4-31 惨劇

 逃げ切れないと判っていた。の道の先は行き止まりで、鎮守の森の最奥には、湧き水を溜めた小さな泉と、呉野家の一族が住む襤褸屋ぼろやしかない。まだ動悸が収まらず、息も酷く切れていた。ガソリンの匂いのする境内で、此方こちらに勝機は欠片も無い。最悪の場合、伊槻いつきと二人で心中だ。

 どうしてこうなったのかは判らない。あんな記憶の〝映像〟を見ても、イズミには判らないままだった。

 だが、恐らくは――あの〝やり取り〟が、伊槻を変えた。何故か〝家族〟という絆に異様なこだわりを抱き、発達した妄執もうしゅうが、常人を鬼人に変貌させた。

 もし、の推測が正しいならば――今、他の〝家族〟はどうなっている?

 杏花は? 貞枝は? 國徳くにのりは?

 下草を踏み分けて走るイズミの後ろで、常軌を逸した男が「ひひひ」とわらう声がする。暗く細い山道には、花が幾つも落ちていた。今朝も此処ここで見た花だ。杏花が切り落とした花だ。闇の中で、ぼうと光る。夜光虫のような輝きは、まるで行燈あんどんのようだった。此方こちらにおいでと、呼ばれた気がした。今朝の拒絶が今夜は歓待、まるで遊女の嘘のように、気まぐれな花が誘っている。逃げるイズミを誘っている。

 花あかりを繋ぐように駆けたイズミが、まるい月を水面に映した泉のほとりまで、ようやく辿り着いた時――遂に、見つけた。

 呉野一族が住む日本家屋の、開け放たれた雨戸と障子戸の向こう。今朝には貞枝が立っていた縁側から、あの〝映像〟の和室が見渡せた。

 ――其処そこに、居た。

 海老茶えびちゃ色のテーブルの中央に、小さな丸椅子が載せられている。膝ほどの高さの丸椅子の上には、危うげなバランスで立たされた、細く骨ばった両足。かすりの着物に身を包んだ、痩せた老人の身体。

 テーブルの上には、長い縄も載っていた。蛇のごとき縄の先は、丸椅子に立たされた人物に繋がり、両腕と腹部を縛っている。

 しかも、の縄は――もう一本、あったのだ。

 イズミは顔色を失い、あらん限りの声で叫んだ。

「御爺様!」

 拘束されていたのは、紛れもなくイズミの祖父、呉野國徳くにのりだった。

 額から血を流し、片目にまで流れた血液で白髪と顔の半分を朱に染めながら、電気も点いていない和室の青い闇の中で、目を固くつむって立たされている。

 の首には――輪っかの形の縄が、一巻き。

 緩くたわんで鎖骨に掛かった縄の先が、天井のはりへと繋がっているのが見えた途端――血が凍るほどの恐怖にき動かされたイズミは、無我夢中で駆け出した。

 同時に、イズミの呼びかけに國徳が気づいた。

 閉ざされた瞼が、かっと開く。双眸が駆け寄る孫の姿を捉え、表情が露骨に強張った。口の端に滲んだ血の跡が、歪む程に一度震える。

 そして、突如――豪胆な声量で、老人のかつとどろき渡った。

「和泉! 貴様は阿呆か! なぜ来た!」

「阿呆ではありません! 貴方の孫です! 来てはいけない理由などないでしょう!」

れが阿呆だとっとるのだ! 来るなとったのを聞いとらんのか!」

「ええ、聞いていません、知りません! そもそも貴方は、僕に畏まらなくてもいいと仰ったではないですか! だから図々しくとも来たのです! ……今、お助けします!」

 無駄口を叩く暇などなかった。玄関を無視したイズミは縁側に直行し、ローファーのまま呉野家に飛び込んだ。土足のまま畳を踏み越えてテーブルに飛び乗ると、目の前にある祖父の顔に厳しく睨みつけられながら、イズミは首の縄をもぎ取るように取っ払った。だらんと揺れる首吊りの輪を視界に入れながら、続いて腹の拘束にも手を掛ける。

