第2話 当務明け

 川本鮎子は、自分で119番通報をしていた。そもそも死ぬ気はないということだ。本当に死にたいなら、ひっそりと死ぬ。俺ならそうする。

 で、現場での俺は、ほとんど金魚のうんこ状態。隊長に言われるままの行動しかできなかった。隊長が観察した後、ベッドに横たわる彼女を毛布でくるみ、部屋の外に搬送。ストレッチャーに移して車内収用し、病院へ搬送した。

 胃洗浄後、経過観察のために二三日入院ということだった。家族への連絡とか警察の対応とか、あとのことは病院に任せ、俺たちは引き上げた。

 その後は何事もなかった。火災出動もない。

 朝の交代を終えた時、俺は開放感に浸った。全寮制で規律規則に縛られた消防学校を卒業したときとはまた違った開放感だ。刑期を終えて釈放された囚人はこんな気持ちなのだな、そうに違いないと感じた。

「コーヒー飲んでいかねえか」と小田原さんに誘われたが、「今日はちょっと」と断り、寮に直帰した。予定があるのだ。もっとも日が暮れてからの予定だが。

 部屋に入ると同時にベッドに倒れ込むと、俺はそのまま気を失った。

 昼過ぎまで寝ていたのだが、まだ頭がぼうっとしている。このままではいかんと思い、シャワーを浴びたらようやく目が覚めた。

 十八時半。駅前交番の前には、待ち合わせと思しき男女が数名、立っている。それらの傍らを、仕事帰りと思われるサラリーマン、OL、高校生などがひっきりなしに通る。よくもまあこれだけの人数が集まるものだと感心してしまう。交番の警察官も訪れる人々への対応に忙しそうだった。「大都会は違う」と唸らざるを得ない。

「お待たせ」

 目の前を通ってゆく人々をなんとなく見ていた時に、聞き覚えのある澄んだ声が頭の後ろから聞こえたので、反射的に振り向いた。

 セミロングのヘア、化粧っ気のない、少したれ目でそばかすの、愛嬌のある顔が目に飛び込んできた。

 彼女、大澤(おおさわ)まどかの顔を見ると、俺は自然と微笑んでしまう。

 今日の彼女は、薄いピンクのタートルネックセーターにネイビーのピーコート、ベージュのパンツに茶のローファーという格好だった。

「いやいやいや、俺も今来たところだよ」

 本当は二十分前に到着していたが、反射的にそう言ってしまっていた。

「本当?」

 知っていてとぼけているのか、本当にそう思ったのかはわからないが、ちょっと小首を傾げて上目づかいでこちらを見た。そんな彼女を見ていると、殺伐とした心が癒される。

 俺たちは、合図もなく、どこへ行くとも言わずに歩き出す。

「相変わらず学生みたいな格好だわね」

「そっちこそ。地味だな」

 言った途端にまどかの頬が膨らんだ。

「通勤着だもの、いいでしょ。わたしが仕事帰りってわかっているんだから、バランス考えてくれたらいのに」

 俺はジーパンにスニーカー、スウェットシャツにダウンジャケットという格好だ。気取った格好は好きではないのだが、「悪かったよ」といちおう引き下がった。

 まどかはすぐに「冗談よ」と屈託のない笑顔を見せた。俺は内心ほっとした。

 まどかとは、もうかれこれ一年ぐらいの付き合いになる。彼女も俺と同じ西池袋消防署に勤務する女性消防官で、本署の防災係員だ。年齢も同じ。ただ彼女は大学卒で、さらに前職があるので、この世界に入ってまだ二年目だ。彼女が配属された当時は、俺も本署で同じ係だった。同い年だが、高校卒で入った俺は、すでにこの世界で八年目。職場の先輩であるのでなにかと彼女の相談に乗ったりしているうちに付き合うようになったというわけだ。

 左側を向くと彼女の顔がある。こうなると、俺の左肩は心なしかこわばってしまう。

「ね、今日は何の日か知ってた?」

 まどかがこちらに視線を向けた。

「はい?」

 二人が出会った日ではないし、初デートの日でもない。ましてまどかの誕生日でもない。俺はおうし座で彼女はしし座だ。そのほかには思い当ることはない。俺は降参した。

「今日、一月二十六日は文化財防火デーなんだよ」

 いきなり何を言い出すのかと思った。

「法隆寺が焼けた日。正確には法隆寺の金堂。それから文化財への意識が高まり、大事にしていきましょうということになって、この日が文化財防火デーということになったのよ」

