第2話 ライバルの出現
今、エメルトン夫人はファーストクラスの窓際の席に座り、雲海の隙間から時折見える青く雄大な大海を眺めていた。窓の外の景色に退屈してくると、時折、左手を電灯の方にかざして、その細い指にはめられた5カラットの煌めくダイヤの指輪を周囲の乗客にひけらかしながら眺めた。しかしながら、その人が強運であるかどうかが判別できないという理由のみで、資産家の友人を一人も連れて来ることができなかった、今回の旅行に対して、彼女は心底退屈していた。彼女の周りの座席には、自分と同じ集いに参加すると思われる、他の強運者の面々が揃っていた。だが、自尊心の強い彼女は、他の参加者の中に混じって、会話をする気にはならなかった。事前に示された出席者のリストには、一応目を通しておいたが、彼女の見るところ、下街をあてもなく歩く、一般の人間に少しの毛が生えた程度の運の持ち主がほとんどであり、自分の果てしなく輝かしい運量と真っ向から張り合える人間などいないという結論にすでに達していた。
どうせ、このままロンドンに到着しても、マスコミ各社のカメラは、すべてこの自分に向けられるのだろう。強運者の集いの舞台を飾る主役は、どうあれ自分である。この飛行機内には、才能でなく、運によって人生の階段をのし上がってきたといえる人物は幾らか揃っているが、すべての人が羨む、宝くじの一等を二度も当てるという快挙を成し遂げた自分と比較できる人物はいなかった。どちらかと言えば、この旅には優越感より驚きの方が欲しかったのだが。もっとはっきり言ってしまえば、彼女は他の参加者を完全に見下していた。やはり、ライバルなどいなかった。自分は孤高の存在である。
ただ、残酷な現実にもめげずに、世間知らずの参加者同士での会話を楽しんでいた。こういった周囲の強運者たちも、エメルトン夫人がはっきりと貫き通している、他人を見下したような、冷ややかな態度をよく思ってはいなかった。人間というものは資産の多寡によって図々しさも増してくるのか、今度の会の参加者には、彼女の引き立て役に回ってやろうなどと考えている慎ましい人間は一人もいなかったのである。確かに、この場にいる大多数の参加者は、エメルトン夫人を当代随一の運の持ち主であると認めてはいたが、自分もここまで成り上がってきた、半生の出来事をうまく説明することさえできれば、彼女と同じくらいの地位にまでのし上がれると信じ切っている人間たちばかりだった。つまり、周りを取り囲んでいる強運者の多くは、今度の会が絶好の自己アピールの機会であることを知っていた。自分たちの才能の多寡はさておき、とりあえずは、一番人気であるエメルトン夫人を心底妬みきっている彼らは、折りあらば、彼女をロンドンでの舞台から押しのけて、自分こそが次のスターになるのだと目を光らせ隙を伺っていた。
そういう性質の参加者の代表者にトンボイ青年という若者がいた。彼は幼い頃から才能云々の前に盗癖があり、まだ小学校にも入らない時分から、学校を抜け出しては、近所の雑貨屋で窃盗を繰り返してきた。彼は今二十二歳になっていたが、これまでに六百八十二回の窃盗(万引き)を繰り返していて、しかも警察に逮捕されたことは一度もなかった。幼い子供による万引きといえば、チューインガムやチョコレート程度で済んでいたのであるが、青年になってからは高級ブランド店や宝石店にも出入りするようになり、バッグや時計、宝石指輪などの貴金属類の強奪を繰り返していた。盗んだものは裏社会での取引ですべて換金し、彼は生まれてからこの方、何の職業にも就いていないにも関わらず、この若さにおいて一財産を築いていた。
