2-14 言霊

「なあに? 黙っちゃって。ふふ、ついに反論の言葉も出尽くしちゃった? また死ねとか馬鹿とかアホとか言えば? もうそんな言葉しか出て来ないんでしょ? ほら、ほら?」

「お前、うるさい。ちょっと黙れ」

「はあっ?」

 氷花が眉を吊り上げて何やら罵詈雑言をぶつけてきたが、柊吾は耳を貸すどころではなくなった。身体の中で確かな感触を残した引っかかりの正体を、手探りで追うのに忙しかった。

 何が、こんなにも引っかかるのだろう。緊張感と、それに相対する高揚感で、心臓が早鐘を打ち始める。柊吾は、違和感の正体へ手を伸ばす。意識の暗がりに転がり込んだ答えを、あと少しで光の射す場所まで引き摺り出せそうな気がするのだ。

 そもそもこの違和感は、何に対するものだろう? 決まっている。氷花の言葉だ。先程から続く氷花との会話に、柊吾は違和感を覚えたのだ。

 ――折角こんなに面白いことが出来るんだもの! 使わない手はないし、使うべきよ! 道徳も倫理も法律も、そんなもの私には関係ないし、踏み越えるべきよ!

 ――そうよ、私は人間よ。でも、あんた達みたいなのと一緒じゃないし、してもらったら困るわ。私が遊びたいように遊ぶ事は、別に罪なんかじゃないわ。貴方に咎められるものではないはずよ!

 ――ほら! 立証できないでしょ! 凡人の道徳も倫理も法律も、私には関係ないし、踏み越えていいのよ! あはははは! 捕まえられなくて悔しいでしょ! 残念だったわね! 犯罪でも何でも構わないわ! この世には何をやっても絶対に捕まらない、規範を踏み越えていける人間がいるのよ!

 道徳。倫理。法律。そして。

 それをも踏み越える――罪。

「……あ」

 ――恭嗣。

 伯父の顔を、柊吾は思い出す。柊吾をからかうのが大好きで、三浦遥奈を『愛』しているかもしれない、兄のような、柊吾の――家族。

 今ほど、恭嗣に感謝した事はなかった。

 今ほど、恭嗣の言葉の数々を、教育として受け取った事はなかった。

 そして今ほど――その教育が、『武器』となる瞬間を得られた事も、なかった。

 茫然とした柊吾は、やがて――真っ直ぐに、氷花を見た。

 理解したのだ。違和感の、正体を。

「……おい、呉野」

「なあに? 改まっちゃって」

「それ、聞いたことあるぞ」

「え?」

「さっきの。道徳とか、倫理とか、法律とか。あと、それを踏み越えるとか、しつこいくらい言ってたけどな……それ、全部。俺、聞いたことあるぞ。っていうか、知ってるんだけど」

 ぎくりと、分かりやすい狼狽で身体を弾ませた氷花の笑みが、固まった。

「俺もまだ、全然読めてないし、最後まで読むのに時間が掛かりそうだから、あらすじだけ先に調べたんだ。読みやすくなるだろうと思って。……だから。話、知ってるんだからな。……おい。お前、一体どういうつもりなんだ……?」

 逃げ腰の仇へ、柊吾はさらに一歩近づいた。犯罪の証拠を突き付けるように、とどめの言葉を容赦なく、一語一句畳みかけていく。

「主人公は貧乏大学生で、高利貸しの婆さんを斧で殺す。その理由は、こうだ。『非凡人は、凡人の法律や道徳を踏み越えてもいい』。選ばれた非凡人は、世界に対する善行の為なら、あらゆる罪を踏み越えていく事を許される。道徳や法律は凡人の為のもので、そんなものに非凡人は、縛られなくてもいい。そういう風に思う事を、自分の良心に許す。……そんな思想が描かれた、小説のタイトルは」

「! 待っ」

「――『罪と罰』。作者は、ドストエフスキー。かなり有名なタイトルだよな」

 柊吾は待たなかった。

「さっき俺が言った内容は、主人公の貧乏大学生、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが、独自に組み立てた犯罪理論だ。……おい、呉野。さっきしつこく言ってたお前の持論。もっかい聞かせてみろよ」

