Ⅱ・深夜の電話

 深夜――。

 私は実家の居間にいた。恋人と二人きりだった。私達二人はソファに腰かけ、何をするでもなく、

ぼんやりとしていた。

 二人の周りには、夜の静寂がまとわりついていた。聞こえるのは、彼女の張りつめた息使いだけであった。

 しかし突如のことである。電話が鳴った。彼女の顔に、さっと恐怖の色が差した。私はこんな深夜に誰だ、と僅かに苛立ちながら電話に向かった。

 私は電話を取った。

――もしもし。

――……。


 声が小さく、何を言っているのか分からなかった。


――もしもし。


 今度は強く呼びかけた。しかし、手ごたえはなかった。私はさらに苛立ちを覚えたが、相手の声に耳を澄ませ、何とか聞き取ろうとした。すると、相手の声は僅かではあるが段々と大きくなっていることが分かった。どうやら相手は一定のリズムで何かの言葉を繰り返しているようであった。声が大きくなり、聞き取れるようになってくると、その意味もまた明瞭になっていった。

――南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経南無……。


 相手はお経を唱えていたのだ。低い低い男の声の合唱であった。その声は録音のように余りにも正確にリズムを刻んでいた。しかし、はっきりと相手の息遣いも聞こえている。録音ではなかった。

 お経を唱える声は大きくなっている。知人の声ではなかった。呪詛のように、地獄から響いてくるような低音だ。私は不気味に思って、電話を切った。

 電話を置き、振り返ると、彼女は座ったまま怯えた表情を見せていた。


――何だったの。

――分からない。お経が繰り返されていた。


 彼女は俯き、それ以上何も言わなかった。

 そして再び電話が鳴った。


――もしもし。

――夜分遅くに申し訳ありません。〇〇ショッピングでございます。今なら夜を生きるお客様に、とってもお得な商品がありますの。


 それは女の声だった。丁寧でいて、どこか胡散臭い喋り方だった。夜に似つかわしくない、元気のある、はきはきとした声だった。


――通常価格が二万九千八百円のところ、今ならなんと、九千八百円でのご提供となっております。

――はあ。

――とてもお得でございますでしょう。お買い求め頂けるようでございましたら、そちらのご住所を教えて下さいますか。早々に商品と、ご入金の案内を送付します。


ふと、これは詐欺だと確信した。


――通常価格より、なんと二万円引き、二万円引きでございます。とてもお得でしょう。このような夜更けに起きている貴方様にだけのご案内! さあ、お買い頂けるようでしたら……。

――失礼、間に合っていますので。


 すると相手が先に電話を切った。


――何だったの。

――分からない。何かの営業だった。

――こんな時間に?

――何だか、詐欺のようにも思えた。

――そう、そうね……。


 彼女は未だ何かに怯えていた。

 私は彼女に声を掛け、居間の明かりを消し、二人で二階に上がり、私の寝室に向かった。途中、両親の寝室が見え、その中に私の母と父と、そしてもう一人見知らぬ男がいるのを見た。

 私の寝室に入ると、扉を開けたまま、私達二人は一つのベッドの中に入った。すると、いつの間にやら彼女の表情が煽情的なものに変わっていた。私の顔を見つめて、私に笑みを投げかけると、彼女は私の体にのしかかり、服をまくって私の体をちろちろと舐め始めた。私は何も言わず、ただ自分の下腹部が熱くなるのを感じていた。

 ふと、扉の方を見遣ると、開け放たれた扉の先に父の部屋の中が見えた。

 扉を閉めようかと迷っていると、父が私の部屋の前を通り、自分の部屋へ入って行った。

 父はこちらの方を伺いもせず、彼の部屋にある大きなオーディオスピーカーをいじりだした。やがてそのスピーカーから、大きな音で、音楽が流れ始めた。同期の桜だった。

 聞き覚えのある歌詞が私の脳を満たしていった。しかし、その音とは別に、聞き知らぬ音もまた混じっていた。その音は戦中にあるはずの無い電子的な重低音と、そしてドラムの音だった。ずん、ずんと腹に響くような音が鳴っている。そしてそのリズムに合わせ、男達のあまりにも低い音程の、あの合唱が鳴り渡って来た。

 ああ、父は母を、あの男に売ったのだろか……。

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