 だが、此方こちらは結び目がきつすぎてほどけない。もどかしさから手つきが乱暴になる。少し緩んだがまだ駄目だ。もう少し、もう少しと格闘するうちに、背後の伊槻を思い出した。

 弾かれたように振り返る。

 家のすぐ傍まで迫っていた。

「……!」

 縁側から侵入しようとする伊槻を見た瞬間に、反射で跳躍したイズミは、縁側の床に降り立った勢いを殺さぬまま、木の雨戸を全力で引き寄せた。

 がっ、と重い音がして、雨戸が目の前で横に滑る。月光が断たれ、部屋が一気に暗くなる。伊槻の顔が、見えなくなる。笑い声が、外から聞こえた。まだ、全く隠せていない。雨戸一枚では凌げない。隣の雨戸はがら空きなのだ。其処そこから漏れた月明かりが、人型の影を映している。手足を昆虫のように振り回した鬼の影絵が、板張りの床で躍っている。

 ――まずい。

 膠着状態を維持できるのは今だけで、いずれは簡単に突破される。かといって一瞬でも手を離せば、伊槻は此処ここを開け放ち、イズミに襲い掛かるだろう。イズミは雨戸を必死に押さえたまま、背後の國徳に叫んだ。

「御爺様! 逃げてください!」

「無茶をうな、和泉。貴様、私にジャンプして逃げろとうか」

「ジャンプでも何でもして逃げてください! 僕は手が離せないのです! 首の縄は外しました! 早く! 足腰を痛めぬよう気をつけて飛び降りて、そのまま裏手から逃げてください!」

の逃亡経路を、狂人の真ん前で暴露する奴があるか、莫迦垂ばかたれ! れにまだ手が使えん!」

 とんでもない罵倒が返ってきた。此方こちらは決死の思いで言ったというのに、なんという仕打ちだろう。汗で濡れた髪を振るって「僕は、真剣に言っているのです!」と叫んだが、の台詞を言うのが二度目だと気づき、はっとした。

「御爺様、逃げないならば、教えてください。貞枝さんは……杏花さんは、どうしたのです! 何故、こんなことになっているのです!」

「判らん!」と國徳の声が、背中に叩きつけられた。

「私が目を覚ました時には、二人とも消えていた。何処どこかに隠れているか、山を下りて逃げたか。……おそらく、まだ近くに居る。貞枝も、れに氷花も。だが」

 続きの言葉を聞くより前に、がたがたと雨戸が揺れ始めた。

「!」

 どんっ、と衝撃が腹部を襲い、イズミは床に転がった。雨戸を蹴飛ばされたのだ。たったれだけの振動で転げる程に、今のイズミは疲弊している。のショックで固まったのが、イズミの運の尽きだった。

 一瞬にして、がらりと雨戸が開く。仄青い月光が燦然と射して、和室の薄闇を駆逐した。清浄な輝きを全身に浴びた狂人は笑っていて、の手にはいつの間にやら、出刃包丁が握られていた。

 ぎらりと月明かりを照り返すやいばを見て、イズミは目を剥く。

「貴方、一体どこからそんなものを出したのです!」

 状況を忘れた叫び声を受けて、伊槻の笑みが深くなる。唇が三日月を形作り、月光を纏うにび色の凶刃きょうじんが、イズミ目掛けて振り上げられた、瞬間。

「伊槻君!」

 しゃがれた声が、両者の間に割り込んだ。

「伊槻君、聞け! ――『君の〝家族〟の中に、呉野和泉はいない!』」

 ぴたりと、やいばが止まる。

 月影つきかげに染まる身体が、痙攣した。

 己にかかる伊槻の影が、れきり微動だにしない。赤く充血した目玉が蠢き、視線がイズミから逸れていき、背後のテーブルの上を見る。「伊槻君!」と鋭く発せられた老人の声は、厚い人情の声だった。乱暴な口調とは裏腹な、決死の慈愛を孕んでいた。

「――『繰り返す! 君の〝家族〟の中に、呉野和泉は居ない! もう一度、今度は名を変えて〝言挙げ〟する! 伊槻君、聞け! 君の〝家族〟の中に、イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノは含まれない! 此奴こやつは、違う! 関係ない! 君とは全く関係のない、赤の他人だ! ……だから、殺すな! 伊槻君! 赤の他人を巻き込んではならん!』」

