第3章 空想の友と青い夏

第19話 透けるもの、透けぬもの

「耐える、耐える……、耐えるかぁ……」

「これと言って思い当たるものはありませんね……」

「そもそも指示が曖昧なのよね。耐え抜けって、耐えなきゃいけないような辛いことなんて、この10年の孤独くらいだったし」


 休み明けの月曜日。その放課後に飯島と以前行ったカフェにて、俺達は前回の神社訪問で分かったことをもとに、これからどうするべきか話し合っていた。


「でもそれは神様が沙夜の決意を図るための期間だったってことになっただろ? だから耐え抜くべきことは他にあるんだよ、きっと」

「ってことは私と情が出会ってからが本番ってことでしょ? その間に耐えなきゃいけないようなことなんて――」


 沙夜はそこでなにか思い当たる節があるのか、言葉を切った。


「――あったわ」

「え、嘘!?」

「あんたにおばさんだ貧乳だと言われることよ! 屈辱以外の何物でもないわ!」

「ええ!? 俺!?」


 予想外の方向から飛んできた言葉に、俺は驚きを隠せなかった。

 今の俺はきっと鳩が豆鉄砲を食ったような、そんな顔をしているに違いない。


 俺の言動がそこまで沙夜を苦しめていたのかと思うととても申し訳ない気持ちになるが、10年の孤独と比べて同レベルってこと? それって俺とんでもない悪者じゃない? さすがに冗談だよね?


「……その可能性は十分にありますね」

「え、マジ?」


 飯島に沙夜の言葉を伝えると、まさかの反応が帰ってきた。

 まさか沙夜の試練が終わらないのは俺のせいなの? というか俺の冗談がそんな重大なことに関わっているなんて信じられるか。


「しかし可能性がゼロであると一蹴するのはよくありません。今はどんな細い可能性もたどっていかなくてはいけない状況。試していく価値はあります」


 そう言われてしまえば納得せざるを得ない。

 ということで一応試してみることにした。



「じゃあ諏訪部君は沙夜ちゃんに考えつく限りの罵声を浴びせてください」

「さあ、どんどんかかってきなさいっ!」

「なんでこんなことせにゃならんのだ……」


 俺に女の子を罵倒するような趣味はないぞ? 別に罵倒されるのも趣味じゃないけど。

 でもまぁ、これも沙夜を元の体に戻すためと思えばこそだ。というよりわりと日常的に沙夜のことは揶揄からかってるし、そう難しいことじゃない。


「じゃあいくぞ。んんっ! ……沙夜ってさ、10年前から姿は変わってないって言うけど、知識が古いから精神的には27歳のアラサーなんだよなぁ。それにきっちり10年の時を過ごしてるから、考え方もおばさん臭いっていうか、最近の若い子は~みたいな言動が時々あらわれるというか、なんか親戚のおばさん味があるっていうかさぁ?

 そのくせ自分はまだまだイケるとか思ってるんだけど、焦りも感じてるからアピールに必死さを感じるというか、そこがまたおばさん臭いというか。

 あと、自分のプロポーションに自信を持ってるみたいだけど、鏡見てみろって感じ? 絶壁だよ絶壁。見渡す限りの荒野だよ。たわわに実るどころか果実がないよ。もう種子しかないよ。裸子植物だよ。それに――」


「うわぁぁぁあああんっ! なによなによ、そこまで言わなくたっていいじゃないっ! 私だって順当に成長してれば年相応の体になってたしっ! 大人の魅力とか醸し出せてたしっ!」

「……よくそこまでスラスラと悪口が出てきますね。ちょっと引きました」

「えぇ!? 言えって言われたから言ったのに俺が悪いの!?」

「限度があるでしょうがっ! 少しは加減しなさいよね!?」


 わりと頑張って罵倒したんだが、どうやら沙夜の心にクリティカルヒットしてしまったようだ。今もメソメソと泣いている。

 飯島はそんな沙夜の様子を伝えるまでもなく冷たい目で俺を見ている。いや、これ本当に俺が悪いの……?