 あ、そう、それがどうかしたの、と言いかけたが、それではこの先話が続かない。

「へぇ、さすがだね。ウチでも演習か何かやったのかい」

「うん、本署でね。熊野神社で消防演習」

 俺にはそんなことを気にしている余裕などなかった。法隆寺がどうかしたということなど、はっきりってどうでもいい。そんなことは、はるか彼方の出来事だ。今の俺は、まだ身体に残っている虚脱感、重苦しさを何とかしたかった。眠気が残っているのか疲れなのか、時折頭がボーっとしてしまう。

 駅の地下通路は、通勤ラッシュでかなりの人が行き来している。うっかりすると、すれ違いざまにぶつかってしまいかねない。

 俺はまどかの手を握って、人ごみの中を縫って歩いた。

 ねえ、とまどかが呼んだ。俺は「なんだい」と歩調を緩め、まどかを見る。

「救急隊はどうですか、慣れましたか、疲れてないですか」

 姉が弟に質問するような口ぶりだった。最近はメールを送らない日もあるからだと思い至る。研修に行く前は、朝昼晩と欠かさなかったのに。

「うん、たいへん」苦笑いをして答える。

 そうなの、とまどかは眉根を寄せた。

「ホントにたいへんだな、この人ごみ」

 まどかの手を強く握り、人の波を縫うようにすり抜けた。角を曲がる。

 人の数はぐっと減ったが、それでも流れは途切れない。どこからともなく、間断なくやってくる。

 俺たちは地上に向かう階段を上った。


「ねえ、何が? なにがどう大変なの?」

 今度はまどかが俺の手を強く握った。興味津々といった瞳が俺を見つめている。

 地上に出て数歩歩いたところで、俺はまどかの手を引き立ち止まった。

 まどかを見つめ「俺、嫌になった」と呟く。

 まどかはえ、と一瞬大きく目を見開き、動きを止めた。

「わたし、何かした?」呟くような小さな声だった。視線が宙を泳いでいる。

「違う違う。救急が、さ」俺は首を小さく横に何度も振った。

 まどかは安堵したのか「なんだあ」と胸に手を当て、ため息をついた。自分のことを言われたと思ったらしい。彼女は時々早とちりする。

「そんなこと言わないでよ。まだ始まったばかりじゃないの」

 彼女の瞳の焦点が俺の顔に戻った。

 俺はまどかの視線を振り切り、彼女の手を引いて歩き出す。目指すはサンシャイン通りだ。

「いや、もうたくさんだね。身体がもたないよ。このままだと、間違いなく身も心もボロボロになってしまうよ。そんなこと、俺はいやだ。それに」

「それに、なに?」

「どうでもいいような内容が多いんだよ。俺たちはタクシーの代わりじゃないっつうの。行ったら荷物持って待ってるんだよ、本人が。力が抜けるよ。自分の家の前にホームレスが座り込んでいるからって呼ぶなっつうの。ただ座ってるだけじゃないか、目障りだから何とかしてくれっていうのがみえみえなんだよね。ホームレスも、入院できたらラッキーみたいに思っているから、具合悪そうなふりするしさ。もう、やってらんない。やりがいも何もあったもんじゃない」

「救急活動も行政サービスだからねぇ。ある程度は仕方ないんじゃないのかしら」

「それはそうなんだけどね。でもさ、この三当務で重症以上の傷病者は何人だと思う、三人だよ。たったの三人。あとはみな自分で歩いて帰ってこられる程度なんだよ。それで、この三当務で出動件数は何件だと思う?三十三件だよ。三十三」

 俺は思わず大きな声を出してしまっていた。まどかは唇に差し指を当てて「落ち着け」と言わんばかりに俺の顔を見つめた。が、それでも俺は、込み上げてくる感情をわかってもらいたかった。だが、振り向いたのはそばを通りかかった人々だった。まどかは無表情。それがどうしたのだということらしい。

「でもさあ、いつもいつも重症患者ばかりだとしたら、それはそれで神経がすり減るんじゃないのかな」まどかはじっと俺の眼を見つめている。

「それはそうなんだけどさ」

「じゃあいいじゃないの。重症ばかり扱うより、ほどほどに軽いものが混ざっていたほうが精神的にも肉体的にもいいと思います。隊長さんたちはちゃんとやっているんでしょう」