「……御爺様……?」

 イズミは腰を抜かしたまま、背後を振り向く。こんな状態の伊槻から目を逸らす愚かしさを承知の上で、れでも振り向かずにはいられなかった。

 ――伊槻の動きが、止まったからだ。

「……。やっと、効いたか。もう使えんと思っていたが……全く。遅すぎる」

 國徳が、嘆息する。悪態をくような台詞には、自嘲の響きが微かに在った。れでいて微かな安堵も、掠れた声は含んでいた。

「御爺様、これは、一体……」

 身体を拘束されたままの老人へ、イズミが問いかけた時だった。

 ふらりと、伊槻の影が動き出した。

「!」

 戦慄が走った。

「……逃げろ、和泉」

 國徳が、言う。娘の婿を睨みながら、声だけはイズミに向けて、厳粛な声音で呼び掛けた。

「和泉。貴様、〝言霊〟は判るか」

「言霊……っ? ……待ってください、伊槻さん! 行かないで!」

 答えかけて、慌てて叫んだ。

 伊槻が、イズミを無視して縁側を上がってきたのだ。

 死に物狂いで、のズボンに縋りつく。縋った瞬間に頬と肩を足蹴にされて、身体が板張りの縁側に叩きつけられた。視界が真っ赤に光り、口内に血の味が広がった。だが、諦めるわけにはいかないのだ。諦めたら殺される。イズミの家族が殺される。手を懸命に伸ばしたが、指先がズボンの布地を掠っただけで、伊槻はゆっくり歩いていく。國徳の元へ歩いていく。家族を殺しに歩いていく。

 痛みが、全身を蝕んでいった。どんなに手に力を込めても、最早倒れた身体を持ち上げることすら叶わない。

 の絶望に、追い立てられるように――イズミは、声を荒げていた。

「御爺様、逃げてください! 早く、そこから飛び降りるのです!」

「無茶をうな。逃げないならば、聞け、和泉」

 國徳はう言って、包丁を手にゆっくりと近寄る伊槻を睨み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「私には、伊槻君を止められんだろう。私と伊槻君は、う親しい間柄ではなかった。伊槻君がれを気に病んだのは、私の責任だと思う。今さら何を〝言挙げ〟したところで、もう遅い。時間も足りん。そんな焼刃やきばの絆で万事が丸く収まるなら、そもそも伊槻君は壊れなかったろう。……だから、いい。伊槻君に殺されること自体は、構わん。伊槻君の好きなようにすればいい」

「そんな……、貴方は、何を仰るのです!」

 イズミは床を這い、伊槻に追い縋る。何故かイズミに一切の関心を払わなくなった伊槻に向けて、震える指先を懸命に伸ばした。伊槻は既にテーブルへと足を掛けて、中央に立つ國徳に限りなく近い場所まで迫っている。焦りが、心を衝き動かした。死ぬ。殺される。家族が。國徳が。畳まで這いずり、手を伸ばす。テーブルの足に触れただけで、手は何処どこにも届かなかった。

「やめてください! 伊槻さん! いけません! 殺してはなりません! 御爺様を殺さないでください! やめるのです! いけません! やめてください! ……お願いします! 殺さないでください! 僕の家族を、殺さないでください! 僕は、まだ……まだ! 國徳御爺様の事をっ、何も知らないままなのです!」

 がむしゃらに叫んだ。もう声しか武器はなかった。身体が駄目で手も届かぬなら、唯一残った声にって、伊槻を止めるしか手立てがなかった。伊槻が、「ひひ」と声を立てる。わらっている。狂っていた。何処どこかで歯車が狂っていた。掛け違えた感情が心の器を破壊して、伊槻をこんなにも壊していた。

 ――何故。

 純朴な疑問の観念が、頭に浮かび上がった時――國徳が、口を開いた。

「和泉。れは、〝言霊〟だ。……やっと、判った。あの娘に、氷花に……何が出来るのか。こうなってやっと、ようやく判った。――和泉。呉野氷花の言葉は、人を壊す。れを、ゆめゆめ忘れるな」

