第2話 中身はアラサー

「……で、で、で――」

「で?」

「でたあぁぁぁああ!!」


 俺は突如として目の前に現れた女の子の幽霊に絶叫をお見舞いすると、一目散に参道を駆け戻る。

 参道の脇を歩くなんてことは頭の片隅にもないから、俺は無我夢中で石段を目指して走る。走る。転んでも立ち上がってなお走る。

 逃げなきゃ、逃げなきゃ……! 殺される、祟り殺される、呪い殺されるぅ!


「ちょっと待ちなさいって! なんで逃げるのよ?」

「ぎゃあぁぁあああ! お化けえぇぇええ!!」

「誰がお化けよ! 失礼なっ!」


 逃げる俺に先回りするようにして再び目の前に現れた女の子は、腰に手を当てて怒った様子を見せる。


「あぁぁああッ! 幽霊に怒られた! 祟られる! 呪われる!」

「幽霊じゃないってのっ! それに祟ったり呪ったりもしないって! あんた私のことなんだと思ってるのよ!?」

「幽霊!」

「だから違うってのっ!!」

「ひぃー! 怒ったぁ! 幽霊怖いぃぃいいい!!」

「だぁああ! 少しは話を聞きなさいっての!」


 バシッ、と。俺の頭に軽い衝撃が走る。


「いてぇッ!? え、いてぇんですけどぉ!?」

「いや、二回言わなくても分かるわよ……」


 衝撃が走ったのは俺の頭部だけではなかった。そう、全身にその衝撃は駆け巡っていく。


 幽霊に、頭をぶたれた。

 幽霊に、さわられた。れられた。

 イクォール、祟られた。呪われた。


「あ、俺死んだわ」

「は? 何言って――、ってちょっとあんた、大丈夫!?」


 俺はそのまま崩れ落ちる。

 暗転する視界の中で、最後に目に映ったのは心配そうにこちらを覗き込む女の子の顔だった。





 ――――





 ……きもちいい。頬を撫でるそよ風が、鼓膜を震わすヒグラシの声が、雑木林のさざめきが。


「う、ん……。ここ、は……?」


 目を開けるとさっきまで木漏れ日だった太陽の光は、雑木林の横から差し込む夕日となって、赤々と境内を彩っていた。


「あ、やっと目を覚ましたのね。もう、ホントに死んだと思ったじゃない」

「あ、あぁ、すまん。俺はどれくらい寝ていたんだ?」

「うーん、3時間くらいかしらね? 声かけたのに全然目覚まさないし、見守っていてあげたんだから感謝しなさいよね」

「3時間も!? そうか、それは悪いことをしたな……。ありがとう」

「な、なによ? 急に素直じゃない。最初からそうだったらよかったのよ」


 体を起こして辺りを見回すと、白いワンピースを着た女の子が顔に喜色を浮かべて俺を見下ろしていた。

 俺がお礼を言うとむくれたようにそっぽを向き、腕を組んで偉そうな態度をとる。



 ……はて、この女の子は誰だろう? 俺は何か大事なことを忘れているような……?


「…………って! お前幽霊じゃん!? うわああぁぁあ!」

「だからもうそのくだりは終わったのよ!」


 再び走る頭部への衝撃。

 この感触、小さくとも確かな感触を持った女の子の手の感触! 俺は覚えているぞ、忘れるはずもない!


「って、幽霊が俺に触ったぁあ! 祟りぃ、呪いぃ……」

「そのくだりも終わったのよ! 第一触ってるんだから幽霊じゃないでしょうが!」


 女の子の言葉に俺はハッとする。まるで学校に遅刻する夢を見た後に目が覚めて、今日が休日だったと思いだしたときのような気持ちだ。


「……そっか。幽霊は触れないもんな? じゃあお前は幽霊じゃないんだ」

「そう何度も言ってるでしょうが」

「ってことは」

「うんうん」

「妖怪じゃん! 妖怪怖いいぃぃいい!!」

「だぁああ! 妖怪でもないってのぉお!」


 ハッとして思い出した後にやってくるはずだった安心感は俺にはやってこなかった。

 言うなれば休日だと分かったけどその日は補習で、今にも遅刻しそうだと分かったときのような気持ちだ。


「ひぃぃいいい! 悪霊退散! くわばらー! 急急如律令きゅうきゅうにょりつりょうぅうう!」


 俺は考え尽く限りの厄除けの言葉をまき散らしながら、武器となるものを求めて手をさまよわせる。急急如律令は厄除けじゃなかった気もするけど、それはこの際気にしない。

 そして気が付いた。俺の持っていた一眼レフがないことに。あれが一番武器になりそうだったのに。麦茶のペットボトルなんてクソほどにも役に立たないよ!