「それは、まあそうです」と言うしかない。

 まずい。だんだんまどかのペースになっているのが自分でもわかる。将棋でいえば、早々に詰まれてしまいそうなパターンではないのか。そんな予感がする。

「そうでしょう。でもそれ、誰かに言ったの?嫌になった、辞めたいって」

「小田原さんから『甘ったれるんじゃねえ』って言われたよ」

 まどかは「それみろ」という顔をした。ああ、俺、追い詰められている。

「皆さんちゃんと勤まっているんだもの。あなたもがんばらなくちゃだめだと思う。がんばっていればそのうちいいことがあるって」

 姉に諭されているような気分になってきた。

「『がんばれば』っていうけどさ、勤め終わったあとが問題なのさ。身も心もボロボロになって退職して、普通なら、さあこれからのんびり生きようって思った矢先にあの世には行きたくないんだよ」

 つい先日、春に退職した元救急隊長が亡くなったことが頭に残っていた。

「そんな先のこと。皆がそうだとは限らないじゃない。それに、だからこそ今の制度ができたんじゃない。件数が増えたら交代で務めるって。もっと前向きに考えてよ」

「前向きにねえ」

 俺は、まどかのペースに乗せられまいと抵抗を試みる。

「そう。前向きに」

「死ぬ時は前のめりに死ぬよ」

「何言ってるのよ。ばっかじゃないの」

 まどかは視線をそらし、「ばっかじゃないの」を強調した。

「いまさらながら、ポンプ隊は楽でよかったよ。出動は少ないし、火ぃ消してるんだあって実感あったし。救急隊は、なんかさあ、地味なんだよね。三人しかいないから負担は大きいし、命を扱うから責任重大だし、それなのになんか割に合わないっていうか、なんか」

「三人しかいないからひとりひとりがしっかりしていないといけないじゃないのよ。自分だってそう言ってたじゃないの。ポンプ隊だって、活動の全部が花形じゃないってわかっているでしょうに。それなりに大変だったはずよ。まったく、すぐに隣の芝生がよく見えちゃうんだから。しっかりしてよね」

 でもさあ、と、俺はなんとなく抵抗する。適当な理由はないのだが。

「じゃあ、そもそもどうしてこの仕事を選んだの? どうして救急に進もうなんて決めたの?」

 それを言われると、俺は返す言葉がなくなってしまう。消防職員は公務員だし、同じ公務員でも、公安職ということで一般職よりも給料がよかったからだし、救急隊員は、さらに手当が多いからだなど、そんな打算的な理由は、口が裂けても言えないではないか。

「だよな。原点に立ち返ることは大事だ。初心、忘れるべからず、だね」

「そうだけど。だからぁ、どうしてこの仕事を選んだのって聞いてるんですけど」

「人のため、だな。このひと言に尽きる」最も無難な答えだ。俺はこんな展開を望んだわけではない。早く終わらそうと頭を回転させる。

「だったら、ね。文句は言わないことよ。人生だってなんだって、山あり谷ありなのよ」

「ああ、まったくだね」俺はため息をついた。「ところで、早く店に行こうよ。ここで話していても落ち着かなくない?」

 うん、とまどかは不服そうに唇を尖らせたが、俺の腕にしがみつくように寄りかかり、歩き出した。


 ほどなくして、俺たちは行きつけのレストランに到着した。ハンバーグが一押しの小さな店だが、あまり世間に知られていないらしく、いつも一組か二組ぐらいしか客はいない。まあ好みは人それぞれなので、俺もまどかも、世間の評判はあまり気にしない。テレビで紹介されたからといって自分の好みに合っているとは限らないというのが二人の意見だ。

 店内は程よく暗く、テーブル間の距離もあって、ゆったりした気分になれるところが気に入っている。

 赤と黒の入り組んだ模様が入ったカーペットを踏みながら、俺たちはなるべく目立たないように奥の席に向かった。管轄内の店なのだ。職員の誰がいつここにやって来てもおかしくない。出会ってしまえば後々面倒なことになるのは明白だ。

