新米、がんばる
@july31
第1話 連続出動
一
部屋の照明がベルに同調し、一斉に点灯した。東京消防庁西池袋消防署本町出張所救急隊の出動である。
ベルの音とあまりの眩しさで、俺は、鞭打たれたように身体を起こした。
出動指令が流れる前に予告音があったのだが、俺はその時点で起きることができなかった。起きねばとは思いつつも、睡魔に取り込まれ、半覚醒状態のまま出動先の住所を聞き逃してしまっていたのだ。なんとも情けない。隊長にあとで聞くしかない。
その菅野(かんの)救急隊長は、既に立ち上がっており、上着に袖を通していた。俺もあわててベッドから降りる。
機関員の小田原(おだわら)さんの姿は、既にない。達磨のような体型なのだが、機敏な人だ。
俺は、何かあったらすぐに出ていけるようズボンをはいたまま寝ていたのだが、靴下を脱いで寝ていた。ところが脱いだ靴下の行方がわからなくなり、焦りだし、動揺していた。何故靴と一緒にしておかなかったのかと悔やむ。
「テツ、行くぞ」隊長はそれだけ言って部屋を出た。俺の名前は真田(さなだ)哲郎(てつろう)なので、皆からは真田、とかテツ、とか呼ばれているのだが、今は(馬鹿野郎、何やってんだ、さっさと来んかい)と言われたような気がして、ものすごいプレッシャーを感じた。口の中が一気に乾いた。
俺は「い、行きます行きます」とベッドのパイプに引っかけていた上着を慌ててつかんで立ち上がった。靴下なしで行くしかない。
背に腹は代えられぬとあきらめの境地で立ち上がると、ズボンのポケットに違和感があった。それが靴下であることがわかり、ほうと安堵の溜息をつく。
仮眠室によどんでいた生暖かい空気が、隊長が開け放っていったドアから波が引くように出て行き、代わりに目の覚めるような冷気が一気に押し寄せ、部屋中をあっという間に満たした。吐息が白くなる。思わず身震いをする。
俺は、大急ぎで上着に袖を通し、靴下をはき、服装を整えながら部屋を出た。
指令の内容は急病人ということだけで、詳細はわからない。まあ、隊長がいるし小田原さんもいる。指示を受けて動けばいいのだ。
前回の出動から帰ってきて一時間とちょっと。気を失いかけたところを間髪入れずにたたき起こされた。いたずら好きな神が俺に試練を与えているつもりなのか。
これで、昨日の朝に交代してから通算十四件目の出動になるはずだ。正直勘弁してほしい。
歩きながら上着の裾をズボンに押し込む。足が重だるい。その疲労感を振り払う気力もない。惰性の動きで車庫を目指す。
建物と車庫とを仕切る重い扉を開け一歩踏み込む。シャッターは既に開いていた。
暗闇から群青色に変わりつつある街が、早く来いよと手招きをしている。大量の冷たい風が、俺を絡め取ろうとしているのか、俺の顔に、身体にまとわりつく。襟元からも強引に入り込んだ。反射的に肩と腹筋に力が入る。ただでさえ萎えている俺の心がさらに打ちひしがれる。
小田原さんは既に運転席に着き、エンジンをかけ、地図を広げていた。出動先、目的地の順路を確認するためだ。隊長も助手席に腰を下ろしている。起き抜けの時とは顔つきが変わっている。俺とは違い、もうスイッチが入っているらしい。
どうしてそんなに反応が早いのだ。ちょっと前まで二人ともイビキをかいて寝ていたじゃないか。
サラリーマン風の男性がコートの襟を立て、足早に車庫前を通った。少し遅れてまたひとり通り過ぎてゆく。新聞配達の車が走っている。街はもう動き出しているのだ。
俺は救急車に乗り込む前に大きく深呼吸をした。血液の循環が促され、それが手足のすみずみまで行き渡ってゆくのがわかる。しかし、頭の中はどこかまだもやもやしており、すっきりしない。俺も早く身体を出動モードに切り替えなくてはならないのだが、思うようにはいかなかった。
「おせえぞ、テツ、何のんびりしてんだよ」
ドアを開いたとたんに小田原さんから指摘された。
「すんません」俺は謝りながら乗車した。エタノールの香りが鼻孔を刺激する。
