4-16 鏡花談義

 膝の上で、杏花が身じろぎをする。楽しげな笑い声が弾けて、イズミの首に抱きつく力が強くなった。

 愛娘の反応を見た貞枝も、忍び笑いを漏らしている。伊槻だけは、ぽかんと唇を開いていた。イズミが正解を叩き出した事が、余程意外だったに違いない。

「正解ですよ。和泉君。さっき気づいたわけではないのでしょう? 貴方、いつ頃から気づいていたの?」

「御息女のお名前を知った時からです。僕達の名前の、音の響きが気になっていました。もし、従兄妹である僕等の名前に、何らかの繋がりがあるのだとすれば、該当する文豪はお一人です。――イズミとキョウカ。かなり判り易いかと思います」

「そうかしら。貴方は判り易いとったけれど、一概にうともえないのではなくて? お若い貴方が泉鏡花を知っているというだけで、私は驚きましたよ。作品を読んだことはありますか?」

「いえ、一度も。いつか読んでみたいとは思っていました」

 同居人の克仁かつみが読書好きの人なので、藤崎家の本棚にも泉鏡花の著書が並んでいることは知っていた。幽玄ゆうげんの世界へ誘うような清冽せいれつさを纏うの書籍に、イズミはまだ手を伸ばしていない。

 れらの文学に触れた時、れまでの己が決定的に変わってしまう。そんな漠然とした予感があったのだ。

「そう。丁度いいわ」

 貞枝は顔を綻ばせると、華やかな笑顔で伊槻を振り返った。

「伊槻さん、良かったじゃない。和泉君は日本文学が判る人よ。貴方のお勧めの鏡花作品を紹介してあげたらどうかしら?」

「貞枝、イズミ君が困ってしまうだろう」

 伊槻は、びっくりした様子で妻を諌める。だが、貞枝の押しは強かった。

「いいじゃないの。伊槻さんだって、お客様とお話するのはお好きでしょう? れに、鏡花作品は短編が中心ですし、数も多いわ。和泉君、読みたい作品は決まっているの?」

「いいえ、まだ何も。伊槻さんさえ宜しければ、お勧めの作品を教えて頂けたら嬉しいです」

 イズミは、おどおどしている年上の男に会釈した。の言葉は世辞ではなく本心で、貞枝の厚意を無下にするのは申し訳ないという思いもあるが、己とは異なる感性を持つ他者が選んだ文学に、純粋な興味が湧いたのだ。

 催促さいそくされた伊槻は、「参ったな」と言ってはにかんだ。台詞とは裏腹に、声はまんざらでもなさそうだ。貞枝の言葉通り、人と話をするのが好きなのだろう。

「じゃあ、僕からお勧めさせてもらおうかな。そうだ、貞枝もお勧めの作品を披露したらどうだい? 君には、君だからこそ胸を張ってお勧めできる、とっておきの物語があるじゃないか」

「あら。いやな人ね、伊槻さんて」

 無邪気な口ぶりの伊槻へ、貞枝は柳眉りゅうびを顰めた。瞳に冷酷な光が過り、帯のような黒髪の艶やかさも相まって、幽鬼染みた凄みが宿る。

 夫婦のやり取りに首を傾げたイズミをよそに、愛妻の機嫌を損ねたと気づいた伊槻は「まずは、僕のお勧めから」と、早口で話題を切り替えた。

「僕は泉鏡花の作品なら、『女客おんなきゃく』と『売色鴨南蛮ばいしょくかもなんばん』をお勧めするね」

「それは……いえ、内容は今後の楽しみに取っておきます。短編ですか?」

「そうだよ。さっき貞枝も言ったように、この文豪の著作は短編が多いんだ。長編からも名作を挙げるなら、『婦系図おんなけいず』が僕にとっては印象深かったよ。独逸ドイツ語学者の男と芸者の女の愛と別離が、はっとするほどの切なさに義理人情を交えながら、この文豪にしか描き出せない筆致で、たくみに表現されているんだ。読み始めのうちは、独特の硬い文体に馴染めないかもしれないけれど、いつの間にかページを繰る手が止まらなくなること請け合いだよ。終盤の畳みかけるような展開がまた素晴らしくて……ああ、こうして話していると、また読み返したくなってくるなぁ」

