2-15 雨

 さああああ……と。全ての狂乱を無にかえすように、雨は神域に降り続ける。雨脚が、少し強くなった。柊吾の背中からずれ落ちそうになる氷花の髪が、腕に絡みつく。雨を吸って重くなった制服が、ぴったりと貼りついて気持ち悪い。

 それでも、この生暖かさは人の温度だ。生きている人間が持つ、血の温度だ。仇であれ、柊吾達と同じものが流れている。命の温度を担ぎながら、柊吾は黙々と歩いた。

 そして、鳥居のすぐ傍まで、不自由な歩行を続けた時――柊吾は石段を上がってくる人間の姿に気づき、立ち止まった。

 灰茶色の髪をした黒いスーツ姿の男は、雨に全身を打たれながら、傘も差さずにやって来る。相手も鳥居の前まで辿り着くと、柊吾と向き合って立ち止まった。

「……。イズミさんの妹、蹴りました。こいつ本人に謝る気なんかさらさらないけど、イズミさんは兄貴だから、一応謝ります。家族蹴飛ばして、すみませんでした」

「屈折した謝罪ですね」

 前髪から雨水を滴らせた長身の異邦人は、存外に明るく笑った。

「いいのですよ。謝りたくはないのでしょう。君がどれほど意思を曲げて氷花さんを蹴ったか、僕には分かるつもりです。優しい君は、相手がこんな〝クソガキ〟であれ、女子を蹴ってしまったとこれから気に病む瞬間があるでしょう。そんな君から謝罪を受けるなど、こちらが申し訳なくなってしまいます」

「……普通の家族は、そんな風には言わないと思います。イズミさん、さっきも思ったけど、やっぱり変わってます」

 クソガキと罵ったところを聞かれていたのだろうか。柊吾は決まりの悪さを覚えたが、和泉は気を悪くした風もなく微笑んでくれた。

「よくぞ打ち勝ってくれましたね。君なら大丈夫だと信じていましたが、安心しました」

「……俺、どうして、また『見える』ようになったんですか」

 疑問が唇から零れたが、あまりに言葉足らずだったと気づき、緩慢な焦りが喉に張り付く。いきなり『見える』『見えない』などと言っても、普通は分からないだろう。

 だが、和泉は了解を示すように、あっさりと首肯した。

「それはきっと、君の〝言挙げ〟によるものでしょう」

「言挙げ……?」

 聞き慣れない言葉だった。意味を考えていると、和泉がこちらへ歩み寄り、柊吾が背負った氷花をひょいと両腕で抱え上げた。雨水を吸った黒髪が、帯のように地面へ垂れる。その時になって初めて柊吾は、氷花が少し吐いていた事に気づいてぎょっとした。和泉は冷静なもので、「いくら妖艶な人間を気取ったところで、喧嘩の末に吐瀉物に塗れているようでは、全くどうしようもありませんね」と皮肉気に囁いているので、案外この人物は腹黒いのではないかと少し疑った。

「言挙げとは、己の意思をはっきりとした声に出して言葉にする事を言います。僕の妹は、君に暴言を吐いたでしょう。君はその言葉に宿った霊威に一度は呑まれかけたのでしょうが、不屈の意思を言葉の形でぶつけた事で、〝言霊〟に打ち勝てたのでしょう。……ただ、この考えはあくまで憶測であり、真実は僕にも分かりません。僕の妹の標的となった人間が、無事に帰還を果たした事は、一度もありませんでしたから」

「なっ……」

「僕はここに、一人で来るつもりでした。氷花さんの新たな標的となった日比谷陽一郎君を救う為です。その過程で君と出逢った僕は、これでも動揺していたのですよ。君は仇が氷花さんだと知れば、僕が止めても一人で戦いに行ったはずです。ですから、迷ったのですが……君の名を知った時に、大丈夫だと判断し、行かせました」

「名前……」

 和泉の話は、柊吾にはよく分からなかった。

 だが、名前という言葉を聞いた時――蘇る、顔があった。

 さああああ……と。雨は、まだ降り止まない。顔面を伝う雫を拭いもせずに、柊吾は言った。

「俺は、雨宮を助けたいだけです。俺がやったのと同じように、雨宮も〝言挙げ〟すれば……あいつの目、また『見える』ようになりますか」

「……」

「イズミさんの妹と話して、分かったんだ。雨宮、逆恨みされてただけだった。あいつに悪いところなんて、何にもなかった。見た目とか、印象で、そいつに僻まれただけだった。……そんなのって、あるか。そんなつまんねえ理由で『見えなく』なるなんて、許せないし、許したくない。俺は、今でも、そいつが……殺したいくらい、憎い」

「……雨宮撫子さんが、この子に何を言われたか、教えましょう」

 雨の音に溶けそうな声で、和泉は告げた。

「――『陽一郎と、キスをした』、です」

「……は……」

「たったの、これだけです。そしてこの言葉が、撫子さんの世界を変えました。……撫子さんは、日比谷陽一郎君の事を、小さな子供のように思っていましたね。あの少年は、いささか幼いところが目立ちます。中学二年生の少年に大人の自立を求めるのは酷でしょうが、彼の周囲はしっかり者が多いですから。君と、撫子さんのような。だからこそ余計に、稚拙さが際立ってしまうのでしょうね」