「……似てるだけよ」

「まんまじゃねえかよ!」

 柊吾は追撃を止めなかった。

「しかも、お前っ、お前のは! 善行とか入ってねえから! 『罪と罰』で主人公が婆さんを殺すのは、婆さんから奪った金で世の中の為になる事を、いずれ為すためのはずだ! ――お前、いい事、何もしてねえ! 誰も幸せになってねえ! ラスコーリニコフじゃねえから! ……っていうか……っ、どこまでっ、馬鹿なんだ、お前はぁぁあああ!」

 怒りと不甲斐なさが一気に噴出した。気が狂いそうなほどの眩暈がした。

 ――呉野、氷花は。

 言霊に溺れ、出会った文学に心酔し、そこから齧り取った犯罪理論を、さも自分のものであるかのように振りかざし、幼稚な悪意をそこかしこに撒き散らして――撫子を、手にかけた。

 冗談ではなかった。十四歳だからといって、大目に見られるものではない。むしろ、同じ十四歳だからこそ許せなかった。

 気まずそうに顔を俯けながらも、悔しさと怒りと羞恥がない交ぜになったような激しい形相の氷花を、柊吾は真っ向から睨みつける。

 そして、自分の意思を、自分の言葉を、目の前の仇に叩き込んだ。

「お前の言葉は、全部借り物だ! どんな〝コトダマ〟が使えるんだか知らねえけどな、少なくともお前は、現実と虚構を一緒くたにした、ただの阿呆だ!」

 そして、柊吾がそう言った、瞬間。


「――殺す」


 氷花が、顔を上げた。

 双眸に冷徹な光が宿り、長い黒髪がぶわりと大仰にたなびいた。

「三浦柊吾! あんたの『弱み』は『雨宮撫子が好きな事』よ!」

 ざああ――と突如巻き起こった風が木々を揺らし、葉のさざめきが雨のように降り注ぐ。柊吾は「アホか!」と一喝し、氷花へ一歩詰め寄った。

「たとえそうだとしてもだ! 人が人を好きな事が、大切に思う事が! どう勘違いしたら『弱み』になるんだ! お前はやっぱりただの阿呆だ!」

「じゃあ分かったわ! 思い出した! 三浦柊吾! あんたそういえばアスリートだったわね! 野球部のエース!」

 氷花が勝ち誇ったように嘲笑い、次なる一球を投じてきた。

「三浦柊吾! あんたの弱みは『怪我や故障を恐れる事』よ! 隠してたみたいだけど、スポーツ推薦、噂になってるのを知らないでしょう! 腕、動かなくなったらどうする? バット、これから握れなくなったらどうする? 足が動かなくなったら? 走れなくなったら? ねえ、ねえ、どうするの? 生きていけるの、三浦君! 運動一筋の世界にこれから飛び込む人間が、一番切られたら困る生命線だものね!」

「知ったことか!」

 悪意の攻撃を言葉のバットで打ち返し、柊吾は足を踏み出した。

「お前をぶっ潰す為なら、刺し違えてもいい。俺が怪我や故障を恐れてるって、それでもお前は思うのか?」

「……ふん、強がりじゃないの?」

 氷花は思案気に嘯いたが、嗜虐的な眼差しは変わらなかった。まだ、疑っている。探している。柊吾の『弱み』を探している。レントゲンのように身体を見透かし、一撃で致命傷を与えられる場所を言い当てようと、視線をぞわぞわ這わせている。べたつく視線を正面から受け止めながら、柊吾は歩みを止めなかった。

「俺はお前が嫌いだ。お前は自分のやりたい事を好きなようにやって、それを正当化する為に文学を持ち出してきたクズだ。主張も全部人のもので、自分のものなんか何にもない、我儘で動いてるだけの大馬鹿野郎だ!」

「うるさいわよ!」

 顔を醜く歪ませた氷花の髪とスカートが、爆ぜた感情のあおりを受けたかのように翻る。湿気た空気を殺意の熱できしませながら、氷花は悪鬼のかおで叫び返した。

「『雨宮撫子を日比谷陽一郎に取られた』くせに! 間男まおとこは黙ってなさいな!」

「陽一郎とくっついたくらいで誰がへこむか! そんなちっせぇ問題、『弱み』なわけあるか!」

「そうかしら!」

 不敵に笑う氷花の顔に、禍々しい憎悪がみなぎった。

「しかも、他の男の子に取られたその子から、今はもう『見て』すらもらえないんでしょう? やっぱりあんたの弱みは『雨宮撫子を好きな事』よ! 理屈こねたって無駄よ! 好きなんでしょう! 雨宮撫子が!」

