361話 彼の遺書 彼の覚悟
「すまんのぅ、さくらちゃん…。お前さんも辛いじゃろうに…」
「いえ…! …まあ、辛くないわけでは…ないですけど…」
賢者の謝罪に、さくらはそう答える。ふと彼女の脳裏に浮かんだのは、元の世界の大切な人達。
皆の事を、この世界に来てから幾度思っただろうか。友達、先輩、先生、祖父母、そして両親。きっと悲しんでいるはず。
本当ならば、すぐに帰って安心させたい。私は無事だよと伝えたい。楽しく過ごしているよと会って言いたい。
そんな思いは、少なからずあった。―だが、それを瞬間的に塗りつぶしたのは、竜崎の赤い血飛沫だった。
次にさくらの頭に映し出されたのは、腹を穿たれ、黒い呪いに蝕まれた瀕死の彼の姿。それはさっきまで目にしていた、実際の光景。
先も述べた通り、
そんな犠牲を払い帰って、嬉しいだろうか。そんな訳ないに決まっている。嬉しいわけがないのだ。
きっと、一生に渡って心が苛まれる。異世界から帰るために、命の恩人を最後まで踏み台にしたことを。もう二度と戻れないであろう世界にいる竜崎の、安否すら確認できないことを。自分のその罪を、自分は赦すことはできないだろう。
そしてそもそも…帰れない可能性の方が遥かに高かった。いや、実際の帰れる可能性は0%だったのかもしれない。あの装置は、詳細不明に近しい存在だったのだから。
そうなった場合を想像すると…全身の血の気が一瞬で引いていく。だって、悪戯に竜崎を死なすだけだったのかもしれないのだから。
…できれば、もう見たくはない。この世界での親代わりであり、導き手であり、
そう。だから―!
「竜崎さんを犠牲にしてまで、帰りたくはありません!」
再度、さくらはそう言い切った。彼女の瞳と胸中には、そんな確固たる思いが真意として形を成していた。
心の片隅で遠き世界の両親たちにすぐ帰れぬことを謝り、顔を上げた彼女。その貌は、悩みを一つ振り切ったような凛とした光を湛えていた。
―と、賢者はそんな彼女を見て、呟いた。
「…今ならば、必要以上に心乱されることはないかのぅ」
不意に、彼は懐へと手を入れる。そして、封切り済みの一つの書状を取り出した。
「さくらちゃんや、これを託そう」
彼はさくらへと歩み寄り、それを手渡す。その表面に書いてあった文字に、さくらは声を漏らした。
「え…これ…!『遺書』…って…!」
渡された厚手の書状には、間違いなく『遺書』と書かれていた。そしてその文字は、竜崎の―。
―やはりクローゼットから回収していたか、ミルスパール―
と、背後から聞こえてくるはニアロンのそんな言葉。思わずさくらが賢者の顔を見つめると、彼は深く頷いた。
「左様、それはキヨトの遺書じゃ。さくらちゃんが来てから書かれた、な」
「え…! なにそれ…!? 知らないわよ!?」
「……!」
ソフィア、そして勇者アリシャは驚愕の表情を浮かべ、さくらの元へと顔を寄せる。賢者は促した。
「皆で読んでみるがよい。キヨトの覚悟が綴ってあるからの」
一瞬、彼女達は顔を見合わせる。そして、手渡されたさくらが、恐る恐る中身を取り出した。
「「「………!」」」
揃って、声を詰まらせてしまう。それは―、遺書は、幾十枚にも渡っていたのだ。
そこには数多の人への今までの感謝と先立つ不孝への謝罪、そして関わってきた無数の案件の処理の仕方が全面に丁寧に綴られていた。
中でも勇者一行の三人、そしてニアロンに対しては、専用の頁が割かれていた。だがそれは、事務的な文面ではなかった。
今までの思い出を交え、感謝と謝罪が他の項の何十倍にも膨れ上がったそれは、途中から文字が歪んでもいた。恐らく、書きながらも胸に込み上げてきたものがあったのだろう。
だがそれでも…一切の苦し気な、悲し気な様子は出さず、最後まで努めて明るく書かれていた。自らが死んでも、誰もが先に進めるように。そんな彼の思慮が籠められていた。
そして、それぞれの文面の終わりは、必ずこう締められていた。
