誰もいない夜空の下で
畏月 十五夜
第1話プロローグ
雨に打たれていた。
決して大降りといっていいほど強い雨ではない。
それどころか先ほど夜空の独り舞台を覆い隠すように現れた雲が弱弱しく、ポツポツと垂れ流し始めた雨だ。
夏の夜、それも山のすぐそばなのに、虫の鳴き声のひとかけらでさえ耳に届かない。雨の音だけが物悲しく響く。
電灯のオレンジが道路の惨状を照らす。
荒々しく残ったブレーキ痕と家族連れを連想させるデザインのナンバープレート。それを掲げる乗用車。
その先には、頭から血を流しながら横たわる男性とすぐ横で膝をつき雨にぬらされることを気にする様子もなく、ただ茫然と男性を見つめる小さな少女がいた。
少女の表情は月を閉ざした雲のせいでよく見えない。泣いているのかさえも雨に濡れていてわからない。ただ少女らしい悲痛な叫びは、一切聞こえてこなかった。
みゃーと少女にすり寄る猫の声。それにさえも少女は反応せずにただ見つめ続ける。まるで時が止まったように、受け止めきれない現実を凝視し続ける。
ようやく時を動かした少女の、あの雨の音の中に消えうるような声を、この惨状を。この降り始めの雨に匂う独特の匂い、ペトリコールと呼ばれる匂いとともに、きっと思い出すだろう。
「…な…い……め…なさい」
かすみ、雨に消えた声。雨音が徐々に強くなっていく反面、消え入る声はただひたすらに繰り返される。
「…ごめん、なさい」
それから雨粒が大きくなり、大雨と呼べるほどの強さになるまで、一人の少年は道路を一つ挟んだ歩道から、他人事のようにその光景をただ漠然と眺めていた。
昔の頃の記憶を思い出していた。
土砂降りの中、必死にそれこそ死に物狂いで草が生え散らかしているろくに整備もされていない道路を駆け上がる。
だけど、どこか冷静な脳みそはこの山を駆け上がる理由を膨大な記憶の中から探している。
確かこの山をかける理由は―
―雨の匂いが嫌いな理由と同じだった気がする。
少年はうずくまる少女に駆け寄った。
少女は雨に打たれたのかびしょ濡れだった。そのせいでうずくまっている少女が泣いているのかさえも少年にはわからなかった。
「来ないで!」
ゆっくりと近づく少年を少女は拒絶した。
右腕に一つ切り傷ができる。神経が痛みで危険を教えた。流れた温かい血は雨と混ざる。
それでも少年は歩みを止めない。少女の口から出た願いを聞き入れない。
一歩、また一歩と震える少女に近づく。一歩近づくごとに、左腕、胸、右足、腹といたるところに傷ができる。その傷は少女に近づくにつれてだんだんと大きくなる。それでも少年は歩みを止めない。
「…て」
左腕に大きな切り傷ができる。けれど少年は歩みを止めない。
「…消えて」
右足に大きな切り傷ができる。けれど少年は歩みを止めない。
「消えて」
胸に大きな切り傷ができ服に血が染みる。けれど少年は歩みを止めない。
「消えて!消えて!消えて!消えて!消えて!消えて!」
頬に大きな切り傷ができる。けれど少年は歩みを止めない。
「私の前から…消えて!」
おでこに大きな切り傷ができる。けれど少年は―
―少年は、少女の前で歩みを止めた。
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