2-17 陽一郎
ぐりぐりと色鉛筆を擦り付けて、人型の生き物への着彩が終わった。
イラストの少年の真下には、でかでかと主張の強い下書きの文字が躍っている。度重なる書き直しを受けた紙は、筆圧の強さも相まって表面が傷んで
活気に満ちた図書室で過ごす生徒のうち、既に三分の一ほどが課題の提出を終えている。仲の良い者同士で喋ったり、本を黙々と読んだりしている終了組の輪の中に、本来ならば柊吾もすぐに行けただろう。ありふれた日常にも、未来の分岐点は潜んでいる。一つ一つの選択が、今の柊吾を作っている。
これから何度、柊吾は人生の岐路に立つのだろう。未知数の選択肢へ束の間思いを馳せてから、ペンを握って清書を急いだ。インクを乾かす為に用紙の端を摘まんで
班員の男女が忙しない動きを不審がり、「三浦君、急ぎ過ぎじゃない?」「まだ提出期限あるのに、どうした?」と訊いてきたので「もうすぐ早退するから」と適当に答えた。案の定「なんで?」と飛んできた言葉のボールを「用事」と短い一言で打ち返し、下書きに消しゴムをかけていく。凸凹の紙に潜り込んだ黒ずみも、これで何とか綺麗になった。完成した読書紹介シートを手に貸出カウンターに行くと、初老の国語教師は日だまりで微睡む猫のように顔を上げて、手元の提出表へメモを取った。
「三浦柊吾、『星の王子さま』……と。最初に聞いてたタイトルと違うようだが、なんだ。ガタイに似合わず、えらいメルヘンなものを選んできたな」
「先生。それ、俺に失礼です」
柊吾は憮然としたが、悪い気はしなかったので軽口で応え、「じゃあ、授業前に言ってましたけど、早退します」と伝えて頭を下げた。ゆるゆると頷く教師に背を向けて、自席に戻って帰り支度を整える。
そうして、図書室の外に出た所で――ばったりと、出会った。
「……」
互いに無言になったが、無視する理由はないのだ。怒る理由ならたくさんあるが、避けてどうにかなるものでもないだろう。柊吾は一日経って、そんな風に思えるほどの余裕を取り戻していた。
だから、仏頂面にこそなったものの、一応相手を気遣えた。
「陽一郎。怪我はもういいのか」
「……」
陽一郎は、気まずそうに俯いた。やがて「柊吾こそ。平気?」とごにょごにょ言ってきたので、浅く頷いて見せる。
「俺は別に、大したことない。怪我なら、お前の方が酷かっただろ」
今朝から、陽一郎は欠席だった。自宅療養中だろうと踏んでいたが、まさか陽一郎がこんな見た目のまま学校に来るとは思わず、柊吾は少しだが驚いていた。
――陽一郎が氷花にやられた傷は、柊吾が負った傷より酷いものだった。
戦いの場となった神社で、激しく立ち回っていた柊吾に対し、意識を失っていた陽一郎は、防御が全く取れなかった。額と瞼を中心に貼られたガーゼや絆創膏は、頼りない細腕にまで及んでいる。まるで壮絶な乱闘をくぐり抜けた喧嘩少年の図だったが、もやしのようなひょろひょろの体躯の少年では、不良に絡まれて一方的にやられたか、土手を転がり落ちていったか、間抜けな図しか想像してもらえない辺りが不憫だった。現に、茫然自失状態の陽一郎を柊吾が家まで送り届けた時、陽一郎の母親は息子にどこで転んだかを追及していた。情けない限りだと柊吾は思う。
「怪我は……痛いけど、平気だよ。見た目が派手なだけで、軽い打撲と擦り傷だし。顔の切れてるところも、痕には残らないんだって」
「そうか」
そんなことだろうとは思っていたが、それを聞くと安心した。もう少し幼稚な痛がり方をするかと思っていたので、そちらも安堵の要因の一つだった。会話のついでにもう一つ、柊吾は思い切って訊いてみる。
「……昨日の事だけど。お前、どこまで覚えてる?」
陽一郎が息を吸い込み、柊吾からまた目を逸らした。
「……ほとんど、全部。覚えてるよ」
「……」
「言い訳みたいで、こんなこと言ったら、柊吾は怒ると思うけど。呉野さんからハンカチをもらった事は覚えてて、でも、何を言われたのかは覚えてなくて……柊吾を突き飛ばした事も、神社に走った事も、覚えてるのに……なんでそんなことをしたのか分からないんだ。何となくで、そんなことをしちゃった感じ」