 伊槻は、小説の具体的な内容は語らなかった。れから物語の扉を開くイズミに、気を使っているのだろう。あらすじは判らずとも、読み手がの物語にどれほど魅了されたか伝わってくる語りは、イズミには存外に好ましく響いた。

「短編の作品群に通底するものは、物語の凄絶なまでの美しさだね。終盤にかけて描かれる緊迫感と、触れた瞬間に弾けてしまいそうな狂気に通じる情感を、読み手の想像力に訴えてくる表現は、全く神業としか言いようがない。僕は貞枝と出逢ってから鏡花文学に触れたから、もっと早く読んでいれば、と悔やんだね。そんなわけだから、イズミ君。僕は君が羨ましいよ」

「成程。それは是非とも読んでみたいですね」

 イズミが頷くと、伊槻も満足げに頷き返した。やはり、仔細は不明であれ商社マンという職種ゆえか、会話の中心にいる伊槻は生き生きしている。愛娘を〝キョウカ〟と呼んだ時の困惑顔とは打って変わって、笑みは溌溂と明るかった。

 ふと貞枝を盗み見ると、妙齢の美女の表情に先程までの凄みはなく、穏やかな目で夫の語りに耳を傾けている。

 機嫌が直ったのか、れとも、れを装っているのか。判らないイズミには、目の前の会話に集中する他なかった。

「イズミ君は、泉鏡花がどういう作風の物語を書かれる方か知っているかい?」

「確か、先ほど伊槻さんが仰ったような恋愛を描かれている他には、幻想文学でしょうか。お化けの出てくる不思議な物語を紡がれる方、という印象があります」

「ああ、そんな感じだなあ。僕は貞枝や義父ほど読書家というわけではないから、取りこぼしも多いだろうけど、鏡花作品にはお化けの出てくるものが多いらしいよ。幻想文学の有名どころなら、『高野聖こうやひじり』と『草迷宮くさめいきゅう』辺りかな。現世うつしよ幽世かくりよ狭間はざまを彷徨っているような夢見心地に、自然への畏怖の念が織り交ざったような、不思議と敬虔けいけんな気持ちになる物語群だよ」

「ふふ、でも伊槻さんが好んで選んだものには、どちらもお化けが出て来ませんね?」

 貞枝が、茶々を入れてきた。イズミの膝で、杏花がもぞりと動く。母の顔を見上げたのだ。イズミも其方そちらを見つめると、貞枝は唇を引いて笑っていた。

 意地悪な笑みだった。ぎくりと妻を振り向いた伊槻も、イズミと同様の感想を持ったらしい。きちんと髭をあたった顎を掻くと、言い訳の口調で言った。

「お化けが出てくるものが、嫌だというわけではないんだ。ただ、人間だけで織りなすドラマの方が、僕にはしっくりくるだけで……」

「あら、そうかしら。違うわね。伊槻さんは、美しいものがお好きだからよ」

 貞枝は、取り合わなかった。伊槻の言い分を一蹴して、狼狽える夫へにこりと笑う。

「貴方が選んだ『女客おんなきゃく』と『売色鴨南蛮ばいしょくかもなんばん』。どちらも美しいお話ね。鏡花文学の美しさは、破滅の道をく苛烈さと、修羅のごとき情念の凄絶さにあるからこそ、私には貴方がの二作を挙げたことが面白いわ。伊槻さんは優しいもの。好きな文学作品に、性格がとても表れていてよ」

「それは……」

 伊槻は、顔を赤らめて黙ってしまった。「どういう意味ですか?」とイズミが訊くと、振り向いた貞枝が「じゃあ和泉君。私のお勧めを教えてあげるわ」と質問を無視した言葉で応じてきた。

「私が貴方にお勧めするのは、『外科室げかしつ』と『義血侠血ぎけつきょうけつ』です。『琵琶伝びわでん』も素敵ね。伊槻さんがお勧めするお話だって、もちろんとッても綺麗だけれど、私が鏡花文学の素晴らしさを語るなら、『外科室』は外せませんね」

