第163話 リディアーナ

「グゴウゥゥ!」


 思わず反射的に身をすくめてしまう。そのくらい大きく恐ろしく、そして不快な叫び声。まるで赤の油絵具が入った壺にでもずっぽりとその手を突っ込んだかの様に、べったりとのっぺりと赤く染まった両手の黒い爪。ねっとりとしたたり落ちるそれは、当然絵具などではなく血である。長く硬く鋭く、いびつ禍々まがまがしく伸びているその爪は、小さな人間の身体などその装備ごと紙でも引き裂くかのごと容易たやく真っ二つにしてしまう。人の三倍はあろうかという巨体。威圧的な真っ黒な身体はゴツゴツとした岩の様な筋肉の鎧に覆われ、分厚い鉄板を張り付けた様に硬い皮膚は、人が振るう軟弱な武器など事も無げに弾き返す。しかしそれでいて動きは俊敏で、その巨体からは予測も出来ない速さで攻撃を繰り出す。ごわごわとした長い髪を振り乱し、瞳もない真っ赤な目をこれでもかと見開き、石柱の様に太い脚を大きく開き、り天をあおぎながら、まるでビリビリと地面が震える様な重い重い雄叫びを上げる。




「ゴガアァァァァァ!!」




 戦場左翼を支配しているのはたった六体の。だが強い。およそ人などという貧弱で矮小わいしょうな存在が、その前に立つという事自体おこがましい話なのではないかと、そんな有無を言わさぬ卑屈な絶望感に襲われるくらい、リザーブル兵達はこれらの怪物退治に苦戦……いや、苦戦どころか一方的に蹂躙じゅうりんされていた。その凶悪なを呼び出したのは自称天才召魔師しょうまし。四番隊マスター、カディール・シンラットだ。


(ふむ。つまらんな)


 彼は後方で腕組みをしながら、暴れ回る魔を退屈そうに眺めている。真っ黒な怪物達は両腕をぶんぶんと振り回し、その頑強がんきょうな爪でズパァズパァとリザーブル兵達の身体を次々と切り裂く。この怪物達にしてみれば彼らは精々せいぜい泥人形程度の存在で、リザーブル軍自慢の白鉄はくてつの装備など何の意味も持ちはしない。大きく、硬く、速く、強い。実に良い魔だ。


 が、これは少々出来が良すぎる。


 優秀な魔を呼び出す。本来召魔師しょうましとしては喜ばしい事だ。そしてそれを当たり前の様に行うカディール。天才であると、彼は自身の事をそうひょうする。それはきっと他者から見ても、何の違和感も感じない評価なのだろう。


 彼は自他共に認める優秀な召魔師だ。


 しかし今回ばかりはカディールは少し後悔していた。呼び出した魔の能力が思いのほか高く、その仕事の大半をこの真っ黒な怪物達がこなしてしまうが為に、あまりにもやる事がないのだ。いや、これは魔の出来が良いというだけで収まる話ではない。リザーブル軍の出来が悪すぎるのだ。


 恐らくだが、リザーブルには召魔師がいないのだろう。いや、リザーブルどころかこの周辺の国の王宮や軍部に、召魔師がいるなどという話は聞いた事がない。それもそうだ、召魔師が主に活動しているのはここより遥か南。内海を渡り密林と砂漠を越えたその先の地域。多くの召魔師の出身地である召魔の里周辺の地域なのだ。こんな北までやって来る召魔師などそもそもほとんどいない。召魔師がいないのだ、魔を目にする機会もないだろうし、戦う事だってないだろう。彼らリザーブル兵は魔に対する理解度が低い。いや、はっきりと言い切っても良いだろう。魔に対する理解度が皆無なのだ。その証拠にリザーブル軍の魔導兵達は、相変わらず後方に下がったまま剣士達へのサポートに徹している。


(ふむ、物を知らぬというのは厄介な事だ)


 カディールがそう思ったのも無理はない。魔は魔法に弱いという常識を彼らリザーブル兵達は知らないのだ。本来魔を相手にする場合は、魔導師が前面に立ち魔法による波状攻撃なりを行い、剣士は魔導師達の護衛役として立ち回るのが基本。魔の周りを剣士達が取り囲んでいる内は焦るような事は何もない。ゆえにやる事がない。このままこの状況が変わらない様であれば、放っておいても勝手に優秀な魔が敵をほふってくれるだろう。

 しかし、やらなければいけない事が全くないのかと言えば、決してそういう訳ではない。大きな被害を受けている魔がいないか随時確認は必要だ。強力な魔法を放つ魔導兵がいるのなら、当然早めに排除した方が良い。更には時折魔を無視してこちらに向かってくるリザーブル兵もいる。その場合は得意の爆裂の魔法で吹き飛ばしてやるのだ。


 全くやる事がない訳ではない。が、物足りないのも間違いない。


 心地好ここちよい風に吹かれながら、カディールはぼんやりと前をみる。怒鳴り声に叫び声、飛び散る血と切り落とされる腕や首。いとも簡単に命が消える阿鼻叫喚あびきょうかんの戦場。しかしカディールの周りだけはどこかゆったりと時間が流れている様な、まるで平和な別世界にいる様な空気に包まれている。ちらりと右翼側を見ると、ゆるりと上空を漂い、そののち地面へ急降下する巨大な炎の怪物の姿があった。


(ほう、面白い事をやっているではないか)


 カディールはニヤリと笑う。そして再び視線を前方へ戻す。が、彼の意識は今度は過去へと飛んだ。バウカー兄弟に裏切られ、急襲された始まりの家から脱出する際の戦い。あの撤退戦を思い出していた。


(比べた所でどうだという話だが……)


 そう、比べた所でせん無き事なのだ。だがカディールは比べずにはいられなかった。始まりの家でのあの戦いは血湧き肉踊る実に充実した戦いで、この上なく楽しい時間を堪能出来たのだ。敵はジョーカーの団員、そこらの軍の兵卒などより余程強い。更には魔への対処法も熟知しているとあれば、当然楽な戦いになろうはずがない。しかしだからこそ、カディールはあの戦いが楽しくてたまらなかったのだ。それに比べこの戦場のなんとつまらない事か。単調で何の工夫もない敵の攻撃を、ただただ作業的に受けてはかわす。


(単に数が多いだけではな……これでは命を無駄に捨てるのと変わらない)


 呆れに憐れみ。再びぼんやりとするカディール。訳も分からず西から呼び出されアルマドへ着いてみれば、リザーブルの大軍を少数で迎え撃つという無茶苦茶な作戦に従事じゅうじせよとの指示。無茶苦茶だ、間違いなく無茶苦茶だ。だがカディールは内心密かに心踊っていた。またあの時の様な、始まりの家で繰り広げられたたぎる・・・様な戦いが出来る、そう期待していた。究極の多対一。混迷極まるはずだった。楽しめるはずだった。それがどうだ、蓋を開けてみればこの退屈過ぎる凡戦ぼんせん


 と、中央を抜け駆けて行く騎馬の一団が視界の端に入った。彼らは吸い込まれる様に狩猟蜘蛛の罠が待ち構える戦場後方へと走り行く。この素晴らしき凡戦ぼんせんを、更に完璧な凡戦たらしめるであろう彼ら騎馬の一団を、ため息混じりに冷めた目で眺めるカディール。


(ふむ……全くもってつまらんいくさだ)


 彼はこの戦への興味を完全に失っていた。



 ◇◇◇



「ダメだぁ! 退けぇ! 退けぇぇぇ!!」


(ん? 終わったか……)


 突如響き渡る撤退の指示に、フッとカディールは我に返った。一方的に虐殺されるだけの地獄の時間に見切りを付け、とうとうリザーブル兵達は撤退を始めたのだ。右翼の様子はどうか? カディールは右を見る。


(何だあれは……)


 右翼はこちらより少しばかり早く敵の撤退が始まっていた様で、すでに敵軍の姿はまばらになっていた。しかしそんな中、百名程のリザーブル兵が前を向いたままじっと立ち尽くしている。カディールは不思議に思った。あの敵兵は一体何なのか。逃げるでもなくただその場に留まっている。と、そのリザーブル兵達は急にバタバタと地面へ倒れ出した。そして残ったのは右翼を担当していた若い魔導師の姿。


(あれは……もしや……!)


 何かに感付いたカディール。先程までのつまらなそうな表情は消えた。「消えろ」と呟くと大暴れしていた六体の魔はすぅぅ……と消えて行く。そして気付けば嬉々ききとして右翼へ向かい走り出していた。



 ◇◇◇



 先程までのゴチャゴチャとした戦場の様子が、まるで嘘の様にスッキリと視界が開けた。右翼のリザーブル兵達が退却したのだ。わらわらとうごめきながら死の順番待ちをしていた彼らは、突如起き上がり自分達を襲い始めた死んだはずの仲間達に恐怖した。と同時に、自分達が一命をして挑んでいたその行為が、その戦いが、ようやく無駄で愚かな事だったと気付いたのだ。彼らが退いた後、そこには地面に転がる無数の死体と、操死術そうしじゅつで操っていた百体程の命なき兵達が立ち尽くすのみだった。


(もう良いかな?)


 俺は操死術そうしじゅつで繋げていた命なき兵達との魔力の回線を切る。すると魔力の供給を断たれた命なき兵達は、途端にバタバタとその場に崩れ落ちた。まるで吊るされていた糸をプツンと切られたかの様だ。



 ボン!! ボンボンボンボン!!



