4-29 失踪

 伊槻いつきが失踪したという報せを受けたのは、の日の晩の事だった。

 電話を受けたのは克仁かつみで、次にれを知ったのは父だった。二人とも居間で過ごしていたので、情報伝達は速やかだったという。

 二階の蒸した自室で制服のまま勉強していたイズミだけが、知るのが僅かに遅れたが――結果として、そんな差など取るに足りないものだった。

 連絡を受けた克仁達に、すべき事がなかったからだ。

「あまりいふらさないでほしい、だそうです。失踪と云っても、相手は大人ですからね。確かに、まだ騒ぎ立てするには早いでしょう」

「待って下さい。なぜ伊槻いつきさんの外出を失踪と断定されるのです。その電話、貞枝さんからですか? それとも御爺様ですか?」

 身を乗り出さんばかりの勢いで訊くイズミに、克仁は「貞枝さんですよ」と教えてくれた。口調は普段通りだが、表情は別人のように張り詰めていた。

「私は、伊槻さんとは昨日少しお話した程度で、れ以前にお会いする機会に恵まれませんでした。國徳くにのりさんの所にお邪魔しても、伊槻さんは大抵お留守ですからね。働き盛りの男性ですから、当然とえば当然ですが……」

 克仁は、部屋の隅に設えた大きな置時計をちらと見た。つられてイズミも見た時計の針は、もうすぐ午後の七時を指そうとしている。

「克仁さん。やはり貴方が言うように、騒ぎ立てするには、時刻がいささか早いです。貞枝さんは何をもって、伊槻さんが失踪したなどと騒いでおられるのですか」

 話が突飛過ぎて、全くついていけなかった。貞枝がそんな連絡を此方こちらへ寄越すのも不可解な上に、そもそもイズミと貞枝は今日、かなり致命的な親戚関係の破断を迎えたのだ。ほんの六時間程前の出来事なので、のやり取りが伊槻失踪と何か関係があるのではないか、イズミはまた貞枝にからかわれているのだろうか、と疑り深く考えてしまい、心臓の鼓動が早くなる。いやな予感が、消えないのだ。

「……イズミ。僕は呉野神社へ行って来ようと思う。貞枝が心配だ」

 父がソファから立ち上がりながら然う言ったが、イズミはきっと振り向くと、「いけません、お父さん」と強めの口調で主張した。

 今日の午前中、神社の空気が張り詰めて痛かったことを思い出す。霊的な力と生命力で飽和していたはずの清らかさが、嘘のように消えていた。たとえ親戚の失踪という非常事態であっても、父があの神社に足を踏み入れるなど、言語道断もいいところだ。そんな己の感性に、イズミは絶対の自信を置いていた。

「お父さん。絶対にそれだけは止めて下さい。僕と御爺様の言葉を忘れたのですか? 貴方は神社に行ってはいけないのです」

「そうは言っても、事が事じゃないか。少し様子を見るだけだから」

「もうすぐ帰国予定の方が、何を仰っているのです。お父さんに何かあれば、僕はお母さんに顔向けができません」

「ジーナとは、離縁を決めたばかりじゃないか」

 父は、弱り果てた顔をした。の足元には、黒いスーツケースが置かれている。もうすぐロシアに帰る父の荷は、既に八割がた纏め終わっているようだ。

 父が藤崎家に居られる時間は残り僅かで、明後日には日本を発ってしまう。いずれは生活の基盤を日本に移すが、れは今すぐのことではないからだ。の長い休暇は、イズミと克仁、そして國徳くにのりに会う為のものであり、新たな職場への挨拶回りも兼ねての来日だったという事を、イズミも克仁も知っている。

「お父さん。向こうでの仕事の引き継ぎに、此方こちらに来てから始まる仕事。やらねばならぬ事と、これからの生活をふいにする気ですか。貴方を待っている人は、ロシアにも日本にも居るのです。貴方が神社に行くくらいなら、僕が様子を見てきます。お父さんは大人しく、克仁さんと一緒に待っていて下さい。絶対に、此処ここを出てはなりません。絶対にです」

