第17話 みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえに

 しかしそれにしても、と俺は考える。


 地元での安心感なのか、ここでの古川さんは本当にいつもとキャラが違うというか、すごく活き活きとしていて、魅力的だ。学校でもこんな感じなら男子ウケも抜群になるだろうに。あまりそういうのに興味はないのかな、もったいない。


「まあ、本当は職員さんも掃除してるから、私が掃除しなくてもいいんだけどね」


「なんだよ、そりゃ」


「小学校の時、地域奉仕活動みたいなことで掃除のお手伝いみたいなことをしたんだけど、ここを掃除するの手伝ってると、心が洗われるような気がするの。自分の部屋を掃除するのは大嫌いだったのに」


 自分の部屋の掃除は今も嫌いだけどね、と笑いながら古川さんが続ける。


「嫌なことがあっても忘れられるというか、都合の悪いこと見ないふりするんじゃなくて、乗り越えられるというか許せるというか、そういう気持ちになるんだ。だからそれ以来、週一でお手伝いさせてもらってるの。実益と地域奉仕を兼ねて」


 ここまで一気に話した古川さんは、何か重要なことを思い出したらしい。


「あ、そうそう。ここに来たならアレ見ていかないと!」


 こっちこっちと手を引かれて連れてこられたのは、周辺をさっき掃除したばかりだった、入口付近に鎮座している苔生した巨石の前だった。


 古川さんが俺の手を引いていたのは無意識にだったようで、手をつないでいたことに気づくと、慌てて振り払うようにして手を解いてしまった。なんというか、振り払われるのは、ねえ……。

 さっきから彼女なりに気を使ってくれているんだろうけど、男子高校生って意外と繊細だってことを踏まえてもう少し、こう、なんというか……。


「なにこれ?」


「ここに来る前に話した、万葉集のアレ。もう千年以上前の話。都から偉い人が視察に来て、この辺に住む虎さんって女の人と恋仲になって帰りたくなかったんだけど、仕方なく帰ることになって。手紙出すねって約束したんだけど、いつまで待っても手紙は来なくて」


 ああ、例の和歌のいわゆる聖地ってことか。それよりも離れ離れになってしまった二人の境遇に、俺は想いを馳せる。


「いまも昔も、やってることはあんまり変わらないんだな……」


「ん?」


「ほら俺、転校常連だから」


 手紙出すからとか電話するからとかメール送るからとか、そういう別れは何度も経験した。

 でも実際のところ、人間はそこまで勤勉じゃないし、その人がいない生活というものにも慣れていってしまう。それにお互いがまったく知らない新しい環境をイチから説明して、話題を共有して盛り上がる、というのはそもそも難しい。


 自分の意思で距離を埋める手段(金銭とか交通手段とか通信手段とか)を持つ大人なら話は変わってくるのかもしれないけど、子供にはどうしようもない。それに万葉集の時代だったなら、いくら大人だって言っても、実際にできることは現代の俺たちと似たり寄ったりのレベルだったに違いない。


「ああ、そういう……」


 俺を気遣ってくれるように、古川さんは曖昧な相槌を打つ。


「で、その二人はどうなったんだよ?」


「結局、もう二度と会えずじまい。会えない間、虎さんはそこの観音様に百日参りの願掛けしたんだけど、結局ダメで。悲しみのどん底でそこの石を眺めていたら、その男の人の姿が映ったんだって。そこまでがこの石の伝承」


「そっか」


「でも、物語には続きがあって。虎さんが絶望で病に臥せってしまっている間に、ついに手紙──歌が一句だけだけど──が届いたんだって。それが河原左大臣作と伝えられる、『みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえに みだれ染めにし我ならなくに』。一年の時に古文でやったはずだけど、授業聞いてなかったでしょ?」


 ジト目で俺の方を睨んでいた古川さんだったけど、なぜか表情がだんだんと辛そうに変わっていく。しまいには、じっと地面を見るように俯いてしまった。


 あれ? 俺なんかやらかしたっけ? と焦りまくっていると、古川さんはどう見ても無理やりいま作りました! というような笑顔を浮かべて、顔を上げた。


「ごめん、急用思い出しちゃった! 今日は私、帰るね」


 そう言って立ち上がった彼女は、そのまま出口の方に駆け出した。


「あ、おい! ちょっと!」


「ごめん、掃除道具さっきの場所に戻しておいて! また明日、学校でね!」


 引き止める俺を振り払うように、背中越しに手を振りながら、そのまま古川さんは走り去っていった。


「なんなんだよ、いったい」


 訳わかんねえとブツブツ呟きながら掃除道具を片付け、寺の職員の方に一声挨拶を入れる。そして文知摺観音手前の駐車場まで戻ってきたところで、極めて憂慮すべき事態に陥っていることを俺は認識した。


 ここまで古川さんの自転車二人乗りでやってきて、彼女がさっさと家に帰っちまったってことは……。


 やべ、どうやって家に帰ろう。


 本格的に夕焼けが始まった美しい空の下で、途方にくれる俺だった。

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