「な……」

 何を言われたのか、判らない。

 否、判る。教育を賜っていたからだ。周囲の様々な大人から、イズミはれを教わった。だから、判る。理解が迫る。の心に手が届く。

 嗚呼ああ、と思う。國徳の事が、よく、判る。

「伊槻君の『弱み』は、『孤独』だ。れを、あの娘の言葉で掬い上げられて、葛藤した。結果、伊槻君はこうなった。……和泉。止められん。あの伊槻君は、『仲間外れが許せない』。自分と一緒に、全員が死ぬまで……『一家心中』を遂行するまで、止まらん。家族を巻き込んで、死ぬ心算つもりだ。むしろ、家族と一緒でなくては、意味がないとすら思っとる。うすれば、家族と一緒に居られる。〝仲間外れ〟にならずに済む。……余計なことはうでないぞ、和泉。何を訊かれても答えるな。伊槻君からの質問に、〝家族〟だと答えたら最後。貴様も一緒に殺される」

「……!」

 鳥肌が立った。

「私が、此処ここで生かされていたのは……和泉。貴様のおかげだ。貴様は最近、伊槻君と親しく会話を交わしたろう。親戚の一人でしかなかったはずの貴様は、伊槻君に〝家族〟として認識されかけていた。だから、の認識を確信に変えるまでは……伊槻君は、誰も殺さなかった。家と神社を焼く準備はしていたはずだが……幸い、実行には移さなかったらしい」

「家族……」

 伊槻と会話した、藤崎家での出来事を思い出す。

 イズミに礼を言った時の顔は、真っ当で健全な人の親の笑う顔だった。差し伸べられた手は温かで、流れ込んでくる感情もまた温かだった。

 の伊槻が、家族を殺すという。

 仲間外れが、寂しいから。家族みんなで、死ぬという。

 貞枝と、杏花と、國徳と、イズミと。

 ――そんな、理屈は。

「納得できません!」

「貴様の納得など要らん! 和泉、早く行け!」

 國徳が声を張り上げて、イズミを険しく睨み据えた。

「伊槻君は、もう貴様を〝家族〟だとは思わん! だが、もし火を点けられたら……ガソリンに引火したら、逃げられん! 伊槻君が放火する前に、早く」

「貴方は、何を言っているのです!」

 言葉を最後まで聞かずに叫んだ瞬間、弾かれたように手が動いた。

 出鱈目に動いた手の平は、伊槻の足首を強く叩き、乾いた音が響き渡る。

 瞬間、ぎろりと伊槻が振り返った。

 石ころを眺めるような冷たい目が、イズミを見下ろす。そしてテーブルから降りてくると、畳に落ちたイズミの手を、だんっ! と容赦なく踏みつけた。

 ぱきっ、と骨が砕ける、呆気ない音がした。頭の中が真っ白になり、遅れて壮烈な激痛が押し寄せて、目の前が真っ赤に染まった。

「――――っ!」

「! 伊槻君、やめろ! ――『赤の他人に構うな!』」

 声が、和室に叩きつけられた。歯を食いしばって悲鳴を堪えるイズミの頭上から、力ある声が降ってくる。錫杖しゃくじょうの音のような涼やかさが聞こえた途端に、手を踏みつける足が、すうと浮いた。血がどくりと手の甲の血管を流れる感触とともに、伊槻の足が離れていく。の足が着地した場所は、再びテーブルの上だった。

「赤の、他人」

 茫洋と、イズミは呟く。痙攣する手を無理やりに握り締め、激痛を手の平で潰すようにして堪えながら、口の端に血が滲む程に、強く奥歯を噛みしめる。うでもしなければ抑えきれない程に、の台詞に明確な怒りを覚えたのだ。

「……赤の他人では、ありません。……僕と、貴方は……赤の他人では、ありません」

 きっ、と頭上を振り仰ぐ。テーブルの中央にいる痩躯を睨みつけたイズミは、喉を酷使し過ぎてしゃがれた声で、食らいつくように叫んだ。

「僕は、貴方の身内です! 僕は、貴方の孫です! そんな巫山戯ふざけた〝言挙げ〟など、僕は聞きたくありません!」

巫山戯ふざけているのは貴様だ! 和泉! 逃げろとうのが聞けんのか!」

「知りません、逃げません! 御爺様、貴方は、このままでは殺されます! 貴方を助けるまで、僕はここから逃げません! 御爺様、何故……、貴方はっ、僕の事を助けながら、御自分の事は諦めるのです!」