「……イズミ。やっぱり君、今日は何だか怒っているね?」

 あっさりと、看破されてしまった。

「そんなことは」とイズミは咄嗟に反論しかけたが、如何いかにも子供といった台詞に居た堪れなくなり、小さな溜息を吐いてから「すみませんでした」と謝った。父には鷹揚に笑われ、やり取りを見守っていた克仁も微かな笑みを浮かべたが、の表情は緊張を漲らせたままだった。

「イヴァンが心配する気持ちも判りますよ。ただ、伊槻さんは生真面目な方だそうで、國徳くにのりさんからは下戸だと聞いたこともあります。宴席はお好きだそうですが、仕事以外では極力お断りされているそうなので、帰宅はいつも早いそうです。……屹度きっと、あの方は繊細ですよ。己の感情を持て余して、れを吐き出せる相手が周りに居ない所為で、酷く苦しんでしまう程に」

「……。やはり、僕は様子を見に行って来ようと思います」

 イズミは、立ち上がる。そして、父のスーツケースからも克仁からも背を向けると、「イズミ」と呼んで制止する父を横顔だけで振り返り、笑った。

「貞枝さんの言いつけを破る事になりますが、僕は既に彼女から嫌われているでしょうから。気にすることはありません。行ってきます」

「まあ、待ちなさい。イズミ君。君が行くくらいなら、私が行きますよ」

 居間を出ようとしたイズミに続いて、克仁も立ち上がって歩いてくる。うなると父もやはり黙っていられないようで、「イズミ、君は留守番をしていなさい。僕が行ってくるから」と言ってやって来た。結果、藤崎家の狭い玄関に男が三人寄り集まるという、何だか面妖な事態となってしまった。

「……全く。イズミ君、イヴァン。一旦居間へ戻りましょう。誰かが様子を見に行くにしろ、の間にまた貞枝さんからご連絡があるかもしれませんし、来意はあらかじめ伝えておくべきでしょう。役割分担をしなくてはなりません。神社には私が行きますから、君が電話番として残ると良いでしょう」

「ですから、それは僕が」

 イズミが言葉を割り込ませると、父が不意に「ああ、そうだ」と何かを思いついた様子で声を上げた。

「イズミ。その伊槻いつきさんだけど……今日は一日、ご在宅だったのかい?」

「? そのように聞いております」

 確か、貞枝がイズミにう言った。今日は一日、家に居ると。高校が夏休み中のイズミには曜日の感覚が希薄だが、ういえば今日は日曜日だ。社会人の伊槻が家に居ても、全く不思議なことではない。

 イズミの返事を聞いた父は、戸惑った様子で少し黙った。

「……イズミ。伊槻さんは、以前に呉野家でお会いした時にはスーツ姿だったけれど、今日もそれは同じかい?」

「……? すみません。伊槻さんが今日は家に居たという事を貞枝さんから聞いただけで、直接お会いしたわけではないのです。なので、判りかねますが……お父さん、どうしたのですか?」

「いや。何でも、ないんだけれど……今日、似たような方を見かけた気がしたから……」

 細々とした父の語りに、克仁が反応した。顔が、微かに強張っている。

「……イヴァン。の話を、もっと詳しく。今日、君は私の買い出しに付き合ってくれた時、そんなことは一言もわなかったではありませんか。いつ見たというのです」

「ああ、克仁さん。人違いかと思ったんですよ。あまりにも、あの日見た人と印象が違っていたから。伊槻さんという方は、髪型もちゃんと整えられていたし、自分の身なりにきちんと気を配る方だったじゃないですか。だから、僕の人違いだと思ったんです。……でも、失踪したなんて聞かされたら、あれはやっぱり伊槻さんだったんじゃないかって、気になってしまって」

「お父さん。伊槻さんを見たのですか」

 イズミは、父に詰め寄った。

 どくん、と心臓が跳ねる。今、いやな予感が増したのだ。〝同胞〟であるはずの人間の言葉を、れほど恐ろしいと思った事はなかった。

「……イヴァン。続きを」

 克仁が、硬い声で言った。屹度きっと、克仁も同じなのだ。〝同胞〟でありながら、れでいて何かを感じ取り、直感するに至ったのだ。

 父が、目撃した〝何か〟が――破滅を孕んでいることに。

「……」

 父は異様なまでの沈黙に気圧されたのか、固唾を呑んで青年と男を見比べてから、言いにくそうに話し始めた。

「……白い、のりの利いたワイシャツを着ているように見えたけど……ボタンは幾つか、外れていたと思う。髪も酷く乱れていて、整えられていなかったよ。それに……顔が……目が、普通じゃなかった」

