4-17 清らか
父の革鞄を小脇に抱えて外に出ると、涼しい風が二人の間を吹き抜けた。
潤った大地と、すぐ傍にある泉が
道を少し戻るだけで、眩しい夏が
杏花の足取りは軽やかで、蝉の音に混じって鼻歌まで聞こえてくる。耳を澄ませて聞いてみると、小声で唄われていたのは『通りゃんせ』だ。
「杏花さんは、お唄がお好きなのですね」
「はい、好きです!」
ぱっと顔を上げた杏花が、太陽も顔負けの眩しさで笑った。
「お母様が、教えてくれました。お兄様、私はもっとお唄を唄えます」
「杏花さん、僕に唄ってくれるのですか?」
「はい!」
微笑んだイズミへ、杏花は満面の笑みで頷く。瑞々しい日向の匂いに包まれた森に流れた唄は、今度は『かごめかごめ』だった。
イズミは、驚く。先程の『通りゃんせ』と、音の響きが似ていたからだ。昔から知っている唄が不意に見せた横顔は、イズミの胸に新鮮な感慨を
「似ているのですね。なぜ僕は、今まで気づかなかったのでしょうね」
「どうかしました? お兄様」
「いいえ、何も。お唄、とてもお上手ですよ。杏花さん」
説明に困ったイズミは、何事もなかったかのように笑った。褒められた杏花は華やかな歓声を上げて、ぴょこんと足取りを弾ませた。赤い靴に土が跳ねて、イズミは心苦しくなる。散歩に連れ出したばかりに、見るからに余所行きと分かる靴を汚してしまった。普段履きのものに替えてはどうかと言いかけたが、お洒落な靴を脱げと言えば、へそを曲げられてしまう気もした。
「お兄様も、お唄は好きですか?」
杏花が首を真上に向けて、
「人前では披露しませんが、好きですよ。僕の日本の父もまた、昔話やお唄が好きな方ですから」
「ひろう?」
「ああ。すみません。人前では、あまり唄わないという事です」
「どうしてですか?」
「照れてしまうからですよ」
「お兄様は、照れ屋さんなのですか? 私のお父様と同じです。でも、お兄様とお父様は似ていません。同じ照れ屋さんなのに、どうしてですか?」
「杏花さんのお父様と、僕とは……」
無垢な瞳に見つめられて、イズミは続きの言葉を躊躇った。
呉野家の事情は、複雑だ。祖父、
そして、
盛夏に
だが、国を超えて出逢った異母兄妹の邂逅の場に、
六歳児なりに、事情を知っているとみるべきだろう。いや、
「……僕と杏花さんのお父様は、血の繋がりがありませんから。似ていないのは、仕方がありません」
「血の、つながり」
杏花が、こてんと首を横に倒す。「ああ。すみません」とイズミはもう一度謝った。伝えるという行為の難しさを学びながら、より簡単な言い方を試みる。
「僕と杏花さんは、御爺様が同じ人です。それは判りますか?」
「はい。お爺様のお名前は、呉野くにのりと言います」
「ええ。僕の御爺様も、呉野
生真面目に頷く少女へ、イズミも同じように頷き返す。
「その御爺様ですが、
「はい。判ります」
はきはきと答えた杏花は、得意げに瞳を輝かせた。
「お兄様。お兄様のお父様は、いばん・くにのりびち・くれのというお名前ですね? さっきお爺様のお部屋に行った、イズミお兄様のお父様」
「よく覚えていますね」
イズミは感嘆した。たどたどしい言い方であれ、六歳児が父の名を正確に言えたのは凄い事だ。イズミは杏花を
「お兄様は、どうしてイズミお兄様なのですか? 名前を全部教えて下さいな」
「イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノですよ」
「お兄様のお母様のお名前も、私に教えて下さいな」
「ジーナ……いえ、母の事は止しましょう」
「どうしてですか?」
「いずれ杏花さんにも、判る日が訪れますよ」
「ずるいです」
杏花が、頬を膨らませた。
「お兄様は、私を子ども扱いしています」
「ああ、失礼いたしました。杏花さん、僕が悪かったですから」
イズミは、すとんと屈みこんで杏花に謝る。目線を合わせた杏花は、頬を一層膨らませた。