「貞枝……」

 伊槻が、呆れの眼差しで貞枝を見る。貞枝は「何かしら?」と澄まして答えた。

「君が挙げた短編は、全て観念小説じゃないか」

「あら、初めて読む鏡花文学が、観念小説ではいけないの?」

「観念小説?」

 イズミは訊く。「ええ」と貞枝が頷いた。

「観念とは、ある物事に対して個人が持っている思想や意識の事ですよ。社会、時代、世相……ういった様々なものに感銘を受けて、強い触発から打ち出した観念を、小説の形でしたためたものを、観念小説と呼びます。あとは……諦めてしまうことも、観念するとうわね」

 睫毛を伏せた貞枝の目に、儚げな光が灯る。一瞬だけ仄見えた哀切は、此方こちらに目を戻した貞枝の顔からは消えていて、笑みは明るいものに変わっていた。

「作者の思想が強く打ち出された小説の事、と捉えたらいいのではないかしら。鏡花文学の観念小説として代表的なものが、私がお勧めした『外科室』と、他には『夜行巡査やこうじゅんさ』が挙がるわね。どちらの短編も、狂おしいまでに凄烈な男女の愛との破滅を、泡沫うたかたの夢のような繊細さで描き出した、極楽浄土のように美しい短編です。……嗚呼、破滅の理由なんて、今は訊いてはいけなくてよ。もし貴方が、其処そこに描かれた地獄の景色を見たいなら、の青色の瞳で確かめに行けばいいのですから……」

「結局、君が話してばかりじゃないか」

 伊槻が、へそを曲げて泣き言を言う。貞枝は「御免なさいね」と夫へ笑いかけながら、肩を落とす伊槻から視線をあっさり外して、イズミを見た。

「伊槻さんが『女客』と『売色鴨南蛮』で、私が『外科室』。最後に、御父様――貴方の御爺様のお勧めも、私から」

「御爺様にも、お勧めの作品があるのですか?」

「もちろんよ。元々、私の父の泉鏡花好きがこうじて、貴方達はイズミとキョウカになったのですもの」

 名の挙がった杏花が、嬉しそうに「ふふ」と笑った。愛らしい声を聞いて、母も我が子に笑みを返す。貞枝はイズミを見つめ直すと、べにの引かれた唇を動かして、の文学作品の名を紡いだ。

「貴方の御爺様のお勧めは――泉鏡花の『化銀杏ばけいちょう』です」

 ――燃え立つような黄色に染まる銀杏いちょうの葉が、脳裏で枝葉を大きく広げた。知らず知らずのうちに息を詰めていたイズミは、厳かな目をした貞枝と見つめ合う。

「その物語も、短編ですか」

「ええ。そうよ」

「その物語も……男女の愛と、そして……破滅を、描かれているのですか」

「そうね。屹度きっと。貴方も、う思うはずよ」

 貞枝の微笑に、陰りがきざした。縁側の外で、雲が束の間、日差しを遮ったに違いない。陽光の明るさが再び和室に満ちていくと、貞枝の笑みにも張りが戻った。

「和泉君。貴方の興味を引いた文学作品はどれかしら。読みたいものがあるのなら、本をお貸ししますよ」

 イズミは、暫し逡巡する。最近読みかけている本が一冊あるが、れは既に一度読破している。貞枝の申し出は、受験勉強の息抜きに丁度いいかもしれない。

「それでは、何か一つ。お願いします」

「あら、何を一番読みたくなったのか教えてくれないのね。私達、折角お勧めを披露しあったのに。残念だわ」

 貞枝は、甘さを含んだ声と上目遣いでイズミを責める。苦笑したイズミは、申し訳なさから提案した。

「皆さんのお勧めから一つを選ぶなど、僕にはとても出来ません。代わりに、読み終わった後で感想を言います。それで許して頂けませんか?」

「そう。れなら、いいわよ」

 仕方無いとでも言うように、貞枝が微笑む。伊槻は語り部の役割を完全に取られて不服そうな顔をしていたが、イズミは思わぬところから文学的な知識を得られ、予想外の拾い物をした気分だった。