隊長は助手席でヘルメットを着装し、無言で顎紐を締めていた。
ドアを閉め、シートに腰を下ろし、ため息を押し殺した。胃の辺りに違和感がある。目の前のストレッチャーに横たわりたくなった。あと三時間の辛抱だ、八時四十分には次の当務員と交代できるのだから、と自分に言い聞かせた。
「テツ、寝癖、ついてるぞ」
「これは天パです。知ってるくせに」
俺は窓ガラスを見ながら左手で髪を後ろに流した。映った自分の顔を見てがっくりと気落ちした。目は落ちくぼみ、頬はこけているではないか。隊長たちは何故平気なのだろうかと思う。気落ちしながらヘルメットをかぶった。
「指令、聞いたか? 川本鮎子(かわもとあゆこ)だ」
「え」
出動先は、いわゆる常習者宅であった。俺は今回が初めてなのだが、前の席の二人は過去に何度か扱っているということを聞かされている。
「付加指令あるぞ。薬の多量服用。意識なしだとさ」小田原さんが、投げやりに言った。
聞かなくても教えてくれた。でも聞きたくなかった。
意識がない? じゃあ呼吸もないのか? だったら心肺停止なのか? そうなったら人工呼吸だ、心臓マッサージだと、どうしてもよからぬ方向へ考えを連鎖加速させてしまう。よりによってなぜこんな疲れきっている時にと思う。今、ただでさえ低い俺のモチベーションは、さらに下降した。これではいかんと思いつつも、気持ちを切り替えるタイミングを計れない。
「テツ、聞こえたかよ、お前、目が吊り上ってるぞ。それでなくてもキツネ目なのに、どうすんだ」
聞こえてます、と応えたが、目が吊り上っていることがどうかしたのか。どうすんだって、どうすんだ、関係ないではないか。腹が立ってきた。
頭部をぐるりと鉢巻かなにかで縛られているような感覚は、明らかに睡眠不足のせいだとわかる。ひょっとして孫悟空はこんな思いをしていたのか、などといらぬことを考えてしまうのだった。
「こっちが不機嫌な顔してるとよ、なにしろ印象が悪いからな。気をつけてくれ」
振り向いてもいないのに隊長に言われ、驚いた。なぜわかるのだ。「はい」と答え、両手で頬を押さえ、揉みほぐす。
「懲りない人なんだねえ」
隊長はため息交じりに言った。。男関係のもつれから人生に絶望してしまい、よく薬を飲んだりリストカットをすると聞かされている。
結局出動指令を聞き逃してしまったものの、隊長や小田原さんから情報を得て出動先を把握できた。俺はラッキーだ。隊によっては「指令を聞き逃しただと?」と侮蔑の視線を浴び続け、無能扱いされる場合もあるらしいのだ。
隊長は、疲れた素振りも見せない。身長百七十五センチの俺よりはちょっと背が低く、中肉中背で日焼けした顔。やや大きめの瞳にまっすぐな眉が印象的で、パッと見た感じは「遊び人」風の顔立ちで、とても四十代半ばには見えない。本部指令室から昇任で異動してきて八カ月。その評判は、可もなく不可もない。小田原さんから「かんのんさま」と呼ばれることもあるくらい温厚だ。
俺はというと、この三週間で胴周りが気になりだした。つまり救急隊員として活動し始めてからだ。
以前はウエスト七十四センチが余裕ではけたのに、今では七十九センチがきついのだ。これまで以上の不規則勤務と、慣れない活動による緊張、まあ簡単にいえば、ストレスが原因だと俺は判断している。この状況が続いたとしてこの先俺の体調は大丈夫なのかとちょっと不安になった。小田原さんみたいな身体にもなりたくない。
出張所近隣住民に配慮し、通りに出るまではサイレンを吹鳴しないことになっている。小田原さんのいくよ、のひと声で車は静かに車庫を出た。赤色回転灯の光が鈍く民家に反射する。
豊島区のJR池袋駅周辺は大繁華街だが、そこから二十分も歩けば住宅街になる。幹線道路から小路に入ると、一方通行も多いし、道路は狭隘(きょうあい)で入り組んでいるし、まだまだ昔ながらの住宅も数多く残っており、とても大都会とは思えない景色になる。
