軋轢①
***
ゆっくりと流れていく雲は、思ったよりずっと薄汚れていて、吐き気がした。
雲自体は白いのに。
何だか、その事実こそが薄汚れていると——
そう思えた。
潔癖症ってわけじゃない、と思う。
少なくとも、雲を見てこんな気持ちになったことは今までなかった。
そんな、ウナギやナマズのようにぬるりと、掴み所のない違和感を持て余したまま。
僕は、どこか他人事のようにぼんやりと、その場に立ち尽くしていた。
「……行こうか」
その時。
隣でぽつりと零したのは、夕星で。
「…………ええ」
その誰へともつかない言葉を、咲が拾う。
「駅って、どっちだったっけ」
「向かって左です」
「分かった」
二人は、その言葉通りにゆっくりと歩き始めた。
僕もその後ろに付き従って、一歩を踏み出そうとした。
——だけど、どうしてか、足が全く動いてくれない。
凍りついたかのように、地面にぴったりと貼り付いたままで。
「……計斗?」
夕星はすぐにそれに気づいて、振り返った。
その声に、咲ちゃんも立ち止まる。
それでも、僕の足は動かないままだ。
二人の顔は、とてもじゃないけど見られやしない。
きっと困った顔か、悲しい顔のどちらかをしているだろうから。
あぁ。
ごめん。
すぐ歩くから。
こんな所にいつまでも立ってたら迷惑だって、分かってるから。
二人にも、他の参列者にも迷惑だって。
そして、そもそも——告別式の式場の真ん前で、いつまでも立ち尽くしてるわけにはいかない。
そんなことは、分かってるから。
そう。
告別式は、別れを告げる為の式なんだ。
そこから歩き出せなくなるなんて、冗談じゃない。
縁起が悪いにもほどがある。
だから、動かなきゃ。
足。
動いてよ。
そんな想いも、やっぱり他人事のような冷たさを帯びていて。
当然、僕の足は聞いてくれない。
「なぁ、計斗」
そんな時、夕星が気遣うように訊いてきた。
「…………」
「本当に、霊柩車に乗らなくて良かったのか?」
「…………」
「計斗だったら火葬場まで同乗してもいいって、灯絵ちゃんのお母さんが言ってくれてただろ」
あぁ。
恐らく、さっきから僕が動き出さない理由を名残惜しさだと勘違いしているんだろう。
出棺していった灯絵を最後まで見送れなかったこと。
それが心残りなんだろう、と。
だけど、そうじゃない。
僕は、ぼそっと呟きで返す。
「……無理だよ、そんなの」
「灯絵を見送るなんて——無理だ」
灯絵が事故に遭った、あの日。
あれからどれだけ時間が経ったのか、覚えていない。
記憶も断片的で、曖昧になっていて。
それでも、僕が覚えているのは——頭に血を滲ませた灯絵が、救急車へ担ぎ込まれていったこと。
救急車が去った後もその場に立ち尽くしていた僕を、夕星が迎えに来たこと。
その夕星に付き添われ、辿り着いた病院で——たった今灯絵が亡くなった、ということを告げられたこと。
そこからは、一切の記憶がない。
自分では分からないけれど、きっと、夢遊病のような状態だったんだと思う。
意識を取り戻したのは、ついさっき。
告別式の式場で、棺の中を見た時だった。
「……僕、さっき灯絵の顔見たんだよ」
「すごく安らかな笑顔を浮かべてて……」
「いつもと全然変わらない顔だった」
「灯絵って、本当に幸せそうに笑うんだ」
「向かってくる光みたいに真っ直ぐに」
「楽しくて仕方がないんだ、って感じでさ」
「まるで、笑っていること自体すら楽しいっていうような顔で」
「僕は、あの顔が大好きだった」
「計斗……」
そう。
それを見て、少しずつ意識が戻っていくような、そんな感覚があった。
僕の大切な物が棺の中に密やかに眠っている。
そう感じた時、浮かび上がってきたのは——どうしようもないほどの恐怖だったんだ。
「ねぇ」
「死んでいるって、どういうことなのかな」
「あんなに今にも動き出しそうな状態のことを、死んでるって呼ぶの?」
「もしかしたら、突然生き返ったりするかもしれないだろ」
「なのに、なんで焼いちゃうんだよ……」
「焼いたら、その可能性も潰えるってことじゃん」
「そう思ったら、無理だった」
「火葬場まで付き添うなんて……できないよ」
「計斗センパイ……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます