4-28 二人狂い

 自宅に駆け戻るなり、がむしゃらになって調べ始めた。

 血相を変えて帰宅した青年を見て、克仁かつみは珍しく肝を潰したようだった。イズミは言葉少なに断りを入れてから、克仁の寝室である二階の書斎へ駆け込んだ。

 イズミの部屋にも小さな本棚が一つあるが、克仁の部屋には壁一面に据え付けられた大型のものが二つある。地震を危惧すれば恐ろしくなる本棚だが、大量の書籍を収めた棚は、いつ見ても魅力的だった。だが、今だけは見惚れる余裕はなかった。欲しい本は、決まっていた。

 何故、藤崎克仁と呉野國徳くにのりの間に、交友が生まれたのか。昨夜、二人の過去を克仁から聞いたが故に、イズミの行先は自宅二階の書斎となった。図書館に行くという手もあるが、其方そちらは必要に迫られた時に行けばいい。れに、恐らくは行かずに済む。

 克仁は、イズミを指して拘りが強いと言った。学ぶ理由さえ判らぬイズミの事を。だが、克仁だけは人の事を言えた義理ではないだろう。少林寺拳法の師範を務めながら、趣味の分野を広げる克仁が、の一つ一つに手抜かり無く探求欲を示しているのが良い例だ。

 克仁は、拘る。拘り抜く。の拘りは執念と言っても差し支えないかもしれない。事実、病的なまでに勉学に励んだと聞いていた。もう知っているのだ。だからこそ。

 憑かれたように勉学にのめり込んだ人間の、血の滲むような努力の跡地にこそ。望むものは、山ほどある。

 本棚の前で黙々と本のページり、別の本を手に取り、の文字列を目で追いながら別の本に手を伸ばすイズミを、克仁は止めなかった。

「イズミ君。手伝いますよ」

 一度、う声を掛けられた。イズミは、の厚意を断った。

「これは、僕の意地なのです。克仁さんの手を借りれば、僕の喧嘩ではなくなります。貴方の書籍や努力を利用していながら、狡い言い訳になりますが。それでも、貴方の直接的な関与はいけません。それに……」

 イズミは、克仁に頭を下げた。

「克仁さん。すみません。僕は貴方の友人一家がいる御山に、これからもう一度向かいます。ですが、僕は」

 言葉は、其処そこで止められた。

 克仁が、人差し指をイズミの唇に差し向けて、明るく笑っていたからだ。

其処そこまでです。イズミ君。私は、怒っている君が物珍しいだけですよ。君には悪いですが、愉快に思っているくらいです。……私の事は気にせずに、君の好きなようにおやりなさい」

「……有難う御座います。克仁さん」

 深々と、イズミは頭を下げた。

 れほど深く頭を下げたのは、の家に居候としてやって来た日以来かもしれない。れほどに真剣に、そして心から、イズミは克仁に頭を下げたのだった。


     *


 昼食を手早く済ませた一時過ぎに、イズミは呉野家へと戻ってきた。

 普段であれば来訪を避けたお昼時だが、今回ばかりは気にしなかった。其れに、相手も来意は承服済みなのだ。再会した貞枝は、玄関に現れたイズミの姿を見るなり、切れ長の目を丸くした。

「あらまあ。和泉君。れは何事ですか」

「見ての通りです」

 揶揄の笑みをものともせずに、イズミは言う。踏み込んだ土間から、貞枝以外には誰もいないことを確認すると、杏花が居ない今の内とばかりに、手提げ鞄に詰めた本を、一冊ずつあがかまちに積み始めた。

「……あらあら。まるで河原かわらに石を積むようね。一体何事なのかしら? 嗚呼ああ、貴方は同じことを二度うのがおいやな人でしたね。ふふ、御免なさいね」

「『二度言う』ではなく、『二度言わせる』の間違いではありませんか? それに、いやではないですよ。そこまで狭量きょうりょうではありません。それより」

 イズミは貞枝と目線を合わせると、足元に並べた本を指し示した。

「これらの本が何の本か、一目見ただけでお察しでしょうが――全て、精神的な病に関する書籍です」

 貞枝が、無言でイズミを見つめ返した。表情は読めないが、イズミは構わず先を続けた。

「時間がありませんでしたので、僕自身ざっとしか目を通せていませんが、参考にできる部分はかなりあると思います。こんなものを持ってきた僕の事が不愉快であれば、それでも結構です。読んで頂かなくても構いません」

