白陽花

或死


 あめあがりの街の寂寞にわたしは生まるる。錆び拉げた鉄柵より落つるひと雫。打ち棄てられたビニル傘はあなたの墓標。廸往く人々は凪いだ水溜に靑い影を落とし、そう。一面は薄靑の匂立ち込める。微風。緩やかな坂道を、氣怠げな自轉車がくだっていった。

「わたしの故鄕はあの空の檻です。夢のあと。」



 わたしはに立ち、はるかの夢幻をみつめていた。


 それは六月さなかの暮夜、ざあざあ降り。次の「記錄的豪雨」の肥しになるべく記錄される大雨であった。

 あなたはただ立ち竦んでいる。

 世界は無限の雨のカーテンに仕切られ、朧な光と底知れぬ闇だけがじゅう滿まんしていた。雨音はノイズとなって耳を覆い、雨粒らは無機質な衝突死を永遠と繰り返す。そしてあなたは傘すら差さずにそれを全身で受け止めて、いままさに死のうかと考えている。



 人は誰も死なねばならぬ。代りに死んでくれる者が居らぬから、死なねばならぬ。抑も、誰しもが不可逆的に死に邁進しているということさえ忘れ、人は愚鈍にも腐ったしんけいと縮んだのう味噌でこれに耐えつづけることを習慣とするのだ。

 生き甲斐を感じては死ねぬと思った。私は死に甲斐を求め生きるのだ。死に甲斐とは生きる意味へのかい答であった。

 いや、生きる意味などは固より存在せぬのだ。だから私は死ぬ。世界はあまりに〈私〉に無關むかん心であり、「目的」のない、若しくは「目的」の意味がない私の人生は「じつ在」を求め、死という無に向かって永遠と囘歸かいきし續けるのだった。その意味で、死に甲斐とはある種の志向性であり、死已しのみが生を產み落とすのである。

 だから私は死ぬ。死に無關心のまま死ねぬから。私には時閒がない。

 生きるために死なねばならぬ、どうしても私は死ぬのだ。えきのコンコースでうわごとのようにう呟いていた先の私には、無論先の論理は存在せぬ。そして家族を亡くしたどうしようもない絕望など、切っ掛けに過ぎなかったのだ。そこに在るのは、唯不安であった。しかしそれは怖ろしいほどに白で、只管に大きいものであった。人閒が誕生より共にする原理的な不安である。後天的な自己同一性などより、もっと朧で曖昧で判然とせぬから閾下にうずもれている。

 絕望がこのヴェールを剥がしたのだ!だが、其の時はこの自覺じかくすら存在しなかったのである。何故なら、巨大な不安を頭蓋まで引き揚げたいとは他でもない己の「死にたいする興味」であったのだから。

 私は幼少の頃から何處どこかでこれを感じ續けていた。然し、人は死んだら何處に行くのかという疑問はすでに無かったのである。

 或遠戚の葬儀に連れられたことがあった。親切な壯年のおじさんと記憶している。どうにも肺癌だったらしい。年に一度、親族の集まりで二言三言言葉を交わす程度であったが、彼がこの世界の何處にも居らぬのだと考えると、人竝ひとなみに淚を流すなどしたのである。けれども私は(皮相というものが見えていなかったのであろうが)、幼いながらに違和感を感じていたのだ。死という一つの絕對的な事實じじつに對し、「こんな大勢に見送られて彼奴アイツも天國で笑っているだろう」だとか、「早くして逝ってしまった彼奴の分まで頑張って生きるよ」だとか。然う云う美しいことばに。

 今でこそ分かるが、これはにんげんの愛すべき自己防衞だった。人は死から目を背け續け、何も分らぬ侭死んでいく。これに氣付いた時、私は判然と自分と人閒との違いを知った。いや、然う云う人閒になりたくなかったから、死について考え續けたのだろう。

 で以て、私を惹き付けていたのは死という一瞬であった。何もかも無に還る一瞬であった。だが、其の理由から死にたいなどと考えたことは、殺したいと考えたとき程無いものである。尤も、我々は殺したいなど思わずともすうの殺害を繰り返しては生を貪っているのだが、それと変わるまい。希死念慮は無い。けれども、がい念的では無い死というものが私を「生かして」いたのは確かである。

