4-14 異母兄妹
息せき切って呉野家におとないを入れた男の事を、イズミは今も覚えている。
小学六年生の春、
元々、イズミは呉野神社に近寄る気など毛頭なかった。
理由はもちろん、家庭の事情が複雑だったからだ。
そして
――
呉野國徳は、かつてロシアで現地女性と結ばれて、長男イヴァンが誕生した。
だが
イヴァンも貞枝も、父親は呉野國徳。
イヴァンと貞枝は、異母兄妹なのだ。
ただし、日本人とロシア人のハーフであるイヴァンに対し、貞枝は生粋の日本人。男女の差異の相乗効果も甚だしく、兄妹の容貌の隔たりは、赤の他人同然だった。
「お兄様、呉野貞枝と申します。
「こちらこそ、お初にお目にかかります。イヴァン・クニノリヴィチ・クレノと申します」
「あら。お兄様ったら、緊張なさっているのね。堅苦しいことは抜きにして。
「……貞枝は、思っていた通りの人だ。電話の声と、全然変わらないね」
「ふふ、お兄様こそ」
貞枝は、ころころと笑った。
貞枝は、
あまりに失礼な考えなので口を噤んでいたが、イズミは貞枝が怖かったのだと思う。頬に手を添えて笑う貞枝の声には、貞女風の大人しさとは裏腹な、堂々たる張りがあった。背筋はぴんと伸びていて、異国の男を前にしても怖気づいた様子はまるでない。むしろ父の気後れを的確に見抜き、兄の狼狽を楽しげに笑っていた。人を手玉に取っているとまで言えば言い過ぎかもしれないが、貞枝には
父が呉野神社へやって来たのは、貞枝の長女誕生を
ならば主役は父であり、イズミは添え物、脇役だ。
――國徳はロシアを去り、日本で新たな家庭を持った。
イズミ達は外国人というだけでなく、真の意味で余所者だ。下手すれば存在自体、疎まれていてもおかしくない。従妹の誕生は
――そんな折だった。がさがさと、茂みを掻き分ける音が、背後から騒がしく聞こえたのは。
風が吹くだけでは、
歳は、父よりもずっと若い。二十代の前半か中頃だろうか。容貌を観察していると、男がイズミに気づいた。最初はぎょっとした様子で目を丸め、次いで露骨な安堵の顔で溜息を吐く。かと思えば我に返った顔つきに変わり、口をぱくぱくさせていた。見事な百面相だった。そして最後は、「なあ、ここの神社って、社務所はどこか知ってるか!」と切羽詰まった大声で叫びながら駆けてきた。
社務所とは、神社の事務仕事をする為の建物の事だろう。言われてみれば境内には見当たらなかったので、「存じません」とイズミが答えると、男は「うおああ」などと絶望の声を張り上げて、手で顔を覆っていた。
「何か、お困りですか?」
イズミが問うと、男は「お守りが欲しいんだよお……」と今にも泣きそうな声で言う。相手が外人風の容貌であれ子供だったからか、
「弟の嫁さんに、もうすぐガキが産まれるんだ。くっそ、安産祈願、なんで俺買っとかなかったんだ? ああ、馬鹿野郎、最悪だ……」
男は苛立たしげに髪を掴み、大きく天を振り仰ぐ。イズミは
貞枝は瞬きをしてから涼しく微笑み、「
「お待ち下さいな。御守りです」
貞枝が、男を呼び止めた。
振り返った男は、イズミの連れてきた妙齢の女性に気づき、驚いた様子で軽く身体を仰け反らせた。だが御守りという言葉が聞こえたのか、あるいは貞枝の手に握られた茶封筒に気づいたのか、落胆で曇っていた両の眼が、ぱっと陽が射したように明るく光る。瞳の丸さが、猫に似ていた。驚嘆で震える感情の機微が、言葉を聞かずともイズミには如実に伝わった。
「神社の方ですか?」
「ええ。社務所はないんです。
男は感無量と言った様子で唇を引き結び、がばと深く頭を下げてから、御守りを受け取った。代金の遣り取りを少し離れた所で見守っていると、男はイズミの視線に気づいたのか、
「坊主、ありがとな。姉さん呼んで来てくれたんだろ? っつっても、こんな天使みてえな
「イズミ・イヴァーノヴィチ・クレノです」
「ああ?」
男の声が上ずる。イズミの言葉が聞き取れなかったのか、目を白黒させていた。イズミは苦笑して、「呉野和泉です」と名乗った。
言い直した名前は字数が全く違ったが、男は特に拘らず、「そうか。イズミ君か」と頷いて、イズミへひらりと手を振った。
そして、名を訊いたからには自分もとばかりに「甥っ子が無事に生まれたら、お礼参りすっから! ……あ。俺は、
溌剌としたものだった。台風のような破天荒さとも言えたが、会話を終えたイズミの心は、日本晴れのように清々しくなった。
自然と微笑んで男の背中を見送っていると、背後から「ほら、
「お前は
「あら。
「充分だ。不満があるなら、
「本当に、融通が利かないのね」
貞枝の呆れ声を耳にしながら、イズミはそろりと振り返る。
頭髪は真っ白で、やや浅黒い手の平には、大小様々な皺が刻まれている。体躯は小柄だが、孫を持つ歳の男とは思えぬ程に、背筋がしゃんと伸びていた。貞枝と親子だという話も、納得できる佇まいだった。
貞枝には別れ際、「またいつでも、おいでなさいな」と言われていた。
イズミは明確な返事をせずに、ただ曖昧に笑っただけだった。すると貞枝は、「
もちろんそんな物真似は、あまり愉快には思わなかった。ただ、イズミの方も団欒の場を中座したり、貞枝を心の内で
――
あの時、
だが、信じられないことに、イズミは
父と共に神社へ参拝し、呉野國徳に挨拶する。貞枝の事は苦手だが、もし在宅ならば、以前のように口を濁してばかりもいられない。十八の青年として、茶飲み話くらいは付き合わなければならないだろう。そんな覚悟だけを固めていた。
従妹の事は、気に留めていなかった。
何せ、当時少女は
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