「目?」

「とろんとしてると言えばいいのか……起き抜けのような……違う。それよりも、もっと酷い……近寄ったらいけないって、一目見ただけで思ったんだ。今思い返したら、伊槻さんに似ていたかもしれないって判るのに……あの時は、まるで考えもしなかった。とにかく、こんな状態の人と顔を突き合わせてはいけないって……相手の方には失礼だけれど、僕は怖くなってしまったんだ」

「……イヴァン、私は気づきませんでした。れはいつです? 君と一緒に居たというのに、私はそんな不審な男を見ていませんよ」

「スーパーの隣に、大きなホームセンターがあるでしょう。僕と克仁さんがスーパーを出た時に、そちらの店にふらふらと、危なっかしい足取りで入っていくのを見たんです。絶対に目を合わせてはいけないと思ったので、克仁さんには言いませんでした。こんな話題にならなければ、思い出しもしなかったと思います」

「……」

 克仁は、沈黙した。イズミも、何も言えなかった。

 二者の重い沈黙を受けて、父は申し訳なさそうに俯いた。「でも、人違いだと思うから」と小さな声で付け加えられたが、れは明らかに気休めだ。沈黙が続けば続く程、重苦しさが増していく。れでも誰もが沈黙を選んだ。

「……伊槻さんは、昨日。杏花さんと喧嘩をしたそうです」

 イズミは、言う。父は驚いた顔をしていて、克仁の表情は変わらなかった。そんな大人二人の様子を見ながら、イズミはぽつりと、先を続けた。

「今日、僕は杏花さんに会うために神社へ出向きましたが……午前中に伺った際には、伊槻さんはご在宅だったそうです。お二人が買い物に出かけられたのは、何時頃の事ですか」

「十一時半頃ですよ。イズミ君」

 克仁が答えて、居間の電話に向かって歩いていく。蒼白な顔で克仁を追う父を気にしながら、イズミは状況を整理すべく思考した。

 ……つまり。イズミが、杏花と貞枝を残して山を下りたあの時。貞枝の言葉を信じるなら、伊槻はまだ家に居た。れが午前十時過ぎ。

 の後、イズミが山を下って藤崎家に戻り、大量の本を漁った時。克仁は最初こそイズミと会話を交わしたが、すぐに部屋から出て行った。出かけるかもしれないので、外出の際は鍵を掛けるように。そんな言葉を、イズミに残して。

 間違いない。あの時だ。イズミが山を下りて自宅に戻り、克仁が家を空けた十一時半頃に――伊槻もまた、山を下りていた。

 そして、克仁と出かけていた父に、の姿を目撃された。

 夢遊病者の足取りの、挙動の不審な男として。

「伊槻さん……」

 伊槻の事を、イズミは思い出そうとする。愚痴を言える仲間を探した時の、揶揄めいた笑み。家族と感情を分かち合えず、寂しそうに笑う顔。イズミと打ち解けられて喜んだ時の、さっぱりと晴れやかな笑顔。顔は笑顔のままなのに、感情だけは多様だった。れが伊槻という人だ。

 イズミは、伊槻の事を深く知っているわけではない。職業についても未だ商社マンという仔細不明なままであり、人知れず抱えた葛藤について知ったのは、つい昨日のことなのだ。だから、の伊槻が突如、失踪という奇行に走ったのだとしても。父の言う不審な男が、本当に呉野伊槻だとしても。の行動を招いた衝動が、イズミには理解出来ないのだ。

 だが、れでも――伊槻はイズミにとって、何も知らない相手ではないのだ。

 伊槻は美しいものが好きなのだと、貞枝は歌うように言っていた。美女の台詞を呼び水にして、鏡花談義の記憶が蘇る。数ある文学作品の中から、伊槻はお化けが出ない物語を選んだ。男女の愛の破滅を描いた観念小説も選ばずに、清らかな心を持った女を巡る短編を。穏やかな気性に結びついた選択を妻に指摘された時、伊槻は恥ずかしそうに言い訳した。の表情は、伊槻が愛した短編に引けを取らぬほど、温かな人間味に溢れていた。

