4-31 惨劇
逃げ切れないと判っていた。
どうしてこうなったのかは判らない。あんな記憶の〝映像〟を見ても、イズミには判らないままだった。
だが、恐らくは――あの〝やり取り〟が、伊槻を変えた。何故か〝家族〟という絆に異様な
もし、
杏花は? 貞枝は?
下草を踏み分けて走るイズミの後ろで、常軌を逸した男が「ひひひ」と
花
呉野一族が住む日本家屋の、開け放たれた雨戸と障子戸の向こう。今朝には貞枝が立っていた縁側から、あの〝映像〟の和室が見渡せた。
――
テーブルの上には、長い縄も載っていた。蛇の
しかも、
イズミは顔色を失い、あらん限りの声で叫んだ。
「御爺様!」
拘束されていたのは、紛れもなくイズミの祖父、呉野
額から血を流し、片目にまで流れた血液で白髪と顔の半分を朱に染めながら、電気も点いていない和室の青い闇の中で、目を固く
緩く
同時に、イズミの呼びかけに國徳が気づいた。
閉ざされた瞼が、かっと開く。双眸が駆け寄る孫の姿を捉え、表情が露骨に強張った。口の端に滲んだ血の跡が、歪む程に一度震える。
そして、突如――豪胆な声量で、老人の
「和泉! 貴様は阿呆か! なぜ来た!」
「阿呆ではありません! 貴方の孫です! 来てはいけない理由などないでしょう!」
「
「ええ、聞いていません、知りません! そもそも貴方は、僕に畏まらなくてもいいと仰ったではないですか! だから図々しくとも来たのです! ……今、お助けします!」
無駄口を叩く暇などなかった。玄関を無視したイズミは縁側に直行し、ローファーのまま呉野家に飛び込んだ。土足のまま畳を踏み越えてテーブルに飛び乗ると、目の前にある祖父の顔に厳しく睨みつけられながら、イズミは首の縄をもぎ取るように取っ払った。だらんと揺れる首吊りの輪を視界に入れながら、続いて腹の拘束にも手を掛ける。
だが、
弾かれたように振り返る。
家のすぐ傍まで迫っていた。
「……!」
縁側から侵入しようとする伊槻を見た瞬間に、反射で跳躍したイズミは、縁側の床に降り立った勢いを殺さぬまま、木の雨戸を全力で引き寄せた。
がっ、と重い音がして、雨戸が目の前で横に滑る。月光が断たれ、部屋が一気に暗くなる。伊槻の顔が、見えなくなる。笑い声が、外から聞こえた。まだ、全く隠せていない。雨戸一枚では凌げない。隣の雨戸はがら空きなのだ。
――まずい。
膠着状態を維持できるのは今だけで、いずれは簡単に突破される。かといって一瞬でも手を離せば、伊槻は
「御爺様! 逃げてください!」
「無茶を
「ジャンプでも何でもして逃げてください! 僕は手が離せないのです! 首の縄は外しました! 早く! 足腰を痛めぬよう気をつけて飛び降りて、そのまま裏手から逃げてください!」
「
とんでもない罵倒が返ってきた。
「御爺様、逃げないならば、教えてください。貞枝さんは……杏花さんは、どうしたのです! 何故、こんなことになっているのです!」
「判らん!」と國徳の声が、背中に叩きつけられた。
「私が目を覚ました時には、二人とも消えていた。
続きの言葉を聞くより前に、がたがたと雨戸が揺れ始めた。
「!」
どんっ、と衝撃が腹部を襲い、イズミは床に転がった。雨戸を蹴飛ばされたのだ。たった
一瞬にして、がらりと雨戸が開く。仄青い月光が燦然と射して、和室の薄闇を駆逐した。清浄な輝きを全身に浴びた狂人は笑っていて、
ぎらりと月明かりを照り返す
「貴方、一体どこからそんなものを出したのです!」
状況を忘れた叫び声を受けて、伊槻の笑みが深くなる。唇が三日月を形作り、月光を纏う
「伊槻君!」
しゃがれた声が、両者の間に割り込んだ。
「伊槻君、聞け! ――『君の〝家族〟の中に、呉野和泉はいない!』」
ぴたりと、
己にかかる伊槻の影が、
「――『繰り返す! 君の〝家族〟の中に、呉野和泉は居ない! もう一度、今度は名を変えて〝言挙げ〟する! 伊槻君、聞け! 君の〝家族〟の中に、イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノは含まれない!
