第270話 振り下ろされる絶望

 雨音、怒号、戦闘音。それら戦場を覆い尽くす喧騒けんそうを弾き返し、あるいは切り裂く様に響き渡った声。


 馬車にはイオンザの王女殿下が乗っている。


 ほんの一瞬思考が止まった。そして気付くと俺は馬車に向かい走り出していた。


(王女殿下って………………ジェスタの姉だ!!)


 何故なぜここに? どうして北側から? ヤリスはどこだ? あの剣士達は……などと様々な事柄が頭の中を駆け巡る。路地から釣り出されたオークはまだ数体残っていたが、そんなものはすぐにどうでも良くなった。俺の目の届く所で、俺の手の届く所で、ジェスタの家族に何かあったら……


(冗談じゃない!!)


 とにかく馬車を守らなければ。俺は腰の短剣、魔喰まくいを抜いた。が、抜いてどうする? 今の俺に何が出来る? 相変わらず雨は降っている、雷撃は駄目だ。馬車の周りは混戦状態、魔法の効果範囲をせばめなければ。


操死術そうしじゅつは……)


 やらない方が良い……のだろう。あのミュラーとか言う将軍に強く釘を刺された。ジェスタの為にもと言われてしまっては使えない。


(全く……何が迅雷だ……)


 恥ずかしいとか言いながらも、あだ名が広まって何か勘違いしてはいなかったか? 一撃の威力なら他の誰にも劣らないと、間抜けにも自惚うぬぼれてはいなかったか?


 所詮しょせん今のお前などその程度のものだ。


 そんな強烈なダメ出しを食らっている気分だ。結局大した事など出来やしない。南門の時と同じ様に牽制けんせいに徹して仕留めてもらうのを待つしかないのだ。が、南門と比べこの戦場には味方が少ない。取りえず牽制けんせいさえしておけば誰かが気付いてくれる、という訳にはいかなそうだ。手が足りない。人手も、打てる手も。


 そうだ、だから俺は魔喰まくいを抜いたのだ。誰かが仕留めるのを待つんじゃない。


(自分で……る!!)


 馬車までは一直線。踏み込むのと同時に掛けた隠術いんじゅつはグン、と身体を前方へと押し出す。馬車を引く二頭の馬が激しい戦闘音におびえて右に左に身体を動かしているその少し前、背を向けるオークのすぐ脇に足を止める。


(ここ……だぁ!!)


 そして脇腹辺りに思い切り魔喰いをじ込んだ。ズズッ……と剣身けんしんを通し伝わってくるのは肉を裂く感触。剣は鍔元つばもと一杯まで深く突き刺さった。しかしオークは倒れるでもなく、グゥゥとうなりながらゆっくりと身をよじり、じろりと俺を見た。


(こいつ……!? 何で動いて……あぁ、そうか……)


 そうだ、短剣だからだ。この太い胴を貫くには剣身けんしんが短いのだ。ならばと俺は素早く剣を引き抜く。そしてぱっくりと裂けたその傷口に素早く左手を当てた。


 だったら直接叩き込むまでだ。


 溢れる様に流れ出るオークの血がねっとりとまとわり付き左手を真っ赤に染める。しかし次の瞬間には、その不快な血はブシュッと嫌な音を鳴らして飛沫しぶきを上げながら周囲に飛び散った。


 傷口からオークの腹の中に魔弾を放ってやったのだ。


 瞬間ビクンとその巨体を揺らすと、オークは崩れる様に前のめりに倒れ込んだ。如何いか頑強がんきょうな身体であろうとも、内部をき回されて平気でいられる訳はない。


(次は……!)


 俺はすぐさま次のオークに向かい隠術いんじゅつで跳んだ。



 ▽▽▽



(今のは……?)


 西大通りをデバンノ宮殿方面へ駆け上がる一団。王都の中心部を目指す西部外縁がいえん警備隊と、彼らに守られながら移動する避難者達だ。彼らと合流し共に宮殿を目指していたヤリスは、雨音と喧騒けんそうに紛れる様に聞こえてきた声に気付く。そして立ち止まると雑音の中に耳を澄ました。


「どうした、ヤリス殿」


 かたわらを走っていたデンバは急に足を止めたヤリスに気付き、自身も立ち止まると振り返りながら聞いた。しかしヤリスは何の反応もせず、ただじっとその場に立っている。その間にも外縁がいえん警備隊と避難者達はどんどん先へ進んでいる。