 それは底知れぬ不安を引きあげはしたが、それだけであった。不安は瞬く閒に根を張り、あらるものを覆いつくすや否や、私は「不安」になった。

 私は如何どうしても死なねばならなかった。いや、けれども私は如何しても死なねばならぬ狀況にあったわけでは無かったのだ。尤も、不安は諸有る未練絆しを食潰したのであるが、ややもすると絕望を克服し、死から目を背けて生を貪る道も在ったかもしれぬ。在ったかもしれぬからこそ、私はこの時如何しても死なねばならなかったのだ。

 私は死ぬことに決めた。けれどもすぐ死ぬ譯にはいかなかった。無論この遺書をしたためんが爲である。私は生きたあかしのこしたいのではない。死ぬ證を殘したいのだ。

 驛を出ると、雨が降って居た。未だ暮相であったが分厚い雲は夕景をも覆い、眼に映るすべてが灰色であった。薄い影といい、しとしとと降る雨といい、世界は冷たい感傷に墮ちて居る。私は今日死なねばならなかった。

 然れども遺書を前にして、私は固まって居た。特定の人物には宛てず、更に言えば故人に向け、これより死ぬ私の内心を書き留めんと考えていたのだが、如何いかんとも私を殺すのは不安ではない氣がしてきた。この感情を唯不安で終わらせることが出來なかったとでも言えようか。いや、私は不安の爲に死ぬのであるが、誰も人は死ぬのであるし、不安の爲に死ぬのは私だ。それを以ての先の論理である。つまりは人閒への警句であり、同時に此の行爲の正當化に過ぎぬのだった。此處まで書き、私は人が皆不安の爲に死ぬような氣がしてきた。

 生を肯定したところで囘歸しないことなど知っていた。生の否定が死なのではない、死への肯定が生なのだ。無を肯定したところで現實の虛無は埋められぬ。遺書を認め、更には警句などと宣うあたり、価値轉倒之業ルサンチマンから逃れられていないどころか、逃れれないということも知っている。最早意味など求めまい。故に私はこれら全ての否定を否定し、自らと共に無から無へと歸すのだ。

 さて、肝腎の死ぬ方法についてだが、入水が好いと思った。私は水が好きだから、水死も苦にならぬ氣がする。水に溶け込む(結局はガスを吐き出し浮くのだが)方が、五臟六腑をぶちまけるよりロマンティックに思う。私の結末について諸君は充分に知っているだろうから、そこまで書くこともない。

 そろそろ夜半も近い。私は今日の内に死ぬので、ここらで筆を折るとしよう。

                               不盡ふじん



 或少女は、竟に其處から身を投げた。夢幻は現實じつに如かず、現實もまた一入ひとしおの美と幼い決意には如かなかった。わたしは忽ちに移りわる景色に短い走馬燈を想いながら、しばらくの閒は死なぬ樣な心持であった。


 あなたは朦朧とした意識の中で、幻視げんしを思い出して居た。既に肺の殆どは水に滿たされて居る。無閒の雨のカーテンの先に在った幼い人影が、亡くなった妹の姿であるとさとるや否や、あなたのたい内を滿たしていた眞白いなにかは光を求めて眞黑な水面に彷徨い出づる。

 あなたの「すべて」は意識を殘して一齊いっせいに溶け出し、水と混じり合ったあなたと共に水底で、唯再生の時を待って居る。



 わたしは只管の靑の中に立って居た。錆び拉げた鉄柵より落つるひと雫。打ち棄てられたビニル傘はわたしたちの墓標。廸往く人々は凪いだ水溜に靑い影を落とす。南から來る微風は、人閒若しくはこれに類した死ぬべき運命にある生物の、吐く息のように生溫かかった。緩やかな坂道を、氣怠げな自轉車がくだっていく。然うしてわたしは。枯れ切って眞白な紫陽花を指さし、こう呟く。


 これはあなたたちの腦。

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白陽花 @Pneuma

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