第1章 空想の友と夏休み
第1話 写らざるもの
どうしてだったか、その日俺は神社に行こうと思い立ったのだ。
今思えば気がふれたとしか思えないが、なに気にする必要はない。きっと夏の暑さがすべて悪いのだから。
じりじりと頭頂部から音がしそうな勢いで照り付ける太陽にガン無視を決め込んで、俺は長い長い石段を、魔王の玉座を目指す勇者よろしく踏みしめていた。
もうどれくらい登っただろうか。50を超えたあたりから数えるのも億劫になってしまった。
暑さは次第に俺の気力と水分を奪って行って、一歩一歩が徐々に重くなる。
首から下げた一眼レフの重さですら億劫になるのだから、今の俺にはインコの羽すら持てないだろうと思う。
垂れる汗が目に入らないようにと
その脇を固める雑木林が、この先にラスボスが待っているという期待感を匂わせる。
そう考えると俺はやっぱり勇者なのではないだろうか、と。一眼レフのレンズカバーを外しながら思う。
でも手に持つ武器は麦茶のペットボトルだし、着ている防具は量販店で買ったドライTシャツと麻の短パンだ。これじゃあ棒切れを持った始まりの街の勇者の方がよほどましというものだ。
俺はしゃがみ込み、ファインダー越しに石段の終わりを見つめ、シャッターを切る。
軽快なシャッター音がして、俺の見た景色が切り取られる。
うん、タイトルは「勇者への一歩」だな。
俺は大きなため息をついて後ろを振り返ってみる。
最初にくぐった鳥居は思っていたほど遠くはなく、現実から目を逸らそうと視線を上げると、ずっと向こうの山にぶつかった。
一見するとただ山があるだけなのだが、それは一つの山ではなく、いくつかの山々で構成されている。そしてその山間を縫うようにして民家がぽつりぽつりと散見される。
ここもあそこと似たようなど田舎の町だ。いや、村というのが正しいかも知れない。
人は山に場所を譲ってもらって生活しているのだ。自然の中において人間の地位は低いのだと思い知らされる。
そんなど田舎だから夏休みになっても遊びに行く友達もいないままなんだよなぁ。だってみんな街の方に住んでるんだし、ここから街まで片道30分はかかるんだもんなぁ。さらに言うと電車の本数も一時間に一本と少ないし。
そんな現実からも目を逸らすため、俺は仰け反るようにして空を見上げる。
抜けるような青空と、それに嫉妬したように浮かぶ積乱雲。
ぐるりと遠くに目をやると、山頂にお尻を突かれた積乱雲が機嫌を損ねたように黒く染まっていた。
……雲の動き的にこっちには来なさそうだけど、ありゃ絶対雨だろうなぁ。
いっそ雨でも降ってしまえば涼しくもなるだろうに。……いや、ただ蒸し暑くなるだけか。
近くを流れる沢のせせらぎだけが唯一の癒しだが、それもこの夏に絶対彼女を作りたいと命を燃やすセミの鳴き声で台無しとなっている。
「はい、みーんみん。みんみんっとな」
俺も真似して鳴いてみたが、よく考えたら俺がほしいのは人間の彼女だったので意味がないと悟った。
こうして俺も大人になっていくのだ。悟り世代なのだ。
そうだよ、もう悟りを開いたのだし帰っていいのではないか? 家に帰ればキンキンに冷えた麦茶とこれまたキンキンに冷えた冷やし中華がある。
取れたてのきゅうりとトマトもあるのだから、きっと最高のパラダイス。脳がパラライズ。昇るよサンライズ。
……うん、適当に
いよいよおかしくなってきた頭で考えるのは、どうしてこんなことをしようと思ったかということだった。
たしか盆前に墓掃除をすると言い出した両親に反発して、美術の授業でデッサンの宿題があったから神社まで行って描いて来ると言ったのだ。
本当はそんな宿題はおろか、俺は美術の授業を選択すらしていないのだが、両親はそれなら仕方がないと俺を送り出してくれた。