「それで俺が、納得すると思ってんのか」
「……ごめん。柊吾」
泣き出しそうな目をした陽一郎が、柊吾へ深く頭を下げた。そこまでされるとは思わず、柊吾は面食らう。
「やっちゃいけないって、悪いことだって、分かってたのに。そんな風にしかできなかったんだ。怒られて、辛かったし。撫子の事でも、僕、いっぱいいっぱいで。だから……理不尽って思っちゃったところ、あるよ。柊吾に」
「……」
「だから僕、ああなっちゃったのかな。意識はあったのに、駄目なのも分かってたのに……呉野さんに、そういう罪悪感とか全部、降ろせって言われた気がする」
「陽一郎。お前さあ」
柊吾は、頭を上げた陽一郎へ、おざなりに言った。
「昨日、神社でキスしてただろ。あれ、二回目なのか」
「へ? ……なっ、何、言って……!」
「だから。呉野とするの二回目なのかって訊いてるんだ。さっさと答えろ。雨宮と付き合う前に、お前は陰でそんなことをしてたのか? 答え次第では、殺す」
「そんなわけないじゃん!」
血相を変えた陽一郎が、首をぶんぶんと横に振る。かなり気合の入った否定だった。
「だって、あれ! 僕だって、どうしてか、分かんなくてっ!」
「あー、もう分かったから。お前、やっぱうるさい」
「柊吾が訊いたのに……」
陽一郎は顔を真っ赤にして、涙目でむくれた。柊吾は通学鞄を肩に提げ直すと、「じゃあな」とだけ言い捨てて、歩き去ろうとする。
すると、「柊吾」と陽一郎に呼び止められた。
「僕、撫子とやっぱり別れるよ」
柊吾は、足を止めて振り返る。ガーゼまみれの級友の目には強い怯えが浮かんでいたが、一昨日とは違う感情の色も見えた気がした。
その正体を咄嗟には掴めず、柊吾は文句を言いそびれた。「だって」と言った陽一郎は、照れ臭そうに頭を掻いた。
「僕、こんなだし。自分でも分かってるよ。これじゃ撫子も不安になると思うんだ。一昨日、柊吾に撫子と別れるって言った時、僕、自分の事ばっかりだったけど、もっかい、ちゃんと考えたんだ」
「自分の事ばっかりって自覚、あったんだな」
「うん」
「でも、その自覚、足りてねえぞ」
柊吾は厳しく、陽一郎を睨んだ。
「お前はさっき、雨宮の事でいっぱいいっぱいだったって言った。……雨宮絡みじゃないなら、お前のそういうところなんて、俺、どうでもよかった。でも、お前、彼氏なんだろ。相手がいる事なんだ。ちゃんとしてくれないと……見てて、殺したくなる」
「……だから、別れようって思ったんだ。柊吾」
陽一郎は笑ったが、頬の傷に障ったのか「いてて」と呻いて顔を顰め、結局泣き笑いのような顔になる。
「家と学校の送り迎えは続けるよ。……僕くらいしか、できないし。でも、僕じゃ大事にできなかったから。そんなの撫子に失礼だし。次に撫子と会う時に、ちゃんと話すよ。……早く良くなるといいね。撫子」
「……ああ。そうだな」
何だか、肩の荷が下りた気分だった。陽一郎の事を馬鹿だの阿呆だのと散々罵った日々だったが、
一応の、和解だろう。柊吾は小さく息を吐いたが、次の陽一郎の台詞で和やかさは消し飛び、目を剥く事になるのだった。
「でもさ、呉野さんって結局、何がしたかったんだろ」
「は? 何って?」
「いや、だってその、ハンカチもらって……キ、キスしたくらいしか、覚えてないし……転校しちゃって、もういないし。何だったんだろう、って」
「何もクソもねえよ」
柊吾の言葉遣いが荒れた。陽一郎がぎょっとして身を引いたが、柊吾は怒りが収まらなかった。
「あれに理由なんかねえから。呉野の阿呆は最低最悪の愉快犯で、ラスコーリニコフに酔っぱらったクソガキだ。陽一郎。俺の前で今後そいつを擁護するような言葉を一つでも言ってみろよ。殺す」
「柊吾っ? なんでそんなに怒ってるの?」
「俺は、なんでお前が怒ってないのかが不思議だ。その顔面と腕の傷、全部あいつにやられたんだぞ。なあ、やっぱり警察沙汰にしろよ。そうしたらあいつ、社会的に抹殺できる」
「抹殺っ? いや、だって……気づいたら僕こんなことになってたけど、誰にされたか、覚えてないし……」
「いいから黙って警察行け。散々お前にむかついてきた三週間だったけど、ここで役に立つなら全部帳消しにしてやる」
