4-28 二人狂い
自宅に駆け戻るなり、がむしゃらになって調べ始めた。
血相を変えて帰宅した青年を見て、
イズミの部屋にも小さな本棚が一つあるが、克仁の部屋には壁一面に据え付けられた大型のものが二つある。地震を危惧すれば恐ろしくなる本棚だが、大量の書籍を収めた棚は、いつ見ても魅力的だった。だが、今だけは見惚れる余裕はなかった。欲しい本は、決まっていた。
何故、藤崎克仁と呉野
克仁は、イズミを指して拘りが強いと言った。学ぶ理由さえ判らぬイズミの事を。だが、克仁だけは人の事を言えた義理ではないだろう。少林寺拳法の師範を務めながら、趣味の分野を広げる克仁が、
克仁は、拘る。拘り抜く。
憑かれたように勉学にのめり込んだ人間の、血の滲むような努力の跡地にこそ。望むものは、山ほどある。
本棚の前で黙々と本の
「イズミ君。手伝いますよ」
一度、
「これは、僕の意地なのです。克仁さんの手を借りれば、僕の喧嘩ではなくなります。貴方の書籍や努力を利用していながら、狡い言い訳になりますが。それでも、貴方の直接的な関与はいけません。それに……」
イズミは、克仁に頭を下げた。
「克仁さん。すみません。僕は貴方の友人一家がいる御山に、これからもう一度向かいます。ですが、僕は」
言葉は、
克仁が、人差し指をイズミの唇に差し向けて、明るく笑っていたからだ。
「
「……有難う御座います。克仁さん」
深々と、イズミは頭を下げた。
*
昼食を手早く済ませた一時過ぎに、イズミは呉野家へと戻ってきた。
普段であれば来訪を避けたお昼時だが、今回ばかりは気にしなかった。其れに、相手も来意は承服済みなのだ。再会した貞枝は、玄関に現れたイズミの姿を見るなり、切れ長の目を丸くした。
「あらまあ。和泉君。
「見ての通りです」
揶揄の笑みをものともせずに、イズミは言う。踏み込んだ土間から、貞枝以外には誰もいないことを確認すると、杏花が居ない今の内とばかりに、手提げ鞄に詰めた本を、一冊ずつ
「……あらあら。まるで
「『二度言う』ではなく、『二度言わせる』の間違いではありませんか? それに、
イズミは貞枝と目線を合わせると、足元に並べた本を指し示した。
「これらの本が何の本か、一目見ただけでお察しでしょうが――全て、精神的な病に関する書籍です」
貞枝が、無言でイズミを見つめ返した。表情は読めないが、イズミは構わず先を続けた。
「時間がありませんでしたので、僕自身ざっとしか目を通せていませんが、参考にできる部分はかなりあると思います。こんなものを持ってきた僕の事が不愉快であれば、それでも結構です。読んで頂かなくても構いません」
「では貴方、どうして本を持ってきたの? 読まれない本に、意味など無いではありませんか」
「いいえ。これらの本を持ってきた時点で、意味なら達成できています。僕の意思を伝え、貴女方に何らかの行動を起こしてもらう為だけに、僕はこれらを持ってきました」
イズミは本の一冊を手に取ると、
「たくさん載っていますよ。僕は以前に御爺様とお会いした時に、杏花さんが〝二人居る〟と聞きました。その言葉を聞いた僕は、二重人格と言って貰った方が判り易いと答えました。その二重人格についても、
「……和泉君、貴方」
貞枝は、浴衣の袂から伸びた白い手を、口元に当てて驚いている。「ええ」と答えたイズミは、強く頷いた。
「貴女方は、僕に言いました。杏花さんは二人いて、一人は消えてしまうのだと。僕は、そうは思いません。彼女が幾ら異様な行動を取ったとしても、それは無知であるが故の幼い過ちに過ぎず、異常なものではありません。――ですが、そんな彼女の行動を理由に、それでも貴女方が『杏花さんはいずれ死に、別の人間になる』という大それた主張を展開されるのであれば。それは間違いだということを、僕は示す
「……。和泉君。貴方のお話は楽しいけれど、叔母さんには少し難しいみたい。ねえ、
「はい。では、もっと判り易く言いましょう。――そんなに〝二人居る〟と盲信なさっているのであれば、杏花さんを病人として扱って下さい」
貞枝が、再び驚いた顔をした。イズミは、畳み掛けるような〝言挙げ〟を止めなかった。
「彼女の行動があくまで異常だと言い張るならば、その異常を公の場で示して下さい。そうでなくては納得できません。僕の納得は要らぬと
手にした本を、イズミは床に積んだ本の山に戻した。
「貴女の娘が狂人ならば、狂人としての扱いがありましょう。僕は、彼女が死ぬとは思いません。狂っているとも思いません。しかし、それでも貴女方が〝二人居る〟という主張を曲げないならば、一度病院に診せるべきです。……その程度のことが出来ないのに、彼女を狂人扱いしているのは。神社の家から狂人を出した事を、恥じているからなのですか?」