でも今頃気が付いているころ合いだろう。なぜなら俺はスケッチブックも鉛筆も何も持ってきていないのだから。代わりと言っちゃなんだが、カメラは持ってきたので許してほしい。
……まったく、いつまで俺のことを小学生扱いするつもりなんだろうか、あの人たちは。もう高校二年だと言うのに、彼らの中では俺はまだ幼い子供のままなのだろう。
もうとっくに朝だって自分の判断で起きられるし、宿題だって自分のペースでやっている。何が正しくて何が間違っているのか、今やるべきことは何なのか。そんなことはもうとっくに分かっているのに。あの人たちにはそれが分からないのだ。
さて、気分もだいぶ落ち着いてきたことだし、一応てっぺんまでは登るとしますか。
そして俺は、再び偉大なる一歩を踏み出したのだった。
――――
たどり着いた頂上は、思っていた通り味気ないものだった。
ある意味味はあるのだが、俺の想像していたようなラスボスが住まう
石段の脇を固めていた雑木林が、そのまま今度はぐるりと境内を囲むようにして展開し、この灼熱の地獄にオアシスを作り出していた。
あれほど俺を睨み付けていた太陽は、それらの雑木林ガードによって木漏れ日と化し、夏の主役からこの神社を彩る脇役と成り下がっていた。
ファインダーをのぞき込み、何枚か写真を撮る。タイトルは「たどり着いた先」だな。
一礼してから鳥居をくぐると、まず目に入るのが
冷たい水で一時的に体を冷やしたことで清涼感がアップした俺は、ファインダーに手水舎を収め、先ほどよりも幾分も軽い気持ちでシャッターを切る。タイトルは「龍の息吹」ってところだろう。
そんな手水舎を脇に追いやり延びていく参道の続く先は、
参道の真ん中を歩かないようにしながら進むと、その道中にこの神社がどんな神様を
ちらりと読んでみると、ここは
そうだったんだ。地元の神社って案外なに祀ってるのか分からんもんだなぁ。それに城か。だからあんなに城壁チックな石垣が境内を囲ってるんだなぁ。一つ勉強になった。昔何か気に入らないことがあるとよくいじけに来たもんだけど、改めて見てみると新しい発見があるもんだ。
せっかくだからと一枚写真を撮る。タイトルはそうだなぁ……、「お得な掲示板」とか?
神様に怒られそうなことを夢想しながらも、俺は拝殿に向かい合う。随分と年季の入った拝殿だ。今にも朽ち果てそうな柱が重そうな屋根を支えている。
引きで一枚写真を撮り、近づいて鈴を鳴らす。
……うん。やっぱりここって神社だよなぁ。なんていうか言い知れぬ厳かさがある。
住所と名前を申し上げた後、どうかこの夏に素敵な彼女ができますようにと祈りを捧げる。
セミじゃないが俺だって彼女の一人や二人。いや、二人もいらないけど、ほしいものだ。俺も年頃の男子。恋愛に興味がないわけじゃない。ただ必死に興味のないふりをしているだけだ。
お腹すいたの次に彼女ほしいと口に出すほど彼女がほしい高校二年生男子。非常に健全な青少年の形に思う。
じゃあどんな彼女がいいのかと聞かれると少し困るけど、こう清楚な感じでぇ、今にも消えてしまいそうな儚さがあってぇ、世間知らずなお嬢様的な感じだとなおよし、だ。
……あれ? 考えてみると結構具体的な理想像があるもんだなぁ。まぁ、このど田舎じゃそんな人に巡り合えるわけがないんですけどね。
きつく目を閉じて必死な祈りを終えると、俺はファインダーを覗き込む。
こう、神社の拝殿とかって写真撮っていいのか迷うけど、今感じたこの気持ちを切り取っておきたいと思うから、心の中で頭を下げながらシャッターを切るために指に力を入れる。
カシャッ、と。
その風景を、俺の感情も一緒に切り取っていく。