 イズミが、さらに言葉を重ねようとした時だった。

 ――ぱちん、と。あの音が、またしても脳裏に響いた。鋏の刃を噛み合わせた時のような、花の息の根を止める音が。どくん、と心臓が不穏に打つ。

 ――来る。覚悟とともに思った。また、あの〝映像〟がやって来る。氾濫した伊槻の心が、再び己を食い荒らす。

 苦悶を覚悟したイズミだったが……の瞬間に身体を過った〝映像〟は、イズミに苦悶を残さなかった。切り刻んだ写真のネガのような映像が、騙し討ちのように脳裏を通り過ぎただけだった。

 しかし、の一瞬が全てを物語っていた。

「御爺様、まさか」

 イズミは、愕然と國徳を見る。

 額からの流血に、口の端に出来た青い痣。其処そこに滲んだ赤い血液。天井のはりからぶら下がる首吊りの輪。明らかな暴行の痕。

 ――今、確かに『見えた』のだ。

 畳に倒れ伏す國徳の傍で、携帯で何処どこかへと電話をかけた伊槻が。

 の伊槻に掴みかかって、携帯を取り上げた國徳が。

 来るな、と叫んだところが。

 の直後、弾むように居間から台所まで転がった携帯が。

 縄を持った狂人が――手負いの老人を、手酷く殴りつけるところが。

「御爺様。今、貴方が……伊槻さんから、暴力を受けているところが見えました。貴方は……僕を呼び出そうとしていた伊槻さんに、ずっと訴え続けていたのですか? さっきのように、僕は……イズミ・イヴァーノヴィチは、伊槻さんの〝家族〟ではないのだと。貴方は此処ここで殴られながら、ずっと同じ台詞を言い張り続けていたのですか? ……僕が、殺されない為に、貴方は……!」

 何故。咄嗟にう思った。何故、國徳が、其処そこまで。

 だが、疑問に思うことなど何もないのだ。の心の動きは、今のイズミと同じだからだ。

 家族を救う為に、身をていして動くこと。れの、何処どこが疑問なのか。

 國徳は、本当に――回りくどい、大人だった。

 絶句するイズミを横目に見た國徳が、「和泉」と淡々とした口調で呼んだ。何かを、覚悟したような声だった。

「十八歳で、イヴァンの息子で、克仁かつみの息子なら……善悪の土台くらい、貴様の中に据わっとるはずだ。もし、貴様が学んだ〝言霊〟に、本当に力があるならば。貴様が思う以上の霊威れいいで、現実を変革させる力があるならば。れは、こういう風に人を壊す。れを肝に銘じた上で、己の異能と向き合っていけ。反面教師と受け止めて己の襟を正すも良し、弱きを助けていくも良し、何も見て見ぬふりも良し。貴様の、好きにするがいい。……死ぬな。せめて、私が生きているうちくらいは、死ぬな。……生きろ。和泉」

 國徳が、イズミを見下ろす。

 真正面に刃物を持った男に立たれても、一切の恐れを顔に出さない老人は、厳しく細められた鋭い眼光を、の一瞬だけ不意に緩めた。

 そして、身体をもう全く動かせない孫を見下ろして、まるで息を引き取るような儚さで、小さく唇を動かして――、

「……よく、来てくれた。貴様に会えて、私は」

 包丁が、高々と振り上げられた。

 刀身に映る月光が、凶刃の輪郭をなぞるように、滑らかな燐光を弾いていく。

 にい、とわらった狂人の哄笑が、和室に、森に、轟き渡った。

「――っ、御爺様ああぁぁ!」

 魂の叫びが、喉を食い破らんばかりに突き上げた瞬間。

 れは、起こった。


「イズミ!」


 声が、聞こえたのだ。

 天上からの呼び掛けのような其の声は、柔らかで、嫋やかで、美しい。異なる国で生きた時間が、家族の声に郷愁を生んで、イズミをいつも苦しめる。

 もう、老いるところは見たくない。同じ歳月を過ごしたいという小さな望みを叶えても、いつかは別々の道を歩むと判っている。されど別れの時が来るまでは、魂の健やかさを見守りたい。れが、子の務めだと思っていた。