 まだ、知っている。伊槻は貞枝を愛している。の藤崎家に愚痴を言いに来た時、伊槻は愛妻との馴れ初めについて語っていた。杏花の事だってうだ。伊槻が〝アソビ〟を疎んでいても、杏花への愛は本物だと、慈しみの観念を言葉で確かめたわけではなくとも、イズミには断言できるのだ。

 ――人の心が、『判る』からだ。

 の居間のソファで、伊槻は言った。娘の名を氷花と決められた時、一応の反対をしたのだと。呉野家の一族とはまた違った願いを込めて、少女の先行きを案じた男の顔は、確かに人の親の顔だった。の夏に父と再会した時とよく似た色の感慨を、イズミは異能によって知覚したのだ。

 伊槻の失踪が事実なのか、真偽のほどは定かではない。だが、もし本当に行方を眩ませたのだとしたら、の責任は誰のものだろう? 孤独と上手く向き合えず、杏花と他愛ない喧嘩をした、仕様のない大人。自己責任と伊槻を責めるのは容易いが、イズミはれをしたくない。全てを伊槻の弱さの所為にするのは、狡い逃避に思えたのだ。

 愚痴を、聞いてしまったからだ。

 れに、杏花の父だから。

 杏花が仲良くしたいと願ってやまない、かけがえのない〝家族〟だから。

「……克仁さん。教えていただきたいことがあります」

 電話の前で凝乎じっとしていた克仁が、此方こちらを振り向く。イズミには滅多に見せない、毅然とした大人の顔だ。克仁がの事態に対してどれほど真剣に心を砕いているか、一目で判る顔だった。

「僕は今日、貞枝さんに……左様さようなら、と言われました」

 ずっと心の淵に引っかかっていた懸念は、今こそ〝言挙げ〟するべきだ。何故ならイズミは、疑問を残すことが嫌いなのだ。

 だから――れから、の家を出る為には。

 疑問は全て、空にしなくてはと思ったのだ。

「〝左様さようなら〟……と。貞枝さんは、僕を家から送り出す時には必ず、他人行儀だと思うほどに、ひどく律儀に言うのです。貞枝さんは、何故あのような丁寧さで、人に別れを告げるのでしょうか。初めてお会いした時も、先日お父さんとご挨拶に伺った時も、昨日も、そして今日も。ついには、杏花さんからも言われました。……克仁さん。僕は貴方から〝言霊〟と〝言挙げ〟について学びました。もし、〝左様なら〟という言葉にも、何か意味があるのなら。僕に教えていただきたいのです」

 克仁は、息を呑んでいた。飄々ひょうひょうとした大人の余裕は其処そこになく、顔には侘しさと憐憫が織り交ざったような、複雑な表情が浮かび上がる。

「イズミ。それは……やっぱり君が、自分で不思議だと思ったことなのかい?」

 父が、横合いから声を掛けてくる。振り返ったイズミが見た父の顔は、かすかな哀愁を帯びていた。神社には近寄らぬよう父に進言した時も、父はイズミに訊いていた。れは、イズミの意思なのか、と。まるで魂を測るように。

「はい。そうです。僕は、それを知りたいのです」

 理屈ではない。杏花が心配だった。あの時の〝左様なら〟を、ただの挨拶と捉えてはいけない。言葉に込められた魂が、イズミにれを悟らせる。どんなに些細な言葉でも、イズミだけは拘らなくてはならないのだ。

 やがて父が微笑んで、「……そうか。イズミは大人になったな」と嫋やかな愛情を感じさせる声で、囁いた時。

「未練です」

 克仁が、言った。〝言挙げ〟に呼応するように、張り詰めた空気が躍動する。イズミの知らない観念が、言葉の形でひもとかれた。

「左様なら。日本で使われるの言葉には、他の国には無い諦念があります。何かを諦めているように聞こえるのです。の諦念は、極めて東洋的な観念です。ある不可避の状況に己の身が置かれた時、日本人は静かに諦め、相手と別れて去ってしまう。の別れの言葉が、〝左様なら〟です。――〝うならねば、ならぬなら〟……別れたくはない、でも、うでなくてはならぬなら、仕方がない。仕様が無い。だから、別れる。左様なくては、ならぬゆえ。お別れします、左様なら、と。己の感情に区切りをつけて、去るのです。そして、新しい道を歩んでいく。侘しくとも前向きで、れでいてやはり物悲しい。……とても美しい未練を秘めた、日本の、別れの言葉ですよ」

 初めての観念を知った、イズミの脳裏に――杏花の声が、蘇った。


 ――お兄様は、イズミお兄様なのでしょう? 私は、知っているのです!


