厳島と喋りつつも真面目に解いていたらしい。意外と思いつつ立ちながらの採点は難しいので厳島の横の席を借りて丸付けをする。


 とは言え、これも形式上の物なのは厳島以外の人はある程度分かっている。先程はただのケアレスミスでそれを今回に引きずるとは到底思えない。ましてや他の四問は既に答えが分かっているので式の時点で間違えていようなら答えにズレが出る筈。気づかないと言うのはあり得ない。もはや消化試合である丸付けをのんびりやっていると、厳島が問題をしげしげと見ながら嫌そうな声を出して感想を漏らした。


「…こんな問題を毎日、徹は解いてたんですか?もっと基礎的な勉強をしていると思ってたのですが」


 この厳島の呟きによって、一度は黙殺した木ノ崎の不満が再度爆発。俺が半目で丸付けをしている所に木ノ崎が我が意を得たりと捲し立てる。


「そうっすよ!俺さっきも言いましたけど、今回の勉強会は赤点対象者の補習をサクサク終わらせられる程度の勉強が出来れば良かったんですよ!何すかコレ!問題集でも見た事無いような頭悪悪な問題ばっかり毎日毎日完全に解けるまでやらせるとか、新手の拷問ですか⁉発狂しますよこんなの!とっくにSAN値振り切ってますって!」


「なんだ?俺の教え方が不満か?」


 良く分からない単語を織り交ぜながら喚く木ノ崎に対して、俺は丸付けの終わったペンのキャップを閉めながら軽く圧を掛ける。木ノ崎からすればあくまでも頼んだ側な以上、教え方に不平不満があるとは言い辛かったのだろうが、厳島でも若干引いた姿を見ておかしいと確信が持てたのだろう。とは言えこちらも相手のオーダーを踏まえての、この教え方なので反論をさせる気は無い。そう言う意味も込めて俺は覇気なく木ノ崎を睨む。大した眼力は入れてなかったのだが、俺の態度が怖かったのか木ノ崎は若干ビクリとしながら視線を泳がせる。すると、木ノ崎に追い打ちをするように予想外の所から俺を擁護するような発言が飛んできた。


「見苦しいぞ木ノ崎。お前が不甲斐無いからわざわざ名蔵君が勉強を見てくれていると言うのに、些か態度が悪いのではないか?」


 野太く力強いその声の主はこの部屋には存在せず、呆気に取られるのも一瞬。全員がドアの方に顔を向けて固まってしまった。そしてすぐに扉が開けられて、外から大柄で風格が漂う男子生徒が室内に入ってくる。厳島と同等程度に体が大きく、最上級生を表す緑色の刺繍。胸元のボタンをだらしなく開けている木ノ崎とは違いこの酷暑の中でも風紀委員らしく身なりを完璧に整えた人なんて彼くらいのものだろう。


 彼の名前は言わずもがな、風紀委員町の池上正国先輩である。この風紀委員のトップでありこの学園の風紀そのものである。いつもだったら風紀委員の活動が開始する十時の十分前に来るという木ノ崎の話を聞いていたのでかち合わないようなタイミングでこの部屋を出ていたのだが、今日はいつもより早くこちらに来る用事があったのだろうか。


「勉強は日々の積み重ねが実を結ぶものだ。一週間やそこらで学力を上げて欲しい、なんて烏滸がましい発言に対して真摯に向き合ってくれた名蔵君に感謝こそすれ文句など言語道断。木ノ崎は失礼が過ぎると省みるべきだ」


 どこか芝居がかったような口調で窘める池上先輩の声で、木ノ崎と厳島の二人は跳ね上がり敬礼をする。さながらそれは軍隊のそれに近いものを感じた。


「お早うございます池上先輩!朝早くからご苦労様です!」


「おはざっす池上先輩!今日も一段と皮肉が効いてて我辛な感じですが、それはさておき些か早すぎやしませんかね⁉こんな時間に何しに来たんですかっ!」


 片や生真面目すぎる程な挨拶を、片や敬意の欠片も感じさせない嫌味を敬礼しながら口にする二人は、本当に同学年かと疑いたくなる程にかけ離れ過ぎていて聞いている方が頭痛を起こしそうであった。そんな二人の態度を見て、片方が嘆かわしく感じたのか溜息を漏らす池上先輩。そんな空気が弛緩したタイミングを見計らって、大きな姿の影からひょっこりと見知ったクラスメイトが顔を見せた。


「私が誘ったんだよ~、キーノッ」


 緩そうな口調でそう喋った彼女はヒラヒラと手を振りながら木ノ崎の元に駆け寄り、頭を抱きかかえるとそのまま木ノ崎の横の席に座り込んで膝枕の体勢でホールドをしていた。この間僅か4秒程。正に愛の為せる業であると呆れを越して思わず感服してしまう速度だ。最も、こんなものを見せられても端目で見ている外野としては近寄り難い雰囲気に圧されてしまうのだが、何がともあれ木ノ崎を驚く暇も与えず捕獲した女子生徒に、俺は後頭部を掻きながら話しかける。