「では貴方、どうして本を持ってきたの? 読まれない本に、意味など無いではありませんか」

「いいえ。これらの本を持ってきた時点で、意味なら達成できています。僕の意思を伝え、貴女方に何らかの行動を起こしてもらう為だけに、僕はこれらを持ってきました」

 イズミは本の一冊を手に取ると、ぺーじを出鱈目にりながら、貞枝の目を見て話し続けた。

「たくさん載っていますよ。僕は以前に御爺様とお会いした時に、杏花さんが〝二人居る〟と聞きました。その言葉を聞いた僕は、二重人格と言って貰った方が判り易いと答えました。その二重人格についても、此方こちらに記載されています。解離性同一性かいりせいどういつせい障害という項目もありますので、ご参考までに。……ああ、あと。〝フォリア・ドゥ〟という名の感応精神病についても、別の本に記載がありますよ。フランス語だそうで、日本語に直すと〝二人狂い〟という名称になります。――る異常な固定観念や妄想を持った精神病者と、その精神病者と親密な結びつきを持つ正常な精神の人間が、外界からの刺激を受けない閉鎖空間で共棲きょうせいする事により、患者の持つ狂った価値観を共有してしまい、異常な固定観念や妄想に、正常な人間も感染してしまうという病です。珍しい病ですが、その中でも多いのは、家族間で感染するケースだそうです。此処ここは山の隠れ家ですし、此方こちらもご参考までに」

「……和泉君、貴方」

 貞枝は、浴衣の袂から伸びた白い手を、口元に当てて驚いている。「ええ」と答えたイズミは、強く頷いた。

「貴女方は、僕に言いました。杏花さんは二人いて、一人は消えてしまうのだと。僕は、そうは思いません。彼女が幾ら異様な行動を取ったとしても、それは無知であるが故の幼い過ちに過ぎず、異常なものではありません。――ですが、そんな彼女の行動を理由に、それでも貴女方が『杏花さんはいずれ死に、別の人間になる』という大それた主張を展開されるのであれば。それは間違いだということを、僕は示す心算つもりです」

「……。和泉君。貴方のお話は楽しいけれど、叔母さんには少し難しいみたい。ねえ、後生ごしょうだから、もう少し判り易くって下さらない?」

「はい。では、もっと判り易く言いましょう。――そんなに〝二人居る〟と盲信なさっているのであれば、杏花さんを病人として扱って下さい」

 貞枝が、再び驚いた顔をした。イズミは、畳み掛けるような〝言挙げ〟を止めなかった。

「彼女の行動があくまで異常だと言い張るならば、その異常を公の場で示して下さい。そうでなくては納得できません。僕の納得は要らぬと國徳くにのり御爺様には言われましたが、今のままでは杏花さんの為になりません。貞枝さん。貴女は先刻、〝狂う〟という単語を僕の台詞せりふから拾って笑いましたね? 貞枝さんはまるで、杏花さんを狂人だと決めつけているようです」

 手にした本を、イズミは床に積んだ本の山に戻した。うしてきっと顔を上げて、己の考えを余すことなく主張した。

「貴女の娘が狂人ならば、狂人としての扱いがありましょう。僕は、彼女が死ぬとは思いません。狂っているとも思いません。しかし、それでも貴女方が〝二人居る〟という主張を曲げないならば、一度病院に診せるべきです。……その程度のことが出来ないのに、彼女を狂人扱いしているのは。神社の家から狂人を出した事を、恥じているからなのですか?」

「……ふふ、あははは」

 イズミの言葉は真剣だったが、返ってきたのは嘲笑いだった。

 今までにも同様の笑い方をされてきたが、さして気にはならなかった。元来の程度のものを気にする性質たちではなく、貞枝の気性への諦めもあった。

 だが、の時ばかりは許せなかった。かっと、頬が熱くなる。

「何が可笑おかしいのです」

「だって、貴方。真剣なんだもの」

 忍び笑いを漏らした貞枝は、あがかまちに立ったことで、イズミと目線がほぼ同じだ。真正面にある狐面のかおに、イズミは僅かにたじろいだ。

「和泉君。貴方、私は杏花を狂人と思っていると云ったわね? 少しだけ、違いますよ。殆ど合っているようなものだけれど、でもねえ、少し違うのよ」

「……では、何だと思っているのです」

「鬼よ」

「鬼?」

「ええ。鬼です」

 曇天の薄明かりの所為なのか、板張りの玄関の風景は、色彩が鈍く沈んで見えた。活動写真の一コマを切り取ったような家の中で、貞枝のべにばかりが酷く赤い。

「和泉君は、杏花に物語を聞かせてくれたそうね。私も杏花に教えてもらいました。貴方、杏花があのお話をどう受け止めているか知っていて? まるで貴方のお話のようだと思ったそうよ」