 凛とした声が、溢れ出す。まるで雨のようだった。杏花の涙を思い出す。涙の雫のごとき言葉の雨が、勢いづいて止まらなかった。

 ――私が、お兄様のお勧めのご本を読めるようになったら、私にも〝清らか〟が判るようになりますか?

 ――お兄様は、私と遊んでくれました。お母様も、お父様も。お爺様は、時々しか遊んでくれません。でも私は、お母様も、お父様も、遊んでくれる時のお爺様も好きです。……お父様は忙しいみたいで、最近は前ほど遊んでくれません。でも、遊んでくれる時のお父様は大好きです。

 ――お兄様。好きな人には、こうするものなのでしょう?

 ――それは、天麩羅てんぷらではありません! 違うのです! 私は、天麩羅を、食べるのです!

 ――お兄様のご本では、魂が〝清らか〟な女の人が出てきます。お兄様は私のことを〝清らか〟だと言ってくれました。その女の人のように、私も〝清らか〟ですか?

 ――あとどれくらい〝清らか〟になれば、お爺様は私と遊んでくれますか?

 ――欲しかったのです。清らか。欲しかったのです!

 ――お兄様、寂しいです。

 ――私は、やっぱり、いけない子なのでしょうか。

 ――生まれ変わったら、花になりたい……。


 ――左様なら。お兄様。


 電話が突如として鳴り響き、克仁の肩がぴくりと動いた。すぐさま伸びた手が受話器を掴み、「もしもし」とせわしく訊いた克仁のもとへ、父が慌てて駆け寄った。

 克仁の顔色が、変わった。

「もしもし! 國徳くにのりさん!」と緊迫した大声で克仁が叫び、次の瞬間には毒気を抜かれた顔つきで、受話器を耳から離していた。

 克仁はイズミを振り返り、硬い声で言った。

「すぐに切れてしまいましたが、國徳さんからだと思います」

「御爺様? 一体、どうされたのですか」

「判りません」

 首を横に振った克仁は、「ですが」と言い足した。

「――『来るな』……と。たった一言だけ、聞こえました。の直後、通話が乱暴に切れました」

「……父上が」

 の声に、イズミは父を振り返った。顔色の青い父を見つめた時、もう一刻の猶予も無いと、天啓のように理解した。

「克仁さん。お父さん。……行ってきます。夕飯は、先に食べていて下さい」

「……イズミ君っ?」

 克仁が、ばっと此方こちらを振り返る。イズミは、返事を待たなかった。景色は万華鏡のようにくるりと回り、背後で置時計が鳴っている。午後の七時を指したのだ。玄関にわだかまる薄紫色に染まる影に、居間から漏れる電灯の光が白く射す。の光を背に受けながら、イズミは靴を突っかけて飛び出した。

 騒々しい音を立てて玄関扉を出た先で、夜気の甘さが身体を誘う。神社へ来いと誘っている。のまま走ればすぐ其処だ。克仁の家から近いのだ。行こうと思えばすぐ行ける。そんな距離に皆がいる。イズミが此処ここに来た時から、ずっと其処そこに最初から、異能の一家は居続けたのだ。

「イズミ!」

 鋭い声が空気を裂く。父が息子を呼ぶ声だ。灰色の住宅街に、庭の緑が映えている。蛍光灯の白い灯りが、夏の景色を照らし出す。イズミはまばらな光源を道標みちしるべにして、切羽詰まった声に振り向かないまま、家族を残して駆け出した。

 イズミは何がしたいのだろう。発作的に飛び出しながら、理由はやはり判らなかった。だが、会わねばならぬと思うのだ。うでなければ、あの〝言霊〟が、現実世界を塗り替える。未練の〝言挙げ〟が孕んだ霊威が、永遠の別れを本物にする。

