春の檻

おうさか

春の檻

 言葉には気をつけること。それは、遠からずおまえに還ってくるものだから。 


 鏡面の向こうには、ひみつの師が座す。わたしの、わたしだけの師。物心ついたときから、“それ”は屋根裏に眠っていた。埃被った、銀飾りに縁取られた鏡。その中に、わたしの師が息を潜めている。

「師、金木犀酒をくすねて参りました」

 足早にと屋根裏へ駆け込んだものだから、肩で息をしてしまうが仕方がない。かつては什宝と持て囃された品々の間をすり抜けて、奥に鎮座する鏡台へ向かう。そこに映るのは、麗らかな春の庭園と、生垣に羽を休める小鳥の姿。

「また、おまえは危険な真似をして。屋敷の主に咎められでもしたら、どうするつもりだったの?」

 鏡から、低く掠れた声がする。よくよく目を凝らせば、小鳥が嘴を開かせて、ぴいぴいと囀っているのが見て取れた。わたしが慕う師こそ、このあえかな小鳥だった。師は春の庭園に棲まう、あらゆる生き物に姿を変じている。一昨日は白毛の猫、昨日は雄鹿で、今日は小鳥というわけだ。

「だって、師が命じたのではありませんか。酒を用意してこいと」

「そんなに上等な酒とは、言っていないけれどね」

「それに、あの卑しい主の物を盗んだって、罰なんて当たるものですか」

 わたしは口を尖らせる。あの頰に厚い脂肪をこびり付けた男は、少しくらい痛い目を見た方が良いのだ。

 小鳥の姿ではいまいち判然としないけれど、師は恐らく呆れ返っているに違いない。ため息をついた音が響いた。

「それより、師。わたしにまじないを教えて下さるのでしょう?」

 ずいと身を乗り出して尋ねる。胸に抱えこんだ壺の中身が、とぷんと揺れる感覚がした。

 気まぐれのように、師はわたしにまじないを教授してくれる。師が何者なのかは、よくわからない。ただ、師は何でも知っていた。

「それじゃあ、今日はその酒を水に転じてみようか」

「水……ですか」

 つい先日まで、一枚の葉っぱを浮かせることに四苦八苦していたのだ。出来るわけがないと、師に批難がましい視線を遣る。

「そう。大丈夫、おまえは聡い子だ。きっと、できるよ」

 師の声に耳を傾けていると、凪いだ水面を思い浮かべてしまう。水面に投じられた小石は波紋を作る。その小石こそが師だ。師はわたしの心を掻き乱す。腹のあたりが妙に熱くなって、わたしは渋々頷いた。

「師がそう仰るのならば、やってみせますよ」

 抱えた酒壺をじっとねめつける。どうか、水になりますよう。そして、師に失態を見られませんように。

 しかし、いくら云々と念じてみせたって、兆しひとつ起こりやしない。そんなわたしを見かねた師が、ひそりと呟く。

「さ、意識をひとつところへ集めなさい。言葉は力を持つ。おまえの望みを言ってごらん」

 何故だか耳元で囁かれている気がした。わたしはかぶりを振って、つよく、つよく願う。

「これは水、最初から水、何の変哲も無い水……」

 そう言葉を手繰らせているうちに、爪先から旋毛まで、一筋に何かを駆け抜けていく感覚がした。ひゅっ、と喉がなる。

 恐る恐る、壺を手にとって鼻のあたりに近づける。金木犀の芳香も、酒のつんとくる匂いもなかった。壺を傾けて、指先を湿らせる。そうして試しに指を舐めとった。「……水、です。ねえ、師、水になってますよ!」

 嬉しさのあまり、大きな声を出してしまった。慌てて口を覆い、階下に耳を澄ませる。わたしがここに訪れていることは、屋敷のものには秘密だった。そもそも、女中仕事の隙を見計らって来ているのだ。

「きっと、出来ると思っていたよ。何故なら、おまえは私の手ずからの弟子なのだから」

 そう告げられて、唇が緩むのを堪え切れない。わたしにとって、師はかけがえのない愛しい人だ。幼い頃、身売りをされて、この屋敷で働くことになってから、いつのまにか師はわたしと共にあった。わたしが悲しいときは、異国の物語を諳んじてくれた。喜ばしいことがあった日は、真っ先に師に伝えた。

