第23話 分岐点

 外に出ると、風が俺の服の裾を引っ張った。それはいくらか冷たくなった気がして、俺は寒くもないのに半袖のシャツから覗く自分の腕をさすった。


 見上げた空は皮肉にもよく晴れていて、出かけるには最適な休日だ。まぁ、俺は何かを楽しみに出かけるわけじゃないが、雨が降るよりマシだろう。


「どうだろうな。いっそ土砂降りのほうがよかったかもしれん」


 空に浮かぶ雲にそんな言葉を投げかけてみても、雲は空の高みからこちらを見下ろしているだけだ。



 沙夜が消えて一週間が経った。沙夜は元々いなかったかのように跡形もなく消えてしまった。

 痕跡一つないのも当然だ。沙夜は現実のものには干渉できないし、俺に見えなくなってしまっては他の誰の目にも映らない。


 沙夜は消えた。跡形もなく、まるで夏の蜃気楼しんきろうのように。

 この一週間で、俺はその事実を受け入れ始めていた。



 ふらりと自転車をこぎ出して、遠くのコンビニへ飲み物を買いに行く。

 一眼レフを首から下げてはいるが、ロケーションを探しに行くわけではない。癖のようなものだ。

 飲むものが家にないわけでも、他にコンビニへの用事があるわけでもないが、ただ時間を潰したかった。


 家にいてもすることがないし、かと言って昼まで寝ていることもできなくなってしまった。

 どうしたものかと考えていても仕方ないので、こうして外に出るわけだが、いつから俺はこんなにアウトドア派になったのだろうか。


 こうして後ろが軽い自転車を走らせるのにも慣れ始めた。

 そして、気がつけば後ろが軽い理由を探している。何気なく見回した景色の中に彼女を探している。


「……いるはずない。沙夜はもう消えたんだ」


 こうして彼女を思うたびに胸を締め付ける痛みにも、いずれ慣れていくんだろうか。


 時間は万能薬だと聞いたことがある。今はそう思えなくても、アルバムの写真が色褪いろあせるように、数年後には懐かしいと笑えるようになるんだろうか。


「分かるかよ、そんな先のことなんてさ」


 そして俺は今日も青春を浪費する。すっかり色を失った日々を、怠惰に過ごしていく。


「……あぁ、つまんねえ」


 呟いてみても、余計に倦怠感けんたいかんが増すばかりだった。





 ――――





 コンビニでジュースを買って、半分ほど空けたそれを手にぶらぶらと公園を歩く。

 一眼レフが歩く度鳩尾みぞおちを叩くものだから、空いた片方の手で持った。


 手慰てなぐさみにカメラを適当にいじくり回していると、電源ボタンに手が触れる。

 そうして、俺は気がつけばファアンダーをのぞいていた。


 ファインダー越しに映る世界は、俺の目に映る世界と何も変わらない。さっきまで見ている景色がレンズ越しにあるだけだ。


 ――カシャ。


 切り取った世界が画面に映し出される。使い古されたシーソーだ。

 写真は俺の見たままの景色を切り取っている。


 でも、何も思わずに撮ったこの写真は、後で見返しても何も感じない。むしろ沙夜を失った悲しみを思い出すだけだ。

 こんな写真、消してしまおう。




「おや、消してしまうのかい? よく撮れているのに、勿体ない」




 削除にカーソルを合わせて決定ボタンを押下しようとしたところで、後ろから声をかけられた。


 聞き覚えのあるセリフに、俺は思わず勢いづいて振り返る。


 しかし、そこにいたのは知らないおじさんだった。

 60前後だろうか、スラックスに落ち着いたチェックのシャツをタックインしたナイスミドルだ。


「えっと……」

「あぁ、ごめんね。急に声をかけたりして」


 おじさんはニコニコと笑みを浮かべて、俺の消そうとした写真を覗き込んだ。


「おぉ……! やっぱりよく撮れているよ! 私も最近妻に勧められてカメラをやり始めたんだが、どうにもうまく行かなくてね。コツとかあるのかな?」

「どのカメラを使っているのかは知りませんが、最近のは露出とか絞りとか、細かい設定をいじればそこそこのものが撮れると思いますよ」


「ほー、なんだか難しそうだな……。いやね、妻がこの年にもなって趣味の一つもないのはまずいというものだから、昔少しかじったカメラをやろうと思ったんだが、よく考えたら私が昔やってたのはフィルムカメラだったよ。勝手が違くて参ったな」