 席は黒い木製の椅子と四人掛けのテーブルで、まどかには店内が見えるよう、壁際の席を勧めた。コートを脱いでそれぞれ隣の椅子に置き、やれやれとひと息ついた。

 さっきまで彼女の中でもやもやしていたものは、とりあえずどこかへ行ってしまったようだった。「今日は何食べたい?」とまどかは上目づかいで俺の顔をのぞきこんだ。

 俺はちょっと考えてから「まどか」と答えた。

 彼女の顔は瞬間的に赤くなった。「なに言ってるのよぉ」と蚊の鳴くような声で言ったあとで目を伏せた。

 別にからかったわけじゃない。二人きりで逢うのは久しぶりだったし。

 まず飲もうということで、二人とも生ビールを注文した。

「ここは人気がなくてちょうどいいや。でも、こんなところを誰かに見つかった日にゃあ、噂話の餌食だね」

「うん」

 わかっているのなら管轄内などではなく、どこかほかへ行けばいいようなものだが、二人とも、いまさらそこまで気を使って行き場所を探す気分にはならなかった。ファッション雑誌の中身を追いかけるようなことは、疲れるだけで性に合わない二人なのだ。ドライブや旅行以外、デートは駅周辺で済んでいる。

 生ビールはあっという間にやってきた。俺はフライドポテトとミックスピザ、まどかはグリーンサラダを頼んだ。

「救急隊長はどんな人?」

 乾杯してほっとひと息ついた時、まどかが言った。

「菅野隊長か? うん、いい人だよ。機関員の小田原さんも、口は悪いけどいい人だね。隊の人間関係は悪くないよ。俺がまだ見習い中だからっていうのもあるんだろうけど。いろいろ教えてくれる」

「そうだよね。教えないと、自分がしなくちゃいけなくなるもの。そんな余裕はないんでしょう」

「ああ、現場は三人だけだから。それぞれがそれぞれの役割を果たさないと時間だけが過ぎちゃうね。そんなことは許されるはずないし。でもやっと周りが見えてきた感じだよ」

「じゃあさ、なんで嫌なのさ」

「さっき言ったし。気苦労が半端ない。あ、現場でだよ。要請者。こっちが親切に接しているのにわがまま言い放題。元気なら、歩けるなら救急車なんか呼ぶなって言いたくなる。終いにはぶん殴るかもしれない」

「じゃあ、まだしばらくは隊長や小田原さんに迷惑かけるってわけだね」

「だからあ、辞めようと思ってるって言ってるし」

「でもできないわけではないよね?」

 まあ、そうです、と言わざるを得なかった。

「まあ親切に教えてくれる」

「そりゃあ、あなたに仕事ができるようになってもらったら自分達も楽できるからでしょう。別に普通のことだわ」

「現実的だね」

「伊達に転職してないわよ。民間を知らない人達にはわからないと思うけど、ここの仕事はとっても楽で、お給料がよくて、言うことなしです」

「そうなのかい」

「そりゃあひとたび災害が起こったらたいへんだけど、でもそれが仕事なんだし。何もない時は貰い過ぎっていう感じ。申し訳ないくらいだわ。今は自分が貰うほうだからいいけどね。民間は結果を出した分しかもらえません。毎年必ず誰でも昇給するなんて、夢のような話よ」

 それは俺も感じている。なんだかんだいっても公務員は優遇されていると思う。

 でも、いつかは完全歩合制になるかもネ、とまどかは舌を出した。

 フライドポテト、ピザとサラダがいっぺんにやってきた。まどかの目尻が下がり、頬が緩んだ。

「なんか、仕事の話ばっかりで嫌だな」

 俺の呟きに今度はまどかが小さくため息をついた。「仕方ないわよ。ストレス、たまってるんでしょ。言いたいだけ言えばいいわ」

 そういえば、まどかの愚痴というものを聞いたことがなかったなと思いながら、俺は「ありがと」と言った。

 あれこれと話すうちに、隊長や小田原さんの話になった。やはり仕事の話しか話題がない。ある意味つまらない二人だ。

「でも、面白いね、三人ともみんな独身なんでしょう」

「そう。隊長はバツイチだけど、その気になればすぐ再婚できると思うんだよね。二回目はやっぱり慎重になるのかな。小田原さんだって孫がいたっていいくらいだ」

 男は顔だけじゃあないのよとまどかは言い、「みんないろいろ事情があるみたいよ」と含み笑いをした。

「まあ、そうだろうけどね」俺は他人のことには関心がないので、突っ込まなかった。でもまどかは、う~んとちょっと唸ったあとで「言っちゃおうかな。でも他の人には言っちゃダメよ」といたずらっぽく微笑んだ。言いたいのだ。

 俺は「言えば」と促す。

 なによそれ、と眉根を寄せて口を尖らせ身を乗り出したまどかの顔は、頬がうっすらとピンク色に染まっていて色っぽかった。

「菅野隊長さんは、実は子供さんもいて、元奥さんが引き取っているんだって。中学生っていう話よ。養育費とかあるし、子供と会ったりとかもあるし、いろいろ忙しいらしいわ」