 無意識に、鏡に手を伸ばす。冷たく無機質な感触が指先に伝わった。

「カヤ、どうしたの?」

 名前を呼ばれて、ふふと笑みがこぼれてしまう。

「わたしも、この鏡の中に行けたらいいのにって。そしたら、師とふたりだけ。こわい女中頭も、わたしを殴る主もいない。ずっと、このきれいな春の庭で暮らせたらなあって」

「……カヤ」

 咎めるような声だった。わたしははっとする。

「冗談です、冗談ですよ。わたし、そろそろ戻りますね。女中頭に怒られちゃうもの」

 ここから立ち去ろうと踵を巡らせる。その時、ふたたび「カヤ」と名を呼ばれた。

「私もね、おまえのところへゆけたらと、願っているんだ」

 甘やかな声だった。思わず、振り向いてしまう。けれども鏡は、もう春の庭を映してなどいなかった。ただ、痩躯の娘がひとりきり、呆然と立ち尽くしている。

 師は狡い。わたしを置いて去っていく。わたしは下唇を噛みしめた。


 ◆◆


「お前は、なんて醜い娘なんだろう」

 数日に一度、奥方のもとへ呼びつけられる。その度にこうして罵られるのだ。きまって何か腹の虫が治まらない日に、その苛立ちをわたしにぶつけるのだ。それでも、こうしてじっと耐えてればいつかは終わるのだから、慣れたものだ。

「聞いているの?」

「……はい、奥方様」

「あたしはね、お前のその反抗的な目が嫌いよ。何をしでかすか、わかったもんじゃない」

 てらてらと輝く朱の唇を歪ませて、奥方はわたしを睨め付けた。商人に買い付けたのだろう、匂いの強い香を振りまいて、わたしにぐいと詰め寄る。こういう時、わたしはただ謝るしかないのだ。

「申し訳ございません」

 一体、何に対してなのか。わたしにも、よくわからない。それでも、深くこうべを垂れているうちに、奥方は満足してわたしを解放する。

「ふん、さっさと出て行って!」

 その言葉に、わたしは大人しく従う。奥方様はまだいい。詰られるだけなら、別によいのだ。ただ、この屋敷の主はそうじゃない。

 わたしはあの美しい春の庭を思い浮かべながら、部屋を出る。もう夜も遅いから、あとは女中部屋で眠るだけだ。それでも、真っ直ぐに寝台に潜り込む気にはなれず、こっそりと中庭の方へ抜け出した。

 師の棲まう庭とは異なる、贅を凝らしたもの。結構前から、その隅に猫が住み着いている。近づくと足首にすり寄ってきて、甘えた声を出す、かわいいやつだ。密かに、その猫に餌をやることが、わたしの楽しみになっていたのだ。

「ふふ、いたいた」

 予想通り、庭のくねに身を隠すようにして、猫が身を縮こまらせていた。わたしは屈んで様子を窺おうとする。が、何かおかしい。息が荒いのだ。

「……血の匂い!」

 わたしははっと青ざめた。暗く明かりもないため、よく見えない。慎重に猫の身体に手を滑らせる。前足のあたり、たしかにぬめりと生温かい感触があった。怪我をしているのだ。でも、どうして?

 段々と闇に目が慣れてきた。足の付け根の肉が抉れている。どこかに落ちて怪我をしたというより、明らかに人為的なものだった。

「どうしよう、このままだと……」

 焦りで心臓の音が嫌にうるさい。わたしは胸の前で両手を組んだ。

「お願いです、どうか、この子の怪我が治りますように、お願いですから……!」

 近頃、師は積極的にまじないを教えて下さる。治癒の術こそ、まだ実践はしていないものの、前に話を聞いたことがあった。

 ——まじないが大掛かりなものになるほど、願う力も強くなる。けれど、それだけではいけないよ。覚悟を示すために、代価を捧げるんだ。たとえば、怪我を治す術は、それにあたる。