「って一眼ないんだけど!? お前取っただろ! 返せよぉ……、家に帰してよぉ……、冥土に帰ってよぉ……」

「ちょっと、最後の方おかしくなかった!? 冥土に帰れって、私は幽霊じゃないってさっき分かったでしょ!」

「あーもうっ! 分かったよ、好きにすればいいじゃないか! 煮るなり焼くなり魂抜くなりさあ!」

「だからそんなことしないってばっ! あーもう、なんか疲れてきたわ……」


 やけくそになって大の字に寝ころぶ俺を呆れた目で見降ろす女の子は、頭痛を抑える様に頭に手をあてがう。


「その一眼? とかってカメラはあそこ。あんた急に倒れるから壊れちゃいそうで心配だったから避けといたのよ。案の定起きたらすぐ暴れだすし、感謝しなさいよね?」


 女の子の指さす方へ目を向けると、拝殿へと続く参道に俺の一眼レフが置かれていた。パッと見る限りだと損傷はなさそうだ。


「え? そうだったのか……。ありがとう、お前優しい幽――、妖怪なんだな」

「だから違うっての。あんたホントに話の分からない男ね」

「ああ、友達にもよく言われるんだ。先入観とか思い込みとか、悪い癖だって」

「ええ全く。その友達に同情するわ」


 優しい妖怪なのだと分かれば一安心だ。言うなれば全力で急いだ結果、補習にギリギリ間に合ったときのような気持ちだ。


「ふぅ、ギリギリセーフだったな」

「何の話よ」

「補習の話」

「はい?」



 頭に疑問符を浮かべる女の子を放置して、俺は一眼レフを取りに立ち上がる。

 手にとって見ても目立った損傷はなさそうだ。少し傷がついて砂で汚れてしまってはいるものの、問題なく動作する。


「ふぅ、一安心だな」

「どう? 私そういうのよく分かんないから大丈夫なのか心配だったんだけど」

「うん、大丈夫だったよ。お前のお陰だな、ありがとう」

「そ、そうよ、最初からそういう態度ならよかったのよ」


 お礼を言うと女の子は再び偉そうな態度でそっぽを向く。

 なんだろう、お礼を言われると怒る人なのかな? あんまりお礼言わない方がいいのかな?



「それで、お前は幽霊でも妖怪でもないんだろ? じゃあなんなんだよ?」

「人間よ」

「いやいや、それはないわ」

「なんでそうなるのよ!?」

「だって見てみ? この写真」


 そう言って俺はさっき撮ったばかりの拝殿の写真を女の子に見せる。

 拝殿の中に佇む女の子が、薄く光るように写っている写真だ。


「私の神々しさがよく写し出されているわね」

「不気味さの間違いだろ」

「は? なんか言った?」

「いえなんでも」


 女の子に威圧されて思わず何でもないって言っちゃったけど、要はこの写真に女の子が写っていることが問題なのだ。


「だからさ、この写真にはお前が写ってるだろ? でもこの写真を撮る直前まで俺はお前を見ていないんだよ。シャッターを切る直前までこの風景を見ていたにもかかわらずだ」

「それは……」


 女の子は何か心当たりがあるのか言いよどむ。


「やっぱり……」

「いやそれはないから。あーもうっ、分かったわよ! 話せばいいんでしょ? 話せば!」



 それからまず女の子は名を名乗った。

 彼女の名は藤木ふじき沙夜さよというらしい。この辺に住んでいる高校二年生だと言う。

 名乗らせただけでは失礼なので、俺も名乗る。すると、


諏訪部すわべじょうっていうのね。それじゃあ情。私のことは沙夜って呼びなさい。いいわね?」


 とのことなので、初対面なのに名前で呼ぶ羽目になってしまった。

 でも藤木さんってイメージじゃないし、そのくらいラフなのがちょうどいいのかもしれない。



「私、この辺に住んでたのは昔のことで、今は大体この神社を根城にしてるのよ」

「根城て……。っていうか神社に? 女の子が危ないだろ」

「あら、気遣ってくれるのね。優しいじゃない」

「ていうか家出するにしても神社って、なかなか渋いチョイスだよな。てか風呂とか食事とかどうしてんの? まさか天然のシャワーと取れたての野草とか? まじかよ……」

「おい、勝手に話進めんな。いいから黙って人の話聞きなさいよ」


 沙夜がそう言うので、俺は大人しく口を閉ざす。

 すると沙夜は目を閉じ長く息を吐き、まるで世界の終わりを予言する予言者のような沈痛な面持ちでそれを告げた。




「まず最初に言っておくわ。私は幽霊でも妖怪でも、まして家出少女でもない。よ」




 そうして告げられた言葉は、世界が明日終わりますと言われる方がまだ信じられるような内容だった。


「透明、人間……。透明人間ねぇ。いくら幽霊って言われるのが嫌だからってそれはないでしょ。嘘ならもうちょっとましなものつかないと」

「いや嘘じゃないわよ! 本当にそうなんだって!」


「いやいや、透明人間ってあれでしょ? モテない男たちが生み出した悲しき化け物でしょ? 女湯覗き放題とか、女子高に潜入できるとか、手を出す勇気がない時点でモテない感じがにじみ出てるあれでしょ?」