「ええ。杏花さんから聞きました」

 イズミは平静を装って答えたが、心の内は複雑だった。貞枝はイズミの話など、まるで相手にしていない。伊槻いつきの愚痴を思い出す。貞枝は誰の言うことも聞かないし、自分がしたいことばかりして、すぐに周りを振り回す。の通りだと心から思う。そんな叔母の態度に対して、今ほど寛容になれない己を感じたことはなかった。

「でもねえ、私。あの物語は貴方よりも、杏花にこそ相応しいと思うのよ」

「意味が判りません」

「だって、あの子は変わるのですもの。居なくなって、氷花になる。あの子の言う〝清らか〟とは程遠い、鬼のような心になる」

「……鬼」

「ええ。鬼よ。鬼はつのを失って、御隠居はつのを拾って変貌する。杏花は貴方を指して、つのを失った時の優しい鬼だといました。そして私は杏花の事を、つのを拾って変貌した御隠居だと思っています」

「それは……世迷言です」

うかもしれませんね」

 辛辣な切り返しをしたイズミに、貞枝は怒りを見せなかった。ただ、意味深に笑うだけだった。の笑みを意味深だと感じた瞬間に、イズミは悟る。

 貞枝は何か、別の話題を振ろうとしている。今の話は入り口なのだ。れからの話をする為の、取っ掛かりとなる初めの言葉。

 其処そこに気づけば、理解は恐ろしいほどに簡単だった。

 ――『泉鏡花いずみきょうか作品に、児童向けの小説はありませんか?』

 そんなイズミの要望に、応えてくれた存在は。

「……ねえ、和泉君。私は呉野貞枝なのですよ? 神社の娘。呉野國徳くにのりの実子。……の私が。ねえ、貴方。藤崎克仁かつみさんの事を、存じ上げていないとでもお思いですか? の本、全部あの御方のものなのでしょう? 私はもしかしたら貴方よりも、あの御方の事を知っているのかもしれませんよ?」

「なぜ貴女が、克仁さんを語るのです」

「理由なら、今いましたよ。私が神社の娘だからです」

 愛想よく、貞枝は笑う。笑みに、微かな侮蔑が混じった気がした。

「あの御方との面識は、私にはありません。でも、貴方の御爺様との馴れ初めなら知っていてよ。あの御方、私の御父様に随分と世話になったそうね。知っているのよ。藤崎さん。当時はまだ学生さんだったのでしょう? 私がれを知ったのは、あの御方が成人されてからの事だけれど……ねえ、なんでも気が違いかけて、神社に担ぎ込まれたとか」

「悪意のある言い方は、おやめになって下さい」

 ぴしゃりと、遮断するようにイズミは言った。

 イズミの事なら、好きなように言えばいい。だが、克仁は許さない。

 沈黙の後に、貞枝は「……そう、御免なさいねえ」と婀娜あだっぽく笑った。余裕の無さを、わらわれた気がした。

「……時に。の藤崎さんと、今の貴方。私はとッても似ている気がするのよ」

「御爺様の次は、克仁さんですか。僕は呉野家ゆかりの方とばかり、似ていると言われますね。貞枝さん、僕は杏花さんの話をしに参りました。克仁さんの話をしに来たわけではありません」

 心臓の鼓動が、早くなっていく。妖女の赤い唇が、己の近親者を語るだけで、途方もない胸騒ぎを呼び寄せた。

「和泉君。貴方はさっき、〝フォリア・ドゥ〟といましたね? 歪んだ価値観を持った人間と、正常な人間が、同じ閉鎖空間に居住する事で、歪んだ価値観を共有するという、感応精神病」

「ええ。言いました」

 確かに、言った。〝二人居る〟と主張する呉野家の人間を揶揄する意味合いも多少あったが、イズミとしては病の一例として挙げたに過ぎない。だからこそ、貞枝が〝フォリア・ドゥ〟という病に水を向けた事に、イズミは驚きを禁じ得なかった。