柊吾が全身から立ち昇らせた殺気に怖気づいたのか、陽一郎はあわあわと悲鳴を上げながら逃げ出した。「逃げんな陽一郎!」と言葉と共に足が出た柊吾は、よたよたと走る陽一郎の退路を足蹴りで断った。壁が派手な音を立てると同時に、背後からも悲鳴が上がった。
……。背後? 柊吾は振り返り、目を丸くした。
図書室の窓が全開になっていて、二年一組のクラスメイト達が顔を出していたからだ。柊吾達は目立ち過ぎたらしい。昨日までの重苦しさはそこになく、男子はどことなく面白そうに見物していて、女子は何故か黄色い声で叫んでいる。女子側の興奮に
「日比谷ぁ、昨日どうしたんだ?」
「すっげぇ足速かったじゃん。普段の体育、手ェ抜いてたんだろ!」
「うっわ、絆創膏だらけ! どこで転んだんだよ!」
男子生徒達は口々に、陽一郎を軽口で迎えた。陽一郎はぽかんとしてから、ふにゃりと半泣きの顔になる。柊吾は足を退けると嘆息して、陽一郎を腕で小突いた。
――柊吾と氷花が対決している間、二年一組は二年一組で、教師に掛け合って自習の時間をもぎ取っていたらしい。そこで行われた話し合いについて、柊吾は陽一郎を自宅に送った後で、学校に帰還してから知った。
陽一郎の事だけでなく、今まで言及を避けていた、撫子の今後の事も。これからどう接していけばいいのか、転校せずに袴塚西中学へ留まってもらう為に、自分達に何が出来るのか。全員で意見を出し合ったそうだ。
それに、この対応は――突然奇行に走った陽一郎が戻ってきた時、きちんと受け入れられるように、と。十四歳なりの拙さで出した、一つの結論だったのだ。
「……お前、しばらく登校拒否になるんじゃないかって、皆で心配してたんだぞ。覚えてるなら、お前を追っかけてくれた奴には、後で詫びとけよ」
「うん……ありがと……」
陽一郎が赤い目を擦った時、背後から「三浦!」と切羽詰まったような大声が聞こえた。――この人物には本当に、背中から声を掛けられる。
「監督」
振り返った柊吾は、大柄な体躯を見上げた。
授業中の廊下に森定がやって来たのは、偶然ではないのだろう。柊吾の早退と昨夜の連絡を受けて、慌ててすっ飛んできたに違いない。岩のような強面に浮かぶ感情は、戸惑いが多くを占めている。ひたむきな目と向き合った柊吾は、クラスメイト達がまだ見ているのは承知の上で、軽く頭を下げた。
「すみません。電話で済ませて。明日きちんと挨拶に行くつもりでした」
「いや、それはいいんだが……本気なんだな?」
「はい」
頭を上げた柊吾は、まだ顔から戸惑いが消えない恩師に、自分の意思を伝えた。
「スポーツ推薦、蹴ります。俺、普通科を受験する事に決めました」
背後で、どよめきが起こる。柊吾の推薦の話は、氷花の言った通り噂になっていたらしい。森定は驚きの目で柊吾を見下ろしていたが、やがて、にやりと好戦的とも取れる眼差しになった。
「ん、そうか。目標ができたんだな、三浦」
「はい」
「教え子が成長するのは、嬉しいもんだな。頑張れ。応援する」
「はい。……監督」
「ん?」
小声で、柊吾は言った。
「去年、職員室で揉めてる時に割って入ってくれたこと。一生忘れません。ありがとうございました」
森定は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。照れ臭さが湧いた柊吾は、クラスメイト達の目を避けるように「じゃあ」と言い残して走り出した。「廊下、走んなよぉ!」と森定が笑いながら叫んでくる。その声量では授業の迷惑だろうに、気にした様子が全くない。本当に、同年代のガキのような先生だと思う。クラスメイト達もやんやと声を上げたので、盛大になってしまった見送りに、柊吾は走りながら苦笑する。一度だけ振り返ると、国語教師が図書室から出てきて、森定と生徒達に注意を始めたところだった。
――まるで、魔法が解けたようだった。
氷花の退場と共に、日常が帰ってきたようだった。
日向の香りを切り
行き先は、決まっていた。
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