 嗚呼ああ。来てはいけない。う、言っていたのに。


「イズミ、無事か! ……大丈夫か、イズミ!」


 手が、舞い降りてくる。白く痩せた手の平は、異邦の男の手の平だ。半分は日本の血、残りの半分が異国の血。二つの国の血を通わせた男の髪は、天の使いのような飴色で、白銀のつやを照り返す。月光の青に包まれた和室で、の姿は虚構のように清らかだ。の現実が、虚構であればいい。焦る心でう思った。

 イズミは、手を伸ばした。もう、声も出ない。止められない。だが、危険だけは判っていた。伊槻は、親戚であるイズミさえも襲ったのだ。早く、此処ここから、逃げてほしい。イズミのことは、もういいから。助けなくても、構わないから。

 だが、声なき言葉に乗せた願いに、魂が宿るはずもなかった。

 イズミの父、イヴァンは――顔を上げて、テーブルに立つ二人を見た。

 黒曜石のごとき瞳が、はっと瞠られる。白い肌を蒼白く染めた男の唇が、呼び名の〝言挙げ〟という愛の形をした一つの言葉を弾き出した。


「――父上!」


 立ち上がった父は、包丁を振り上げる伊槻に向かって、躊躇なく駆け出した。まるで水中の出来事のように、イズミにはの動きがゆっくりとしたものに見えた。青い闇の中で動いた父は、伊槻の身体に当て身を食らわせ、刮目かつもくして言葉を失う國徳を抱きかかえ、テーブルから丸椅子もろとも、二人で転がり落ちていく。

 倒れた三人の大人の中で、誰よりも早く立ち上がったのは――伊槻だった。

 顔は、壊れた笑みのままだった。父を凝乎じっと見つめて、わらっている。

 の瞬間に、理解した。

 何が、起ころうとしているのか。

「こんばんは。イヴァン義兄にいさん。……こんばんは。……ひひ、義兄さん。君の事を、忘れていたよ。君は貞枝の兄さんなのに、あんまり、話ができなかったから。でも、今、思い出した」

 黒髪を振り乱し、口の端から血と唾液を垂らした伊槻は、まるで捕食するように父を見る。先程イズミを見た瞳と、同じ獰猛さで父を見る。

 そして、禁断の質問を、ついに言った。


「イヴァン義兄さん。君は、僕の〝家族〟かい?」


 國徳が、目を見開いた。「ならん!」と鋭く叫ぶ声がして、皺の刻まれた手が父に向って伸ばされる。だが、ほどけかけた拘束の縄がビンと張って、あと少しのところで手が止まった。

 れでも無理やりに伸ばした手が、言葉が、父に届くよりもずっと早く――父は、既に言っていた。

 父は、呆れる程に優しいのだ。イズミが偏屈な態度で接すればいつも笑い、落ち込んでいれば髪を撫でて寄り添ってくる。感情の機微を敏感に読み取る父は、自分ではうとは知らぬままに、いつも人を救っているのだ。

 そんな、博愛の人が。

 こんな伊槻を、前にして。

 優しい嘘を、くことは。

 もう、誰もが『判って』いた。


「……はい。僕は、伊槻さんの〝家族〟ですよ。……ですから、怖がらないで。伊槻さん。僕は何もしませんから。落ち着いて、僕と、話をしましょう」


 父の声は震えていて、刃物を持った狂人を恐れているのは明白だった。

 色の失せた唇が、やがて笑みを形作る。気丈に振る舞う父が見せた、渾身の強がり。決死の覚悟と度量でもって、全ての不安と狂気を抱き留めようと、真摯に浮かべたの笑顔に。


 赤い血液が、一滴。


 ぴしりと、細やかに、一度跳ねて――月明かり透かす障子戸へ、鮮やかに飛び散った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る