「まぁなんだ、悪かったよ……。気合い入れて言い過ぎた」

「誠意が足りないわ! もっと自分を卑下して謝って! 私の心の傷が癒えるくらいに卑下して謝ってっ!」

「童貞非モテ彼女なしの下等生物である僕が、完璧な女神であらせられる沙夜様にかけた不遜な言葉の数々、これはもう死ぬしかないので死にます」

「そこまで卑下しろとは言ってないわよ!」

「うわぁ……、ドン引きです」

「もうどうしたらいいんだよぉ!」


 罵倒しろと言われて罵倒したら引かれ、謝れと言われて謝ったらドン引かれ。女子って本当に理不尽。



「さて、冗談はこのくらいにして、何に耐えなくてはいけないのかすぐには分からないでしょう」

「え、冗談だったの? いま私冗談で罵倒されたの!?」

「良かったぁぁ……、本気でドン引かれたのかと心配になっちゃったじゃんかよぉ」

「まぁ半分は本気でしたが」

「えっ」


 飯島はいつもの無表情にほんのりと暗い笑みを浮かべると、目の前のコーヒーを一口すすった。

 じょ、冗談なのか本気なのかいまいち分かんない……。大丈夫だよね? 俺飯島に嫌われてないよね?


「半分本気というのは、実際に諏訪部君の悪口に耐えることが試練である可能性を否定できないからです。今は沙夜ちゃんが最後まで耐えきれなかったので、可能性を潰せませんでしたが、仲良くなることが目的なのに罵倒に耐えるというのは少し違う気がします」

「まぁそれもそうか……?」


 飯島の言っている意味を理解するまでに少し時間を要したが、つまりは友達作ろうとしてるのに悪口に耐えろってなんか違うくない? ってことだな。完璧に理解したわ。


「でも結局また振り出しだな」

「そうですね……。こればっかりは私と諏訪部君ではどうしようもありません。沙夜ちゃんが心当たりの一つでも思い出してくれれば早いんですが……」

「悪かったわね、なんにも心当たりなくてっ!」


 そうしてまた三人頭をひねる。

 ウンウン唸ってみたものの、手元のコーヒーが減っていくばかりでこれといった妙案は何も浮かばなかった。






 ――――





 それからの二週間ほどを、俺たちは思うまま普通に過ごした。

 やっていることは今までと何ら変わりない。沙夜がやりたいと言ったことに俺が応える。そんなことの繰り返しだ。


「結局耐えるべきことは現状ないのかもしれません。未来にやってくる可能性だってありますから、今は沙夜ちゃんのやりたいように過ごせばいいんだと思います」


 悩み疲れた頭で飯島が出した結論はそんなものだった。

 まぁ結局の所、すべきことが見つからない以上やりたいことをやるってのが正しいのも事実だ。そうしているうちにすべきことも見えてくるだろうって。


 ……とまあ、そんな風に軽く考えていたのがいけなかった。俺は沙夜を甘く見ていたんだ。




「ねぇ情。私部活ってやったことないの。なにか入ってみなさいよ」




 そんな突然の要求で、ありとあらゆる部活動の体験入部を強いられ、




「バイトもいいわよねぇ。ちょっと情、猫カフェのバイトしましょ?」




 学校とは関係ない、そして地味に受かるまで時間のかかった猫カフェのバイトまでやらされ、




「素敵な恋愛とかしてみたかったなぁ。ね? 情?」




 そして光平と過ごす、二人っきりのアツい夏が……。


「……って、んなことできるかよっ!」


 俺は人気のなくなった放課後の教室で叫ぶ。

 夕日が差し込む教室には、もう俺と沙夜の二人以外はいない。飯島はなにか用事があるとかで先に帰ったのだ。


「なによ、つまんないわね」

「常識ってものを考えろ! 俺は光平とは親友だが、そっちの意味でも仲良くなるつもりはないのっ! 俺は男じゃなくて女の子が好きなのっ! 恋人にするなら人間の女の子がいいのっ!」

「人間以外になにを恋人にするっていうの……?」


 9月に入った今でも絶賛恋人募集中の虫や蛙がいるだろうに。あいつらとは恋愛できる気がしない。


 そう、時は移ろい今は9月。秋の足音が聞こえてきそうな雰囲気はすれど、まだまだ夏は終わらない。


 俺は、もうはやくこの灼熱地獄から開放されたいという思いと、結局この夏も彼女ができなかったんだという現実が迫ってくる恐怖がないまぜになり、なんとも言えぬ微妙な思いでいた。