「ヤリス殿?」


 心配するデンバの声などまるで届いていないかの様に、ヤリスはどこか一点を見つめて立ち尽くす。集中し、ついさっきかすかに聞こえたあの声を探しているのだ。しかし声はもう聞こえない。あるいは勘違いだったのか? いや、あの御方の声を聞き違えるなど……


「済まない、デンバ殿。行こう」


 一抹いちまつの不安を感じながらも、ヤリスはようやく顔を上げ前を向いた。今は避難者達を宮殿へ送り届けるのが先決だ。


 そうして再び走り出したヤリスとデンバは、大通りの最後のカーブを曲がると息を呑んだ。宮殿へと続く真っ直ぐな通りは激しい戦場と化していた。通りの至る所で暴れる赤黒い巨体と、果敢かかんにもその巨体に挑む者達。先行していた外縁警備隊もすでに参戦している様だ。地面にはオークも人も、隔てなく倒れている。「むぅ……」とデンバは思わずうなった。そんな中、取り分けヤリスの驚きは大きかった。


(どうしてここに……!?)


 不安は的中した。かなり遠目ではあるがヤリスの目にははっきりと映った。剣を振るう同僚達と仕えているあるじの姿、そして彼らの後方で守られている一台の馬車が。


(やはりさっき聞こえたのはグレバン様の……)


 聞き違いでも勘違いでもなかった。そしてあるじがあれだけの大声を上げたのには理由がある。この状況を打破せよと、そういう事だ。ヤリスはシュッと剣を抜く。


 どこから街に入ったのか……あの御方はご無事なのか……


 いくつかの疑問がよぎるが、ヤリスはすぐにそれらを頭の隅に追いやった。ともあれ、まずすべきは皆に合流しオークを始末する事だ。


「デンバ殿! 馬車だ! 絶対に討たれてはならない御方が乗っている!!」


 そう叫ぶやヤリスは混戦の戦場へと走り出す。まるで事情を知らないデンバだったが、ただ一言「承知……」と答えてヤリスのあとを追う。



 ▽▽▽



「はぁ、はぁ、はぁ……」


 腕が重い。こんなにも剣を重く感じるのかと驚く程に。足も重い。一歩踏み出すのがこの上なく億劫おっくうだ。ふらふらとしながら肩で息をするドーギンはひどく疲弊していた。だが動かねばならない。休んでなどいられない。


「ぬぅぅぅ!!」


 唸る様な掛け声と共にドーギンは思い切り剣を突き出した。ブスリと剣はオークの腹に深く突き刺さる。そして仰向けに倒れたオークから剣を引き抜こうとするが、雨と血でつかが滑ってしまい上手く引き抜けない。


「…………っがぁぁぁ!」


 ググッと力を込め剣を握ると、ドーギンは雄叫びと共に剣を引き抜いた。しかし勢い余ってよたよたとたたら・・・を踏んでしまう。踏ん張りが効かなかった。


(クソ……)


 ドーギンはカチンと切っ先を地面へ打つと、柄頭つかがしらに両手を置き剣にもたれる様にして何度も激しく息をする。


 馬車の周りを縦横に駆けながら、ドーギンはひたすらオークを斬っていた。仮にも軍人。荒事あらごとには強い方だと自負していた。しかし所属する第三大隊はあくまで衛兵隊だ。治安維持の為の訓練こそ日々こなしてはいるが、それが戦闘訓練となると話は別。勿論毎日剣は振っている。しかし他の大隊と比べると質、量共にどうしても劣ってしまうのは否めない。

 加えてドーギンが思う以上に戦場は強いプレッシャーに満ちていた。何となく空気が薄く感じる様な、肌がヒリヒリする様な。そんな状況に身をさらせば普段より早く疲労したとて不思議ではない。早い話が経験不足だ。


「グゥゥ……」


 低い唸り声。すぐ横にオークが迫っていた。どうやら息を整える間も与えてはもらえないらしい。


「ハッ…………クソッタレめ…………」


 ぼそりと呟くとドーギンはなかば覚悟を決めた。すぐに動かねば。攻撃を、或いは防御を。だが力が入らない。肺は焼ける様に熱く、息は乱れに乱れ、手足はしびれている。動けない。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 激しく肩で息をしながら、ドーギンはゆっくりと剣を持ち上げその切っ先をオークへ向けた。ぶるぶると震える切っ先を見てドーギンは自虐的に笑う。ろくに剣は振るえない。それでも構えたのは剣士としての意地だった。しかしどういう事か、オークは急にガクンと地面に両膝を付きその場に崩れ落ちた。