「面白いお顔になっていますよ、杏花さん。貴女は笑っている方が可愛いですから。そんなお顔はなさらないで下さい」
「お兄様は、優しいのですね」
「ええ、僕は優しいのですよ」
以前にも、誰かに同じ台詞を言った気がした。思わず笑みが零れた時、杏花が
「優しいお兄様に、質問があります」
「どうぞ、何なりと」
軽く請け負ってから失言に気づき、「僕のお母様の事以外なら、何なりと」と言い直す。またしても機嫌を損ねただろうかと危ぶんだが、杏花は表情を変えなかった。気づけば、既に
「イズミお兄様の、お勧めを教えて下さい」
「お勧め?」
「はい。お勧めです。イズミお兄様の、好きなご本を教えて下さいな。イズミお兄様のお勧めだけは、聞かせてもらえませんでした」
意外な質問だった。イズミは束の間黙り、訊き返す。
「何故、貴女は僕のお勧めが知りたいのです」
「それは、私がキョウカで、お兄様がイズミだからです」
明瞭な言葉だった。
「お母様も、お父様も、お爺様も。泉鏡花は私には早いと言って、まだ読ませてくれません」
「杏花さんは、聡明です。大きくなれば、いずれ読めるようになりますよ」
「お兄様。私は、文字を読めるのです!」
杏花が、むっと眉根を寄せた。頬がぷくりと再び膨れて、心外だとでも言わんばかりに、イズミと握り合う手を振り回す。
「カタカナは、分かりません。でも、平仮名は読めます。漢字も、たくさん、読めるのです!」
「ああ、すみません。杏花さん」
イズミは幼女に振り回されるまま身体をゆらゆらさせながら、どうしたものかと思案する。出来ることを出来ないと決めつけられては、
全く、面白い体たらくだった。他人事のように、イズミは思う。
イズミは、つくづく不器用だ。
「杏花さん、どうか機嫌を直して下さい。誰にも教えていない、僕のお勧めを言いますから」
「本当ですか?」
振り回された手が止まり、ころりと嬉しそうに笑った杏花は、イズミの骨ばった手を両手で包んだ。イズミは空いた方の手を持ち上げて、灰茶の髪を掻きあげた。
「ただ、僕は泉鏡花作品を読んでいませんから、別の小説家の本になります。それでも宜しければ、教えますよ」
「はい!」
元気な返事を受けて、イズミは腕に引っ掛けた父の革鞄を、杏花と握り合っていない左手だけで器用に開けた。和室に置かせてもらえばよかったのに、預かっていてほしいという父の言葉を愚直なほどに真に受けて、革鞄を持って庭に向かったイズミの背中を、貞枝が笑っていた気がした。しかし結果的には、
杏花は表題を覗き込むと、大きな目を瞬いた。
「カタカナです」
「ドストエフスキーと読むのですよ」
「どすとえふすきー」
杏花が、イズミの手を離す。文庫本を両手で掴み、しげしげと物珍しそうに見入っている。海外文学に触れること自体が、カタカナに馴染みのない杏花にとっては初めての体験なのだろうか。
「お兄様。読み方は、『つみ』と『ばつ』で合っていますか?」
「そんな字まで読めるのですか」
流石に、イズミは
――『罪と罰 下』
著者は、ドストエフスキー。海外文学の金字塔。
酷暑のサンクトペテルブルクを舞台にした、
「お兄様。読めない字があります。教えて下さいな」
「どれです?」
イズミは中腰の姿勢から、膝を折って屈みこむ。
「どの字です?」
「この字です」
「……ああ」
イズミは、硬い声で呟いた。
己の失敗に、気づいたからだ。
本の背表紙に綴られた、『罪と罰』のあらすじ。杏花の小さな爪の先は、登場人物の名前の隣、『
――娼婦、ソーニャ。
困ったことに、なってしまった。
「……僕にも、その字は読めません」
結局、苦し紛れに
「お兄様にも、読めない字があるのですか?」
「ええ、僕も子供ですので」
「私と、同じですね」
杏花は嬉しそうに頷いたが、イズミの内心は複雑だった。