 猫カフェでのバイトは他のバイトが女の子ばかりだという理由で沙夜にやめるよう言われ、体験入部した部活も、もう堪能したからいいという理由で本入部まではしなかった。


 俺は沙夜のどんな無茶な要求も応えてきたというのに、沙夜の表情はいつも晴れないままだった。

 やっぱり光平と付き合わなかったのがいけなかったのかなぁ? でもさすがにそれは無理だし……。



「じゃあいいわ、情が好きな子と付き合いなさいよ。私もそれで我慢するから」

「は、はぁ!? 俺に好きな子なんていねぇって!」

「なによぉ~、男のくせに好きな女の一人もいないわけ? なっさけなーい」

「ばっかお前、誰彼構わず好きになればいいってもんじゃないだろ? ちゃんと心から好きって思える相手じゃないとだめなんだよ」

「そんなんじゃ婚期逃すわよ?」

「お前には言われたくねぇよ」

「ちょっとそれどういうことよっ!?」


 こんな風に、まるで沙夜のやりたいことを消化しているような日々を過ごしていても、結局沙夜が耐えるべきことというものは見つからなかった。

 そう簡単に見つかるものでもないだろうけど、俺たちは少しずつ焦り始めていたんだ。

 それは夏という季節が終わろうとしているせいなのか。それとも胸をざわつかせるヒグラシの声のせいだろうか。


「……じゃあ理恵は? あの子はどうなのよ?」

「はぁ? 飯島? なんでそこで飯島の名前が出てくるんだよ?」


 思いもしない名前に、俺は思わず沙夜の顔を見つめた。

 夕日を背負った沙夜の表情は陰り、何を考えているのかは読み取れない。


「だって理恵とあんた、いつも楽しそうにしてるじゃない。お昼は毎日のようにお弁当分けてもらって、最近じゃあんたのためにおかず多めに作ってきてるし」

「弁当分けてもらうだけで恋人候補ってのは、飛躍しすぎじゃないか?」

「それに私のことでいつも真剣な顔突き合わせて、共通の目標もあるし」

「それは沙夜だって同じ目標を見据えてるじゃないか」

「廊下の真ん中で愛を叫ばれても、理恵はあんたと仲良さそうにしてるし」

「いや、あれは沙夜が言えって――」

「でもっ!」


 突然大きな声を上げる沙夜に、俺の肩は跳ねる。

 恐る恐る覗き込んだ沙夜の表情は、悲しみに耐えるような、そんな辛そうなものだった。


「私は普通じゃないもの……。理恵の持ってる当たり前の物を私は持ってない。理恵と一緒にいたほうが情だって……」

「……沙夜?」

「あっ、ごめん……」


 ……普通じゃない、か。確かに俺にしか見えない沙夜は普通とは言えないだろうな。

 でも、それがなんだってんだ。


「確かに、沙夜は飯島とは違うよな。おかず分けてくれないし、無茶ばかり言うし、気は強いし、わがままだし、中身アラサーだし」

「いや、そういうことじゃなくてっ!」

「それ以外に何が違うってんだよ。俺からしてみればちゃんとそこに居て、話ができて、触れられる。何も変わんないだろ?」

「え……」


 周りがなんと言おうと、俺にとって沙夜はここにいる。

 そりゃちょっとは変なとこもあるけど、それって普通の人が誰しも持ってるもんだろ? それを言い出したら俺だって相当の変人になっちゃう。


「だから気にする必要ないって。大体飯島はいいやつだけど付き合うとかそういうことは特に考えてないし。沙夜のことでそれどころじゃないってのもあるけどさ」

「そう……」

「そうだよ。だからいらん気まわすなよ」

「……ええ」


 夕日を背負っているせいだろうか。そっと笑みを浮かべる沙夜は、今にも消えてしまいそうな、体が透けているような、そんな気がした。





 ――――





 それはいつものように飯島と沙夜の三人で、沙夜のことについて話し合っている時のことだった。




「もういいわ」




 急にそんなことを言った沙夜に、俺は飯島と突き合わせていた頭を沙夜に向ける。


「もういいって、なにが?」

「だから、もう私のことはいいわ。これ以上何をやっても無駄だし、時間を浪費することないと思うの」


 突然そんなことを言う沙夜に、俺は驚きで少しの間固まった。


