流浪の魔導師
麺見
プロローグ
第1話 恩人
「どこよ、ここ……?」
夜の森の中。
うっそうと木々が生い茂り、吹き抜ける風が枝葉をカサカサと鳴らす。その隙間から射し込む月明かりが、地面をぼんやりと照らしている。
そう、夜の森の中。
それ以外形容しようがない光景、その中を歩く。そして口からこぼれた当然の疑問が冒頭の言葉である。
◇◇◇
今日は特に忙しい。
遠慮なしに鳴り響く呼び出し音、次々と運び出される料理、空いたテーブルを片付け、レジを打ち、フォークは床に落ち、カップルはイチャつき、子供は泣き叫び……
普段はそうでもないが、週末の夜になると、この店は戦場へと姿を変える。
「コウくん、時間だよ、あがって!」
不意に店長に呼び止められた。もうそんな時間か。
「あ、はい。お疲れ様でした」
そう言って更衣室に入り、着替え始める。
俺は
なぜかって? なぜならすでに就職先が決まっているからである! まぁ、今バイトしているこのファミレスなんだけどね。たまに巡回に来る本部のお偉いさんが、俺の働きぶりを見てくれていたようで、
「
なんということでしょう! こんなチャンス逃す手はない。二つ返事で「よろしくお願いします!」
バイトから社員になる人が多い会社だと聞いてはいたが、まさか自分にお声がかかるとは。神様は見てくれているんだねぇ。絶対損はさせません! バリバリ働きますよ~。
ただ、周りの友人たちからは「裏切り者」だの、「調子乗んな」だの、無言で「チッ」と舌打ちされたり、合コンのお誘いも、最近ぱったりとなくなってしまった。
やれやれ、キミたち、大人げないぞ? 頑張ればキミたちも、きっと内定もらえるさ! だからもう少し、かまって欲しいな……お願いします。
着替えが終わり裏口へ向かう。一応、
「お疲れ様でした」
と声をかけるが、当然誰の耳にも届いていない。そりゃそうだよ、だって向こうは戦場だもの。みんな……ガンバ。あぁ、早番ってスバラシイ。
さて、家に帰ったら何をしようか、やりかけのゲームでも……と思いながら歩き出す。
十分ほど歩き住宅街に入る。この先を左に曲がればすぐ俺のアパートだ。とその時、
ガシャン!
何かがぶつかったような、潰れたような大きな音。
ガン!
ガチャ!
ガシャン!
と、さらに三回。
事故か? 野次馬根性が騒ぎ音のした方へ歩く。俺のアパートの反対側だ。すると少し先の反対車線で、車が四台
(なんでこんな所で? あ、動画撮っとこうかな……)
そう思いスマホを取り出すためバッグに手を……バッグ……
忘れてきた……更衣室のロッカーだ。
(なんだよ、もぉ~……)
バッグを取りに戻る為引き返そうとしたその時、前からものすごい形相でママチャリを漕ぐおじさんが走ってきた。すれ違い
「ヤバい、ヤバい……」
と、呟いているのが聞こえた。
(何なんだ?)
事故現場へ向かう。完全に興味の勝ちだ、バッグは後にしよう。歩き出すとすぐに
ガン!!
と、不意に今までで一番大きな音。その衝撃だろう、先頭の車がぐわん、と大きく揺れた。
「うわぁぁぁ!」
「キャャャー!」
そして事故車の周りにいた野次馬たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ回る。すると先頭の車の辺りに、ぼんやりとオレンジ色の光が浮かび上がった。その光はゆっくりと上下しながら、反対車線からこちら側に近付いて来る。やがて街灯の近くまで移動してきたその光は、ランタンのような灯りをともす道具のように見えた。
いや、まさにランタンだ。
ということは、何者かがそのランタンを持っているという事だ。すぐにその〈何者か〉の正体も判明する。ランタンの次に街灯に照らされたのは、
見上げるほど大きく、
赤黒い肌の、
醜悪な、
豚だった!
その大きな豚はなんと立って歩いているのだ。古い時代の、何と言うか……そう、鎧のような物を身に纏い、左手にランタンを、右手には大きな斧を持って。
「な……」
言葉を失う。
人間、想像を超える出来事に遭遇すると、思考も行動も停止してしまう。ママチャリのおじさんや野次馬たちは、この豚を見て慌てて逃げたのだ。
「グフゥゥゥ……」
今度は後ろから不気味な音が。
(あ……)
もはや声なんて出ない。この異形の存在を前にして、俺の頭は明らかな警告を発している。危険だ、早く逃げろ、と。しかし身体が動かない。いや、動けない。蛇に睨まれた蛙とはこういう事を言うのか。動いたら
すると後ろの豚はスッと、視線をはずした。まるでお前になど興味はない、と言わんばかりに。そして左手に持っているランタンを掲げる。次の瞬間、
グニャリ
と、視界が歪んだ。
◇◇◇
気付けば、俺は夜の森の中に立っていた。
バイト終わりに事故を見ようとして、大きな豚に遭遇し森の中にいる。まったく訳が分からない。周りを見渡してもあるのは木々、それだけ。
(なんだこれ? 夢? どこから?)
