4-29 失踪
電話を受けたのは
二階の蒸した自室で制服のまま勉強していたイズミだけが、知るのが僅かに遅れたが――結果として、そんな差など取るに足りないものだった。
連絡を受けた克仁達に、すべき事がなかったからだ。
「あまり
「待って下さい。なぜ
身を乗り出さんばかりの勢いで訊くイズミに、克仁は「貞枝さんですよ」と教えてくれた。口調は普段通りだが、表情は別人のように張り詰めていた。
「私は、伊槻さんとは昨日少しお話した程度で、
克仁は、部屋の隅に設えた大きな置時計をちらと見た。つられてイズミも見た時計の針は、もうすぐ午後の七時を指そうとしている。
「克仁さん。やはり貴方が言うように、騒ぎ立てするには、時刻が
話が突飛過ぎて、全くついていけなかった。貞枝がそんな連絡を
「……イズミ。僕は呉野神社へ行って来ようと思う。貞枝が心配だ」
父がソファから立ち上がりながら然う言ったが、イズミは
今日の午前中、神社の空気が張り詰めて痛かったことを思い出す。霊的な力と生命力で飽和していたはずの清らかさが、嘘のように消えていた。たとえ親戚の失踪という非常事態であっても、父があの神社に足を踏み入れるなど、言語道断もいいところだ。そんな己の感性に、イズミは絶対の自信を置いていた。
「お父さん。絶対にそれだけは止めて下さい。僕と御爺様の言葉を忘れたのですか? 貴方は神社に行ってはいけないのです」
「そうは言っても、事が事じゃないか。少し様子を見るだけだから」
「もうすぐ帰国予定の方が、何を仰っているのです。お父さんに何かあれば、僕はお母さんに顔向けができません」
「ジーナとは、離縁を決めたばかりじゃないか」
父は、弱り果てた顔をした。
父が藤崎家に居られる時間は残り僅かで、明後日には日本を発ってしまう。いずれは生活の基盤を日本に移すが、
「お父さん。向こうでの仕事の引き継ぎに、
「……イズミ。やっぱり君、今日は何だか怒っているね?」
あっさりと、看破されてしまった。
「そんなことは」とイズミは咄嗟に反論しかけたが、
「イヴァンが心配する気持ちも判りますよ。ただ、伊槻さんは生真面目な方だそうで、
「……。やはり、僕は様子を見に行って来ようと思います」
イズミは、立ち上がる。そして、父のスーツケースからも克仁からも背を向けると、「イズミ」と呼んで制止する父を横顔だけで振り返り、笑った。
「貞枝さんの言いつけを破る事になりますが、僕は既に彼女から嫌われているでしょうから。気にすることはありません。行ってきます」
「まあ、待ちなさい。イズミ君。君が行くくらいなら、私が行きますよ」
居間を出ようとしたイズミに続いて、克仁も立ち上がって歩いてくる。
「……全く。イズミ君、イヴァン。一旦居間へ戻りましょう。誰かが様子を見に行くにしろ、
「ですから、それは僕が」
イズミが言葉を割り込ませると、父が不意に「ああ、そうだ」と何かを思いついた様子で声を上げた。
「イズミ。その
「? そのように聞いております」
確か、貞枝がイズミに
イズミの返事を聞いた父は、戸惑った様子で少し黙った。
「……イズミ。伊槻さんは、以前に呉野家でお会いした時にはスーツ姿だったけれど、今日もそれは同じかい?」
「……? すみません。伊槻さんが今日は家に居たという事を貞枝さんから聞いただけで、直接お会いしたわけではないのです。なので、判りかねますが……お父さん、どうしたのですか?」
「いや。何でも、ないんだけれど……今日、似たような方を見かけた気がしたから……」
細々とした父の語りに、克仁が反応した。顔が、微かに強張っている。
「……イヴァン。
「ああ、克仁さん。人違いかと思ったんですよ。あまりにも、あの日見た人と印象が違っていたから。伊槻さんという方は、髪型もちゃんと整えられていたし、自分の身なりにきちんと気を配る方だったじゃないですか。だから、僕の人違いだと思ったんです。……でも、失踪したなんて聞かされたら、あれはやっぱり伊槻さんだったんじゃないかって、気になってしまって」
「お父さん。伊槻さんを見たのですか」
イズミは、父に詰め寄った。
どくん、と心臓が跳ねる。今、
「……イヴァン。続きを」
克仁が、硬い声で言った。
父が、目撃した〝何か〟が――破滅を孕んでいることに。
「……」
父は異様なまでの沈黙に気圧されたのか、固唾を呑んで青年と男を見比べてから、言い
「……白い、