「フィルムカメラとは性能も機能も違いますからね。でも慣れるとこっちのほうが楽しくなると思いますよ。手軽ですし」 

「そうか! それならもう少し頑張ってみようかなぁ」


 おじさんは嬉しそうに笑ってそういった。



 ……楽しい、か。俺もつい最近まではそんな気持ちでシャッターを切っていたのに。ファインダーを覗くたびに気持ちが高ぶり、切り取る世界全部が輝いていたのに。


「……どうかしたかな? 何か気に触るようなことを言ってしまったなら申し訳ない」

「あ、いえ。最近写真を撮ってもあまり楽しくなくて……。それでちょっと……」

「そうか……。いやね、なんだかそんな気はしてたんだよ。だから声をかけた節がある」


 おじさんは困ったように笑うと、瞳に真剣な色を宿してじっと俺の目を見つめた。


「よかったら話してみてくれないかな? 嫌なら別にいいんだけど、こうしてあったのもなにかの縁だろう。見知らぬおじさんだからこそ話せることもあるかもしれない」


 カメラのことを教えてもらったお礼もしたいし。おじさんはそう付け加えた。


 こんな話、他人が聞いてもほら話だと一蹴されるだけだろう。

 でも、この気持ちに整理をつけたいとも思う。なにかヒントのようなものがもらえたら……。そんな期待があった。


「突拍子もない話ですけど、聞いてくれますか」

「ああ、もちろんだとも」


 おじさんは安心したように笑っていた。



 それから俺たちは近くのベンチに場所を移し、遠くで楽しそうに走り回る子どもたちを眺めながら話し始めた。


「俺には友達がいたんです。ちょっと変なやつですけど、一緒にいると楽しいやつで。俺はそいつのことが好きでした」

「ほう……、女の子かな?」


 おじさんの向ける温かい視線に、俺はなんだか照れくさくなって頬をかいた。


「ええ、まぁ……。あいつは夏休みの初めにいきなり現れて、ついこの間消えてしまった。俺のイマジナリーフレンドだったんです」

「イマジナリーフレンドかぁ……。そりゃまたすごい体験をしたね」

「ええ、すごい体験でした。すごくて、楽しくて、幸せな。尊い時間でした」


 思い出は今もまだ鮮明だ。写真から沙夜は消えてしまっても、俺の記憶の中ではまだあの笑顔がはじけている。

 いつか色褪せてしまうのだとしても、今はまだ。


「あいつは俺の撮る写真の主役でした。華やかで、儚くて、美しい人だった。何枚も何枚も、俺は写真を撮りました」


 両手で抱えたカメラを、俺はぎゅっと握りしめた。

 ここには沙夜が消えてしまった写真たちが収められている。彼女が消えてしまっても、まだ記憶を掘り起こす一助にはなるはずだ。


「今思えば、俺は彼女の全部を残すために写真を撮っていたのかもしれません。いつか消えてしまうことを悟ってでもいたんですかね、ははっ」


 自嘲じちょう的な笑みがこぼれ、口元が緩む。

 そんな口元をきゅっと引き締めて、握りしめたカメラを見つめる。


「だから、あいつがいなくなってしまったらもう写真を撮る意味がないんです。何を撮っても世界はモノクロのまま……。主役のいない写真なんて、いくら撮ってもしょうがないですよ」

「そうだね。主役がいないんじゃ意味がない」


 俺の話を聞き終わると、おじさんは同意の言葉を投げた。その声があまりに優しかったから、俺は思わず泣き出しそうになる。


「大切な人を失う気持ち、私も痛いほど分かるよ。君のとは少し違う痛みだろうが、それでも察することはできる」


 おじさんは悲しげな目をして、遠い過去を見つめていた。

 しかし、すぐに優しげな笑みを浮かべると俺に向き直る。


「別れは唐突で、やり残したことも、言い忘れたこともたくさんあって、後悔に疲れてしまう。諦められないことを諦めようとするんだ、そりゃ疲れてしまうよね」

「はい……」

「何気ない日常の中でその人を探して、見つかりっこないことに気づいて悲しくなる。そんな毎日を過ごしてきたんだろう」

「……はい」

「そうか、辛かったね。若いのにそんな大変な思いをして……」


 暖かく寄り添うような言葉に、俺の視界は滲む。

 嗚咽が抑えきれず外に漏れ出る。こぼれ落ちた涙が地面に黒いシミを作る。


「我慢しなくてもいい。涙を流せるのも今のうちだけになるから、泣けるうちに泣いておきなさい」

「……はいっ」


 少しの間、噛み殺した嗚咽が、人の少ない公園で蝉の声に混ざっては消えていくのだった。





 ――――





 12時の鐘があたりに響き渡るころ、俺はまだ少しグズつく鼻をすすっていた。


「すみません、なんか急に泣き出したりして……」

「いや、こちらこそ急に声をかけたりしてごめんね。なんだか娘と被って見えて放っておけなかったんだ」

「娘さんがいるんですね」

「ああ、君と同い年くらいの娘でね。よくできた子だった」

「だった……?」


 おじさんは困ったように笑うと、昔を懐かしむように目を細めた。




「いなくなったしまったんだ。ある日突然」




 そうだったんだ……。この人が失った大切な人というのは、その娘さんのことだったのか。

 確かに痛みは違うかもしれない。俺には理解できない痛みだ。自分の子供を失うというのは到底理解できない。でも、おじさんの言う通り察するとこはできる。


「それって、誘拐とかですか?」

「どうだろう。痕跡は何も残っていなかったから、何も分からなかったんだ」


 誘拐だったらまだ娘を取り返す方法もあっただろうけどね。おじさんは口元に微笑みをたたえてそう言った。

 しかし、その瞳の奥には深い悲しみを湛えている。


「君は覚えてないだろうね。10年前に新聞でも取り沙汰された事件だよ。現代で神隠しかって、随分ずいぶんと騒がれたものだ」

「神隠し……。まさか現実にそんなことが……?」

「そう。私の娘は忽然こつぜんと姿を消してしまった。だからかな、君の話を聞いても何もおかしなことなんてないって思えるのは。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ」