「……御爺様……?」
イズミは腰を抜かしたまま、背後を振り向く。こんな状態の伊槻から目を逸らす愚かしさを承知の上で、
――伊槻の動きが、止まったからだ。
「……。やっと、効いたか。もう使えんと思っていたが……全く。遅すぎる」
國徳が、嘆息する。悪態を
「御爺様、これは、一体……」
身体を拘束されたままの老人へ、イズミが問いかけた時だった。
ふらりと、伊槻の影が動き出した。
「!」
戦慄が走った。
「……逃げろ、和泉」
國徳が、言う。娘の婿を睨みながら、声だけはイズミに向けて、厳粛な声音で呼び掛けた。
「和泉。貴様、〝言霊〟は判るか」
「言霊……っ? ……待ってください、伊槻さん! 行かないで!」
答えかけて、慌てて叫んだ。
伊槻が、イズミを無視して縁側を上がってきたのだ。
死に物狂いで、
痛みが、全身を蝕んでいった。どんなに手に力を込めても、最早倒れた身体を持ち上げることすら叶わない。
「御爺様、逃げてください! 早く、そこから飛び降りるのです!」
「無茶を
國徳は
「私には、伊槻君を止められんだろう。私と伊槻君は、
「そんな……、貴方は、何を仰るのです!」
イズミは床を這い、伊槻に追い縋る。何故かイズミに一切の関心を払わなくなった伊槻に向けて、震える指先を懸命に伸ばした。伊槻は既にテーブルへと足を掛けて、中央に立つ國徳に限りなく近い場所まで迫っている。焦りが、心を衝き動かした。死ぬ。殺される。家族が。國徳が。畳まで這いずり、手を伸ばす。テーブルの足に触れただけで、手は
「やめてください! 伊槻さん! いけません! 殺してはなりません! 御爺様を殺さないでください! やめるのです! いけません! やめてください! ……お願いします! 殺さないでください! 僕の家族を、殺さないでください! 僕は、まだ……まだ! 國徳御爺様の事をっ、何も知らないままなのです!」
がむしゃらに叫んだ。もう声しか武器はなかった。身体が駄目で手も届かぬなら、唯一残った声に
――何故。
純朴な疑問の観念が、頭に浮かび上がった時――國徳が、口を開いた。
「和泉。
「な……」
何を言われたのか、判らない。
否、判る。教育を賜っていたからだ。周囲の様々な大人から、イズミは
「伊槻君の『弱み』は、『孤独』だ。
「……!」
鳥肌が立った。
「私が、
「家族……」
伊槻と会話した、藤崎家での出来事を思い出す。
イズミに礼を言った時の顔は、真っ当で健全な人の親の笑う顔だった。差し伸べられた手は温かで、流れ込んでくる感情もまた温かだった。
仲間外れが、寂しいから。家族みんなで、死ぬという。
貞枝と、杏花と、國徳と、イズミと。
――そんな、理屈は。
「納得できません!」
「貴様の納得など要らん! 和泉、早く行け!」
國徳が声を張り上げて、イズミを険しく睨み据えた。
「伊槻君は、もう貴様を〝家族〟だとは思わん! だが、もし火を点けられたら……ガソリンに引火したら、逃げられん! 伊槻君が放火する前に、早く」
「貴方は、何を言っているのです!」
言葉を最後まで聞かずに叫んだ瞬間、弾かれたように手が動いた。
出鱈目に動いた手の平は、伊槻の足首を強く叩き、乾いた音が響き渡る。
瞬間、ぎろりと伊槻が振り返った。
石ころを眺めるような冷たい目が、イズミを見下ろす。そしてテーブルから降りてくると、畳に落ちたイズミの手を、だんっ! と容赦なく踏みつけた。
ぱきっ、と骨が砕ける、呆気ない音がした。頭の中が真っ白になり、遅れて壮烈な激痛が押し寄せて、目の前が真っ赤に染まった。
「――――っ!」
「! 伊槻君、やめろ! ――『赤の他人に構うな!』」
声が、和室に叩きつけられた。歯を食いしばって悲鳴を堪えるイズミの頭上から、力ある声が降ってくる。
「赤の、他人」
茫洋と、イズミは呟く。痙攣する手を無理やりに握り締め、激痛を手の平で潰すようにして堪えながら、口の端に血が滲む程に、強く奥歯を噛みしめる。
「……赤の他人では、ありません。……僕と、貴方は……赤の他人では、ありません」
「僕は、貴方の身内です! 僕は、貴方の孫です! そんな
「
「知りません、逃げません! 御爺様、貴方は、このままでは殺されます! 貴方を助けるまで、僕はここから逃げません! 御爺様、何故……、貴方はっ、僕の事を助けながら、御自分の事は諦めるのです!」
イズミが、さらに言葉を重ねようとした時だった。