「……朝から随分と見せつけるもんだな、湖宮」


 とりあえず、俺は皮肉交じりの挨拶を相手にする。今、鏡を見たら確実に苦虫を噛み潰したような顔をしているであろう事は間違いなく、ちらと上を見れば橘も嫌そうな顔をしていた。そんな俺(達)の方を、緩んだ顔から一瞬で不機嫌そうな顔に変えながら湖宮と呼んだ女子生徒が露骨な態度で返事をする。


「そうだよー、折角キノに勉強を教えるって名目でデートに連れまわそうとしてたのに名蔵君が私からキノ盗っちゃうんだもん。こういう空いた時間を縫ってキノ成分を補給しないとねー」


 口調こそ緩々だが明らかな敵意を向けながら彼女はこちらに嫌味を多分に混ぜ込んだ文句を垂れる。意訳をすれば堪能しているのだから話しかけるな、と言った所であろうか。急に現れては我が強い事だと、俺は目を逸らせて鼻を鳴らしながら諦める事にした。


 彼女の名前は湖宮水那。品行方正かつ成績優秀な学生の鑑を体現しており、実際にこの学園では長らく出なかった二年生での生徒会長を今年は務めている。教師からの信頼も厚く、人望もあり見てくれも悪くないとなれば高校生活に不自由など出るわけが無く、遠目で見れば随分と楽しそうな生活を送っているだろうと思える。


「ホントーにこの子胡散臭いよねぇ…あの木ノ崎君も何か手籠めにされちゃってる感が否めないし」


 腕力では無く精神的な拘束を食らっている木ノ崎の方を見ながら橘は目を細めながら愚痴を漏らす。流石は前に橘との世間話でここまで会った人達で好みはあるかという話をした際に「あの娘だけは無理かも」と言わせただけあって中々に辛辣な言い方である。見えて無いから良いものを想えるが、俺も内心は似たような印象なので黙っているが。


「お前がそうやって甘やかしそうだから手を貸してやったってのに…。感謝されこそすれ嫌味を言われる筋合いは無いな」


「イヤ、名蔵先輩!その救いの手、現在進行形で必須なんですけど!勉強よりもタイムリーに今ピンチなんですけど!ハリーアップ!先輩助けてー!」


 頭を撫でられながら顔だけは必死の形相でこちらに助けを求めてくる木ノ崎。正直、助けてやるのは簡単なのだがそれを行った場合、玩具を取り上げられた駄々っ子が何をしてくるか全く分からない。そして俺が丸付けをしていた木ノ崎の答案は見事な全問正解で、そうなると俺としては木ノ崎を見捨てる理由は無いが木ノ崎を助ける必要も無い、と言う宙ぶらりんな状態であり、それならばむやみやたらと神に触る事も無いだろうと両手を肩まで上げながら見殺しの意を示した。


「残念ながら今回の答案は百店満点だ。今日のノルマはもう終わったから勉強の時間は終わり。後は好きにして良いぞ」


 最後の付け加えた一言は果たしてどちらに向けていったのか自分でも分からないニュアンスになってしまったが、木ノ崎の方は死刑宣告を食らったかのような悲壮感を、湖宮の方は満足気に頷きながら鞄からお菓子を取り出し木ノ崎に餌付けを始めようとしていた。


「ジーザス!レ・ミゼラブル!聞こえてくるは楚の歌ばかり!あぁ、どうして一問ワザとミスらなかったんだ俺ってやつぁ……あたしってホント馬鹿」


「寧ろ喜ぶべき所な筈なんだけどねー…タイミングって怖いもんだ」


 俺としては英語もロクに出来ない奴がレ・ミゼラブルなんて単語を良く知っていたと木ノ崎の偏った知識に突っ込みを入れたい所であったが、俺が何かを口にする前に橘がぼやき、湖宮が与えた花林糖の所為で木ノ崎は口を塞がれてしまったので会話は終了。食虫植物に捕らえられた木ノ崎は放っておいて、俺はもう一人の来訪者、というには俺の方が場違いである事は百も承知なのだがこの部屋の首領の方へと意識を移す。


「…仲が良い事に対して何も言う事は無いのだが、もう少し場は弁えて欲しいものだな。あんな姿を一般生徒に見られた日には新聞部が押し寄せる事になる」


 俺の視線に気づいたのか、池上先輩はこちらを一瞥したのち二人だけの世界を作ってしまった湖宮達への感想を述べて、さて、と前置きをしてこちらに話しかけてきた。


「あの二人についてはもうどうしようもないだろう。会議の開始時間になれば流石の湖宮君も席を外してくれる…と言うよりは生徒会の方に戻らざるを得ないであろうからな。それまでこちらはこちらで歓談でもしようじゃないか」