 柊吾は口を挟もうとしたが、出鱈目な〝言葉〟の投球は止まらなかった。境内というグラウンドに立つ柊吾の元へ、悪意の〝コトダマ〟が殺到した。

「『雨宮撫子には見えない三浦柊吾』! 可哀そうに!」

「雨宮にそうさせたのはお前だろうが!」

「『雨宮撫子の事が好きなのに』! 三浦君ったら可哀そう!」

「おい、いい加減にしろ。お前はさっき、そこの阿呆といちゃついてただろうが!」

 柊吾は近くに転がる陽一郎を、顎で示して挑発した。

「お前、誰かを好きになった事なんてないんだろ。誰かに好かれた事もないんだろ。〝コトダマ〟の力を借りないと恋愛もマトモにできないのか? それでこんな阿呆誑かしてるんだからお笑いだな。さっきの、滅茶苦茶グロテスクだったぞ。すげぇ気持ち悪かった!」

「――『三浦柊吾は、雨宮撫子には見えない』!」

 割れるような大声で、氷花の憎悪が炸裂した。

 そして、閃光のように放たれた次の言葉が――柊吾の世界を、まばゆき尽くしていった。


「『三浦柊吾は、雨宮撫子に必要とされていない! ――要らないのよ! あんたなんか! んだわ!』」


「!」

 ダレカラモ、ヒツヨウト、サレテイナイ。

 イラナイ。

 その言葉が、本物の刃物のような冷たさで、胸の真ん中を鋭く抉った。

 頭に、人の顔が過っていく。父の顔が過った。恭嗣の顔が過った。森定の顔が次に過り、その次に過った顔は、たくさんの大人の顔だった。

 場所は、職員室。柊吾をねちねちと説き伏せる、たくさんの大人は教師達だ。その内の一人が、言うのだ。柊吾の記憶に焼きついた、あの台詞を言うのだ。


 ――お前は、親や、親戚、学校の先生、色んな人に生かされて、今ここにいるのだ、と。


 生かされて。生かされて。生かされて。それは、考えてはいけない事だ。生きているのだ。今、息を吸って。片親の子でも、柊吾は幸せに生きている。母と一緒に、支え合って生きている。

 だが――そう思っているのは、自分だけだとしたら?

 もし、誰からも必要とされていなかったら?

 恭嗣から。森定から。友人から。クラスメイトから。それに――母から。

 金食い虫。知っている。そうだろう。正しいだろう。子供とは、金のかかる生き物だ。母の元に残されたのは、父ではなく、何も出来ない子供の自分。恭嗣に頭を下げた、母の笑顔を、思い出す。

 ――『要らない』子供が残されて、その子供を『生かす』為に、生きている。

 びしり、と。空間に罅が入ったような音が聞こえた、瞬間。


 柊吾の目の前から、氷花と陽一郎の姿が掻き消えた。


「なっ……!」

 我に返った。柊吾は慌てて周囲を見回したが、石畳にも、拝殿にも、森へ分け入る小道の先にも、二人の姿はどこにもない。そもそも陽一郎は地面に倒れ伏していたのだ。一瞬でこの場を去るなど不可能だ。

「……っ、陽一郎! おい! 返事しろ! ……呉野! 何をした!」

 返事は、なかった。ざわざわと、不穏に枝葉が揺れている。孤独な柊吾を嗤うように、ざわざわ、ざわざわ、揺れている。

 そして、急に――地面に落ちた一本の長い枯れ枝が、持ち上がった。

「!」

 遮蔽物のない場所で、動くものは非常に目立つ。反応した柊吾が身体を向けたのとほぼ同時に、枯れ枝がこちら目掛けて飛翔した。

 反射的に腕で庇うと、叩きつけられた枯木がぱきんっと軽い音を立てて折れた。鈍い痛みが、皮膚に走る。まるでポルターガイストだった。驚く間もなく背後から足音が迫ってきて、振り返った柊吾の腹に、今度は竹ぼうきがぶつけられた。