「おぅ、ドーギンか」


 オークの背後には見慣れた顔が立っていた。


「外縁の……ようやく……」


 そう呟くとドーギンは構えていた剣をだらりと下ろし、再びカチンと切っ先を地面へ突き立てた。一気に力が抜けた。安堵したのだ。西部外縁警備隊が到着した。


「ハッ、へろへろだなお前。まずは二十、追っ付け後続も来るぞ」


 そう話しながら男はドーギンの脇を抱える。


「隅で休んでろ。回復したら戻れ」




 ▽▽▽



(ほぅ……動けるじゃないか)


 馬車左側面付近。ダイナストンの心配は杞憂きゆうだった。ズマーは実に的確に動きながらオークと戦っている。当てにするななどと言っていたが、これだけ出来れば上等だ。


「王国流に……軽エーベングが混ざっている。ズマー殿は東部出身か?」


 オークを仕留めてスッと後方へ退いたズマーに近寄ると、ダイナストンは興味深そうにズマーに尋ねた。ズマーの振るう剣は一見すると無駄な動きを嫌うイオンザ王国流に見える。しかしその中にイオンザ東部で誕生した軽エーベング流の立ち回りが垣間見えた。軽装での戦闘に特化した柔らかな動きが特徴の流派だ。

 少し見ただけで見事自身のルーツを言い当てたダイナストン。さすがは武に明るい南部貴族かと、ズマーは感心した。


「どちらも正式な訓練を受けた訳ではありません。付け焼き刃がどこまで通用するか……」


 と、そこまで話すとズマーはふぅとため息をく。視線の先、北側に向かう通りの奥に数体のうごめく姿が目に入ったのだ。「あぁ……またか」とダイナストンもため息混じりに言う。彼にもオークの姿が確認出来た。


「大通りに近付く前に始末しましょうか?」


 問い掛けるズマーにダイナストンは首を横に振る。


「あまり馬車から離れる訳にはいかない。通りの出口で迎え討つ」



 ▽▽▽



「こっちは引き受けた! 君は左を!」


 そう言うや否や男は強く息を吐きながら大きく前へと踏み込む。と同時にオークの左肘をピンポイントに狙う突きを放った。そしてそのまま今度は左膝を斬り付ける。身を屈める様に体勢を崩したオーク。男の剣はその顎下あごしたを貫いた。


(お見事……)


 横目で男の立ち回りを見ながら、俺は目の前に迫るオークの顔に魔弾を放つ。そしてすぐさま隠術で間合いを詰めその腹に魔喰いを突き刺した。すかさず剣を引き抜くと、ぶっと血が吹き出る傷口から魔弾を捩じ込んだ。


 馬車先頭付近。俺はテムと呼ばれている剣士と共闘していた。荒々しくも正確な剣さばきを見せるその剣士は、ロナには及ばない迄も実力者であると認識させるには充分な腕前を持っていた。また、彼が率いる部下達も皆優秀な剣士の様で、先程南門前に展開していたダグベ正規兵よりも腕が立つという印象だ。

 だがそんな彼らをしてもこの状況に対応するのが精一杯の様子。オークの出現が途切れないのだ。職人街方面はある程度衛兵達の抑えが効いている。問題は反対の北側だ。そちら側の通りからじわじわと少数のオークが湧いて出て来る。ゆえに中々囲いを崩せず馬車を動かせない。


「テムさん、馬車を放棄した方が良いんじゃないか?」


 俺がそう問い掛けるとテムは少し間を置き「……そうだな」と答えた。


「確かに……このままではらちが明かん。ここから宮殿はすぐだったな、殿下には申し訳ないが徒歩で…………危ない!!」


 突然テムが叫んだ。何だ……と思った直後、ガチン!! と全身を強烈な衝撃が襲った。


(何だ……何が…………攻撃された……!?)


 分からない。分かっているのは身体に何かがぶつかって来た事と、その衝撃で激しく地面を転がっているという事だけ。視界は回り、上も下も分からない。


「おい君!! 大丈……夫か! おい……! 魔…………導師……殿……」


 ぼやけた意識の中で、叫んでいるテムの声が段々と遠くなる。



 ▽▽▽



「ぐっ……!!」


 思わず声が漏れた。ボキッ、メキメキと身体の中から音が響く。そのまま吹き飛ばされて地面に叩き付けられた。


(あ……あぅ……)