 普通、あんな姿を見せつけられては良い気はしないであろうものを、池上先輩は冗談めかして場を和ませる。俺の隣に居た厳島でさえも引きつった顔をしているものを、こうも流せるのはやはり器量の広さが違うのだろう。


「…とは雖も、俺みたいなはみ出し者が池上先輩と話が出来る事があるのか分かりかねますが」


 しかしながら、器が大きい人を見ると半端な自分が浮き彫りになってしまうと言う物。自分の様な学園の悪童に風紀委員町が話をする事なんて指導くらいしか思いつかないのが悲しい所であり、夏休みに入ってからの自分の行いを鑑みると随分とやらかしているような気がするので、口は軽いものを叩きながらも内心は何を言われるかと焦っていた。


「そう卑屈になる事など無いさ。実の所、私が今日早く来た理由は名蔵君と話がしてみたかったからと言うのが大きい。風紀委員としてもそれ以外の私的な場でも、君の名前をよく耳にするからね。純粋に興味があった…なんて言うと失礼だろうか?」


「……御冗談でしょう。俺と池上先輩の接点なんて殆ど無いでしょうに」


「そうでもない。人と言うのは知らない所で意外な繫がりがあるものだ。例えば私がよく君の名前を聞く相手は四谷先生と甲月君…と言えば、君ならどこだか分かるだろう」


「甲月に、四谷先生って言ったら……」


 池上先輩の口から出た二人の苗字を聞いて俺は思わず首元を掻きながら固まってしまった。甲月なんて苗字はそう居ないであろうし、「四谷先生」なんて教師はこの学校に居ない、と言うより「四谷」を名乗る家系はこの紫咲に一つしか存在しない。そんな苗字の二人と出会う事がある場所なんて、あそこしかないだろう。


「…まさか池上先輩が四谷道場に在籍しているとは。いつ頃から通ってらっしゃるんですか?」


「三年ほど前からかな。中学の頃に心身共に鍛えようと四谷先生の道場門を叩いてね。ついこの間漸く黒頭巾を貰えた所だ」


「黒って……上から三番目じゃないですか、さらりと言える事じゃないですよ」


「影の師範代なんて呼ばれている君からすれば霞んでしまうだろうさ」


 謙遜しながら朗らかに笑って喋る池上先輩とは裏腹に、俺の顔は驚きと共に眉を潜めていた。


四谷道場では頭に巻く頭巾の色で階級が分かれていて、橙・黄・青・緑・黒・紅白、そして紫陽花の刺繍がされた頭巾の『紫咲』で計七つに分かれている。大多数の門下生は練習する型を決めたばかりの黄色や純粋に体を鍛える事を主としている橙色の頭巾を付けていて、そこから先を取るのは相当な修練が求められる。それ程までに道場での求められるレベルが高いのである。一応、初伝で青色、中伝で緑、皆伝で黒頭巾と階級が上がるのだが、はっきり言えば青頭を取れただけでも羨望の目で見られ、黒頭巾を手に入れたとなれば周りに人間として扱われないだろうと言う程だ。まして、四谷道場で表向きに教えられる四つの型をすべて収めた証である紅白なんて都市伝説レベルであろう。自分が在籍していた時期にそこまで到達したのは一人しかいなかったし、自分が道場を辞めた後の数年で簡単に取れるモノではない。それは黒頭巾を取った池上先輩だってよく知っている筈。そんな人が自分に向けて影の師範代、なんて怪しい称号で呼んできたと言う事はそんな風な呼び方を誰かがしている事になる。そんな奴、一人しか居ないだろう。


やれやれと言わんばかりに頭を掻きながら、俺は呆れたように犯人の名を口にする。


「……その感じですと甲月のアホが色々と誇大表現で吹聴してそうですね…。今度会った時にシゴいてやらないと」


「誇大しているなんてそれこそ自分を下げた発言であろうに。四谷道場最古参の第一期生であり歴代門下生で唯一『紫咲』に届いた男。それ程までに強い人間が道場内で殆ど噂にならないのも不思議な話だと、逆に私は思うがね」


「………本当に詳しい事で。当時の話なんてそれこそ誰も知らないでしょうに」


 すこしばかりおどけて話を逸らせば終わるかと高を括っていたが、どうやら池上先輩は俺の想像以上に俺の門下生時代の話を知っているようであった。カマを掛けられている可能性も考えたが、先輩が自分で口にしている言葉への自信があまりにも前面に表れているのでその疑念も掻き消えてしまった。恐らく四谷先生か、師範代で四谷先生の息子である篝さんが世間話のノリでうっかり喋ってしまったのだろう。