「っ……!」

 強い力ではなかったが、庇うのが遅れた。柊吾はぐらついた身体の勢いを利用して後方に飛び退き、前方の攻撃から距離を取った。

 目の前には――独りでに動く竹箒。

 さすがに、そこまでされて理解できないほど馬鹿ではない。自分の置かれた現状に、柊吾はもう気づいていた。

 ――〝コトダマ〟に、やられた。

 おそらく陽一郎は、倒れていた場所から動いていない。そして柊吾が今対峙しているのは、先程と変わらず氷花だ。

 ――今の柊吾は、人が『見えなく』なってしまったらしい。

 からん、と音を立てて竹箒が石畳へ放り出された。次いで小石が弾ける音が聞こえ、土と下草を踏む足音が、森の奥へ消えていく。氷花だ。そちらへ駆け出そうとした柊吾だが、その瞬間に前方から何かが幾つも飛んできた。

 ――石。

 容赦のない投擲とうてきを見た瞬間、脊髄反射で跳躍し、地面を勢いよく転がった。柊吾が先程までいた場所で、小石が砕ける音がする。

 だが、逃げ延びて転がった柊吾は、突然『何か』にぶつかった。木々の手前には地面が広がるだけのはずなのに、ぐにゃりと生暖かい障害物が背中を打つ。

「つっ……!」

 これは、結構痛かった。呻いた柊吾は、はっと気づく。

 ――陽一郎。

 ここにいるのだ。柊吾には『見えない』陽一郎が、ここにいる。透明な身体に手を伸ばした時、頭上から再び石が降ってきた。立ち上がった柊吾は、攻撃を躱して逃れたが――石の音が自分を追ってこない事に気づき、振り返り、絶句した。

 先程まで柊吾がいた場所に、石の雨は降り続けていた。大小様々の尖った石は、地面に落ちる前に中空で一度止まり、溜まり、落ちていく。

 まるで『見えない』せきでもあるかのように、石が宙で積もるのを見た途端――あまりの卑劣さに、頭が真っ白になった。

「――呉野ぉぉおっ!」

 吠えたけったが、返事は何も聞こえなかった。すぐさま石が飛んでくる茂みに分け入っても、足音は既にそこから消えている。そして別の所からまた石が飛んできて、ごん、と背後で鈍い音がした。

「! 陽一郎!」

 幾ら氷花の気配を追い駆けても、『見えない』仇はすぐに立ち位置を変えてしまう。投げられた石は柊吾ではなく陽一郎へぶつけられ、その度に鈍い音が地面を穿ち、時折べちんと響き渡る。柊吾が足掻けば足掻くほどに、陽一郎が傷つけられていく。不吉な赤色が、空間にじわりと滲んだ。

 そして、一際大きい石が宙に浮いたのを見た柊吾は――『見えない』級友に駆け寄って覆い被さった。

 ごっ、と重い音を立てて、背中に石が落とされた。

「……!」

 背骨が軋み、息が詰まる。確実に追い込まれているのを理解しながら、こんな姿勢を取らされてしまった以上、最早柊吾は顔を上げる事すらできなかった。

 そこに、いる。この悪意をひたすらに柊吾へ降らせる悪党が、この石の雨雲の晴れた先に必ずいる。せめて声が聞こえればいいのに、耳が拾うのは石が地面を叩くざらついた砂音ばかりで、氷花の声は聞こえない。

 絶対に、氷花は笑っているだろう。散々自分を罵倒しておきながら、〝コトダマ〟の術中に嵌まって地面に這いつくばる柊吾を、間違いなく高笑いで見下ろしているに決まっている。

〝コトダマ〟を食らった瞬間の、胸をナイフで抉られたような冷たい痛みを思い出す。その瞬間に胸中を過った、紛れもない自分の感情も。

 だが、違うのだ。あんなものは、本心ではないのだ。己の心に対する言い訳ではなく、本気で柊吾は思っている。

 もちろん、考えた事はあった。だが、それは考えてはいけない事だ。疑う事さえ愚かな事だ。そして十四歳になった今の柊吾は、それをきちんと確信として受け止め、育んでいたはずなのだ。

 そんな家族の絆に影を落とす、小さな、本当に小さな意識の綻び。引け目。触れられたくない傷痕。痛み――『弱み』。

 そんなものを、赤の他人に掬い上げられた。

 そして、まるでそこから傷口を抉るかのように引き裂かれ、自分でも考えてすらいなかった方向へ、思考が飛ばされたのだ。まるで、被害妄想のように。

 ――馬鹿だった。あり得なかった。

 母が自分を『必要としていない』など、そんなことはあり得ないのだ。

 おごりではない。本気で思っている。そう確信すべきだと思っている。自信を持って、頷けばいいのだ。必要と、されているのだと。

 それを教えてくれたのが、柊吾の周りの人達だ。父が説いた『愛』を恭嗣が支えてくれた。森定が肯定してくれた。母が示してくれた。覚束ない自信をそうやって固めてくれて、真実へと変えてくれた。信じてもいいのだと、柊吾へ強く、背中を押してくれたのだ。だから、柊吾は、ここにいる。