「和泉君、貴方は私達への皮肉の心算つもりで、そんな病気を引っ張り出してきたのでしょうけど。私から見たら、の病気に侵されているのは、貴方も同じに見えますよ?」

「……どういう意味ですか」

「藤崎さん。あの御方は、御自分の霊的な力を否定なさるお心算つもりで、勉強に励んでいらっしゃるのでしょう? 民俗学、知っていますよ。勉強熱心な御方。……でもねえ、あの御方。屹度きっとご自分でも判っていらっしゃると思うのよ。そんな努力も、行動も、全て無駄だということくらい」

 ――無駄。痛い程の痺れと共に、言葉が脳髄に突き刺さる。「貞枝さん」とイズミは呼ぶ。口を挟めば止まると思った。だが、青年の言葉程度では、妖女の声は止まらなかった。

「ふふ、あははは、ふふふふふ」と、哄笑にも似た嘲笑いが、赤い唇から漏れ出てくる。白い首が、くっと反る。襟足に零れた黒髪が、外光のつやを弾いた。

 悪意が、あふれ出していく。れが悪意だという事を、最早欠片も、疑わない。

「幾ら理論武装して知識を頭に蓄えたところで、ご自分の体験と似た類話が見つかるばかり。れじゃあ何の解決にもなりませんよ。あの御方の体質を変えるような知識なんて、果たしての世にあるかしら?」

「貴女は出鱈目を言っています。何を誤解なさっているのかは存じませんが、克仁さんには、貴女の言うような異能などありません」

「あら。神社の娘、國徳の娘を侮らないことね。御父様のお仕事を、私が知らないわけないでしょう? 本当に優しいのね、貴方」

 貞枝は、わらう。まるで手足をがれた昆虫に、憐れみの目を向けるように。

 そして、くらい愉悦の眼差しを変えないまま、煙管きせる煙草盆たばこぼんに打ち付けるような〝言挙げ〟を、無礼への仕返しのように、イズミへ手酷く叩きつけた。

「藤崎さんは、学ぶことをお止めにならない。ご自身の異能を否定なさるお心算つもりで、どれだけ勉学に心血を注ごうとも、全て徒労に終わると判っているのに、れでも蜘蛛の糸のような細い光明に縋りついて、足搔くことを止められないのよ。ういうところが、とッても。貴方達二人、似ていてよ。今の貴方の行動も、藤崎さんと同じではありませんか? 隔絶された家の中で、たった二人で生活して。徒労と諦念の価値観に、貴方達〝親子〟は感染しているのよ。ねえ、れこそ真に〝フォリア・ドゥ〟と呼ぶべきものではなくて? 歪んだ価値観の共有を、当事者ばかりが気づかない。れでも愚直に貴方達は、の悪足掻きを止めないのでしょうね? ふふふ、ふふふふ。ねえ、和泉君。まるで、〝アソビ〟のよう」

「いい加減にして下さい!」

 イズミは、激昂した。

「僕は、真剣に言っているのです!」

 貞枝の言葉が、止まった。目が、真ん丸に見開かれている。

 今までにもの女が、驚きを表したことならあった。だが、今ほどはっきりとした驚愕を目の当たりにしたのは初めてだ。ただ茫然と、イズミは思う。声を、荒げてしまった、と。冷静さが、剥離していく。そんなものを纏っていては、貞枝に何も伝わらない。相手が杏花の時でさえ、イズミの声は届かなかった。

 魂の〝言挙げ〟は、どんな感情をもって行えば、相手の心に届くだろう。

 答えは、出ない。弾け飛んだ感情のたがも、外れたままで戻らない。杏花に伝えられなかった魂を、貞枝に伝える意味も無い。

 だが、れでも言わねばとイズミは思った。

 何と、戦っているのだろう。徒労感で眩暈がする。れでも言葉を放棄すれば、イズミは何かに負けてしまう。れは屹度きっと、心を手放してしまうことなのだ。そしてのように思う理由もまた、今のイズミには判っていた。