「なになに?やっぱり咲良ってメチャメチャ強かったの?まぁ今までの動き見てて分かってはいたけどさ」


 そして、この辺りの話をひた隠しにしてちょっと喧嘩が強い程度の認識で誤魔化していた橘にはばれてしまい散々な状態である。これで次からの雑談で追及される内容に道場の事が追加されてしまった。わりとこの辺の話は世間話で話すのが面倒な部類なので避けたかったのだが、聞かれた場合にはどうやって話をしたものかと考えながら俺は肩をすくめて話を続けた。


「…確かにあの道場でヤンチャしていた時期も確かにありはしました。その頃の話を池上先輩が知っている事には大層驚きましたが…。それとは別に、影の師範代って何なんですか?俺は師範代なんてやった事は無いですよ?」


「それは噂が噂を呼んでしまった結果と言った所だろうか。元々四谷道場には本館から少し離れた所にある小さな離れには近寄ってはいけないと言うルールがあり、前々からその理由に対して様々な憶測が流れていたのだが、甲月君が離れには鬼神の如き強さの男が居る、なんて真剣に語ってしまい、それを曲解して受け取った人達は四谷道場には余りの強さで隔離された鬼がいると言う噂になってしまった。そして、それとは別に一部の人間から広まってしまった『師範代』と書かれた木札の裏側に名蔵君の名前が書かれていると言う話と合わさって、四谷先生の息子である篝師範代より強い影の師範代と言う話が出来上がってしまった、と言う流れさ」


「…………訳が分からん……どうして俺の札がまだ残っているんだか…、ああいうのって辞めた際に捨てる物じゃないんでしょうか?それに甲月の奴もいらん事を口にしやがって…」


「いつでも戻ってこられるようにと言う配慮であろう。黒頭巾を貰った時に四谷師範と食事をする機会があったのだが、そこで名蔵君の話になった時に言っていたよ。一番弟子であり現状最も自分の後継者に相応しい存在だとね」


「…もう勘弁してもらえないでしょうかね……。自分の与り知らぬ所で勝手に持ち上げられていると尻が落ち着かない。所詮俺は道場も勝手に辞めた半端者のただの狂犬ですよ」


 居住まいが悪くなるような話ばかりで恥ずかしくなり、左手で顎を触りながら言い放つと、それこそ間違いであると池上先輩は俺の言葉を否定してきた。


「名蔵君が道場を辞めた理由が半端者だったからでは無いのなんて知っている人は知っているさ。それは君が学園で呼ばれている狂犬なんてあだ名も同様だろう。君を勝手に恐れた人間達が勝手に付けた呼称なんて、それこそ気にするものでは無いと私は思うが、どうだろうか」


「そうは言っても、どうせ風紀委員で作られているブラックリストのトップは今年も俺でしょう?」


「あんな形だけの物はそれこそ誰も気にしていないさ。四月の頭に皆には目を通させてはいるがそんなものを気にして見回りをしている者なんていやしない。…一部の風紀委員に至っては存在そのものをすっかり忘れていたらしいからな」


 言いながら、池上先輩はちらと木ノ崎の方を見やる。視線を感じた木ノ崎は下手くそな口笛を吹きながら顔を背けて、その行為がキスを求めていると勘違いした湖宮にポッキーゲームを迫られていた。見ている分には完全にギャグだが、本人にとっては必死そのものなのだろう。咥えさせられていたポッキーを凄い勢いで首を振る事で圧し折っていた。それを見ていた三人と幽霊一匹全員で笑い、そんな時にふと気になった事があったので俺はそれを聞いてみようと池上先輩の方に顔を向けた。


「そう言えば、池上先輩は中学からのエスカレーターでしたね、道理であの時の事まで詳しい筈だ。…そうですね。ならば先輩に一つだけ聞いてみたい事があるのですが宜しいでしょうか?」


 俺の言葉に、おやと笑みを浮かべたまま首を傾げた池上先輩は聞こうとしている事が真面目な事であると雰囲気で理解したのか神妙な声で対応してきた。


「勿論。生徒の悩み事に同じ目線で一緒に考える事も立派な風紀委員の職務だからね。私で答えられる事ならば協力は惜しまないさ」


「…そうですか。ならば遠慮なく」


 少しだけ緊張で乾く喉を抑えるようと俺は咳払いで誤魔化し、意を決し池上先輩に訊く。


「一年半前の俺の行動は、間違っていると思いますか?」


 実の所、これを他人に訊くのは大分勇気のいる事だったのは言うまでも無い。あの日の決断が第三者から見てどう思われているのか、それを知るのが純粋に怖いと言う感覚は拭えず、ましてやそれを聞くのが学園での公平性を保つ人間となれば、聞いた後に生唾を飲み込んでしまう程度には緊張しても仕方がないと自分に言い訳をする。どちらかと言えば恐怖であろうか。あの時の選択を否定されるのが怖いのではない。これだけの時間が経つにもかかわらず未だにあの決断の正当性に疑問を覚えて、どっちつかずの自分が居ると言うのが一番怖いのだ。どうせ自分の知る人達に聞いた所で贔屓目の答えしか返ってこないのが分かりきっている。だからこそ池上先輩の様な人にバッサリ言って欲しかった、なんて考えが頭の中にあった。この人ならば、きっと適切な批評をしてくれるだろうと思っていたのである。