カメラとは、写真とはそういうものだと、父さんが一丁前に高説垂れていたのを思い出す。
その世界を切り取り、その時感じた感情や思い出を、その先の未来でも思い出せるようにするものなのだと。思い出とは色あせて、いつか曖昧なものになってしまうから、そうして切り取ることでいつでも鮮明に過去を思い出せるのだと。
さながら時間旅行だな。タイムスリップだよ、と。父さんは誇らしげに言っていた。
なにがタイムスリップだ
この一眼レフを父さんから譲ってもらってもう数年が経つが、撮った写真を見返してみるとその時感じた気持ちや思い出が鮮明に
人は記憶を感情や五感で紐づけると聞いたことがあるが、これはまさにそれだ。視覚を起点として当時のことを思い出せる。
ごめんよ父さん、禿げてるのは頭頂部のほんの少しだけだったね。まだ希望はあるよ。
だからというわけではないが、俺は撮った写真を確認してその出来栄えを見るとき、美しく撮れているかではなく、その写真が俺の見た景色と
今回の写真はどうだったかな。程よい暗さとある種の不気味さや
「……は?」
その写真を見た時、俺は思わず声を上げた。
その声は誰もいないはずの境内に吸い込まれ、セミや木々の騒めきの中に消えていった。
「なんだよ、これ……?」
そこに写っていたのは拝殿だった。不気味さや厳かさが十分に表れた、俺の見たままの拝殿の写真。
それだけならよかった。拝殿だけならよかったのだ。
でも、そこに写っていたのはそれだけではなかった。
「女の子…………?」
白いワンピースを着た、俺と同じ年頃の女の子の後ろ姿。
背の中ほどまである長い髪は拝殿の奥の暗闇に溶ける様に黒く、洋服とのコントラストも相まって今にも消えてしまいそうな、本当にそこに存在しているのかすら危うい雰囲気だった。
朽ちかけた神社にあって、きちんとした身なりをしているから、その差が余計に不気味さを増している。
俺は恐怖におびえながらも顔を上げる。
先程まで必死に祈りを捧げていた拝殿の奥には、やはり誰もいなかった。
……気のせい、かな? 彼女がほしいという強い思いと、神社に感じた恐怖心が俺に幻を見せたのかもしれない。もう一度見れば写真からも女の子は消えてるだろう。
そう思ってもう一度画面を
しかしそこにはやはりくっきりと、女の子が写っているのだ。
以前見たことがある。心霊写真と言う奴だ。そこにないのに、明らかにおかしいはずなのに、まるで現実に存在しているかのように写り込む手や足や顔。
「う、嘘だろ? マジかよ、おいマジかよ!? こんな、こんなのどうすれば……? そ、そうだ!」
俺は怖くなって写真を削除しようと手を伸ばす。削除してしまえばきっと何事もなかったようにきれいさっぱり忘れられるはずだ。
たらりと
はやく、はやく消さないとッ……! た、
震えて俺の意思に従わない指を必死に動かして、俺は削除のコマンドにカーソルを合わせる。
あとは決定ボタンを押すだけだ……!
「なによ、それ消しちゃうの? せっかく良く撮れてるのに」
「………………は?」
自分でも聞いたことのない、か細くて裏返った声が飛び出した。
顔を上げると、賽銭箱に白いワンピースの女の子が後ろ手を組み、こちらを見下ろすようにして立っていた。
小さくシュッとした顔の上に、猫のようにつり上がった気の強そうな瞳と、小さな鼻と口が同居している。
その顔は不満そうに
やがてその視線は俺の視線と交差して、少女は驚いたように目を見開く。
「え? 嘘、あんた私のこと見えるわけ……? 私の声聞こえてる!?」
「……で、で、で――」
「で?」
「でたあぁぁぁああ!!」
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