 と、後方からいくつもの鈍い爆発音が響いてきた。中央を抜いて行った騎馬隊がライエの罠にまった音だろう。軽く後ろを振り向いて見ると案の定、何本もの火柱が立ち昇っているのが見えた。前線部隊の撤退、そして罠にまった騎馬隊。さすがにこのままいくさを続けるのは無理がある、一先ひとまずはこれで終了だろう。完全な退却はしないまでも、一度退いて部隊編成をし直し、態勢を整えるくらいの判断はあってしかるべきだ。


「コウ!」


 突然呼ばれた。見るとカディールがこちらに向かい駆けてくる。どうやら左翼も終わった様だ。俺の側まで来たカディールは軽く息を切らしながら、しかし息を整える間も惜しいといった感じで俺の両肩をガッと掴むと、まくし立てる様に話し出した。


「コウ! 貴様、あれは、あれはあれだろ!? さっきの、敵がバタバタ、バタバタ倒れ出したのは、あれだ、操死術だな!?」


 結構な勢いで急に何を言われるかと思えば……俺は若干戸惑いながら「ああ、そうだけど……」と答える。するとカディールは実に嬉しそうに「そうか……やはりそうか!」と声を上げた。


「そうだ、必要だ。必要な事だ。この下らぬ凡戦をのあるものにするには、こういった工夫は必要だ。貴様もそう考えたのであろう?」


「へ……?」


 何言ってんの、この人?


「私はついさっきまで辟易へきえきとしていたのだ、このどうしようもなくつまらぬ戦にな。あれだけの兵をゆうしながら、何故なぜ連中はあんなにも脆弱ぜいじゃくなのか、何故なぜ何も考えぬのか。数の暴力とは言うが、あんな連中いくら揃えた所で我らを脅かす程の存在にはなり得ない。と、そう気付いてな。しかし貴様は見せてくれた、気付かせてくれた。状況に甘えるだけでは何も起こらない。自らの意思で変える必要があるのだと!」


 目をつむりながら身振り手振りで熱く語るカディール。本当に何言ってんだ?


「しかし、さすがはドクトル・レイシィの弟子といった所か。良い具合にゆがんでいるではないか」


「へ? ゆがん……で……って……」


めているのだ、それでこそ魔導師だと。どんなに人道にもとる・・・魔法であったとしても、覚えてしまったからには使いたくなる、試したくなる。だったら使えば良い、試せば良い! お行儀の良い魔導師になど何の魅力も感じない! 人の目など気にする必要がどこにある! 貴様は体現たいげんしたのだ、魔導師とはかくあるべきだ、とな!」


「あの……かくある……ってのは……?」




「倫理などクソ食らえだという事だ……!!」




 狂喜の笑みとはこういう表情を言うのだろう。カディールは不気味に笑いながら吠えた。そしておもむろに両手を前に突き出す。


「貴様は見せた、魔導師としての覚悟を。だったら私も見せねばならん、召魔師としての覚悟をな!」


 そう話すカディールの両手から、白い粉の様な煙の様な、もやもやしたものがじんわりと前方に広がった。やがてその白いもやもやした何かは、徐々に人のシルエットを作り出す。シュゥゥゥ、と集まり密集して行く白いもや。程なくしてそれは完全に実体化される。魔だ。そう思った。


 しかしカディールが呼び出したそれは、俺が見知っている魔とはあまりにかけ離れていた。陽の光を浴びキラキラと輝く長い髪は、極限まで色を抜いたような金髪、いや、もはや銀髪の様な薄い色。優雅で可憐な真っ白いドレスは風にふわりと揺れ、透き通る様な真っ白い肌が目を引いた。何よりそれは、先程まで左翼で暴れていた様な真っ黒ないかつい怪物ではなく、息を飲むほど美しい女の姿をしていたのだ。これはまるで、人間だ。

 しかしこの美しいそれが人間ではない事は明白だった。なぜならあまりに白すぎるのだ。色白の美人、とそれだけで片付けてしまうには言葉が足りなすぎる。


 異常な程白い。不自然な程白い。病的に白い。


 しかしそんな事は些細ささいな事だと、錯覚を起こしてしまいそうな程美しいのだ。突然現れた人ではない美しい何か。彼女は緩やかな笑みを浮かべている。途端に俺は彼女に目を奪われた。美しいからではない、恐ろしいからだ。彼女は美しく恐ろしいのだ。

 彼女を見た瞬間、背筋が凍り付いた。美しくも恐ろしいそれは、およそ人のものとは思えない様な異様な空気をかもし出している。重く、冷たく、不快な空気。これは見てはいけないものだ、触れてはいけないものだ、関わってはいけないものだと、直感的にそう思った。しかし何故かは分からないが、それでも視線を外せない。まるで何かの呪いにでも掛かってしまったかの様だ。不吉、不浄、厄災。そんなむべき言葉を形にしたら、きっとこんな存在が生まれるのではないかと思うくらい、尋常じゃない嫌悪感に襲われた。しかしカディールはそんな彼女に優しく語り掛ける。


「久し振りだ、リディアーナ。今日はいつにも増し美しい……」

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