 俺の一言で池上先輩は軽く腕を組んで軽く目を閉じて相槌を打つ。先程まで続いていた話の延長戦とは言え急に出したシリアスな話題を感じ取ったのか、楽しそうに聞いていた厳島や遠巻きで捕食されていた木ノ崎、そして頭上から時々会話に反応していた橘も黙ってしまい風紀委員室は静寂に包まれる。そんな暗い雰囲気になられると、それはそれで困るのだが、何て考えていると不意に池上先輩が口を開く。


「一年半前と言う事は、聞かれている話は鬼退治の話だろうか」


「ええ。鬼の共食いの話ですよ」


「……鬼退治?鬼の共食い?」


 それだけ聞くと、また池上先輩は短く頷き目を閉じる。聞き慣れない単語に橘が少しだけ反応を示したがそれに対して説明をするわけにもいかず無視をする。どうせ二人になった所で話す気が起きる内容では無いのでもしかしたら一生の悩みになるかも知れないが、すぐ忘れるだろう。俺はそんな橘から意識を逸らし、池上先輩の言葉を待つ。確認を取ると言う事はあまりにも馬鹿らしいことを聞いた故の確認か、はたまた数ある俺の前科から特定する為の物か。どちらにせよ褒められた事では無いが、何と言われても受け止める覚悟をして池上先輩の方を睨むような目で見つめた。そして、俺の決意からやや時間が経ち、心内が決まったのか池上先輩がふと口を開いた。


「ナンセンス、この一言に尽きるだろうか」


「…………そう、ですよね」


 正直な所、何を言われるかは実際に聞くまでは予想できたものでは無かったが、実際に池上先輩が口にした言葉が耳に入った瞬間に、やはりという言葉が真っ先に頭で浮かんでしまった。分かりきっていた事だが、池上先輩もこう言っているのだから俺の取った行動は、俺が掴んでしまったモノは間違っていたのだろう。


池上先輩の言葉から思い返されるは中学あのころの日々、俺が居る事で台無しにしてしまった三年間。夢で見る度、道端で且つての同級生によく似た顔とすれ違う度、何かしらで思い出す度に考える事は一つ。俺さえいなければ。全てはこの言葉に終着するのである。


だが、そんな諦観で埋め尽くされた物思いに耽っていた所で、池上先輩が怪訝そうに話を続けてきた。


「ん?…もしかして名蔵君は私の発言が鬼退治に対しての見解に聞こえてしまっただろうか。それだったら申し訳ない。言葉が足らなかったようだね」


「…はい?」


「今のナンセンスは鬼退治と言う行為が馬鹿らしいものと言った内容では無い。自分みたいな第三者があの一件に対しての言葉を紡ぐこと自体が詮無き事だと言う意味合いだったのだが…、いかんね。話を端折るのは悪い癖だと自覚はしているのだが」


「あの…それは一体どういう……?」


 話が予想外の方向に転がりそうな気がして首を傾げる俺と、同様の態度で首を捻る厳島。こちらは完全に話についていけてないからなのだが、この辺りの話は完全に私情なので説明が出来ずに申し訳が無い。


「その…。今の話に出ている鬼退治って言うのは何なんでしょうか?」


「彼の起こした行動の、英雄的側面を切り出した場合の呼び名だよ。私は話を外から大雑把に知っている程度の人間ゆえにこの言葉しか使えないが、当事者やもっと近くから見ていた人達からすれば、また違った呼び方になるだろう。私と名蔵君が同じ事に対して言い方が違うのは、即ちそう言う事だ。内容に関しては……」


 説明をしながら横目で俺の方を見やる池上先輩に、俺は難色を示すように目を逸らす。普通なら伝わらないであろうが先輩は理解できたらしく微笑を浮かべた。


「その辺りはデリケートな部分が多いからな。当事者が目の前に居て第三者が口にするような事でも無いだろう。まして本人が話す気が無いのならば尚更だ。その辺りの事情を執念深く嗅ぎ回っている不届き者も居る事だしこの話はここまでにしておこう」