「……ふふ、あははは」
イズミの言葉は真剣だったが、返ってきたのは嘲笑いだった。
今までにも同様の笑い方をされてきたが、さして気にはならなかった。元来
だが、
「何が
「だって、貴方。真剣なんだもの」
忍び笑いを漏らした貞枝は、
「和泉君。貴方、私は杏花を狂人と思っていると云ったわね? 少しだけ、違いますよ。殆ど合っているようなものだけれど、でもねえ、少し違うのよ」
「……では、何だと思っているのです」
「鬼よ」
「鬼?」
「ええ。鬼です」
曇天の薄明かりの所為なのか、板張りの玄関の風景は、色彩が鈍く沈んで見えた。活動写真の一コマを切り取ったような家の中で、貞枝の
「和泉君は、杏花に物語を聞かせてくれたそうね。私も杏花に教えてもらいました。貴方、杏花があのお話をどう受け止めているか知っていて? まるで貴方のお話のようだと思ったそうよ」
「ええ。杏花さんから聞きました」
イズミは平静を装って答えたが、心の内は複雑だった。貞枝はイズミの話など、まるで相手にしていない。
「でもねえ、私。あの物語は貴方よりも、杏花にこそ相応しいと思うのよ」
「意味が判りません」
「だって、あの子は変わるのですもの。居なくなって、氷花になる。あの子の言う〝清らか〟とは程遠い、鬼のような心になる」
「……鬼」
「ええ。鬼よ。鬼は
「それは……世迷言です」
「
辛辣な切り返しをしたイズミに、貞枝は怒りを見せなかった。ただ、意味深に笑うだけだった。
貞枝は何か、別の話題を振ろうとしている。今の話は入り口なのだ。
――『
そんなイズミの要望に、応えてくれた存在は。
「……ねえ、和泉君。私は呉野貞枝なのですよ? 神社の娘。呉野
「なぜ貴女が、克仁さんを語るのです」
「理由なら、今
愛想よく、貞枝は笑う。笑みに、微かな侮蔑が混じった気がした。
「あの御方との面識は、私にはありません。でも、貴方の御爺様との馴れ初めなら知っていてよ。あの御方、私の御父様に随分と世話になったそうね。知っているのよ。藤崎さん。当時はまだ学生さんだったのでしょう? 私が
「悪意のある言い方は、おやめになって下さい」
ぴしゃりと、遮断するようにイズミは言った。
イズミの事なら、好きなように言えばいい。だが、克仁は許さない。
沈黙の後に、貞枝は「……そう、御免なさいねえ」と
「……時に。
「御爺様の次は、克仁さんですか。僕は呉野家
心臓の鼓動が、早くなっていく。妖女の赤い唇が、己の近親者を語るだけで、途方もない胸騒ぎを呼び寄せた。
「和泉君。貴方はさっき、〝フォリア・ドゥ〟と
「ええ。言いました」
確かに、言った。〝二人居る〟と主張する呉野家の人間を揶揄する意味合いも多少あったが、イズミとしては病の一例として挙げたに過ぎない。だからこそ、貞枝が〝フォリア・ドゥ〟という病に水を向けた事に、イズミは驚きを禁じ得なかった。
「和泉君、貴方は私達への皮肉の
「……どういう意味ですか」
「藤崎さん。あの御方は、御自分の霊的な力を否定なさるお
――無駄。痛い程の痺れと共に、言葉が脳髄に突き刺さる。「貞枝さん」とイズミは呼ぶ。口を挟めば止まると思った。だが、青年の言葉程度では、妖女の声は止まらなかった。
「ふふ、あははは、ふふふふふ」と、哄笑にも似た嘲笑いが、赤い唇から漏れ出てくる。白い首が、くっと反る。襟足に零れた黒髪が、外光の
悪意が、
「幾ら理論武装して知識を頭に蓄えたところで、ご自分の体験と似た類話が見つかるばかり。
「貴女は出鱈目を言っています。何を誤解なさっているのかは存じませんが、克仁さんには、貴女の言うような異能などありません」
「あら。神社の娘、國徳の娘を侮らないことね。御父様のお仕事を、私が知らないわけないでしょう? 本当に優しいのね、貴方」
貞枝は、
そして、
「藤崎さんは、学ぶことをお止めにならない。ご自身の異能を否定なさるお
「いい加減にして下さい!」
イズミは、激昂した。
「僕は、真剣に言っているのです!」
貞枝の言葉が、止まった。目が、真ん丸に見開かれている。
今までにも
魂の〝言挙げ〟は、どんな感情を
答えは、出ない。弾け飛んだ感情の
だが、
何と、戦っているのだろう。徒労感で眩暈がする。
〝言霊〟が、生まれないからだ。
声なき言葉に、魂は宿らない。
〝言挙げ〟は――声に出してこそ、己の力と変わるのだから。
血の繋がりがない親子。其れでも克仁は父なのだ。もう一人の父なのだ。
震える唇を動かして、イズミは言葉を、静かに続けた。
「……僕は、貴女方と〝アソンデ〟いました。ですが、今の僕は〝アソビ〟で
「何かしら」
白々しく、貞枝が言う。整った美貌からは、早くも驚きの感情が失せている。在るのは人を食ったような笑みと、微かな憐憫だけだった。
「『