 失踪した伊槻が、其処そこにいる保障はない。むしろ居ないからこそ此方こちらに電話がかかってきたのだ。にもかかわらずの父親を放置して、娘の方に会いに行こうとするの行為は、間違いなく愚行と呼ぶべきものだろう。

 だが、気がかりは杏花の事だけではないのだ。

 ――『来るな』

 イズミの周囲は回りくどい大人ばかりで、しかも言葉が足りないのだ。あの面子めんつの中で、最も考えが読めないのが國徳くにのりだ。先程の〝言挙げ〟は、何を伝えるものだろう。やはりイズミには『判らない』。判りたくても『判らない』。

 ならば、直接訊くしかない。

 此方こちらもまた〝言挙げ〟して、相手の真意を引き出すしかない。

 ――この状況で、来るな、なんて。

 来いと言っているようなものではないか。

「御爺様は、愚かです!」

 夜道を走るイズミの正面に、黒い御山が見えてきた。薄闇にぼうと浮かび上がる石段まで駆けつけたイズミは、きっ色の鳥居を振り仰いだ。

 状況は、判らない。だが、行けば何かが『判る』はずだ。イズミはれを、國徳の口から訊きたいのだ。

 そして、今度こそ――杏花の事を、訊きたいのだ。

 何故、〝二人居る〟と思ったのか。何故、イズミがれから國徳を父と呼ぶ事になるのか。全ての疑問に答えてほしい。

 呉野國徳に。実の祖父に。――血の繋がった、一人の家族に。

 一つ目の鳥居をくぐったイズミは、石段をぐんぐん上っていく。ついに頂上へ到達すると、二つ目の鳥居の手前で足を止めた。

 空気で、判った。肌に、ぴりりと痛みが走る。

 おそらく、此処ここを越えた時。屹度きっと、何かが変わるのだ。鳥居とは、神域と俗界ぞっかいの境だと、勉強家の家人から聞いたことがある。イズミは灰茶の髪が視界に垂れるのもいとわずに、目を閉じて深くこうべを垂れた。

「御爺様。貴方の〝言挙げ〟は、まるで助けを請うているように聞こえます。どういう状況か存じませんが、何卒なにとぞ、御無事で。そして、次にお会いした時は、僕と、もっと話をしましょう。僕は、貴方の事を知りたいのです。……どうか、僕達をお守り下さい。お願いします。お願いします……」

 もしの御山という自然に宿る清らかさが、まだ死んでいないなら。神聖だったはずの境内に、祈りの〝言霊〟を捧げたかった。

 そして、イズミは軽い息切れを整えながら、顔を上げて――息を呑んで、固まった。

 正面には、檜皮ひわだ色の屋根を持つ拝殿が、日没を迎えて闇と同化した森のそばに佇んでいる。古びた木造建築の影に、森と同じ闇色の人影を見た気がした。

 目をらして見つめると、間違いなく誰かがいた。上は長袖の白シャツで、下は黒い長ズボン。イズミの纏う東袴塚ひがしこづか学園高等部の夏服のような色味だが、の人物が高校生ではない事は、顔が見えなくとも容易に知れた。

 闇に紛れて木陰を彷徨う人物は、手に何かを持っている。の何かを、腰を屈めた体勢で、草木に向かって撒いている。イズミには、れが赤いタンクに見えた。びしゃり、びしゃりと、濡れた音が、静まり返った森に響いている。

 ざああ――と。ぬるい風が吹き抜けて、異質な匂いをイズミの元まで運んでくる。とうに沈んだ太陽の赤みが、空から急速に消えていく。

 密度を増した闇の中で、黒い人影は動き続ける。少し歩き、位置を変え、草木に何かを撒き続ける。同じ人間とは思えなかった。獣のように獰猛な気配が、ひしひしと闇に溶け出している。

 何故、こんなにも気味が悪く見えたのか。理由を、イズミは知っている。

 神社の敷地で、何らかの悪行を働いていると思しきの不審者が、ただの不審者ではないことを、イズミは知っているからだ。

 知り合い、親戚だということを――イズミは、知っているからだ。


「伊槻、さん……?」

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