「あのアホはまだ調べ回ってるのか…」


 二人して木ノ崎の方を見ると、奴は全力で目線を逸らそうとして上を向いたら会長と目が合ってしまい暴れていた。ともあれ、池上先輩が機微を考慮してくれる人で助かったという所であろう。


 俺がホッと胸を撫で下ろすと、池上先輩はおもむろにポケットの中から百円玉を一枚取りだして、先程の言葉を説明しだした。


「コインには裏と表がある。この硬貨は社会で流通している物ゆえにどちらの面が裏か表かなどは定義されているがこれが創作オリジナルだとそうはいかない。今回の話はそれに似ていると考えるね。私はあの一連の事件と言うオリジナルのコインがあるのは知っているがその内容、この例えで言うとどちらの面が表かなどは分からない、そんなものは当事者コインをつくったもの達しか分からない話だろう。そこまでを踏まえて、あの一件を知ってはいるが何も知らない人間が評価を口にするのはナンセンス、筋違いだろうと私は思うのだが、どうだろうか」


「……けれども社会一般で見てあの時の行為は誰にも認められるモノではございませんでした。一人の為に他の全てを地獄に叩き落とすような傲慢、しかも当の本人は何事も無かったかのように毎日を過ごしている…。今でもよく考えますよ。あの時、俺一人が犠牲になればもっと丸く…」


「偽善的だな。そしてとても日本的な考え方だ」


 収まっていた。そう言い切ろうとした所を池上先輩は遮って一言、そう言い放った。


「多数決の論理、そしてその中に含まれる自己犠牲の精神。どちらも民主主義であった日本の社会システムが生んだ考え方であろう。これ自体を否定する気は微塵も無いが…、今我々が住んでいるこの場所では日本では無く紫咲だ。多数決を否定して生まれた国に籍を置いている中で、ましてやあの方の一番弟子がそれを説いたのは…名蔵君本来の優しさ故だろう。そういう所も四谷先生は評価していたからね。…けれどもこの話をしていくに当たって直していくべき個所はそこだろう」


「直すも何も…俺が優しいだなんてそれこそ偏見です。俺はそんなに出来た人間じゃないですし、自分の為にしか動けない人間で」


「そこだ。名蔵君は自分に対しての賛辞を偏見と切り捨てがちな気がするが、私からすればそれこそ偏見だと言わせてもらおう。君の自己肯定感が極端に低い傾向にあるのは今まで歩んできた人生を人伝に聞いただけでも仕方が無い事だと思えるが、それにしてももう少し自分の事を良く見てあげてもいいのでは無いか?名蔵君は自分で思う以上に優しいし人の事を考えているだろう」


「あ、それは私もそう思ってるよ。咲良って自分勝手みたいなフリしてるけどその実相手優先で動いてるじゃん。あれで自分の為にしか動けないとか言うんだったらもうそれ精神病だよ、利他主義もそこまでいくとさ」


 池上先輩の話を聞いて久々に橘が口を開いて同意をする。二週間弱の浅い付き合いでもこう言われてしまうとは若干悲しいものを感じるが、なんだかんだ言って人の事を良く見ている橘でもこう言うのだから、四谷先生から話を聞いていたり中学時代の俺を欠片でも知っていたりする先輩ならば断言できる筈だ。


「君が行ったアレは、自分が救われたいが為に行動したものでは無かった。今ここに名蔵君が居るのはただの結果であり予想外の結末だったのは君の人となりを知っていれば推測できる。全ては、一人の女の子の為に、君は自身をくべた炎で全ての悪を焼き尽くした。その結果、たまたま残ってしまった炭のだとね」


「…………さっきは概要しか知らないみたいな言い方してたような気がしたんですけど、気のせいでしょうかね?」


 俺のボヤキには朗らかに笑うだけの池上先輩。今の誤魔化し然り、最後の例えからしてもこの分なら俺が注釈を付け加えるまでも無い程度には知り尽くしていそうだ。


「最も、君がこの学園を辞める事にならなくて良かったと個人的には思っているがね。完全な被害者…と君は思っていないであろうが、私からすれば当然の報いと思える連中と一緒に君が堕ちるのは後味が悪いにも程がある。君の話を四谷先生から聞いたのはこの一件の後だったけれども、もし先に知っていたならば少しばかり強硬な手段に出ていたかも知れない。当時は噂程度にしか知らなかったがそう思っていたよ」


「…それはそれで大変な事になっていたでしょうから知られてなくて良かったのかも知れませんね…」


「確かに当時の名蔵君は周囲に助けを求めなかったと聞いている。無理矢理四谷先生が押し売りをしてようやく届いたと語っていた。あれには理由があったのかい?」


「……なんて事の無い餓鬼の戯言ですよ。あの状況で大人や第三者に助けを求めればそれは時分の弱さを証明する事になってしまう。それだけは自分が認められなかっただけです。…その結果、色んな人を心配させたりしてるんで世話無いですがね」