〝言霊〟が、生まれないからだ。

 声なき言葉に、魂は宿らない。

〝言挙げ〟は――声に出してこそ、己の力と変わるのだから。

 れを、イズミは克仁に聞いて知っている。

 血の繋がりがない親子。其れでも克仁は父なのだ。もう一人の父なのだ。

 震える唇を動かして、イズミは言葉を、静かに続けた。

「……僕は、貴女方と〝アソンデ〟いました。ですが、今の僕は〝アソビ〟で此処ここにいるわけではありません。克仁さんの努力を、二度と〝アソビ〟だなとど仰らないで下さい。僕が、貴女を許しません。克仁さんの事を、僕の大切な家族の事を、貴女に語って頂きたくありません。杏花さんの事もです。杏花さんの事が大切ならば、狂っていると思うなら、貴女がすべき事は〝アソンデ〟思い出を作る事ではありません。しかるべきところへ彼女を診せる事です。……貞枝さん。僕は、杏花さんに首を絞められたあの日。貴女に一つ、言い忘れた事がありました」

「何かしら」

 白々しく、貞枝が言う。整った美貌からは、早くも驚きの感情が失せている。在るのは人を食ったような笑みと、微かな憐憫だけだった。の笑みを、やはり許せないと思った。

「『化銀杏ばけいちょう』の事です」

 迷うことなく告げると、貞枝が不意を打たれた顔をした。

「僕は、考えていました。貴女方が彼女を〝キョウカ〟と呼ぶ意味を。御爺様からは、供養の花と聞いていましたが――意味は、それだけではないはずです」

 小説を読んでいる時に、微かな引っ掛かりを感じたのだ。やがての符号に気づいたイズミは、拍子抜けにも似た感覚とともに、ささやかな嬉しさを感じたのだ。貞枝は家族ではないというのに、肉親の祝い事のような温かさに触れた気がした。

「――『化銀杏ばけいちょう』。それとも、作中に出てくる髪の結い方、『銀杏返いちょうがえし』から取ったのでしょうか。どちらか判断出来かねますが、どちらでも構いません。貴女方は〝キョウカ〟さんの名前に〝杏〟の字を当てました。供養に使われる漢字ではなく、杏子あんずの樹の字を当てました。『化銀杏』の〝杏〟であり、『銀杏返し』の〝杏〟の字を。……貴女は、あの作品の事を、あまり好きではないと言いました。ですが」

 言葉を切ったイズミは、決然と告げた。

「貴女、本当は……『化銀杏』が、お好きなのではありませんか?」

「ええ、好きよ」

 貞枝の返事は、早かった。

 無視されると思っていた。あしらわれるとも思っていた。毒気を抜かれたイズミを、貞枝が莞爾かんじと笑った。人とは思えぬほど美しく、そして妖しい笑みだった。

ねたましいほど、好き」

 そんな笑みと、真っ向から向かい合って――イズミは貞枝に背を向けて、玄関を出て行こうとした。

 判ったのだ。伝わらなかったということが。

「……貞枝さん。僕は、貴女にこんな本を届けながら、それでもまだ、杏花さんが狂ったなどとは思っていません。ましてや〝二人居る〟とも思いません」

「では、貴方はどういう風に考えているの?」

「僕は……成長と、考えます」

 貞枝が、押し黙った。イズミは、玄関の引き戸に手をかけた。

「人は、誰しも変わっていきます。日々の出逢い。誰かの言葉。人と人とが交わる事で、無限に生まれていく経験と思想。魂の色、形、抱いた感情の質量も、日常の中で変容し、新たな姿を得るのです。杏花さんが、たとえこれからも命を傷つける行動を取ったとしても、僕はそれを病とは捉えません。人としての、成長の過程と捉えます」

「……貴方、やっぱり優しいのね」

「僕の話など、していません」

「和泉君。杏花には会っていかなくていいのかしら?」

「……出直します。こんな顔で杏花さんの前に出られるとは思っていません。貴女から言い訳をお願いします。近日中に、窺わせて下さい」

「酷いお兄様ですこと」

 くつくつと笑う声を聞いた瞬間、理性を守っていた糸の最後の一本が、音を立てて焼き切れた。

 イズミは、振り向く。そして狐面の女に向けて「貴女は、狂っている」と強い語調で言い放った。

「こんな状況でありながら、杏花さんと喧嘩をした伊槻さんも、〝二人居る〟と言った御爺様も、呉野家の人間は皆、狂っている。そして、誰よりも、貴女が一番、狂っている」

「……貴方が、敬語を捨てたところ。私は、初めて見ました」

「……今日は、これで失礼致します」

 今度こそ、帰ろうと思った。

 だが、の時――背後から、小さな足音が近づいて来た。

 玄関で騒ぎ過ぎた所為で、家人の誰かがやって来たのだ。

 伊槻?

 國徳?

