殻の破片(後編)

ぐっと、強く込み上げるもの。

それが頬を伝うことはなかったけれど、静かに僕の胸を温めた。

許されているんだな、と思う。

夕星に。

咲ちゃんに。

僕に関わってくれている人、全てに。

ついさっきまでは、心の余裕がなくなっていた。

自分のことで手一杯になっていた。

だから、見落としていたんだ。

ふと周りを見れば、いつだって、僕は許されていた。


「……返事、しなくちゃ」


電話にしようか、メッセージにしようか、と少し悩む。

だけど、結局僕はスマートフォンをそのままテーブルに置いた。

今は気持ちがふわふわしていて、どちらにしてもうまく喋れそうにないと思ったから。

それでは、皆に心配をかけるだけだ。

『落ち着いたら』出て来い、と夕星は言ってくれた。

だったら、その言葉に甘えよう。

何日かゆっくりと休んで、本当に大丈夫と言えるようになってから連絡しよう。

今は、二人にお礼を言うための準備期間だと思えばいい。

準備をするのは、誰より得意なはずだ。

僕の座右の銘は『死なない為に死ぬほど準備すること』なんだから。


「……でも、まずは」


僕は窓を開けると、大きく伸びをした。


「これを片づけなくちゃ、な」


そして、テーブルの上の食器たちをまとめて、キッチンへと持っていく。

いつものように軽く水にさらすと、指先からじんわりと冷たさが広がった。

それは、もう秋も深まっていることを感じさせる。

だけど、それに反して温かく心に浮かぶのは。


「(……そういえば、この食器、灯絵と一緒に買ったんだっけ)」


大学に合格して、この部屋に越してきた直後。

同じく引っ越しを済ませた灯絵と一緒に、足りない家具や日用品を買いに行った時のことだった。


『ねぇ、けーくん。こんなお皿、どうかなぁ』


そう言ってこの食器を差し出して、


『えへへ。けーくん、シンプルなデザイン好きだからねぇ』


やっぱり、と言いたげにくすくすと笑い、


『じゃあ、これとこれ、二つずつ買おうね』


ひょいっと買い物カゴに入れるのを見て僕が驚くと、


『当たり前でしょ。これからいっぱい、けーくんの部屋に行くことになるんだから』


さも当然のように、胸を張って頷いて、


『ねっ』


いたずらっぽく僕の顔を覗き込む灯絵。

その声が。

その仕草が。

その表情が。

鮮明に甦る。

どれもこれもが愛おしく、懐かしく感じて。

一つ一つの記憶を拾うように思い返していると、


「……あれ?」


いつの間にか、手元の洗い物は終わっていた。

もう一度食器を眺めてみても、問題らしい問題は見当たらない。

だけど、それはきっと、元々汚れがほとんどなかったからだ。

洗い物をしていた記憶がほとんどない、という状態のことを、大丈夫とは呼べないだろう。


「咲ちゃんには、本当に、感謝しなきゃな」


苦笑交じりに呟く。

こんな作業にも集中できない状態では、とてもバイトなんかできない。

まだまだ、全てを割り切るまでには時間がかかりそうだった、

ぱちん、と、自分の両の頬を叩く。

切り替えよう。

元通りに働けるようになることを目標に、まずは、部屋を綺麗にするところから。

灯絵の思い出だらけのこの部屋で作業に集中できるようになれば、バイトも問題ないはずだ。

そんなことを思いながら、部屋の現状を把握しようと、僕は辺りを見回した。


「うん?」


……その時だった。

突然、ドアベルが鳴ったのは。

夕星、だろうか?

元々、友達は少ない方だ。

ましてや、ここを訪ねてくる人なんて、夕星くらいしか思いつかない。

あるいは、咲ちゃんと二人でやって来るかのどちらかだ。

だけど、メッセージでは『気持ちが落ち着いたら出て来い』と言っていた。

その彼が、今ここを訪ねてくるだろうか?

再び、ドアベルが鳴る。

それでも僕は、思考が邪魔をして、動けないでいた。

だけど——


「あれ?」


不意に、知った声が、ドアから微かに漏れ聞こえてきた。


「おーい、けーくん。いないのー?」


——え?

僕は、弾かれたように身をすくませる。

その声は、夕星じゃなかった。

咲ちゃんでもなかった。

……聞き間違えだろうか?

それは、一番ありえない声。

昨日聞いたばかりで、もう二度と聞くはずのない声だった。


「けー、くーん」


だけど、その言葉で確信した。

今、ドアの外にいるのが誰なのかを。

だって、僕のことをけーくんと呼ぶのは、一人だけ。

僕は、すごい勢いでドアの方へ走り出していた。

いや、でも、何で?

彼女がここに来るはずがないのに——

そんな疑問が、頭の全てを埋めつくしていて。

ドアまでの距離が、遠く遠く感じた。

それでも、何とかそこへたどり着くと。

叩きつけるように、ドアを開ける。


「わ。びっくりした」


そこにいたのは。


「もう。いたなら返事してよね、心配するじゃない」


赤浦灯絵。

昨日一緒に過ごして、その後消えてしまったはずの——僕の恋人だった。

少し大きめの荷物を手に提げて。

記憶通りの可愛い笑顔を浮かべて。

……記憶通り?

考えてから、ふと思い当たる。

そう、記憶通りだ。

それも、一番最近の。

手には、人気のケーキ屋の紙袋。

お気に入りのワンピース。

ふわふわで自慢の髪が、色素を少し失くしたようにくすんでいる様子も。

昨日訪ねてきた時と、全く同じ格好だ。

どくん。

どくん。

どくん。

何だろう。

予感があった。

これから、とんでもないことが起きるんじゃないかって。


「……………………何、で、ここに」


だけど、それを認めたくなくて。

振り払うように、僕はかろうじて、そう絞り出す。


「何でって……」

「もう。寝ぼけてるの?」


灯絵は呆れたように呟いた後、ずいっ、と顔を寄せてきた。

そして、真っ直ぐに人差し指を立てる。


「約束したでしょ。けーくんの誕生日パーティーをやるって」


それはまるで、映像をリピートしているかのように。


「だから、来たんだよ」


その言葉も。

その仕草も。

その表情も。

寸分違わず——昨日と一緒だった。






*****




告知通り、今回をもちまして連載をいったん休止させていただきます。

これまでお読みくださった方、本当にありがとうございます。

連載の再開時期は、改めて告知させていただきます。

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いつかふたりの片肺に、 ナカギリカナタ @kanata-nakagiri

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