 思い返すだけでも恥ずかしいあの時の自分に対して呆れながら答えると、先輩は、さてな、とはぐらかしてきた。先程はああ言っていた手前、明言し辛い事も多いに違いないので無理に聞こうとも思わず、先輩も話を纏めに入ってきた。


「君は優しさ故に生贄になろうとして、優しさ故に全ての障害をねじ伏せた。手段については幾らかの意見は持ち合わせてはいるが結果について批評する口は持ち合わせていないさ。それでももし君が何か意見を言って欲しいのであれば、私は君の考え方について口を出そう」


 そう言うと、先輩は口にする言葉を選ぶように一拍置いて話を続ける。


「最初に名蔵君が聞いてきたのはあの時行った自分の行為についての是非、次に口にしたのが最適解では無かったと言う自分の意見であった。人は相手に二択を迫る時、既に自分の中で答えは出ているとよく言うがまさにそれだろう。元より君が悔いているのは分かったが、部外者から言わせてもらうのならば不満の残る結果だったのかと疑問を覚えてしまう。アレが最良だったかどうかなんて誰にも分からない。けれども、君が救いたかった彼女が今を笑顔で暮らせているのならば、それは成功していると思えないだろうか?仮に君が言ったように自分が犠牲になったこの学園で、果たして彼女は今を笑顔で生きていただろうか?」


 口元に笑みを含ませながら先輩は話を続ける。その顔はこの先は自分でも分かっているだろうと言いたげな表情だ。


「こと人生においてIFはあり得ない。それは空想の産物であり実在し得ないものだからである。そんなのに現を抜かすのはSF作家か科学者程度で十分。我々一般人からすれば一度進んでしまった時間を戻す事は出来ないのだから、進行形の今をどれだけ良い方向に舵取り出来るかが精々だろう。とすれば、君の持つ悩みは非常にナンセンス。間違っていたか、正しかったかなんてものは数年後の君達・・が決める事だ。それに、例え悪だとしても信じる道を突き進む事の正しさを、四谷先生の一番弟子である君なら嫌と言う程聞いている筈だかね」


「……信義無き善は、信義ある悪にも劣る」


 先輩に促されて俺が口にしたのは、四谷先生が説き続けた悪人マハーカーラとしての信念。世界を一つに纏めると言う大義を抱えてただひたすらに悪徳を積み重ねてきた人間達が垣間見た真理の一端。上面だけの力無き偽善を嗤い、変える為に力を振るい続けた人生の先輩の薫陶があったからこそ俺はあの時、全てを捨ててもアイツを幸せにして見せると誓えた。ならば確かに、先輩の言う通り過ぎた事に気を揉んでいても詮無き事かも知れない。他人に言われなければこんな事にも気づけないとは、やはりこの件については視野が狭くなってしまうものだと感じ、首筋を掻きながら俺は降参の意を伝える。


「流石にいつも生徒の相談を受けているだけありますね、俺みたいな偏屈物の扱いにも慣れていらっしゃる。完全に誘導されてしまいました」


「誘導とは人聞きが悪い。君は最初から正しい答えを持っていた。私はそれを後押ししただけだよ」


 そう言って二人して笑い出すと、聞きに徹していた周りのメンバーがいよいよ理解できなくなったようで、一番傍に居た厳島が耐えきれずに聞いてきた。


「結局、この話って何だったんですか?」


 首を傾げながらそう言う厳島。確かに、今の話は内容を知っている先輩や俺なら理解はできるがそれ以外の人達からすれば呪文の羅列であろう。鬼退治やら英雄やらその他諸々の比喩表現。本ならば注釈での解説が必須だ。とは言え、池上先輩も話した通りこの話は実にデリケートな話である為ぼかし続けるしかない。不誠実と言われても仕方gないな、なんて思いつつ俺はピントのずれた纏め方をする。


「視点が違えば見え方も違うって話だよ。…確かに、些か俺の視野は狭くなっていたようだった。未だに罪悪感の欠片は拭いきれませんが、池上先輩の言う通りあの時の行いを省みるのはアイツに何か言われた後で良いのかも知れませんね。ありがとうございます池上先輩。少しだけ肩の荷が降りた気分です」