 痛みはない。意識はおぼろげ。しかし不覚を取ったという事は理解していた。馬車後方で戦っていたグレバン。雨で足が滑り、下に気を取られた隙にオークの振るう巨大な剣の餌食となった。敵の剣の刃が潰れていたらしく身体を真っ二つにされる事はなかったが、しかし充分致命傷と呼べる程のダメージを負った。左腕、そして肋骨。どうやら複数の骨が折れた。内蔵はどうか。恐らくやられている。


 ここまでか。


 グレバンはそう思った。痛みを感じないというのはまずい兆候ちょうこうだ。死の直前、人は痛みから開放されると聞いた事があった。まさに今がそうではないか。あれ程の攻撃を食らいながら、痛くないというのはそういう事ではないか。


(そうか……ここまでか……)


 惜しむらくは掲げるはずだった王冠が輝きを放つさまをこの目で見られない事。びるべきは王家の姫君を王冠のもとまでお連れ出来ない事。


 無念の一言である。だが、致し方ない。もう……意識が……



「グレバン様ぁぁぁぁ!!」



 途切れ掛かった意識が再びスッと繋がった。聞き覚えのある声。良く知っている部下の声。


「グレバン様!! お気を確かに!! グレバン様ぁ!!」


 かすれた視界の中、しかしはっきりとその顔が見えた。


「ヤリ……ス…………オーク……を……」


「はっ! すでに仕留めました! すぐに治療致します故ご安心を!」


「待……て…………私より……馬車……あの御方……」


「しかし! グレバン様……!!」


 ヤリスは馬車を見て、そしてグレバンを見る。早く治療しなければ主が死ぬ。だが主の話す通り最優先にすべきはあの御方の安全。しかし……

 どちらを取るべきか判断がつかない。ヤリスは狼狽ろうばいした。するとそんなヤリスに声を掛ける者がいた。


「ヤリス殿、俺がよう」


 デンバはそう言うとグレバンの側にしゃがみ込み、すぐさま治癒魔法を施す。


「デンバ殿…………お任せします!」


 ヤリスはデンバの肩を掴むとグッと力を込める。そしてうわ言の様に「馬車を」と繰り返すグレバンの顔を覗き込んだ。


「グレバン様! デンバ殿は私より遥かに優秀な治癒師です! ご安心下さい!」


 そして再びデンバに視線を戻すヤリス。「頼みます……!」と告げると馬車を守るべく走り出した。



 ▽▽▽



(あれは……ヤリス殿か……)


 馬車後方付近。遠目からでもその凄まじい剣技は目を引いた。


(さすが……)


 外縁部隊が到着しヤリスも参戦した。これで状況は好転すると、ドーギンはほくそ笑んだ。

 地面に座り足を前に投げ出し、大通り沿いの建物の壁にもたれながら、ドーギンはひたすら己の回復を待っていた。呼吸は落ち着いてきた。手足のしびれも取れたが、まだ上手く力が入らない。


(もう少しだ……もう少し…………ん……?)


 馬車右側面。ふっと味方の守備が左右に緩み、そこにぽっかりとスペースが生まれたのが見えた。


(おい、何やってる……早く誰か……)


 と、そのスペースへするりと入り込むオークの姿。


(おい待て……何やって……)


 オークは馬車の側まで近付くとおもむろに肩に担いだ大鎚ハンマーを構える。


(ちょっと待て! 何で誰も……!)


 周囲では相変わらず激しい戦闘が繰り広げられており、皆自分の目の前にいるオークに対応するので手一杯の様子だ。


(まずい…………まずい! まずいぞ!!)


 ドーギンは慌てて立ち上がろうとする。が、やはりまだ回復しきっていない。ガクンと力が抜けその場に片膝を付いた。その間にも、オークは構えた大鎚ハンマーをゆっくりと振り上げている。


「待て……待て止めろ!! 止めろぉぉぉぉぉ!!」


 四つん這いになりながら、ドーギンは叫んだ。



 ▽▽▽



(情けない)


 は?


(この程度で情けない)


 うるさいな……お前には関係ない。


(ある)


 何だよ……


(貴様はジョーカー最強を自負する俺を地にじ伏せた。そのていたらくなさまは俺の名を軽くすると言っている)


 知るか!!


