殻の破片(前編)

***




卵が割れたように唐突に、ぱきんと、目が覚める。


「……」


目覚めたばかりの気だるさの中、意識だけがぼおっと、部屋を漂う。

だけど少しして、何か温かいものが両の頬を撫でた。

手をやると……涙?

どうして、と考えるうちに、僕は少しずつ思考を取り戻していく。

夢を。

夢を見ていたらしい。

内容は全然覚えていない。

だけど、きっと優しい夢だったんだろう。

この涙は、悲しみが原因のものではなさそうだったから。

ゆっくりと部屋を見渡す。

テーブルには、雑然と並んだ空っぽの食器が、二人分。

キッチンには、いくつかの調理器具が洗って置いてある。

そして……今僕が寝ていた隣には、不自然に空いた一人分のスペース。

誰かがいた痕跡だ。


「……灯絵」


僕は、そっと呼びかけた。

昨日一緒に過ごした人の名を。

そして、ふっと苦笑する。

本来、ここにいたはずのない人だ。

なのに、何度見回しても、彼女の小さな痕跡があった。

そこにも。

ここにも。

それを見るたびに、思い出す。

彼女と、二十歳の誕生日パーティーをしたこと。

生きているうちは一度もしなかった喧嘩をしたこと。

そして——

目の前で消えてしまったこと。


「終わったん、だよな」


口にすると、ますます現実味が湧いてきた。

胸がきゅっと締めつけられる。

だけどそれは、灯絵が消えた直後ほどのものではなかった。

ひと眠りしたら、気持ちが整理されたのかもしれない。

それとも、きっと優しかったさっきの夢のせいかもしれない。

まだ、灯絵の死を乗り越えたとは思わない。

それでも、今は『大丈夫』と呼べる状態に戻っているらしい。

そう思える程度には、僕の頭は今すっきりしていて、穏やかだった。


「……あ」


だからだろうか。

その時、部屋の隅に投げ捨てられたスマートフォンが目についた。

そういえば、衣典からあの電話が入ってきた時、何も持たずに部屋を飛び出した覚えがある。

きっと、あの時に投げ捨てたんだろう。

立ち上がり、僕はスマートフォンを手に取る。

あれから使っていなかったせいか、充電はまだ少し残っていて。

そこには、見知った名前から、いくつかのメッセージが入っていた。


『事情は教授に説明しておいた。かぶってる講義は全部ノート取ってる。今は心配しないで休め。気持ちが落ち着いたら出て来い』


これは、夕星から。

周りのことを考える余裕のなかった僕に代わって、講義を休むと教授に伝えてくれたらしい。

簡潔な文章に気遣いが滲んでいるのが、いかにも夕星らしかった。


『バイト先にも事情を話しておきました。計斗センパイはしばらくバイトを休むかも、って』


これは、咲ちゃんから。

そういえば、あの後何度かバイトのシフトが入っていたはずだ。

みんなに迷惑をかけたんじゃないだろうか。

そう思って、続きを読み進める。


『遙香店長からの伝言をそのままお伝えしますね』


『はぁ? 恋人が亡くなったからしばらく出勤できなさそうだぁ?

よし分かった。仕事のことは気にせず休めっつっとけ。

いいんですか、って……当たり前だろそんなもん。大事な人が亡くなったら誰だってメンタルがやられるっつーの。

で、どれくらいの間出勤できなさそうなんだ?

……はぁ? 1、2週間?

馬鹿野郎、向こう1ヶ月は出てくんなっつっとけ。中途半端な状態で出られても困るんだよ。

メンタルを完治させてから戻って来い。その分、戻ってきたらいっぱいこき使ってやるから。

そう伝えろ、いいな?

……ずいぶん優しいですね、だって? 優しくねぇよ。

さっきも言ったろ、中途半端な状態で出られても困る。あくまで店のためだ、勘違いすんなよ。

でもまぁ……あたしゃあいつのことを買ってるんだ。

これまで遅刻欠勤一度もなし、覚えも早くて気配りもできる。

そんな奴が自分で欠勤の連絡できないほど落ち込んでるって、よっぽどだろ。

なら、多少気を遣ってやる。人として当たり前のことだろ。

……おい、今ツンデレって言った奴前に出ろ。口にチョコパフェ突っ込んでやる』


『……だそうです。なので、1ヶ月の間は休んでくださいね。店長命令です』


と。

メッセージは、そこで終わっていた。

みんなに申し訳なく思いながらも、思わず口元が綻ぶのを抑えられなかった。

目に浮かんだからだ。

いつも通りぶっきらぼうに、不機嫌そうに言ったんだろう店長の顔が。

そして、それを苦笑しながら聞いただろう、みんなの顔も。

恐らく僕を元気づけようと、これだけの長文をちまちまと打ってくれた咲ちゃんの気遣いにも、胸が温まる思いだった。

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