第163話 リディアーナ
「グゴウゥゥ!」
思わず反射的に身をすくめてしまう。そのくらい大きく恐ろしく、そして不快な叫び声。まるで赤の油絵具が入った壺にでもずっぽりとその手を突っ込んだかの様に、べったりとのっぺりと赤く染まった両手の黒い爪。ねっとりと
「ゴガアァァァァァ!!」
戦場左翼を支配しているのはたった六体の
(ふむ。つまらんな)
彼は後方で腕組みをしながら、暴れ回る魔を退屈そうに眺めている。真っ黒な怪物達は両腕をぶんぶんと振り回し、その
が、これは少々出来が良すぎる。
優秀な魔を呼び出す。本来
彼は自他共に認める優秀な召魔師だ。
しかし今回ばかりはカディールは少し後悔していた。呼び出した魔の能力が思いの
恐らくだが、リザーブルには召魔師がいないのだろう。いや、リザーブルどころかこの周辺の国の王宮や軍部に、召魔師がいるなどという話は聞いた事がない。それもそうだ、召魔師が主に活動しているのはここより遥か南。内海を渡り密林と砂漠を越えたその先の地域。多くの召魔師の出身地である召魔の里周辺の地域なのだ。こんな北までやって来る召魔師などそもそもほとんどいない。召魔師がいないのだ、魔を目にする機会もないだろうし、戦う事だってないだろう。彼らリザーブル兵は魔に対する理解度が低い。いや、はっきりと言い切っても良いだろう。魔に対する理解度が皆無なのだ。その証拠にリザーブル軍の魔導兵達は、相変わらず後方に下がったまま剣士達へのサポートに徹している。
(ふむ、物を知らぬというのは厄介な事だ)
カディールがそう思ったのも無理はない。魔は魔法に弱いという常識を彼らリザーブル兵達は知らないのだ。本来魔を相手にする場合は、魔導師が前面に立ち魔法による波状攻撃なりを行い、剣士は魔導師達の護衛役として立ち回るのが基本。魔の周りを剣士達が取り囲んでいる内は焦るような事は何もない。
しかし、やらなければいけない事が全くないのかと言えば、決してそういう訳ではない。大きな被害を受けている魔がいないか随時確認は必要だ。強力な魔法を放つ魔導兵がいるのなら、当然早めに排除した方が良い。更には時折魔を無視してこちらに向かってくるリザーブル兵もいる。その場合は得意の爆裂の魔法で吹き飛ばしてやるのだ。
全くやる事がない訳ではない。が、物足りないのも間違いない。
(ほう、面白い事をやっているではないか)
カディールはニヤリと笑う。そして再び視線を前方へ戻す。が、彼の意識は今度は過去へと飛んだ。バウカー兄弟に裏切られ、急襲された始まりの家から脱出する際の戦い。あの撤退戦を思い出していた。
(比べた所でどうだという話だが……)
そう、比べた所で
(単に数が多いだけではな……これでは命を無駄に捨てるのと変わらない)
呆れに憐れみ。再びぼんやりとするカディール。訳も分からず西から呼び出されアルマドへ着いてみれば、リザーブルの大軍を少数で迎え撃つという無茶苦茶な作戦に
と、中央を抜け駆けて行く騎馬の一団が視界の端に入った。彼らは吸い込まれる様に狩猟蜘蛛の罠が待ち構える戦場後方へと走り行く。この素晴らしき
(ふむ……全くもってつまらん
彼はこの戦への興味を完全に失っていた。
◇◇◇
「ダメだぁ! 退けぇ! 退けぇぇぇ!!」
(ん? 終わったか……)
突如響き渡る撤退の指示に、フッとカディールは我に返った。一方的に虐殺されるだけの地獄の時間に見切りを付け、とうとうリザーブル兵達は撤退を始めたのだ。右翼の様子はどうか? カディールは右を見る。
(何だあれは……)
右翼はこちらより少しばかり早く敵の撤退が始まっていた様で、すでに敵軍の姿はまばらになっていた。しかしそんな中、百名程のリザーブル兵が前を向いたままじっと立ち尽くしている。カディールは不思議に思った。あの敵兵は一体何なのか。逃げるでもなくただその場に留まっている。と、そのリザーブル兵達は急にバタバタと地面へ倒れ出した。そして残ったのは右翼を担当していた若い魔導師の姿。
(あれは……もしや……!)
何かに感付いたカディール。先程までのつまらなそうな表情は消えた。「消えろ」と呟くと大暴れしていた六体の魔はすぅぅ……と消えて行く。そして気付けば
◇◇◇
先程までのゴチャゴチャとした戦場の様子が、まるで嘘の様にスッキリと視界が開けた。右翼のリザーブル兵達が退却したのだ。わらわらと
(もう良いかな?)
俺は
ボン!! ボンボンボンボン!!
と、後方からいくつもの鈍い爆発音が響いてきた。中央を抜いて行った騎馬隊がライエの罠に
「コウ!」
突然呼ばれた。見るとカディールがこちらに向かい駆けてくる。どうやら左翼も終わった様だ。俺の側まで来たカディールは軽く息を切らしながら、しかし息を整える間も惜しいといった感じで俺の両肩をガッと掴むと、
「コウ! 貴様、あれは、あれはあれだろ!? さっきの、敵がバタバタ、バタバタ倒れ出したのは、あれだ、操死術だな!?」
結構な勢いで急に何を言われるかと思えば……俺は若干戸惑いながら「ああ、そうだけど……」と答える。するとカディールは実に嬉しそうに「そうか……やはりそうか!」と声を上げた。
「そうだ、必要だ。必要な事だ。この下らぬ凡戦を
「へ……?」
何言ってんの、この人?
「私はついさっきまで
目を
「しかし、さすがはドクトル・レイシィの弟子といった所か。良い具合に
「へ?
「
「あの……かくある……ってのは……?」
「倫理などクソ食らえだという事だ……!!」
狂喜の笑みとはこういう表情を言うのだろう。カディールは不気味に笑いながら吠えた。そしておもむろに両手を前に突き出す。
「貴様は見せた、魔導師としての覚悟を。だったら私も見せねばならん、召魔師としての覚悟をな!」
そう話すカディールの両手から、白い粉の様な煙の様な、もやもやしたものがじんわりと前方に広がった。やがてその白いもやもやした何かは、徐々に人のシルエットを作り出す。シュゥゥゥ、と集まり密集して行く白いもや。程なくしてそれは完全に実体化される。魔だ。そう思った。
しかしカディールが呼び出したそれは、俺が見知っている魔とはあまりにかけ離れていた。陽の光を浴びキラキラと輝く長い髪は、極限まで色を抜いたような金髪、いや、もはや銀髪の様な薄い色。優雅で可憐な真っ白いドレスは風にふわりと揺れ、透き通る様な真っ白い肌が目を引いた。何よりそれは、先程まで左翼で暴れていた様な真っ黒ないかつい怪物ではなく、息を飲むほど美しい女の姿をしていたのだ。これはまるで、人間だ。
しかしこの美しいそれが人間ではない事は明白だった。なぜならあまりに白すぎるのだ。色白の美人、とそれだけで片付けてしまうには言葉が足りなすぎる。
異常な程白い。不自然な程白い。病的に白い。
しかしそんな事は
彼女を見た瞬間、背筋が凍り付いた。美しくも恐ろしいそれは、
「久し振りだ、リディアーナ。今日はいつにも増し美しい……」
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