迷うことなく告げると、貞枝が不意を打たれた顔をした。
「僕は、考えていました。貴女方が彼女を〝キョウカ〟と呼ぶ意味を。御爺様からは、供養の花と聞いていましたが――意味は、それだけではないはずです」
小説を読んでいる時に、微かな引っ掛かりを感じたのだ。やがて
「――『
言葉を切ったイズミは、決然と告げた。
「貴女、本当は……『化銀杏』が、お好きなのではありませんか?」
「ええ、好きよ」
貞枝の返事は、早かった。
無視されると思っていた。あしらわれるとも思っていた。毒気を抜かれたイズミを、貞枝が
「
そんな笑みと、真っ向から向かい合って――イズミは貞枝に背を向けて、玄関を出て行こうとした。
判ったのだ。伝わらなかったということが。
「……貞枝さん。僕は、貴女にこんな本を届けながら、それでもまだ、杏花さんが狂ったなどとは思っていません。ましてや〝二人居る〟とも思いません」
「では、貴方はどういう風に考えているの?」
「僕は……成長と、考えます」
貞枝が、押し黙った。イズミは、玄関の引き戸に手をかけた。
「人は、誰しも変わっていきます。日々の出逢い。誰かの言葉。人と人とが交わる事で、無限に生まれていく経験と思想。魂の色、形、抱いた感情の質量も、日常の中で変容し、新たな姿を得るのです。杏花さんが、たとえこれからも命を傷つける行動を取ったとしても、僕はそれを病とは捉えません。人としての、成長の過程と捉えます」
「……貴方、やっぱり優しいのね」
「僕の話など、していません」
「和泉君。杏花には会っていかなくていいのかしら?」
「……出直します。こんな顔で杏花さんの前に出られるとは思っていません。貴女から言い訳をお願いします。近日中に、窺わせて下さい」
「酷いお兄様ですこと」
くつくつと笑う声を聞いた瞬間、理性を守っていた糸の最後の一本が、音を立てて焼き切れた。
イズミは、振り向く。そして狐面の女に向けて「貴女は、狂っている」と強い語調で言い放った。
「こんな状況でありながら、杏花さんと喧嘩をした伊槻さんも、〝二人居る〟と言った御爺様も、呉野家の人間は皆、狂っている。そして、誰よりも、貴女が一番、狂っている」
「……貴方が、敬語を捨てたところ。私は、初めて見ました」
「……今日は、これで失礼致します」
今度こそ、帰ろうと思った。
だが、
玄関で騒ぎ過ぎた所為で、家人の誰かがやって来たのだ。
伊槻?
國徳?
「……ああ。……杏花さん」
愕然と、茫然と、イズミは力の抜けた声で呼んだ。
今日はもう、会いたくなかった。兄の顔を、出来ないから。こんなにも酷い顔は、愛らしい妹には見せない心算でいたのに、帰る前に見つかってしまった。
「お兄様。……もう、帰ってしまうのですか」
廊下から姿を現した杏花は、貞枝の隣まで歩いてくると、不安そうにイズミの顔を見上げてきた。白い着物はやはり死に装束のようで、
返答を躊躇ったイズミに代わって、「そうよ、杏花。和泉お兄ちゃん、今日はもう帰るわ」と貞枝が答えると、浴衣の裾を押えて屈み、杏花の頭に手を乗せた。イズミが少し迷った
罪悪感で、胸が詰まる。もう、
結局、
「……お兄様。あの」
杏花が、貞枝の目を気にしながら囁いた。「どうしました?」とイズミが訊くと、眉を下げた杏花は、イズミに一歩、近づいた。
靴を履いたままのイズミは、
湿った手の平は、やはり温かだった。命を宿した、体温だった。
「お兄様。……また、来てくれますか」
「はい。また来ます」
「また、会えますか」
「もちろんです」
「では……また、遊んでくれますか」
「……いつでも。
「……待っています」
「……はい」
静かに、言葉を交わした。互いの声しか聞こえない、何もない白い空間で、二人だけで寄り添い合っている気がした。まるで、
「……
貞枝の〝言挙げ〟が、二人きりの時間を終わらせた。
イズミは、はっとした心持ちで貞枝を見る。貞枝は、何かを吹っ切ったような儚さで微笑むと、「杏花も。和泉お兄ちゃんとばいばいして?」と杏花の頭にもう一度手を乗せて、穏やかな声音で促した。
杏花は、とろんとした目で母を見ていた。泣き過ぎた疲労が
「……
イズミは――何も、言えなかった。
頭の中が白く染まり、鬱屈や葛藤、怒りの感情までもが、
永遠の別れを、告げられたような気がしていた。
微動だにしないイズミを見つめた貞枝が、不意に睫毛を伏せた。そんな母の様子を不思議そうに見上げた杏花が、イズミに視線を戻す。
そして、もう一度「左様なら、お兄様」と言って、小さな五指を大きく広げて――イズミに手を振って、笑ってくれた。
*
イズミは、
杏花の別れの言葉と笑みだけを、いつまでも覚えていた。
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