いや違う。この強烈な現実感、とても夢とは思えない。とにかくここから移動した方がいいのではないか? そう思った直後、
ガサガサッ
前方の
恐怖。
ついさっき体験した、猛烈な恐怖。
そう、あれはランタンだ。ランタンの灯りだ。
バキッ、バキバキッ
木々をなぎ倒しながら目の前に現れたのは、ランタンを持ったあの豚だった。
「ガグゥゥ」
うなり声を上げながら、豚は斧を振り上げようとしている。
(ヤバい……ヤバいヤバいヤバい……)
すぐに逃げなければ。しかし、足が……動かない。
少しずつ、少しずつ、じりじりと後ろに下がり、気付けば木を背にしてもたれ掛かっていた。豚は斧を振り上げ近付いてくる。
(あ……あぁ……)
ブウン!
と凄い勢いで豚は斧を斜めに振り下ろす。
ガッ! バキバキメキ……
「はっ、はっ、はっ………」
(生きてる……)
四、五十センチ程頭上、もたれていた木が斜めに切り倒されている。決して太い木ではない。が、どう考えても斧の一振りで切り倒せる程細くもない。こんなものが身体に当たったらどうなるか、容易に想像出来る。
しかしなぜ斧が当たらなかったのか? それは豚が斧を振り下ろす直前、足の力が抜けてストン、とその場に尻餅をついた。腰が抜けたのだ。そのお陰で本来俺の身体を切り裂くはずの斧は、この木を切り倒したのだ。
目の前を見ると斧を振り下ろした豚。ゆっくりと体勢を戻しながら、俺を見ている。恐らく目が合っている。恐らく、と言うのは、この豚には瞳が、いや、それどころか黒目がない。眼球全体が白く濁ったような色で、眼球の
(マズい……逃げないと……)
しかし、足に力が入らない。俺は這いつくばってその場から移動し、隣の木に掴まりながら何とか立ち上がる。と、すぐ斜め前にはもう一体の豚が、斧を頭上高く振り上げようとしている。俺の身体を真っ二つにする気なのだ。
「う、うぉぉぉ!」
声を振り絞り太ももをがんがん叩く。そしてすぐに左前方に向かって飛び込むようにジャンプする。
跳んでいる間、カスッ、と右の足先に何かが当たる感触。恐らく豚が振り下ろした斧が、足先をかすめたのだ。ギリギリだ。ほんの少し飛び込むのが遅かったら、俺の足は切り落とされていた。
俺はそのまま
「udp3#hs7f$w!」
人の声だ。しかし、何を言っているか分からない。聞いたことのない言葉が、後ろから聞こえてきた。
振り返ると、誰かが立っている。
ボルドーのマントのようなものを
(助けて……くれるのか?)
もつれそうな足を必死で動かし女の方へ走る。女の脇を通り過ぎようとした時、
ボンッ
と、鈍く重い音。
「ゴガァァァア!」
振り返ると、不快な叫び声を上げながら、豚は火だるまになり転げ回っている。
(何? 何だ?)
答えはすぐに分かった。
突き出した女の右手から何かが凄いスピードで飛び出した。速すぎて何かは分からないが、確かに何かが飛び出した。そしてもう一体の豚に命中するとボンッ、という音と共に物凄い勢いで炎が立ち上ぼり、豚は一瞬にして炎に包まれた。
「………………」
目の前で繰り広げられる想像を絶する光景。言葉が出ない。理解も出来ない。思考停止状態だ。
やがて二体の豚は動かなくなり、炎も小さくなってきた。
「gf0e$4q?」
「gf0e$4q!!」
女が何か話しかけてきた。その声で我に返り、女の方を見る。
身長は俺と同じくらい、細身でスラッとしている。東洋人と西洋人の中間のような、そう、ハーフのような顔立ちだ。年齢は……俺より年上か? 色白で、かなりの美人だ。
バクバクと速い鼓動、それでも段々と落ち着いてきた。同時に今の状況も少しだけ理解出来た。
彼女に助けられたのだ。
彼女がいなければどうなっていたか……いや、分かりきった事だ。間違いなく死んでいた。
「あ、あの、ありがとうございます! 本当に、あの……」
言葉が通じないであろうことなど忘れ彼女に礼を言う。しかし彼女は眉をひそめ、右手を前に出し〈ちょっと待て〉といったジェスチャーで、俺の言葉を
「rh5だ、#かjy&か?」
「どh5だ、#かjるか?」
「どうだ、分かるか?」
分かる、彼女の言葉が分かる!
なぜ? という疑問よりも先に出てきたのは彼女に対する礼だった。
「はい、分かります! 本当にありがとうございます! あなたがいなければ……」
またしても彼女は右手を前に出し、俺の言葉を
「ん、分かった、分かった。大丈夫そうだな、だったらいいよ。でもなぁ……う~ん……」
少しの
「ま、こんなとこで立ち話もなんだし……ウチ来るか? 少し歩くが……」
そう言って彼女はこちらの返答も聞かずに歩き出した。
もちろん今の俺に選択肢なんてない。着いて行くしかないのだ。膝の高さくらいの
ぼんやりとした月明かりに照らされながら、命の恩人である彼女の後ろを無言で歩く。
しばらくすると遠く前方に、うっすらと建物らしき灯りが見えてきた。どうやらあれが彼女の家らしい。ふっと、肩の力が抜けるのを感じた。とりあえず、あそこまで行けば安全だろう。安心感と同時に余裕も出てきたのか、ずっと気になっていた当然の疑問が口からこぼれる。
「どこよ、ここ……」
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