 俺は「へえ」と生返事を返す。「分かれた意味、ないじゃん」どうでもいいことだ。

「元奥さんとは会っていないみたい」子供のことが大事なのよという。

「でもさ、元奥さんが再婚したら会えなくなるんじゃないの」

「それはその時また考えるんじゃないの」

 どうでもいいじゃん、他人のことなんだからと言いたいが、女と男は違うのだ。ここはぐっと言葉をこらえた。

「小田原さんも、いろいろあったらしいよ」

「は?」

 小田原さんも何かあるのか。普段見ている限りでは、悩みなどないような人なのだが。他人の噂話など気が乗らないが、まどかが小声で話しはじめたので、こちらも身を乗り出した。鼻がくっつきそうだった。

「付き合っていた人がいたんだけどね」

「うん」

「結局、結婚詐欺みたいな感じだったんだって」

「はい?」

「ある程度仲良くなったら、お金貸してくれって言われたらしいの。三百万円」

「は」

「貸そうとしたところを、みんなに止められて、事なきを得たらしいのよ。でも、小田原さん、結構その彼女に入れあげていたらしくて、それ以来、女性不信になったんだって」

「う~ん」他人事ではない。俺がまどかから三百万円貸してくれと言われたらどうするだろうかとすぐに考えた。ジョッキに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干した。続いてピザをほおばる。

「女はわからん」それしか言えなかった。

「そう?」女だけじゃないけどねぇ、もっとひどい男もいるのよねえ、とまどかが意味ありげに俺を見つめる。

 俺は無視して「でも、どうしてそんなこと知っているのさ、誰から聞いたんだい」とまどかを見つめ返した。

 彼女は視線を外して「ナイショ」と小さく舌を出し、ビールを飲む。

「女はねえ、この手の情報には敏感なのよ。あなたもお気をつけあそばせ」

 まどかはちょっとおどけて元の位置に座りなおし、ジョッキを口元に運んだ。頬にうっすらとピンク色が滲んでいる。上唇についた泡をなめようとしたしぐさを見て、俺は生唾を飲み込んでしまった。

「小田原さんがギャンブル通いするわけがわかるような気がする」

「あら、でも、あの人は意外と堅いのよ。あの年齢なら収入はかなりな額になるし、貯金もかなりあるでしょう。貯まった分からこぼれたものを遊びにまわしているって感じじゃないのかな」

「へぇ」

 そんなこと考えたこともなかった。

「じゃあ、話戻るけど、隊長は?」

 菅野隊長は酒豪で、昼間から酒を飲むことも珍しくないという噂があるのだ。

「お酒のこと?気を紛らわす一番安上がりで手っ取り早い方法なんじゃないかな。離婚したとはいっても、子どものこともあるし。養育費とかを払っているだろうしね。そのほかにもまだいろいろありそうだし。そんなふうに考えたら、たまにはお酒も飲みたくなるんじゃないのかしら」

「すごいね。普段会わない人間の私生活もお見通しなんて。隊長なんかこっちへ異動してきてまだ八カ月だよ。どうしてそんなに詳しいの。ひょっとして、探偵、雇ってる?」

 まどかはふふん、と鼻で笑って「みんな石上(いしがみ)さんの受け売り」と言った。

 ああそうか、と俺は得心した。

 石上小百合(さゆり)は、本署予防課勤務の、四十も半ばを過ぎたお局(つぼね)様的存在の女性消防官だ。

 俺はまだ彼女と直に話をしたことはないのだが、何度か本署へ行った時に見かけたことはある。それほど不美人ということでもないのだが、いまだに独身。一度どこかの職員と結婚しかけたとかいう噂もあるが、定かでない。

 仕事は二の次で、暇さえあれば人の噂ばかりしているという。何処から仕入れてくるのか、その情報収集能力はすごいらしい。本署の男連中はなるべく近づかないと聞いているが、女性同士ではそうもいくまい。好むと好まざるとに関わらず、勝手に耳に入ってくる情報もあるのだろう。

「女性もたいへんだね」

「わかってくれてありがとう」

 座ったままお辞儀をしたまどかの顔は上気しており、目が潤んでいた。頬は薄紅色で色っぽい。

 「まだなにか食べる?」の問いに対して、俺は再び「まどか」と答えた。

 彼女は頬をさらに赤らませた。そして、俯きながら「ばか」と小さくつぶやいた。





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