「……何その先入観。ていうか妙に詳しいじゃない」

「……まぁ、俺も男の子ってことですよ……」

「そ、そう……。悲しい生き物なのね」


 沙夜からの哀れみの視線を全身にまとい、俺は微笑む。

 ……あれ、おかしいな。目頭が熱いや。


「ってそうじゃなくて! 本当に私は透明人間なのよ! ある日突然この世界の誰からも認められなくなって、誰にもこの声は届かないの。それに物や人にも触れられないし……」

「は? でもお前さっき俺を叩いたじゃん。ビシバシと叩きまくってたじゃん。こうして話もできてる。それに一眼も避けておいてくれたし」

「それがよく分からないのよ。カメラは触れないから、あんたの体をあれこれ動かして地面に落として、それからあんたを引きずって動かしただけだし」


 だから砂や傷がついてたのね。よく見たら俺の尻にも土がこびりついているし、体も少し痛いし。

 ……まぁ、一眼レフが無事だっただけで良しとするか。


「よく分からないって……。じゃあそれこそ風呂とか食事とかどうしてるんだよ?」

「必要ないのよ。私はあの日のまま清潔で、お腹も減らない。ただ眠くはなるから寝なくちゃいけないんだけど、それ以外は何も必要ないの」


「なんだよ、それ……。めっちゃ便利じゃん」

「……あんたさぁ、ずれてるって言われない?」

「お、なんで分かったんだ? よく言われるんだよ、そうじゃないだろって」

「はぁ……。私あんたの友達とは気が合いそうだわ……」


 盛大にため息をつく沙夜は、頭痛がするのか頭を押さえる。

 頭痛持ちなのかな? 俺の友達にも頭痛持ち多いんだよなぁ。不思議だ。




「便利なわけないでしょ? もう10なにも触れない、誰とも話せない。おいしそうなものがあっても食べることすらできないんだから」




 沙夜の口から告げられた真実に、俺は耳を疑った。


「…………え? 10年……?」


 沙夜はきょとんとした顔をして首をかしげると、確かにうなずいた。


「ええ、そうよ。私は10年前にこの世界から切り離された透明人間よ。ここ10年であたしが見えて話しができたのは情、あんたが初めてよ」

「そんな、そんなのって……」


 俺は絶望で目の前が真っ暗になる。

 ……いや、きっと俺以上に辛い思いをしてきたのは沙夜だ。俺が暗い顔してどうする。

 とはいっても、もし俺がって想像したら……。



「……そうか、辛い、よな」

「なに? いたわってくれるの? 情って優しいのね。でも大丈夫よ。私も最初は辛くてどうしようもなかったけど、今は慣れてきたところだし」

「とはいっても10年前ってことは7歳かそこらで透明人間になっちゃったってことだろ? そんなの辛すぎるよ……」


 俺がもしその年ごろに誰からも認められなくなったとしたら、この世界との接点を絶たれたのだとしたら、きっと俺は自我を保てないかもしれない。

 それでもこうして俺の目の前にいる沙夜は正気のように見える。相当な苦悩があったはずなのに……。




「え? あぁ、違う違う、違うわよ。私が透明人間になったのは17歳の時。1710のよ」




 しかし沙夜はあっけらかんとした様子でそんなことを言った。


「……は? じゃあなんだ、年を取らないってことか?」

「まぁそうなるわね。体の状態は成長も含めてあの時からめっきり止まってるわ」


 17歳で透明人間になった。そしてそこから10年たって今の沙夜がある、と。

 ということはあれだな、うん。17+10で答えは――


「えぇ!? じゃあ今沙夜は27歳ってことか!? うっわ、おばさんじゃん!」

「だーれがおばさんよ! 身も心もまだピチピチの17歳だっての!」

「その表現がすでにおばさん臭い!」

「は、はぁ!? そんなわけないでしょ!?」

「焦ってるところがまた真実味を増していく……」

「そ、そんなんじゃないっての! ていうか27歳ってまだおばさんじゃないし!」

「はいでましたー。アラサー女のよく言うセリフベスト5-」

「ア、アラサー言うなぁあ!!」



 顔を真っ赤にして俺に殴り掛かってくる沙夜をかわしながら、俺は少し安心していた。

 17歳でこの世界から切り離されて、そこから10年も一人きりだったのだ。きっとどれほど辛くて寂しくて、心細かったことか。

 俺には想像することもできないけれど、こうして俺が沙夜と出会えたのはなにか理由があるはずだ。だからせめて今は元気な姿でいてほしいと思う。そして願わくはこの先も。


「じゃあ若さにしがみつく必死なアラサー女を一枚」


 カシャッ、と。この一瞬を切り取る。


「ちょ、ちょっと! 何勝手に撮ってるのよ!?」

「記念だ、記念」

「消しなさい! それ今すぐに消しなさい!!」


 必死に追いかけて来る沙夜を躱しながら、俺はカメラの画面を確認する。

 そこには拝殿に立っていた時の沙夜のような薄気味悪くて今にも消えてしまいそうな儚さはなく、顔を真っ赤にした、確かに血の通った人間の沙夜が写しだされていたのだった。

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