 柊吾は、思い返す。撫子が、陽一郎の事に少しだけ触れた、在りし日の花壇の中庭を。

「幼い子供のような少年と、母親のような少女。もちろん本物の親子ではありませんが、愛着はあったでしょうね。撫子さんにとって陽一郎君が、放っておけない存在だったのは確かでしょう。そんな存在が、急に他の女の子とキスをしたというのです。誰であっても驚くでしょうが、『母親』なら特にびっくりするでしょうね。ですが、撫子さんは『母親』ではありません。いくら『子供』のように思ったところで、相手は同じ歳の少年です。――そこが、ぐらついたのです。曖昧な境界線をいきなり鋭く突いて攻撃すれば、驚いて混乱するのも無理はないと、僕は思いますよ」

「……」

「友愛と恋愛と家族愛が入り乱れていく眩暈の中で、最も適当な感情を『恋愛感情』だと定めた撫子さんは、陽一郎君に告白しました。『自分から離れてしまう事が怖い』からです。陽一郎君を取られた気持ちになったのかもしれません。〝言霊〟で急かされて、そんな風に思い詰めたのかもしれません。……おそらくはそれが、彼女が壊れた原因です。その感情は、本当にささやかなものだったはずですが……君なら、そんな小さな感情が、どういう変容を遂げて膨れ上がったか、想像できると思います」

「……それが、どうして……『見えなく』なる事に、繋がるんですか」

「陽一郎君が離れてしまう事が恐ろしいという恐怖を突き付けられたのです。推測に過ぎませんが、『二人しか、いなければいい』。そんな風に、考えが至ったのでしょう」

「それは、どういう……」

「愛し合う二人の事を、二人だけの世界、と詩的に表現するでしょう。文字通り、そんな世界が出来上がったと思われます。ただ、彼女の恐怖は非常に曖昧です。その結果がもしかしたら、親しい友人や親といった、彼女が生きていく上で必要な人間の生き残りを許したのかもしれません」

「……じゃあ、俺が、さっき『見えなく』なったのは」

「それは、君の『弱み』と撫子さんの『弱み』が似ているからでしょう。……必要とされないなら、要らない。要らないなら、誰からも『見えなく』なればいい。あるいは、他人が『見えなく』なればいい。君達はこんなにも違うのに、至り方は同じなのですね」

「…………じゃあ、俺は、どうすればいいんですか」

 柊吾は、俯いた。雨が、頬を滑って流れていく。生暖かい。冷たい雨に、ぬるいものが混じっていく。

「俺は、仇討のつもりでここに乗り込んできたけど、結局こいつと喧嘩しただけで、状況、何も変わってない。雨宮をやったのがそいつって分かっただけで、俺が勝ったみたいな形になっただけで、でも、勝ててなんかないんだ。これは、そういう勝負じゃないんだ。…………雨宮、返して下さい。そいつに無理なら、イズミさんが返して下さい」

 視界が、一気に滲んだ。声が、湿っぽくなっていく。止められなかった。無理に声を整えようとしても、普段の調子を取り繕って絞り出した声の輪郭は、どうしようもなく滲んでいる。もう限界だ、とこの数日の間に何度も思った。本当の限界は、ここだった。取り繕えないまま、雨に流すように、ぽつりぽつりと、柊吾は言った。

「陽一郎が、雨宮を見放そうとしてた事、俺、すごくむかついた。でも、半分は自己嫌悪だって、分かってたんだ。陽一郎の気持ちが、分からないわけじゃ、なかったから。あいつが好きなのは、前の雨宮だから。頭良さそうで、落ち着いてて、いつ見ても涼しそうで、あんまり怒ったり笑ったりしない奴だけど、時々驚いたり、少しだけ笑ったりして、そういうところを見ると、皆も嬉しくなったりする、そういう雨宮が、好きなんだ。……俺だって、あんな雨宮は嫌だ。でも、雨宮が何も悪くなくて、なのに、仇を討っても何も変わらなくて、じゃあ、俺は、どうしたら、雨宮を助けられるんですか。どうすれば、元のあいつに、戻してやれるんですか。……助けてって、言われたんだ。雨宮に。でも、俺は、何もしてやれなかった」

「それは、もう君が自分で答えを出したと思います」

 優しい声が、雨と一緒に頭上から降ってきた。柊吾が濡れそぼった顔を上げると、雨上がりの空のような微笑の異邦人と目が合った。

「君は、氷花さんと対立していた時に、何を考えましたか。雨宮撫子さんの事を、考えたのではありませんか。たくさん、たくさん、考えたのではありませんか。『見えない』あの子へ、できる事を。手を差し伸べる心意気を持つだけで、変わる何かがあるのだと。君は、自発的に気づいたはずです。誰も、教えていません。君が、自力で掴んだ答えです。そんな君だからこそ、僕の妹に勝てたのですよ。それに、撫子さんの事も。僕は少し安心しました」

「……どうしてですか」

「こんなにも大切に思っている人が、すぐ傍にいるのです。軽はずみに大丈夫だとは言えませんが……これからも、一緒にいてあげて下さい。孤独ではないのだと、伝えてあげて下さい。その方法の模索が、きっと何よりの治療ですよ」

「……イズミさんって、何者なんですか。日本語、ぺらぺらだし……」

「僕はただの呉野和泉ですよ。……またいつでも、神社へお越し下さい。友人が増えるのは嬉しいものですね。歓迎しますよ」

「……ん?」

 スーツ姿の異邦人は、愉快げに笑う。その顔と向き合った瞬間だけは、『愛』のみで満たされたかのような男の内に、確かな人間味を見た気がした。

「いずれ、こちらで神主を務めさせて頂く日が来ます。その時にはまた、どうぞよろしくお願い致します」

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