【もし、『サクラ・ユキタニ』が帰れていなかった場合、彼女を私の『実の娘』として扱って欲しい。彼女を絶対に責めることなく、この世界を謳歌できるように守って欲しい】
と――。
「「「―――――…。」」」
病室内には、沈黙が流れていた。 誰も、何も言えなかった。言える余裕なぞ、なかった。
万感胸に迫る―。そんな言葉が相応しかった。遺書の内容を先に知っていた賢者とニアロンは、湧き上がってくる感情を抑えるように俯き、初めて目にしたアリシャとソフィアは、今までを偲び涙を浮かべていた。
そしてさくらは、竜崎の願いを―、【さくらを『実の娘』として扱ってほしい】という彼の思いを、幾度も幾度も反芻していた。実の娘、実の娘…と。
先日起きた人さらい事件の夜。自身と同じく巻き込まれた先輩生徒メスト・アレハルオを見つめる竜崎の目に、さくらは『親のような瞳』を感じた。そして、それが自身にも向けられていることに気づき、嬉しくなった。
先程、竜崎が手術室に運び込まれた直後。泣きじゃくっていた自身を抱きしめてくれたアリシャは、『キヨトがさくらを見つめる目は、ソフィアがマリアを見つめる時の目』…つまり、『親が娘を見る目』だと評した。
しかしながらその二つは、さくら本人と、竜崎をよく知るアリシャのとはいえ、『感想』でしかなかった。つまり、竜崎の意思は正確には不明であったのだ。
―しかし今。遺書には、『実の娘として扱ってほしい』と竜崎本人の直筆でしたためられていた。『親代わり』ではなく、『親』。そう明確に、伝えて貰った気がした。
そして…さくらは気づいていた。この遺書には『
それはつまり―。竜崎は、『自分が帰る』という選択肢を端から入れていなかったということである。
彼はさくらがこの世界にやって来た時から『さくらを帰し、自らが命を落とす』ことしか考えていなかった。逆パターン…『さくらを犠牲にし、自らが帰る』ことなぞ、露程も考えてなかったのである。
そう―。彼女がアリシャバージルに来て、ホームシックから泣いたあの夜。その部屋の横で、竜崎は装置の起動条件が揃ったことに気づき、ノートを見つめていた。
その時から、彼の心中は固まっていたのだ。自らが犠牲になるという選択で。
竜崎の覚悟、竜崎の意志。それを遺書から叩きつけられたさくらは、横で眠りにつく竜崎へと目を落とす。
幸い、彼は生きている。生きているのだ。すぅすぅと小さく寝息を立て。それを見て、彼女は深い安堵の息を吐いた。
「よかった……」
本当に、よかった。彼が、竜崎が死ななくて。彼が生きている以上、遺言は無効。だが、そこに籠められていた想いは、彼の本心なのだ。
そんなことを思ってくれていた彼が、死ななくて良かった。こんなに素晴らしい人を、死なせずに済んで良かった。『親』である彼が、生きていてくれてよかった…!
そんなさくらの横顔に優しく見つめていた賢者。彼は、再度彼女に伝えた。
「さくらちゃんや。言った通り、それはお前さんに託す。破り捨てても構わんし、アリシャやソフィアに渡しても良い」
その言葉に、さくらはアリシャとソフィアを見やる。彼女達はさくらへと頷き、手にしていた遺書の一部分を元の束へと戻した。
僅かな間、遺書を見つめるさくら。しかしすぐに心は決まったらしく、綺麗に折り畳み直して封筒に仕舞った。
そして、それを自らの胸にギュッと押し付けた。
「…これは、竜崎さんが起きた時に、私が預かった手紙と一緒にお返しします。そして、
竜崎が20年間探し続け、未だ見つからぬその方法。さくらのその宣言は、絵空事に近しいものであるのかもしれない。
だが、一切の希望を捨てずに前を向く彼女の姿は、まるで光輝く聖女のようであった。ニアロン、そしてアリシャ達は、そんなさくらへ満面の微笑みを向けた。
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