 師の言葉を胸中に巡らせながら、わたしは必死に祈った。鼓動が早い。ちらりと猫を見ると、未だに腹が激しく上下している。

「わたしが代わりでいい! だから、この子を助けてあげて!」

 無意識に口走っていた。また、全身を駆け巡る感覚がした。ぎょっとして猫を確かめると、傷口は塞がっていた。というよりは、元々怪我なんてしていないみたいに。わたしは胸を撫で下ろした。当の猫も、少々困惑したようにあちこちを見回していたが、やがてのっそりと立ち上がってみゃあおと鳴いた。そうしていつもの通り、足首のあたりに顔を擦り付ける。

「おまえ、わたしに感謝するんだよ」

 顎のあたりを撫でてやると、ごろごろと喉を鳴らす。その時、足音が聞こえてはっと振り向いた。

「……カヤ? もしかして、カヤでしょう?」

 それは女中仲間だった。大人しく、少々内向的な彼女とは、そこそこ仲が良い。彼女は何か言いたげに、上目遣いでわたしを見つめる。

「驚かせてごめんなさい。喉が渇いて、井戸から水を汲んで来ようとしたら、あなたが中庭に行くのが見えて、その……」

 わたしは何も言い返すことができなかった。呪術師は忌避されている。わたしだって、師と出会う前はまじないなど恐ろしくて仕方がなかった。わたしは唾を飲み込んで、彼女の言葉を待つ。

「全部、見ていたわ。ねえ、カヤ。あなたは、まじないを使うの? それって、良くないことなんでしょう、だったらなんで」

「……ここで見たことは黙っていてほしい」 

 私は縋り付くように、彼女の手を取った。

 もし、彼女が周囲にこのことを触れ回ったら、わたしはここを追い出されるだろう。何よりも、師にも危険が及ぶ。ほんの成人にも満たない小娘が、どうして魔の力を得たのか。屋根裏に手が回り、師の鏡が壊されてしまうことは、容易に想像がついた。

「わたしたち、友達でしょう?」

 ぐっと力を込める。賭けだった。情に訴えれば、あるいは。

 そして、とうとうわたしは賭けに勝ったのだった。

「わかった、わかったわ」

「……ありがとう」

 礼を述べると、彼女は私の手をおずおずと振り払って、その場を去っていった。徐々に小さくなる彼女の背を見ながら、わたしは泣いてしまいたい気持ちに襲われる。

 わたしは、師とふたりで、静かに暮らしたいだけなのに。他に何もいらないから。あの美しい春の庭で、ずっと一緒に。

 師は、言葉は力だと言っていた。だとしたらわたしを、あの春の庭に連れ去ってほしい。そう、口に出そうとして怖気付いた自分が情けなくなった。


 ◆◆


 今日の師は、青い翅の蝶々だった。大振りの白い花弁に、ぽつねんと留まっている。

「ねえ、師。どうして、師はわたしにまじないを教えようと思ったのですか」

 鏡面を人差し指で撫でながら、わたしは静かに尋ねる。珍しくも、春の庭はぽつり、ぽつりと雨が降っていた。

「急にそんなことを聞くなんて、珍しい」

「だって、まじないって、本当はいけないことでしょう?」

 わたしの問いかけに、師はくつくつと笑い声で返した。なんだかそれが面白くなくて、頰を膨らます。

「才があると思ったからだよ」

「……だとしたら、わたしを立派な呪術師にして、どうするおつもりなんです?」

 本当のことをいえば、答えなんてどうでもよかった。師がわたしに望むのならば、呪術師でも、祈祷師にでもなるつもりだ。ただ、困らせてやりたかったのだ。

「そうなることが、私の望みだから」

 師はあいも変わらず、はぐらかすような物言いをする。それが余計に腹立たしかった。

「……それならば。望みを叶えた暁には、わたしを、ずっと、ずっとお側に置いて下さい」

 最後の方は、消え入りそうな声だった。もし、師が人であるならば、どんな表情をしていたのだろう。怖くて、顔を見れなかったかもしれない。

「それがおまえの望みなら」

 それきり、蝶はどこかへ羽ばたいてしまった。後に残ったのは、絶えず疎らに降る雨の音だけ。やがてその音も消えていき、残ったのは、ただの鏡だった。

 おもむろに立ちあがる。今日は主が帰ってくる日だ。きっと、私を探しているに違いない。日頃の鬱憤を晴らすために、拳を振るうのだろう。仕方なしにと屋根裏を抜け出して、階下へ向かう。