「目?」
「とろんとしてると言えばいいのか……起き抜けのような……違う。それよりも、もっと酷い……近寄ったらいけないって、一目見ただけで思ったんだ。今思い返したら、伊槻さんに似ていたかもしれないって判るのに……あの時は、まるで考えもしなかった。とにかく、こんな状態の人と顔を突き合わせてはいけないって……相手の方には失礼だけれど、僕は怖くなってしまったんだ」
「……イヴァン、私は気づきませんでした。
「スーパーの隣に、大きなホームセンターがあるでしょう。僕と克仁さんがスーパーを出た時に、そちらの店にふらふらと、危なっかしい足取りで入っていくのを見たんです。絶対に目を合わせてはいけないと思ったので、克仁さんには言いませんでした。こんな話題にならなければ、思い出しもしなかったと思います」
「……」
克仁は、沈黙した。イズミも、何も言えなかった。
二者の重い沈黙を受けて、父は申し訳なさそうに俯いた。「でも、人違いだと思うから」と小さな声で付け加えられたが、
「……伊槻さんは、昨日。杏花さんと喧嘩をしたそうです」
イズミは、言う。父は驚いた顔をしていて、克仁の表情は変わらなかった。そんな大人二人の様子を見ながら、イズミはぽつりと、先を続けた。
「今日、僕は杏花さんに会うために神社へ出向きましたが……午前中に伺った際には、伊槻さんはご在宅だったそうです。お二人が買い物に出かけられたのは、何時頃の事ですか」
「十一時半頃ですよ。イズミ君」
克仁が答えて、居間の電話に向かって歩いていく。蒼白な顔で克仁を追う父を気にしながら、イズミは状況を整理すべく思考した。
……つまり。イズミが、杏花と貞枝を残して山を下りたあの時。貞枝の言葉を信じるなら、伊槻はまだ家に居た。
間違いない。あの時だ。イズミが山を下りて自宅に戻り、克仁が家を空けた十一時半頃に――伊槻もまた、山を下りていた。
そして、克仁と出かけていた父に、
夢遊病者の足取りの、挙動の不審な男として。
「伊槻さん……」
伊槻の事を、イズミは思い出そうとする。愚痴を言える仲間を探した時の、揶揄めいた笑み。家族と感情を分かち合えず、寂しそうに笑う顔。イズミと打ち解けられて喜んだ時の、さっぱりと晴れやかな笑顔。顔は笑顔のままなのに、感情だけは多様だった。
イズミは、伊槻の事を深く知っているわけではない。職業についても未だ商社マンという仔細不明なままであり、人知れず抱えた葛藤について知ったのは、つい昨日のことなのだ。だから、
だが、
伊槻は美しいものが好きなのだと、貞枝は歌うように言っていた。美女の台詞を呼び水にして、鏡花談義の記憶が蘇る。数ある文学作品の中から、伊槻はお化けが出ない物語を選んだ。男女の愛の破滅を描いた観念小説も選ばずに、清らかな心を持った女を巡る短編を。穏やかな気性に結びついた選択を妻に指摘された時、伊槻は恥ずかしそうに言い訳した。
まだ、知っている。伊槻は貞枝を愛している。
――人の心が、『判る』からだ。
伊槻の失踪が事実なのか、真偽のほどは定かではない。だが、もし本当に行方を眩ませたのだとしたら、
愚痴を、聞いてしまったからだ。
杏花が仲良くしたいと願ってやまない、かけがえのない〝家族〟だから。
「……克仁さん。教えていただきたいことがあります」
電話の前で
「僕は今日、貞枝さんに……
ずっと心の淵に引っかかっていた懸念は、今こそ〝言挙げ〟するべきだ。何故ならイズミは、疑問を残すことが嫌いなのだ。
だから――
疑問は全て、空にしなくてはと思ったのだ。
「〝
克仁は、息を呑んでいた。
「イズミ。それは……やっぱり君が、自分で不思議だと思ったことなのかい?」
父が、横合いから声を掛けてくる。振り返ったイズミが見た父の顔は、
「はい。そうです。僕は、それを知りたいのです」
理屈ではない。杏花が心配だった。あの時の〝左様なら〟を、ただの挨拶と捉えてはいけない。言葉に込められた魂が、イズミに
やがて父が微笑んで、「……そうか。イズミは大人になったな」と嫋やかな愛情を感じさせる声で、囁いた時。
「未練です」
克仁が、言った。〝言挙げ〟に呼応するように、張り詰めた空気が躍動する。イズミの知らない観念が、言葉の形で
「左様なら。日本で使われる
初めての観念を知った、イズミの脳裏に――杏花の声が、蘇った。
――お兄様は、イズミお兄様なのでしょう? 私は、知っているのです!