何故イズミは、六歳の少女に『罪と罰』を差し出したのだろう。都合の悪い部分を隠すこの行為は、間違っても〝お勧め〟とは呼べないものだ。とはいえ他に児童書の当てもなく、イズミはただ途方に暮れた。
すると、「お兄様」と杏花がイズミを呼んだ。
「では、こちらの字は? 読み方を教えて下さいな」
今度は、どんな字を読まされるのだろう。密かに身構えながら、杏花が指さした字を覗き込んで――「ああ」とイズミは小さく息を吐いた。
今度は、安心して読める字だったからだ。
「これは〝きよらか〟です」
「きよらか?」
「ええ。きよらか」
「それは、どういう意味ですか?」
杏花が、イズミの青い瞳をひたと見た。
「清らかとは……美しいという意味です。透明で、澄んでいて、濁りなく、穢れがない」
「きよらか……」
言葉を胸に刻むように、
「お兄様は、物知りなのですね」
「まだまだ精進が必要です。そんな僕ですが、杏花さんの質問には、出来る限り答えようと思っていますよ」
「じゃあ、もっとたくさん、私に教えて下さい」
杏花が、言った。まるで懇願のような光を瞳に揺らめかせて、純真無垢に、切なげに――
「私には、分からないことが多いのです。カタカナも分かりません。お兄様のお母様の事もわかりません。〝清らか〟も分からないのです。お兄様、美しいものとは何ですか? お兄様にとっての清らかを、私に教えて下さいな」
「僕にとっての、清らか」
イズミの茫然とした声に、「はい」と杏花が頷く。何故だか、悲愴な声だった。
「私は、知りたいのです。さっきお母様は、私のお父様は美しいものがお好きなのだと言いました。お母様がそう言うのなら、『
「それは……判りません」
黙考したイズミは、正直に答えた。
今は、嘘をついてはいけない。
「僕は、『罪と罰』が好きです。美しい物語であり、清らかだという感想を持ちました。しかし、その思いはこの物語全体に対するものというよりも、登場人物の一人に抱いたものなのです。〝清らか〟という言葉は、彼女の為にあるのだと。……杏花さん。先ほど僕に質問した箇所を見て下さい」
イズミは、杏花の片手を取る。己よりもずっと小さな手の指先を、
「清らかな……、魂?」
「魂は、読めるのですね」
「誰の、事ですか? 清らかな魂の人は、誰なのですか?」
聡明な少女は、すぐさまイズミに訊いてきた。「この人の事ですよ」と答えたイズミは、杏花の指先を少し横に動かした。
「カタカナです」
杏花が、寂しそうに呟く。イズミは微笑みながら、「ソーニャと読むのですよ」と教えてあげた。
「ソーニャという名は愛称で、正式にはソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ。ロシアの女の人の名前ですよ。――この本の主人公であるラスコーリニコフは、ある人物に対して、とても酷いことをしてしまいます。そんな己の行動から、精神的に追い詰められていく中で……彼女と、出逢うのです。清らかな魂を持った、心優しい彼女と」
「ひどい、こと」
杏花が、イズミを見た。肩口で切り揃えた黒髪が、御山に吹き渡る風を孕んで、ざわりと膨れる。
「らすこーりにこふは、人を、殺すのですか」
ぎょっとした。
「何故、貴女がそれを知っているのです」
「聞いたことがあるのです。お爺様も、同じご本を持っていると思います」
冷静な口調で、杏花が言う。そして寂しそうに、「ですが、お爺様は、私とあまり話をしてくれません。だから、それだけしか私は知りません」と吐息をつくように続けた。
さわさわと木々の梢が擦れ合い、
立ち尽くす少女と、しゃがんで目線を合わせる青年。
日本人の
性別も年齢も体格も、生まれた国の空の色さえ、まるで異なる二人の男女。
杏花は、言葉を欲している。判っていた。イズミが
イズミが黙り続けると、杏花はイズミから言葉を得る事を諦めたのか、
「らすこーりにこふは、なぜ人を殺すのですか」
「……さあ。何故でしょうね」
「お兄様にも、分からないのですか?」