「……導師……殿……!」


(ふん、さっさと起きろ。全てを失うぞ)


「魔……導師……殿……おい……!」


(俺ならばもっと上手くやっているがな)




「お前には関係ない! アイロ…………ウ……?」




 思わず怒鳴った。しかし目の前にいたのはアイロウではなく安堵した様子のテムだった。


「良かった! 魔導師殿、無事か!」


「テムさん……俺……ひょっとして今、意識が……」


「ああ、一瞬な。だが目を覚まして良かった。早々にベリックオが離脱しどうなるかと思ったが、君が来てくれたお陰で何とか均衡きんこうを保っていられる。君まで離脱となってはさすがにキツい」


 そう笑いながらテムは俺の腕をポンポンと叩く。どうやら少しの間気を失っていた様だ。目の前がチカチカしている。


「何が……」


 一体何が起きたのか。ゆっくりと上体を起こす俺に「ああ、コイツだ。運が悪かったな」とテムはすぐ横を指差した。


「…………衛兵?」


 そこに横たわっていたのは衛兵だった。すでに……死んでいる様だ。


「オークに吹き飛ばされたんだろう。コイツが飛んで来て君に当たった。まぁこの混戦だ、こんな事もある」


 そう話しながらテムは立ち上がると俺に手を差し伸べた。俺はテムの手を掴む。まだ少しくらくらするが、どうにか大丈夫そう……




「待て止めろ!! 止めろぉぉぉぉぉ!!」




 突如響き渡る大きな声。俺とテムは咄嗟とっさに辺りを見回した。それはまるで魂から絞り出されたかの様な、肌をひりつかせる悲痛な声だった。ゆえに最悪の事態というものを容易に連想させる。この状況下でそこまで強く止めて欲しいと思う事など一つしかない。俺とテムの視線は自然と馬車へ向かった。


「まずい!!」


 テムは怒鳴る様に声を上げると馬車へ向かって走り出す。俺やテムと同じく、あの声で馬車の危機を察知した者は他にもいるだろう。だが遅い。もう到底間に合わない。オークは振り上げた大鎚を今まさに振り下ろそうとしている。


 間に合う訳がない。魔法以外では。


 オークが見える。顔、上半身。振り上げた大鎚とそれを支える太い腕。見えるという事は射線しゃせんは空いているという事。大鎚が振り下ろされるその前に攻撃を当てられる。俺の魔法ならば、俺ならば間に合う。

 と、実際にそこまで細かく考えた訳ではない。状況を見て瞬時に全てを理解、判断出来た。気付くと俺は魔弾を放っていた。そして放ったその魔弾に困惑こんわくした。


 音がしない。


 本来シュゥゥ、と風を切る様な音を鳴らして飛んでゆくはずの魔弾。だがそれは全くの無音で飛んでゆく。この魔弾には覚えがある。ついさっき夢に出て来たアイロウと最初に戦った、あの時だ。

 ベーゼント共和国、バルファの郊外。アイロウに左腕を斬り落とされた直後にも、俺はこの魔弾を放っていた。魔力の取り出し、圧縮、射出しゃしゅつまでのプロセスを一切の無駄なく行えた末に生まれる理想的な魔弾。まるで止まった時の中をその魔弾だけが高速で飛んでいるかの様な、そんな不思議な錯覚を覚えた。そして理想的な魔弾はその効果も絶大だった。



 パン!!



 オークの右肩辺りに着弾した魔弾は驚く程の大きな音を鳴らし、と同時にその部位を分厚い装備ごと爆散させた。宙を舞う右腕、ドスンと地面に落ちる大鎚。えぐれた様に右胸辺りまでを大きく欠損したオークは仰向けに倒れた。


「…………」


 そのあまりの威力に我が事ながら俺は言葉を失った。到底貫く事など出来ないと思っていたあの分厚い装備をいとも容易たやすく撃ち抜いた。あれは、あの魔弾は一体何なのか。


「君か!! 魔導師殿!!」


 テムのその大きな声で俺は我に返る。そうか、そうだ。防げたんだと。


「良くやった! 良く守ってくれた!!」


 興奮気味のテムは俺の側まで駆け寄るとバシバシと俺の肩を叩いた。その喜び様から察するに、きっとテムは最悪を覚悟したのだろう。いや、テムだけではない。歓喜と安堵の声はそこら中から聞こえて来た。あのオークに全てを叩き潰されると、皆そう思ったのだ。いまだ戦闘中とは言え、この時ばかりはまるで全てが無事終わったかの様な明るい雰囲気に包まれた。故に気付けなかったのだ。




「セムリナ様ぁぁぁぁ!!」




 響き渡る声。瞬間、場に緊張が走る。が、全てが遅かった。絶望の鉄槌てっついはもう一振りあった。


 バキバキバキッ……!!


 馬車左側面。赤黒い巨体がいた。そして激しい音と共に、馬車は巨大な剣に叩き割られた。

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