凛とした声が、溢れ出す。まるで雨のようだった。杏花の涙を思い出す。涙の雫の
――私が、お兄様のお勧めのご本を読めるようになったら、私にも〝清らか〟が判るようになりますか?
――お兄様は、私と遊んでくれました。お母様も、お父様も。お爺様は、時々しか遊んでくれません。でも私は、お母様も、お父様も、遊んでくれる時のお爺様も好きです。……お父様は忙しいみたいで、最近は前ほど遊んでくれません。でも、遊んでくれる時のお父様は大好きです。
――お兄様。好きな人には、こうするものなのでしょう?
――それは、
――お兄様のご本では、魂が〝清らか〟な女の人が出てきます。お兄様は私のことを〝清らか〟だと言ってくれました。その女の人のように、私も〝清らか〟ですか?
――あとどれくらい〝清らか〟になれば、お爺様は私と遊んでくれますか?
――欲しかったのです。清らか。欲しかったのです!
――お兄様、寂しいです。
――私は、やっぱり、いけない子なのでしょうか。
――生まれ変わったら、花になりたい……。
――左様なら。お兄様。
電話が突如として鳴り響き、克仁の肩がぴくりと動いた。すぐさま伸びた手が受話器を掴み、「もしもし」と
克仁の顔色が、変わった。
「もしもし!
克仁はイズミを振り返り、硬い声で言った。
「すぐに切れてしまいましたが、國徳さんからだと思います」
「御爺様? 一体、どうされたのですか」
「判りません」
首を横に振った克仁は、「ですが」と言い足した。
「――『来るな』……と。たった一言だけ、聞こえました。
「……父上が」
「克仁さん。お父さん。……行ってきます。夕飯は、先に食べていて下さい」
「……イズミ君っ?」
克仁が、ばっと
騒々しい音を立てて玄関扉を出た先で、夜気の甘さが身体を誘う。神社へ来いと誘っている。
「イズミ!」
鋭い声が空気を裂く。父が息子を呼ぶ声だ。灰色の住宅街に、庭の緑が映えている。蛍光灯の白い灯りが、夏の景色を照らし出す。イズミは
イズミは何がしたいのだろう。発作的に飛び出しながら、理由はやはり判らなかった。だが、会わねばならぬと思うのだ。
失踪した伊槻が、
だが、気がかりは杏花の事だけではないのだ。
――『来るな』
イズミの周囲は回りくどい大人ばかりで、しかも言葉が足りないのだ。あの
ならば、直接訊くしかない。
――この状況で、来るな、なんて。
来いと言っているようなものではないか。
「御爺様は、愚かです!」
夜道を走るイズミの正面に、黒い御山が見えてきた。薄闇に
状況は、判らない。だが、行けば何かが『判る』はずだ。イズミは
そして、今度こそ――杏花の事を、訊きたいのだ。
何故、〝二人居る〟と思ったのか。何故、イズミが
呉野國徳に。実の祖父に。――血の繋がった、一人の家族に。
一つ目の鳥居をくぐったイズミは、石段をぐんぐん上っていく。ついに頂上へ到達すると、二つ目の鳥居の手前で足を止めた。
空気で、判った。肌に、ぴりりと痛みが走る。
「御爺様。貴方の〝言挙げ〟は、まるで助けを請うているように聞こえます。どういう状況か存じませんが、
もし
そして、イズミは軽い息切れを整えながら、顔を上げて――息を呑んで、固まった。
正面には、
目を
闇に紛れて木陰を彷徨う人物は、手に何かを持っている。
ざああ――と。ぬるい風が吹き抜けて、異質な匂いをイズミの元まで運んでくる。とうに沈んだ太陽の赤みが、空から急速に消えていく。
密度を増した闇の中で、黒い人影は動き続ける。少し歩き、位置を変え、草木に何かを撒き続ける。同じ人間とは思えなかった。獣のように獰猛な気配が、ひしひしと闇に溶け出している。
何故、こんなにも気味が悪く見えたのか。理由を、イズミは知っている。
神社の敷地で、何らかの悪行を働いていると思しき
知り合い、親戚だということを――イズミは、知っているからだ。
「伊槻、さん……?」
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