もちろん、警察に逮捕されたことがないということは、自分が長く続けてきたことにいっさいの反省をしたことがないわけである。彼は精神が成長するに従い、すっかり傲慢になっていた。いつの頃からか、自分の罪を他人に隠そうとはせず、周囲の人間に向かって、かえって公表するようにまでなっていた。いくら窃盗を続けることで、莫大な財産を築いても、誰にも評価されないのではつまらないというのである。ついには、自分の盗みのテクニックを、同じことのできない他人から賞賛して貰いたいとまで思うようになったのである。友人知人は彼の話を聞くと、一様に驚きを見せるが、誰もそのことを非難したり、警察に通報したりは出来なかった。それはなぜかというと、彼の犯罪の後には、証拠が何も残っていないからである。万引きというのは、物品を盗られた店側から被害届が出ていない以上、被疑者が盗むときのその一瞬を抑えなければならない。そして、トンボイ青年のその神速のテクニックを肉眼で見分けたものはまだいなかった。その鮮やかな手並みには、棚の上の目立つところに飾ってある一番の高級品が盗まれたことにさえ、店のスタッフもまったく気づいていない有様だった。もちろん、その大胆なる犯罪が事件として、新聞やテレビで報道されたこともなかった。警察はその大きな街で大胆な犯罪が何十年にもわたり繰り返されていることすら、まったく知らされていなかった。
しかしながら、トンボイ青年は、この歳にもなると、いくら罪を重ねても逮捕されないというスリル無き今の現状に、次第に飽き飽きするようになり、いつしか、自分の存在をもっと世間一般にアピールしたいと思うようになり、今回の強運者の集いへの参加を決めたのである。この集会で彼の評価が上がれば、これまでよりずっと警察にマークされる機会が増えるだろう。テレビアニメが証明するように、犯罪者であっても、有名であれば有名であるほど後の世には逸材として伝わるものである。この集う会への参加が、あるいは将来自分が逮捕されることへの、きっかけになってしまうとしても、それはそれで構わないとさえ思っていた。彼は今、その暗く鋭い視線でエメルトン夫人の様子を逐一伺っていた。自分が今後ともこの世界で成り上がっていくためには、この目の前の夫人を社交界から蹴落としてしまうことが何よりも優先して必要なのである。そんなトンボイ青年の決心を察したのか、後方から、一人の老医師が足音も立てずに近づいてきて、彼にだけ届く声でこうささやいた。
「どうでしょうな、このまま順調にロンドンの集会とやらが開催されたとしても、世界で一番の強運者はエメルトン夫人ということで、その評価はすでに決まっていて、私やあなたが入賞ラインに入り込む余地はないでしょう。彼女の前評判は飛びぬけてますからな。しかし、結果としては、我々のこの長い旅路はすべて無駄になり、ただの観光旅行となり、結局のところ、我々の懸命な訴えの全ては彼女の引き立て役にしかならんわけです。しかしですね、よくよく考えてみますと、彼女の金儲けの仕方には、いささか品がないといいますか、世間一般の人々を引きつけるロマンスのようなものが足りないようですな。もう少し言ってしまえば、偶然に頼って、二度にわたり当たりくじを引いただけですからな。ちょっとした運さえ備えていれば、子供にも出来るわけです。まあ、国家としての脈々とした伝統がまだないアメリカでは、あの単純な事件でも、すっかり通用したようですがね。彼らの思考回路は単純極まりなく、個々の人生を、財産の有無と勝負ごとの結果でしか判断できない国民性ですからな」
トンボイ青年がそのしゃがれた声に振り返ると、プジョルという高齢の医者が幽霊のようにそこに立っていた。青年はこの老人の醜さと愚劣さにもいささか辟易としたが、彼の意見には、はっきりと同意することにした。その上で、彼はエメルトン夫人への敵意を剥き出しにして、少し離れた席に座っている彼女にわざと聴こえるような大声でこう言った。
「おや、ご老人、まったく、おっしゃる通りですよ。あの夫人はね、二度の大当たりですっかり気を良くしていて、自分は天に選ばれし者だから、いつでも大当たりを出してみせると豪語しています。しかしね、人づてに聞いた話では、ここ5年間の間に実は相当量の宝くじをマスコミにはいっさい公表せずに別途に購入していて、実際のところ、その中には、無残に外れたくじも多く含まれているそうなんです。つまり、彼女の運とてパーフェクトではないんですな。たまたま、同時期に二度の大当たりが重なったに過ぎない。南米伝来の呪術を使ったわけでもなければ、三日三晩祈りを捧げて、幸運の天使を呼びよせて皆に見せたわけでもない。言い換えれば、一瞬で運を使い果たした人。そう、ただそれだけの人かもしれないんです」
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