 おじさんはそこまで話すと、何かに気がついた様子で声を上げた。

 そして照れたように笑みを浮かべると、白髪混じりの頭をかきながら謝る。


「ごめんごめん、余計なことを話したね。いけないな、歳を取るとすぐ自分の話をしたくなって」

「いえ、全然そんなことないですよ。むしろそこまで聞いたら気になりますし、娘さんの話、聞かせてもらえませんか?」


 続きを聞きたいという気持ちは本当だった。ただ、別の理由もあったんだ。

 なにか違和感があった。おじさんの話はどこか別の場所で聞いたことのあるような気がして、それが胸の奥の方でつっかえていた。


「そうかい? それなら年寄りの与太話に付き合ってもらってもらおうかな」


 おじさんは遠くを見つめる目を細め、語りだした。



 おじさんの家族は10年前にここに引っ越してきた、この田舎では新参者だったらしい。

 疎遠になっていたおじさんの父親が亡くなったことをきっかけに引っ越してきたらしいが、地域の人々からはなかなか受け入れてもらえなかったようだ。


 おじさんもその奥さんも、日に日に疲れていった。地域コミュニティから向けられる監視の視線。なんでもないことをすぐに噂として流布され、心休まるときはなかったという。


「それはきっと、あの子も同じだったんだろう。私達に余裕がないことを察して何も言わなかったが、後で聞いた話では友達もろくにできなかったらしい」


 そしてある夏の休日。娘さんは家を出たきり戻ってこなかった。近所を散歩してくるとだけ言い残して、跡形もなく消えてしまった。


「知っているかい? 失踪して7年経つと失踪宣告といって、法律上その人を死んだことにできる制度があるんだよ。悔しいねぇ、娘の生存は絶望的だって諦められたようなもんだ」


 おじさんは悔しそうに顔をしかめる。でもすぐにそれは意味を変えた。


「でもね、10年も経ってなにも進捗がないと、弱気にもなってくるんだ。あるいは希望が見えない絶望の日々に疲れてしまったのかもしれない。だから見かねた妻に趣味でも見つけろと言われてしまったんだろうね」


 きっとおじさんはもう、半ば諦めてしまっているんだ。

 俺は知っている。この笑みは希望を諦めてしまった人の浮かべる笑みだということを。

 そうだ、沙夜も少し前まで同じような笑みを浮かべて――


「……あれ?」


 その時、俺は何かに気がついた。


 頭に浮かんだ沙夜の笑みと、目の前で笑っているおじさんの笑み。


 10年前に神隠しにあった、当時高校生の女の子。


 引っ越してきたばかりで、友達もできなかった。


 たくさんのノードがつながってネットワークを形成するように、あるいは先人が星々をつないで星座にするように、俺の中の点でしかなかった情報がつながって、線になっていく。




 それはやがて一つの答えを映し出す。




 でもあいつは俺のイマジナリーフレンドで、もう消えてしまった存在で……。

 いや、でも飯島も言っていた。あれはあくまで仮説で、そうでなかった可能性もありうると。

 あの時はその可能性だって仮説に過ぎなかったから、特に気にもしなかった。


 だけど、そんな難しいことはどうでもいい。俺が知りたいことはただひとつ。




「あのっ! その娘さんの名前って、なんていうんですか!?」


「え? 娘の名前かい? ――沙夜。藤木沙夜っていうんだ」




 答え合わせは済んだ。じゃあ次に俺がしなくちゃいけないことはなんだろう。

 そんなの、決まってる。


「……そう簡単に諦めらんないよな」

「え?」


 沙夜はもう消えてしまって、見つけ方なんて分かりっこないけど、でもそれって俺たちが出会う前に戻っただけだ。

 ならもう一度、出会い直せばいい。奇跡をもう一度、起こせばいい。


「お父さん」

「お、お父さん!?」

「俺、もう行きます。そんで、必ず消えたあいつを見つけてみます。だから、お父さんも諦めないでください。祈っててください」

「……何がなんだかよく分からないけど、分かったよ。そんな真っ直ぐな目をした男の言うことだ。深く問いただすのも野暮だね」

「話、聞いてもらってありがとうございました!」


 俺は沙夜のお父さんに背を向けて走り出す。

 手にしたカメラを握りしめて、向かう先は始まりの場所。あの神社だ。


 さあ行こう。奇跡を起こしに。

 きっとここが、最後の分岐点だ。

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