 それなのに。

 ぐらついた。

 自信がこんなにも強固だと、自覚がある柊吾でさえ――人間が『見えなく』なってしまった。

 紺野。撫子。陽一郎。柊吾の周りで、壊れていった者達。三者の人柄と個性に思いを馳せた時、土と雑草と尖った石ごと、柊吾は拳を握り込む。柊吾でもこの有様なのだ。他の三者など論外だ。現に、既に死者が出ている。飛躍した感情が導き出す狂気など、簡単に想像がついてしまう。

 許せなかった。氷花の事が。やはりこの少女は、〝コトダマ〟で遊んでいる。人の感情を玩具おもちゃにしてもてあそび、個人の葛藤を嗤っている。

 憎い、許せない、腹立たしい――だが、何よりも悔しかった。

 こんな風になるまで、柊吾達は何を『見て』いたのだろう。撫子が壊れた時、柊吾達は壊れていなかった。人の姿がきちんと『見えて』いた。健常な目を持ちながら、何も『見えて』いなかったのだ。

 今の柊吾が『見て』いるのは、まるで撫子の世界だった。人の気配が遠く、声も聞こえない。限られた人間しか同じ場所に立てない、圧倒的な孤独が支配する、寂しい世界。

 撫子は、今もそこにいるのだ。孤独の中で、撫子は戦っている。誰の助けも得られない過酷な場所で、たった一人で戦っている。

「……あ、ま、み、や」

 柊吾は、その名前を呼ぶ。

 柊吾が助けたかった、少女の名前。

 だが、助けようとしなかった、少女の名前。

 ……謝りたかった。撫子に。

 何もできないなんて、そんなことは、ないのだ。できる事がある。今は思いつかないが、絶対あるに違いないのだ。

 その方法の模索を、撫子に『見て』もらえなくなったから、放棄した。腐っていただけだった。そんな体たらくでは『見て』もらえなくなって当然だ。柊吾の思慮が足りなかっただけなのだ。

 母の顔を、不意に思い出す。撫子を気にかけていた、母の寂しげな顔を思い出す。

 ――元々、柊吾が強くなろうと思ったのは。

 身体を鍛えようと運動を始め、その運動が楽しくなって、進路の話まで出てくるほどに、極めることができたのは。

 母を、守りたかったからだ。母の事が、好きだからだ。

 そんな風に、思い出した時――一つの記憶が、蘇ってきた。

 柊吾達が、小学五年生の時。ナデシコの花を、皆で植えた。

 しかし、全員の花が開いた時――ほぼ全ての茎が切られ、花の首は土に落ちた。

 その事件に対し、怒る者や落胆する者は多かった。陽一郎も残念がり、泣いていた者もいたと思う。


 だが、雨宮撫子だけは違った。


 撫子だけは、表情を変えなかった。当時から感情を顔に出さない性質たちではあったが、それにしても表情が動かない。訝しんでいると、撫子は休み時間に席を立ち、皆の鉢を見に行った。気づいた柊吾は、後を追った。

 今にして思えば、気がかりだったからだと思う。同じ名を冠した花が、無残に切られて台無しになった。撫子自身も熱心に育てていたように思うので、多分だが、柊吾は撫子が心配だった。

 だから、思わずついて行った。

 そして、中庭に林立するケヤキを囲んだ鉢植えと、そこに立つ撫子の姿を見た時――小さな手の平に乗せられた、花びらがふわふわとしたナデシコの亡骸を見た時。撫子も悲しんでいた事に、柊吾はようやく気づいたのだ。

『雨宮』

 柊吾が呼ぶと、撫子は振り返った。当時から二つに結っていた栗色の短い髪が、ぴょこんと弾むように揺れる。季節は七月で、この時の撫子は怪我をしていて、身体のあちこちに貼られた絆創膏が痛々しかった。