 れとも。

「……ああ。……杏花さん」

 愕然と、茫然と、イズミは力の抜けた声で呼んだ。

 今日はもう、会いたくなかった。兄の顔を、出来ないから。こんなにも酷い顔は、愛らしい妹には見せない心算でいたのに、帰る前に見つかってしまった。

「お兄様。……もう、帰ってしまうのですか」

 廊下から姿を現した杏花は、貞枝の隣まで歩いてくると、不安そうにイズミの顔を見上げてきた。白い着物はやはり死に装束のようで、緋袴ひばかまは血を吸ったかのように重く垂れて、杏花の足首を隠している。

 返答を躊躇ったイズミに代わって、「そうよ、杏花。和泉お兄ちゃん、今日はもう帰るわ」と貞枝が答えると、浴衣の裾を押えて屈み、杏花の頭に手を乗せた。イズミが少し迷ったのちに頷くと、杏花の表情が、寂しげに陰った。

 罪悪感で、胸が詰まる。もう、此処ここに居ればいい。つまらない意地などかなぐり捨てて、杏花と一緒に居ればいい。魔が差したようにう思ったが、帰ると言ったところなのだ。だから、もう帰ろうと思った。

 結局、の期に及んでいまだ尚、イズミはイズミ・イヴァーノヴィチのままだった。融通が利かないのだ。言葉と行動、意地と意思を、翻すことが出来ないでいる。杏花を、笑顔にすることも出来なかった。

「……お兄様。あの」

 杏花が、貞枝の目を気にしながら囁いた。「どうしました?」とイズミが訊くと、眉を下げた杏花は、イズミに一歩、近づいた。

 靴を履いたままのイズミは、の場で膝を折って屈み込む。杏花の目線に合わせると、杏花がイズミの頬に触れた。

 湿った手の平は、やはり温かだった。命を宿した、体温だった。

「お兄様。……また、来てくれますか」

「はい。また来ます」

「また、会えますか」

「もちろんです」

「では……また、遊んでくれますか」

「……いつでも。おおせのままに。杏花さん」

「……待っています」

「……はい」

 静かに、言葉を交わした。互いの声しか聞こえない、何もない白い空間で、二人だけで寄り添い合っている気がした。まるで、ちぎりのようだった。

 のまま、時が止まればいい。最も清らかな時のままで、永劫になって止まればいい。イズミにはの瞬間のやり取りが、ひどく清らかなものに思えたのだ。

「……左様さようなら。和泉君」

 貞枝の〝言挙げ〟が、二人きりの時間を終わらせた。

 イズミは、はっとした心持ちで貞枝を見る。貞枝は、何かを吹っ切ったような儚さで微笑むと、「杏花も。和泉お兄ちゃんとばいばいして?」と杏花の頭にもう一度手を乗せて、穏やかな声音で促した。

 杏花は、とろんとした目で母を見ていた。泣き過ぎた疲労がうさせるのか、水が低いところへ流れるように、こくんと自然に頷くと、杏花は貞枝の浴衣の裾を怖々と握ってから、潤んだ瞳をイズミに向けた。表情を支配していた心細さが、朝ぼらけの空のような、柔らかい色に薄らいでいく。

 かすかな笑みが、あどけない顔に浮かんだ。


「……左様さようなら。お兄様」


 イズミは――何も、言えなかった。

 頭の中が白く染まり、鬱屈や葛藤、怒りの感情までもが、の時全て消え失せた。玄関の引き戸に嵌まった曇り硝子から、明るい日差しの筋が入る。雲の切れ間から射した陽が、白く、まばゆく、明々あかあかと、色彩に見捨てられたような白黒にくすんだ室内を、燦然と照らし出していく。

 の輝きは、一瞬のものでしかなかった。流れる雲が太陽を隠したのか、玄関を照らした輝きは、曇天の白黒に還っていく。再び活動写真の登場人物のごとの場に佇みながら、イズミは依然として返事が出来ないままだった。

 永遠の別れを、告げられたような気がしていた。

 微動だにしないイズミを見つめた貞枝が、不意に睫毛を伏せた。そんな母の様子を不思議そうに見上げた杏花が、イズミに視線を戻す。

 そして、もう一度「左様なら、お兄様」と言って、小さな五指を大きく広げて――イズミに手を振って、笑ってくれた。

 の日の中で、最も〝清らか〟な笑顔だった。


     *


 イズミは、ついに左様ならを言えなかった。

 杏花の別れの言葉と笑みだけを、いつまでも覚えていた。

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