4-32 供花
父であるイヴァンの姿が見えない時、母であるジーナは愚痴を零していた。
曰く、父の愛するものが嫌いだと。
曰く、父の事が、嫌いだと。
いつか日本へ行ってしまう、父の事が嫌いだと。
母の愚痴を受け止めるのは、苦痛ではなかった。父を
イズミは、父の趣味が好きだ。父の愛するものが好きだ。そして何より、父の事が好きなのだ。
何故そんなにも好きなのか、理由はよく判らない。だが、判らなくても構わなかった。疑問を残すことを嫌う自分には珍しい考え方だが、
イズミの学びに目的はない。夢もなければ目標もない。学びが手段で目的で、学ぶ事が全てだった。イズミが家族を好きな事は、
愚痴をたびたび繰り返す母は、イヴァン・クニノリヴィチ・クレノを愛したことを、後悔しているのかもしれない。イズミという子供を授かっても、愛想が尽きたのかもしれない。だとしたら其れは悲しいことだが、イズミが傷つくことはなかった。
母の『愛』を『見た』からだ。言葉とは裏腹な愛情を、既に知っていたからだ。
――きっかけは、祖母の墓参りだった。
父方の祖母。名はソフィヤ。
父が祖母を語る時、黒曜石の
清らかな魂。イズミと出逢うことなく、逝った人。
イズミと母は、二人で墓地を訪れて、
義母の墓前で、父の愚痴を言ったのだ。
――酷い人、と。
溜息を
曰く、父の趣味が嫌いだと。
曰く、父の愛するものが嫌いだと。
曰く、父の事が、嫌いだと。
いつか日本へ行ってしまう、父の事が嫌いだと。
だが、毎日のように聞かされて、脳で飽和する程に溜まった
いつか日本へ行ってしまう、父の事が、嫌い。
……父が、日本に
日本に、家族がいるからだ。
周囲を森に囲まれた共同墓地で、イズミの祖母、ソフィヤは眠る。
イヴァンの母。呉野
若い二人。言葉も満足に判らない。意思の疎通も図れない。生活も文化も教養も、瞳の色さえ違う二人。
どんな、心だっただろう。琥珀と青の瞳同士が互いの姿を捉えた時、どんな感情が通っただろう。絆の結び方も判らぬままに、どうやって互いの心と魂を、相手に伝え合ったのだろう。
伝え合って、恋人になったのだろう。
一緒になろうと決めたのだろう。
言葉を超えた、絆が在る。言葉に絆を求めなくとも、成立する何かが在る。そんな愛が
そんな光の中で生きた祖父が、イズミには羨ましくなった。
そして、初めて生まれた羨望が、蝋燭の焔のように、胸に灯った時。
イズミには母の言葉が、とても悲しく思えたのだ。
祖母は、とうの昔に亡くなった。清らかな魂の其の人は、
もう、死んでしまったから。
生きている間には、二度と会えない。
だが、父親には――まだ、会える。
森の中で、イズミは空を仰いだ。
今、何をしているだろう。どんな声をしているだろう。どんな話し方をするだろう。眼差しは、髪の色は、どんな容姿をしているだろう。
祖母と離縁を決めた
新たな家庭を、築いただろうか。
だとしたら、
興味が、溢れていく。輝かんばかりに溢れていく。目の前が拓けていくようだった。霧が晴れるように、空が光るように、空気が鮮やかに色付いていく。知りたい。心から思った。祖父の事を、もっと知りたい。正面に立って、顔を見上げて、目と目を合わせて話したい。そんな風に、イズミは絆を追及したい。
会いたい。
ごく自然に、新しい願いが心に芽生えた。イズミは一瞬驚いたが、
――イズミであっても、
ならば、父は。実子であるイヴァンなら。
『お母さん。……お父さんの事を、あまり責めないであげてください』
イズミは、言った。
母が、言葉を詰まらせて沈黙する。流れ続けた愚痴の言葉が、ぷつりと
だが、イズミは父を庇いたかった。言葉で庇い、感情を守りたいと、子供ながらに思ったのだ。
『お父さんは、御婆様を……自分を産んでくれたお母さんを亡くして、とても寂しいと思うのです。寂しいまま、笑って生きていると思うのです。僕だって、お母さんが死んでしまったら、とても寂しいです。……でも。御爺様は、生きています。まだ、会えます。いつでも、会いに行けるのです。御婆様とは会えなくとも、御爺様には会えるのです。……僕は、お母さんとお父さんと離れ離れになって、違う場所で生きていくのだとしても。その時きっと、お二人に会いたいと思うはずです。それが、家族だからです。愛しているからです。……お母さん。お父さんの事を、あまり責めないであげてください。家族に会いたいと
長い台詞をゆっくりと喋り終えると、どんな顔をすればいいのか判らなくなってしまい、イズミは微笑した。
母はそんなイズミを見下ろして、ショックを受けたような顔で黙っていた。
意思を、伝えたかっただけだった。傷つけたいわけではなかったのに、
言葉は、本当に難しい。
母にそんな顔をさせてしまったことが申し訳なく、
肩に提げた鞄から、イズミは
そして、母に向けて、優しく
『お母さん。これを、ソフィヤ御婆様に手向けて下さい』
母の青色の目が、大きく見開かれた。
何故、そんな行動を取ったのか。幼い魂が選び取った行動に、イズミは奇縁を感じずにはいられなかった。花とは思っていなかったはずなのに、
風を受けて、からりと回る赤い色。鞄に入れていた所為で角が少しよれてしまい、綺麗に回ってはくれなかった。
――赤い、風車。
克仁から貰った
――お父さん。
克仁の家の庭で、夕日に照らされた父が笑っている。穏やかに笑いながら、イズミの髪を撫でている。離れていく指を目で追いながら、イズミは台詞とやり取りを、そっと反芻して笑う。
――僕が、克仁さんから貰ったものは。
〝言挙げ〟しなかった一つの魂。イズミは、
夢想した風景は、あまりに清らかで幸せで、そんな笑顔を見てしまっては、
イズミは十分に幸せで、満ち足りていて――もう何も要らないのだと、あの時確かに思ったのだ。
お父さん。
僕が、克仁さんから貰ったものは。
貴方の、お母様の。
手向けの花と、なったでしょうか。
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