『三浦くん。……犯人、気づいたの?』

 唐突な、言葉だった。目を瞠ったが、柊吾は頷いた。撫子も目元に微かな驚きを添えて柊吾を見たが、やがて『そう』と静かに告げて、睫毛を伏せた。

『でも、言わないであげて』

『俺が言わなくても、隠し通せるとは思えないぞ。あいつ、真っ青じゃん。俺以外にも気づく奴、そのうち出てくると思う』

『ううん、それは大丈夫だと思う。……転校、するらしいから。だから、それまで。お願い。言わないであげて。三浦くん。見逃してあげて』

『なんで、雨宮は庇うんだ』

 柊吾は、率直な疑問をぶつけた。

『友達だからか? でも、これは悪いことだろ。悪いことを黙るのが友達なら、俺はそんなの、いらない』

『悪いことだよ。でも、こうするしかなかったんだと思う。こうしなきゃいけなくなった気持ちとか、こんなことをしちゃった理由とかは、見当つくの。……三浦くん。これは多分、私のせいだと思う』

『雨宮の? そんなわけない』

『そんなわけ、あると思う』

 答えた撫子は、初めて淡い笑みを見せた。

 驚くほど、透明な笑みだった。この夏が終われば頭上に広がる秋空のような、柔らかな慈悲が笑みにはあった。撫子は、犯人を許している。清々しい哀惜の目と向き合って、柊吾は黙らされてしまう。撫子は透き通った声で『それに』と続けた。

『人が、人に悪いことをしたら。やっぱり悲しいでしょう? そういう風に思われてるんだってだけで、傷つく人はいると思う。それが、自分のことじゃなかったとしても。……陽一郎は、優しいし、泣き虫だから。犯人探しに興味があるみたいだけど、やめてほしいなって思う。恨まれてるのが自分じゃなくても、陽一郎は泣いちゃうと思うから』

『……』

『それに、陽一郎って、もしそういう悪いことをされても、なかなか気づかないと思う。だから、陽一郎が気づく前に、私がよけてあげればいいと思う』

『……なんか。母さんみたいだな』

『お母さん?』

 撫子が、目をしばたく。やがて、そっと微笑んだ。

『ほんとだね。じゃあ、陽一郎は、私が守ってあげないと』

『守る?』

『だって、そうでしょう?』

 驚く柊吾を見上げて、撫子は穏やかに言った。

『お母さんは、子どもを守るものでしょ? 三浦くんのお母さんも、三浦くんを守ってる』

『それ、逆じゃないのか?』

『逆でもいいけど、やっぱりその逆でもあると思う』

 何だか、卵が先か鶏が先かを論じている気分になる。撫子も言いながら混乱したのか、視線を中空へ彷徨わせながら、ゆっくりと語った。

『……私が、ナデシコなのは。お母さんの好きな花だからって、お父さんがつけた。お母さんと結婚する時にも、花束にしてプレゼントしたって言ってた。一生守るから、って。そう言って、あげたんだって。三浦くんがシュウゴなのは、何か意味があるの?』

『俺?』

『うん』

『なんで、そんな質問』

『名前って、親が最初にくれる愛情だって、よく聞くから。それに』

 撫子は、柊吾を見つめた。琥珀色に輝く瞳は、柊吾の瞳よりも色素が薄くて澄んでいると、初めて知ったのはこの日だった。

『シュウって、ヒイラギでしょ? 名前が植物なの、おそろいだって思ってた』

『……。意味、聞いたことあるけど。難しすぎて分かんなかった』

『ふぅん?』

『でも。雨宮の、言った通りかもしれない』

『え?』

『守る、って。さっき、言ってたやつ』

 照れ隠しのように目を逸らし、柊吾はぼそりと囁いた。

『俺の名前は〝お守り〟だ、って――父さんと母さんに、言われたんだ』


 ――撫子は。


 柊吾にとって、初めて自分とは違う考え方を示してくれた少女だった。

 母は、子どもを守るもの。それは本来、柊吾にはない考え方だった。

 母を、父と柊吾で守る。少なくとも三浦家ではそうだった。他の家庭ではまた事情が違うと頭では分かっていても、現実味がなかったのだ。

 だから、初めて〝言葉〟として自分に届いた解釈に、柊吾は大きな衝撃を受けたのだ。他の誰にとって他愛のない発見でも、柊吾にとっては違っていた。

 ――まだ、氷花からの攻撃は続いている。石と玉砂利をまるでひょうのように降らせ続ける氷花の姿は相変わらず見えないが、ただ、何だか笑えてきた。

 何故、今まで気づかなかったのだろう。撫子が倒れた時の、針金のように痩せた身体を思い出す。抱え起こした瞬間に、あまりの軽さに驚いた事も。

 守らなければという義務感に駆られた、あの日の出来事をさかのぼっていくと――今度は泣きたい気持ちになってしまった。

 撫子は、やっぱり――母に、少しだけ似ている。


 ……ひどい初恋だと思う。


 柊吾は、ゆらりと立ち上がった。横面を石が掠めたが、構わなかった。陽一郎にも砂利がかかっただろうが、ひたすらに寝続けている級友を庇っていては、いつまで経っても戦えない。少しの間我慢してもらうしかなかった。