つまりここ西池袋消防署管内は、繁華街も抱えているし古い住宅街もあるので、火災も多い。そして外国人もいるし高齢者もいる。もちろん若者もいる。ホームレスもいる。あらゆる救急事故が発生しうるなかなか面倒くさいところなのだ。
隊長は、通りに出てからサイレンのスイッチを入れた。渋滞はしていない。
そもそも俺が救急の道を選んだのは、人間である限り、健康と病気との関わりあいは消えないのだし、ならば自分の身体のことを少しでも知っていたほうが、この先何かとためになるだろうと思ったからだ。しかし今となっては、それが果たしてよかったのかどうかわからなくなってしまった。いくら知識があっても実行できなくては意味がないからだ。
一刻を争う傷病者を、適切な判断と処置を施し、医療機関へ搬送する、俺はそんな救急活動を期待していた。しかし現実は大きく異なった。タクシーがつかまらないから、今日は病院へ行く日だからと言って要請する住民がいかに多いことか。「無料だから」とあからさまに言う住民もいた。これではいたずらに件数を増やしているだけだと思わざるを得ない。
俺は救急活動に緊張しつつも、同時に戸惑いも覚えるようになった。そして、ひょっとして道を誤ったのではとも考え始めていた。出動するこちら側にしてみれば、何があったのだろうとあれこれ考えて出動するわけで、そのたびに負う心身の疲労は小さくない。それほどでもない内容であっても、要請される件数がこう多くては、救急隊員のほうがたまったものではない。これでは、いざというときの行動に支障が出ないとは限らない。俺は立場が変わってはじめて、こんなこともあるのだなと知った。ポンプ隊が懐かしかった。いや、羨ましかった。手当てなんかいらないとさえ思った。
運転担当の小田原さんは、救急隊員歴三十年。年齢は五十歳を超えている。白いものが少し混じった短髪、浅黒い四角い顔、額に刻まれた深いしわが印象的な人だ。体型は洋ナシ型。いわゆる達磨だ。
運転担当は、朝一番であろうと仮眠中であろうと、出動指令が流れれば即座に出動先を確認し、適正な順路で現場に到着しなくてはならない。
仮眠時間なのだから本格的に眠るなと言うひともいるが、皆が皆、忍者や武芸者のように気配で目が覚め、即行動に移せるわけではない。常人は、一度寝たら覚醒するまで時間がかかる。夜中にいきなり起こされ、そのまま車を運転するだけでもすごいことだと思うのだが、機関員は、さらに救急隊員として活動をするのだ。身体にかかる負担は想像がつかない。なのにこの人はいつも元気である。まったく頭が下がる。今の俺にはとても真似できない。
「真田、大丈夫か。現場で眠るなよ。お前が一番若いんだからな」
菅野隊長がこちらに視線を投げながら笑う。
研修を修了はしたものの、俺は救急隊員として今はまだいわゆる見習い的な立場なのである。いろいろ教わりながら活動しているところなのだ。しかし要請者にしてみれば、見習いもベテランもない。目の前にいるのは紛れもない〈救急隊員〉なわけで、それを意識する俺としてはまだまだ緊張の連続なのだ。
「眠れないくらいの連続出動なんて、救急隊員なら誰もが経験することだ。洗礼だと思え。かえって早く経験できてよかったぞ」
小田原さんが冷やかし半分に言う。
俺は「はあ」と、生返事をしたあと、欠伸をごまかすため、再び思いっきり口を開け、大きく深呼吸をした。それでようやく身体にギアが入った感じがした。今はとにかく足手まといにならないように立ち回るだけだと思った。両手で顔全体を揉み解し、頬を軽く叩き、つねる。帰ったらヒゲを剃らねば、と思った。続いて両方の眼球を軽く押し、指で回した。
「朝方の出動は気が気じゃないね。果たして皆と一緒に帰れるのかってヒヤヒヤだよ」
小田原さんは欠伸をかみ殺し、やれやれという顔をした。
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