――ぱちん、と。あの音が、またしても脳裏に響いた。鋏の刃を噛み合わせた時のような、花の息の根を止める音が。どくん、と心臓が不穏に打つ。
――来る。覚悟とともに思った。また、あの〝映像〟がやって来る。氾濫した伊槻の心が、再び己を食い荒らす。
苦悶を覚悟したイズミだったが……
しかし、
「御爺様、まさか」
イズミは、愕然と國徳を見る。
額からの流血に、口の端に出来た青い痣。
――今、確かに『見えた』のだ。
畳に倒れ伏す國徳の傍で、携帯で
来るな、と叫んだところが。
縄を持った狂人が――手負いの老人を、手酷く殴りつけるところが。
「御爺様。今、貴方が……伊槻さんから、暴力を受けているところが見えました。貴方は……僕を呼び出そうとしていた伊槻さんに、ずっと訴え続けていたのですか? さっきのように、僕は……イズミ・イヴァーノヴィチは、伊槻さんの〝家族〟ではないのだと。貴方は
何故。咄嗟に
だが、疑問に思うことなど何もないのだ。
家族を救う為に、身を
國徳は、本当に――回りくどい、大人だった。
絶句するイズミを横目に見た國徳が、「和泉」と淡々とした口調で呼んだ。何かを、覚悟したような声だった。
「十八歳で、イヴァンの息子で、
國徳が、イズミを見下ろす。
真正面に刃物を持った男に立たれても、一切の恐れを顔に出さない老人は、厳しく細められた鋭い眼光を、
そして、身体をもう全く動かせない孫を見下ろして、まるで息を引き取るような儚さで、小さく唇を動かして――、
「……よく、来てくれた。貴様に会えて、私は」
包丁が、高々と振り上げられた。
刀身に映る月光が、凶刃の輪郭をなぞるように、滑らかな燐光を弾いていく。
にい、と
「――っ、御爺様ああぁぁ!」
魂の叫びが、喉を食い破らんばかりに突き上げた瞬間。
「イズミ!」
声が、聞こえたのだ。
天上からの呼び掛けのような其の声は、柔らかで、嫋やかで、美しい。異なる国で生きた時間が、家族の声に郷愁を生んで、イズミをいつも苦しめる。
もう、老いるところは見たくない。同じ歳月を過ごしたいという小さな望みを叶えても、いつかは別々の道を歩むと判っている。されど別れの時が来るまでは、魂の健やかさを見守りたい。
「イズミ、無事か! ……大丈夫か、イズミ!」
手が、舞い降りてくる。白く痩せた手の平は、異邦の男の手の平だ。半分は日本の血、残りの半分が異国の血。二つの国の血を通わせた男の髪は、天の使いのような飴色で、白銀の
イズミは、手を伸ばした。もう、声も出ない。止められない。だが、危険だけは判っていた。伊槻は、親戚であるイズミさえも襲ったのだ。早く、
だが、声なき言葉に乗せた願いに、魂が宿るはずもなかった。
イズミの父、イヴァンは――顔を上げて、テーブルに立つ二人を見た。
黒曜石の
「――父上!」
立ち上がった父は、包丁を振り上げる伊槻に向かって、躊躇なく駆け出した。まるで水中の出来事のように、イズミには
倒れた三人の大人の中で、誰よりも早く立ち上がったのは――伊槻だった。
顔は、壊れた笑みのままだった。父を
何が、起ころうとしているのか。
「こんばんは。イヴァン
黒髪を振り乱し、口の端から血と唾液を垂らした伊槻は、まるで捕食するように父を見る。先程イズミを見た瞳と、同じ獰猛さで父を見る。
そして、禁断の質問を、
「イヴァン義兄さん。君は、僕の〝家族〟かい?」
國徳が、目を見開いた。「ならん!」と鋭く叫ぶ声がして、皺の刻まれた手が父に向って伸ばされる。だが、
父は、呆れる程に優しいのだ。イズミが偏屈な態度で接すればいつも笑い、落ち込んでいれば髪を撫でて寄り添ってくる。感情の機微を敏感に読み取る父は、自分では
そんな、博愛の人が。
こんな伊槻を、前にして。
優しい嘘を、
もう、誰もが『判って』いた。
「……はい。僕は、伊槻さんの〝家族〟ですよ。……ですから、怖がらないで。伊槻さん。僕は何もしませんから。落ち着いて、僕と、話をしましょう」
父の声は震えていて、刃物を持った狂人を恐れているのは明白だった。
色の失せた唇が、やがて笑みを形作る。気丈に振る舞う父が見せた、渾身の強がり。決死の覚悟と度量で
赤い血液が、一滴。
ぴしりと、細やかに、一度跳ねて――月明かり透かす障子戸へ、鮮やかに飛び散った。
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