「カヤ、カヤ!」

 廊下を歩いていると、女中仲間のあの子が駆け寄って来た。彼女は眉をひそめ、声を絞り出す。

「えっと、その、主様がお呼びよ」

 わたしは力なく笑うほかなかった。


 痛い。苦しい。助けて。

 いつにもまして、主は苛立っていた。何度も、わたしの頰を打った。拳で、腹を抉った。首を絞められて、酸素を求めようと喘ぐ側から、今度は髪を掴まれる。

 師、たすけて、わたしの師。

 ぼんやりと薄らぐ意識の中で、あの日の出来事が蘇る。猫を助けた日。わたしは、確かに代価を捧げたのだ。ならば、これがその代償というわけか。自嘲気味に笑みが漏れる。

「何、笑ってるんだ? 気色の悪い」

 そう言って、主は床に横たわるわたしの顎を持ち上げた。そうして、再びわたしの腹を蹴る。苦しい。胸に熱いものがせり上がって来て、咄嗟に飲み込んだ。

「野良猫よりも、やっぱりお前をいたぶる方が幾分か気が晴れるな」

「猫?」

 気力を振り絞り、体を起こす。節々が痛い。無意識に顔を歪めてしまう。

 主は下卑た笑みを浮かべていた。

「そういやあ、最近見ないな。何処に行ったんだろうな」

 猫の怪我は、明らかに人の手によるものだった。

 駄目だ。いけない。そう、わかっていても、無意識にわたしは叫んでいた。

「……あんたなんか、消えちゃえばいいんだ!」

 わたしは、つよく、つよくそう願った。


 ◆◆


 翌日、主は亡くなった。主を乗せた馬車が、崖から転落したのだという。詳しくはわからない。何故なら、その報せが届くと同時に、わたしは屋敷の地下牢に放り込まれたからだ。

 侍女仲間のあの子が、奥方に告げたのだ。わたしが、呪術師なのだと。わたしを嬲った翌日の事故だった。彼女にも思うところがあったのだろう。

 昼も夜もわからない日々が続いた。主を喪った屋敷がどうなっているのかも。わたしは、ただ祈るしかなかった。師の鏡が見つかりませんよう。時折、憔悴しきった奥方が、わたしの様子を見に訪れる。顔をしかめて、侮蔑の言葉を並べ立てて。食事などはない。かろうじて、水だけは与えられた。死にたいと願うたびに、無意識に喉の渇きを潤す自分がいて、どうしようもないなと思った。

 ある時、器に注がれた水の向こうに、あの美しい春の庭が見えた気がした。

「……師?」

 幻覚だ。そんなの、わかってる。でも、縋らずにはいれなかった。

「……どうして、わたしはそちらへいけないのですか」

 答えはない。元より、期待していなかった。意識が徐々に薄れていく。眠い。痛い。疲れた。瞼はいよいよ重くなり、視界は閉ざされる。

「カヤ、おまえは私に会いたい?」

 ふと、師の穏やかな声が聞こえた。

「おまえが、おいでと言ってくれれば、私は飛んでゆけるのに」

 言葉は力を持つ。そうだ。わたしは、呪術師だ。師が望むのなら、わたしは。

「わたしの、師。おいで」

 そうして、わたしの意識は途切れた。


 ◆◆


 屋敷は血の匂いに満ちていた。周囲に生きている人はいない。この、あでやかな黒髪を持つ青年以外は。

 青年は麗らかな足取りで、屋敷の地下へ向かう。とてもきれいな顔立ちをしていた。例えるなら、春に綻ぶ花のような。

 やがて目的の地へ辿り着いたのだろう。檻の前へたどり着くと、歩みを止めた。柵の向こう、ひとりの少女が伏している。彼は左手に持っていた鍵で、牢を開けた。

「カヤ」

 青年は少女の顔を覗き込み、頰を触る。まだ温かい。生きはある。

「檻から出してくれて、ありがとう。今度は、私がおまえを掬い上げるよ」

 青年は淡く笑みを開かせた。そうして恭しく、少女の額にかかる前髪を掻きあげる。少女が眼を覚ますまで、青年は楽しそうに彼女を眺めていた。

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春の檻 おうさか @ousaka_1923

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