「感謝される事では無いのだがね」


 俺が頭を下げながら感謝の意を述べると、先輩は当然の事をしたまでと言った様子で苦笑を漏らしつつも、何かを思いついたように話を続けた。


「最後に蛇足を一つ付け加えさせてもらうとするならば、君が起こしたあの一連の件は他の誰かが出来る物では無いと私は言い切れる。あの絶望の中で光明を見出せただけでも驚愕に値するのに、そこから君は希望を掴む為の永い計画を練り上げる驚異的な計画立案力、それら全てを完璧に遂行する技術と実行力、それまでの日々を耐え忍んだ強靭な忍耐力をもってして勝利を掴んだ。どれか一つでも欠けていれば潰れてしまう様な状況だった筈だ。先程の会話で他にもっと良い選択が出来たかも知れないなんて言っていた気がするが、それは君以外の人間があの状況に置かれた際に唯一選べる逃げの選択肢だ。君が選んだ選択は、君にしか選ぶ事の出来無い、それこそ私や他の学園生には無謀な選択だったと言う事を理解した方が良い。君がやってのけた事は、それだけの偉業なのだ」


「またそうやって持ち上げる……。褒めちぎった所で何も出やしませんよ」


「主観的だが、事実を述べただけさ」


 困ったように言った俺の言葉に対して、池上先輩は最後まで真面目な顔で答えてくれた。俺みたいな人間でも雑にあしらわず真摯に向き合ってくれるあたりが、この人の仁徳なのだろうと改めて理解した所で、ふと思い出したように部屋の時計に視線を一瞬移すと時計の針は十時の十分前を指していた。もう少し気づくのが遅かったら遅刻だっただろう。


「…ん?あぁ、会議の開始時刻なら気にしなくても構わない。まだ全員集まってないからね。大体こんなものさ」


「いや、そう言う訳では…、というより良く時間を見たの分かりましたね」


 視線が逸れただけで気づけると言う点では、流石四谷道場の黒頭巾だと思わされた。一瞬の隙を攻めるのが剣の道、それを見逃さない先輩は道場での教えを高いレベルで物にしている。そんな分析をしていると、横から厳島が俺の懸念を口にしてくれた。


「そう言えば名蔵先輩って最近剣道部の練習を教えてるんですよね。時間を気にしたのってそれですか?」


「そうなのか?」


 厳島としては何気ない一言だったのだろうが、先輩が思いの外食いつきが良くて言った本人が驚いていた。風紀委員としては、部活動中の生徒に部外者が関わりを持つと言うのは褒められた事では無い筈なのでお茶を濁そうとも考えたが、どうせ少し調べればすぐわかってしまう事だろうと、俺は頭を掻きながら肯定する。


「あー…はい。実はこの前の一件で男子部員の奴らからお願いされてしまいまして……日統剣が終わるまでは練習を見てやる事に。…俺としては剣道を殆どやってない人間が教えるのは気が引けたんですが」


「はっはっはっ。剣の術も道の一つだ、教えを乞う相手として申し分は無いだろうさ。しかし羨ましいな剣道部は。私も一週間だけ体験入部できないだろうか」


「またそんな冗談を…。そもそも俺に師事しなくても池上先輩なら日統剣ぐらい余裕でしょうに」


 些か不遜な言い方になってしまったが、これは紛う事無い事実。この大会の為に剣道の練習を積み上げてきた人間達が集うとは言え、四谷道場の練習はベクトルも練習量も違い過ぎる。黒を取った人間ならば捻り潰すのも容易であろう。しかし、当の本人はそうは思ってないようで謙遜をしながらもこれを否定した。


「いくら四谷道場で腕を上げてもそれは術としての剣。半端者の私では道を究めようとする人達に及ばないだろうさ。最も、術を極めた君ならばそれも叶うのだろうが」


「極めたなんてそんな。まだまだ道半ばも良いとこですよ」


 互いに自分を低く語りながらやんわりと否定するこの会話は端から見ればただの謙遜であるが、どちらも相手が上を知っているからこそ本心からの言葉であると分かる。なので最後は二人して互いの言葉を笑い飛ばして終わり、ここを出るのも良い頃合いになったので俺は足元の鞄を担いだ。


「それじゃ、そろそろ時間なので失礼させてもらいます。今日は悩みを聞いていただいてありがとうございました」


「礼には及ばないさ。それよりも夏休み明けの表彰式、楽しみにさせてもらうよ」


「…まぁやるだけはやってみますよ。……あぁ、そうそう。木ノ崎」


 入口のドアを背に挨拶をした所で、言い忘れていた事を思い出して俺は暫く会話に入ってこなかった被捕食者を呼ぶ。いきなり呼ばれたもので反応が追いついていない木ノ崎に対して、俺は一言だけ伝える。


「今日で勉強は終わりだ、四日間ご苦労だったな。明日からは早く来なくていいぞ」


「……はい?」


「んじゃ、失礼しました」


「え、ちょ、ま!」


 何か言いたげな木ノ崎に俺は有無を言わせず、風紀委員室を後にする。言いたそうな事は分かっているが、あそこに居る面子ならば俺が去った後に誰か教えてくれるだろう。そんな予測を立てながら、俺は少しだけ急ぎ足で剣道場に向かう事にした。


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