「ええ。誰にも分からないと思いますよ。正確な答えなど。色々な受け止め方があるそうです。社会の為と一口に言っていいのかも判りませんし、己の信義の為と片付けて良いものなのかも判りません。杏花さんがいつかこの本を読んだ時に、彼の動機について考えてみては
主人公の殺人の動機については、何周か読んでいるイズミでさえ、上手く説明できないのだ。ならば各々で解釈を模索するのも一興だろうという考え方は、養父である
十人十色の捉え方を受け入れて、学びを楽しく極めていけばいい。
――殺人の動機など、六歳児に模索させるものではない。
ともあれ、
――
杏花が何故そんな知識を有していたのか、イズミには測り知れない。だが、杏花がいくら大人びていようと、考え方や個性、良識が育つ幼年期のあどけない魂に、『殺す』という観念を、脳に植え付けるような教育は――少なくともイズミには、正しいこととも、健やかなこととも思えなかった。
よって、イズミは杏花に詫びようと、そして先程までの言葉の数々を忘れてもらおうと、口を開きかけたのだが――イズミよりも、杏花の方が早かった。
「お兄様。清らかな魂の、この方は。らすこーりにこふを救ったのですか」
瞠目したイズミも、ささやかな言葉を少女に返す。
「さあ、どうでしょう」
「お兄様は、意地悪なのですね。知っているのに、教えてくれません」
「では、教えて差し上げましょうか?」
「いいえ。自分で、読めるようになります。私が、お兄様のお勧めのご本を読めるようになったら、私にも〝清らか〟が判るようになりますか?」
「ええ。きっと、判りますよ」
「本当ですか」
杏花が、
「清らか」
そんな相反する感情を包んだ笑みを、杏花は天に向けた。「清らか」ともう一度唱えた声が、神聖な山の空気に染みていく。
空を仰いだ、小さな姿が――美しく見えたのだ。
可憐でもなければ、愛らしいでもない。イズミは、美しいと思ったのだ。清らかな言葉を唇に乗せて、瞳に空色を映した杏花が、
だが――まだ、違う。
もっと、適切な言葉がある。
先程から、何度も、何度も――会話に出てきた、言葉だからだ。
「僕は、貴女の事も、清らかな魂の持ち主だと思います」
イズミは、言った。杏花が、驚きの目でイズミを見た。
「私が、ですか?」
「ええ。貴女は、清らかです」
「私が、清らかなのですか?」
「僕は、そう思います。いえ、今、そう思いました。貴女は、美しい人です。貴女の魂は、清らかです」
本心を言葉にする行為に、照れや躊躇いは全くなかった。
「……」
杏花は、黙ったままイズミの言葉を聞いていた。驚き過ぎて魂が抜け落ちたような瞳には、静かな高揚を代弁するように、陽光の反射が輝いている。
「お兄様」
おもむろに、杏花がイズミの手を強く握った。本をしかと胸に抱き、空いた方の手でイズミの手をぐいと引く。不思議に思った時には既に、杏花はくるんと
しゃがんでいたイズミは手を引かれて転び掛けたが、「お兄様、一緒に来て下さいな!」と振り返った杏花がせっついてくる。父の革鞄が、腕からすり抜けた。柔らかな土に受け止められて、下草が触れ合う涼しい音が空気を打つ。
「杏花さん。鞄が」
「早く、お兄様」
止まれなかった。振り返った杏花は笑っていた。あっという間に、視界から革鞄が消えていく。イズミのローファーが雑草を踏み、杏花の靴も泥を跳ねた。蹴った土が泉へ飛んだのか、ぱしゃんと小さな音がする。水面に
つんのめるように走るイズミを連れた杏花が、家の裏手に回り込んで、
身内の姿が見えたおかげで、安堵したのかもしれなかった。
「……御爺様と、お父さんではありませんか」
呉野家の裏手は、泉が見える神社側よりも下草が繁茂していて、杏花の胸辺りまで高く伸びたものもある。鬱蒼とした夏の森に寄り添う
一人は、イズミの父。
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