「な、何言ってんだよ、沙夜? 無駄なんて、そんなことないだろ」

「これだけ色々考えてもらって、やってもらって。それでも何も分からなかったじゃない。これ以上二人に迷惑かけたくないのよ」

「あの、諏訪部君? 沙夜ちゃんが何か言ったんですか……?」


 驚き戸惑っているのは俺だけではない。飯島もまた何が起こっているのか理解できていなかった。

 俺がいま沙夜が言ったことを飯島に伝えると、飯島は少しだけ沙夜のいる方に身を乗り出した。


「迷惑だなんて思ってませんよ! むしろ私は関係なかったのに首を突っ込んで、こっちの方が迷惑じゃないかと……」

「そんなことないわよ! 理恵の気持ちはありがたいって思ってるし、嬉しいんだけど、ね」

「……そんなこと、言うなよ。まだ沙夜の体をもとに戻す方法があるかないかも分かってないじゃんか。もうどうしようもないって分かるまで諦めるなよ……」

「……」


 無言で俯く沙夜はやけに真剣な表情をしていた。そのことが俺を無性に不安にさせる。


「……そうね! まだ何も分かってないもの、せめて何に耐えなきゃいけないのかくらいは知りたいわ!」


 しかし、沙夜は真剣な表情を笑みに変えると、明るくそう言った。

 そうだよ、まだ何も分かってない。これからなんだから、諦めるなっての。



「もう、急に変なこと言うからびっくりしたじゃんかよ」

「考え直してくれた……、んですよね? ごめんなさい、色々試されて沙夜ちゃんも嫌でしたよね……。そこまで思い至らなくて……」

「ううん、そうじゃないわ理恵。理恵は悪くないのよ」

「飯島は何も悪くないってさ」

「そ、そうですか……! よかった……」


 たちの悪い冗談。そんな雰囲気があたりを包んで、俺は少し安心していた。

 沙夜はまだ諦めてない。沙夜だってもとに戻りたいはずなんだから、あんなの冗談じゃなきゃ言わないって、そう思ってたんだ。


「弱気になるのも分かるけどさ、10年も何も変わらなかったんだし、そんなすぐに変わるもんでもないんじゃないか?」

「それもそうね」


 気がつけたはずだった。思い至れたはずなんだ。沙夜が抱えているものに。

 暮の教室でこぼした心の声に。話を切り出した時の真剣な表情に。こうして浮かべる寂しそうな表情に。俺は考えを巡らさるべきだったんだ。




 それを怠った俺を待ち受けているものは、翌朝姿を現すことになる。




「情〜!? あんたいつまで寝てるの!?」


 朝の寝室に響く怒号に俺は思わず飛び起きた。

 辛うじて座布団を敷いてはいても、床で寝るのは疲れるのか、最悪の目覚めだ。


「あと10分……」

「もう10分遅れてるわよ! まーた床で寝てぇ。早く起きないと遅刻よ!?」


 ……ん?10分遅れてる?

 俺は慌てて手元の時計を確認する。そこには母さんの言うとおり遅刻ギリギリの時刻が刻まれていた。


「ちょ! 母さんなんでもっと早く起こしてくれなかったんだよ!?」

「そんなの母さんのせいじゃないわよ。あんた最近早起きだったから母さんも油断してたわ……」 


 ……ってそうだよ! 沙夜がいつも起こしてくれてたんじゃん!? 沙夜のやつ今日はどうして起こしてくれなかったんだぁ!


「じゃあ母さんもう行くから、情も早く学校行きなさいよ!」


 母さんが部屋を出ていって、俺は慌てて準備をしながら同居人に文句を垂れる。


「もぅ沙夜! なんで今日は起こしてくれなかったんだよ? おかげで遅刻だよ!」


 ――私は起こしたわよ? でも情が起きなかったんじゃない。それに自分の失態を人に押し付けないでくれる?




 そんな正論が飛んでくるものだと、そう思っていたのに。




「沙夜? 返事くらいしろよなぁ」




 騒がしくも心地よい、そんな一日が始まるものだと思っていたのに。

 違和感を感じた俺は、沙夜がいるはずのベッドを振り返る。




「…………沙夜?」




 でも、振り返ったベッドに、沙夜はいなかったんだ。




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