 ちらと壁掛け時計に目を向けると、現在の時刻は午後の三時。イズミが此処ここに来てから、三十分が経っていた。

「……」

 ――遅い。

 とはいえ、数年ぶりの再会なのだ。積もる話もあるだろう。だが、れにしても、イズミを残してれほどの時間、一体何を話しているのだろう。

 畳に転がした父の革鞄に、自然と目が吸い寄せられる。持ち主の手を離れた孤独な姿は、在りし日にイズミが公園に忘れてきた赤い風車の記憶と重なった。

 馴染みのない家の藺草いぐさの匂いが、十八歳になっても変わらない苦手意識を揺さぶって、幼少時の鬱屈を、僅かながら呼び覚まして――気づけば、イズミは言っていた。

「……お庭を、見せていただいても構いませんか」

 貞枝が、目を丸くする。少年が青年に成長しても、変わらない逃げ口上に気づいたのか、愉快そうにくすくすと笑い始めたので、隣で伊槻が驚いていた。

「貞枝、何を笑っているんだ?」

「いいえ、何も。可笑しいことなんて、何もないのよ」

 貞枝はう断ったが、顔は楽しげな笑みのままだった。娘たる杏花であっても母の発作的な笑いは解せないようで、不思議そうに小首を傾げている。

「杏花。和泉お兄ちゃん、お庭が見たいそうよ。どいてあげなさいな」

「いやです。お兄様と一緒がいいのです」

「ふふ、うと思ったわ」

 貞枝が、呆れ笑いのような眼差しでイズミを見た。

「御免なさいね、和泉君。あの時には貴方一人だったけれど、今日は二人よ。うちの娘も連れて行ってあげて下さいな」

「それは構いませんが、毎日見ているお庭でしょうから、お嬢さんにはつまらない思いをさせてしまうのでは……」

「お嬢さんではありません! 杏花です!」

 真下から、突然に頭突きを食らった。意表を衝いた攻撃は見事に決まり、イズミの顎が仰け反る。恐るべき六歳児だった。人間の急所を知っている。

 伊槻が「おい、キョウカ」と慌てた様子で叫ぶ声に混じって、貞枝の笑い声も聞こえてきた。イズミは痛む顎をさすりながら、膝の幼女を見下ろした。

 杏花は、頬をぷくりと膨らませてむくれている。イズミが他人行儀な呼び方をした事は、の少女にとってはれほどまでに許せないことなのだ。

 ……正直な感想としては、少し一人になりたかった。大人との会話は苦にならないイズミであっても、此処ここでの会話は体力を消耗したのだ。

 自然の清涼な空気の中で、こごった疲れを風に流したかったのだが――貞枝の言葉を引用すれば、些か言い過ぎな気もしたが――観念するしか、ないのだろう。

 れほどまでに幼い少女と、何を話せばいいのだろう。判らなかったが、特にいやだとも思わない。幸い懐いてくれているので、其処そこはせめてもの救いだろう。

「行きましょうか、杏花さん」

「はい、お兄様」

 イズミが促すと、杏花はふくれっ面のままだったが、きちんと返事をして膝から降りた。先程の怒りは、多少和らいでいるように見る。イズミが杏花を連れて行くと請け負ったからか、あるいは名前を呼んだからか。機嫌を直してくれるなら、解釈の差異は然したる問題ではないはずだ。

「杏花さん、お庭に行きましょう。僕はここに来るのがまだ二度目なので、迷子になってしまうかもしれません。杏花さんが、僕を案内してくれませんか?」

 イズミが言葉を重ねると、少女の顔に笑顔が戻ってきた。まるで、やっと自分を見てくれたとでも言うように。

「……遊んでくださいな、お兄様」

 小さな声でわれたイズミは、杏花に頷いて見せる。そして、頷くだけでは足りないだろうと思い直して、しっかりと言葉で言い添えた。

おおせのままに。杏花さん」

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