 ひゅっと風を切って飛んでくる石を、素早く躱しながら――柊吾はその方向へ、手中に隠し持った石を投擲した。

 小ぶりな石の剛速球は、かんっ、と木の幹を激しく打ち鳴らし、あらぬ方向へ飛んでいく。柊吾を狙う石の雨が、同時にぴたりと降り止んだ。

「そこか!」

 狙いを定め、柊吾は即座に足元を蹴飛ばした。最後に石が飛んできた方角へ砂利と土が撒き散らされ、跳ねた泥が宙で止まる。泥は浮いたまま、動かない。

 ――見つけた。

 足と、衣服。ついに目印が付いた。柊吾は泥目掛けて駆け出したが、透明人間はすぐさま後退し、竹箒がかたんと持ち上がった。――いよいよ分かりやすくなってきた。

 こちらに向かって振りかぶられた竹箒の柄を、柊吾は掴んだ。そのままへし折る勢いで、引き寄せると――おそらくは慌てて竹箒を手放したであろう逃げ腰の氷花へ、回し蹴りを叩き込んだ。

 重量感が、足に伝わる。どんっ、と石畳に倒れ込むような鈍い音が聞こえた時、「俺は!」と柊吾は『見えない』相手へ、割れんばかりの声で叫んだ。

「俺は、必要とされてるんだ! 親に! 親戚に! 家族に! お前が言ってるのは全くの出鱈目で、そんなことで俺達は、誰も揺らいだりはしないんだ! ……さっきの、取り消せ。取り消さないんだったら、もう一発食らわせる。……取り消せ!」

 ざざ、と空気が音を立てて歪んだ気がした。眼前の世界というテレビの映像が乱れ始め、掠れたノイズに微かな声が入り混じる。


「……女子に……手を、あげるなんて、最低……」


 氷花の声だった。まだ姿は見えないが、声が今、確かに聞こえた。ただ、ようやく知覚が叶った声に対して、安堵を覚える余裕はなかった。

 まだ、終わっていない。まだ、喧嘩の途中なのだ。

「お前は女子じゃない。クソガキだ」

 柊吾が吐き捨てた時、ぽつ、ぽつ、と腕に冷たいものが弾けた。最初はまばらに身体を打ち、どんどん数を増していく。柊吾は、空を振り仰いだ。

 ――雨だった。

 さああああ……と。木々の梢が擦れ合うような、柔らかい雨音が響いた。土が、石畳が、みるみる色を変えていく。細い雨は鼠色に垂れこめた厚い雲から降り注ぎ、三人の中学生しかいない神社の境内を濡らし、柊吾達の衣服についた泥を清め、洗い流していく。

「雨……」

 氷花の茫然とした声が、雨音に混じって聞こえる。

 声を受けた柊吾が、思わず足元を見下ろした時――そこには、黒髪を石畳へ放射状に広げて倒れる、呉野氷花の姿があった。

「……」

 世界が、元に戻っていた。

 人の姿が――『見えて』いる。

 柊吾も茫然としていたが、はっと我に返ると陽一郎の姿を探した。すぐに傷だらけで倒れ伏す男子生徒を見つけ、急いで駆け寄る。額とまぶたの端を少し切っているが、それ以外は腕に掠り傷があるだけで、深刻な外傷はなさそうだ。息をついた柊吾は、氷花の元へ取って返した。

「おい、呉野」と呼んでみたが、うつ伏せに倒れた氷花は答えなかった。軽く揺すっても意味を為さない言葉をうなるだけで、まともな返事が返って来ない。身体を仰向けに転がしてみると、脇腹の辺りが泥で汚れていた。柊吾が蹴り飛ばしたのは、ここだったようだ。

「……謝らないからな。先にやったのは、お前だ」

 呟いた柊吾は、氷花の上体を抱え起こす。雨に濡れた身体を引っ張り上げて背中に担ぎ、ずるずると歩き出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る