第二話 目が覚めると……
ヒナミは慌てて、次の電停で降りることを知らせるベルを押した。チーンと甲高い音が鳴る。
電車が止まると、ドアの横にある機械に定期券をピッとやって、電停に飛び降りる。太い道路の真ん中にある電停から歩道にいくには、信号が変わるまで待つしかない。ここの信号、長いよ、もう。
足踏みしながら、青信号を待った。
信号が変わった瞬間、走り出す。大丈夫。ヒナミの足なら追いつける。
人をかき分け、走る。ただ、走る。
見つけた。サイドテール。
「ちょっと待って!」
ヒナミは叫んだ。周りにいた人たちも一斉に足を止め、ヒナミを見る。
「ごめん、その猫のことなんだけど。」
ヒナミのその一言で、サイドテールの女の子以外は歩きはじめる。
「この子のこと、ご存知なんですか?」
女の子は半袖のカッターシャツにオレンジ色の短パンという格好で、肌は色白。嬉しそうな笑顔を浮かべた顔で、ヒナミを見つめる。
「たぶん、私の友達の猫なの。首輪に住所が書いてあるはずなんだけど。」
「はい。書いてありましたよ。」
女の子は猫を片手で抱いて、首輪の一か所を指差す。赤い首輪に、白い布が縫い付けてあり、マジックペンのようなもので何か書かれている。ヒナミはのぞき込む。
『松山市道後姫塚×番×号』
ユイの家の住所だ。間違いない。この猫はリリだ。
「リリだ。探してたんだ。」
ヒナミは笑った。よかった。今回はあっさり発見だ。やったね。
女の子はヒナミの顔を見つめる。何かついてたかな?
「どうしたの?」
女の子はハッとしたように、リリを差し出す。
「リリちゃんっていうんですか。よかったね、帰れるよ、リリちゃん。」
ヒナミはリリを受け取り、抱き抱える。女の子はリリの頭をなでる。優しい手つきだ。
「リリちゃんのお家って、この近くなんですか?」
女の子はなでるのをやめると、ヒナミを見て尋ねた。
「そうだねー。」
ユイの家までの道を思い描いてみた。
路面電車の終点の駅の近くだから、電車に乗れたらすぐだけど、リリを抱いては乗れないし、ここからなら歩いていける、かな。うん、いってみよう。
「ちょっと距離があるかもしれないけど、歩いていけなくはないかな。一緒に来る?」
ヒナミの声に、女の子は嬉しそうにうなずいた。
「はい。」
路面電車の走る大きな道の歩道を歩く。
「私、森松チサトっていいます。小学二年生です。」
歩きながら、女の子――チサトちゃんがいった。
「私はヒナミ。高浜ヒナミ。四年生。よろしくね。」
チサトちゃんは驚いたような表情になる。
「へ、四年っ……ごめんなさい。勝手に同い年だと思っていました。」
まあ、そうだろうね。チサトちゃんと、ヒナミは同じくらいの身長だ。帰ったら、牛乳飲もう。
「今日、東京から引っ越して来ました。」
チサトちゃんはいった。
「そうなんだ、ってお父さんかお母さんは。」
東京から来たばかりの二年生の女の子が一人で街を歩いて、危なくないだろうか。
「はぐれちゃいました。私、迷子です。」
チサトちゃんは笑いながらいった。笑ってる場合じゃないと思うんだけど。リリよりチサトちゃんの方がピンチだよ。
「お父さん、お母さんを先に探そうよ。家の地名かなにかわかる?」
ヒナミはいったけど、チサトちゃんは笑顔のまま首を横に振る。
「大丈夫です。これがありますから。あ、家はシンハママチってとこらしいです。」
チサトちゃんがポケットから取り出したのは、スマートフォンだった。ミカンと犬が混ざったキャラクターのストラップが付いている。
「なら、いいんだけど。」
新浜町といえば、ヒナミの家のすぐ近くだ。チサトちゃんを家まで送っていってあげられる。先にリリの件を解決だ。
ヒナミとチサトちゃんは大きな交差点に差し掛かった。ユイの家までもう少しだ。
信号は赤。ヒナミとユイは足を止める。
リリを抱く役目は、チサトちゃんに交代した。
そのとき、二人の横を、一台の自転車がすり抜けていった。運転しているのはヒナミと同い年くらいの男の子だ。
「危ない。」
チサトちゃんが叫ぶ。
クラクション。
急ブレーキの音。
自動車は男の子を避けるために曲がり、歩道に突っ込んでくる。
ヒナミは、チサトちゃんを力いっぱい付きとばした。まるで、スローモーションのように驚くチサトちゃんの顔が見えた。
ヒナミも、足を踏み出す。大丈夫。ヒナミは足がはやいんだ。車の一台くらい、よけられる。
その途端、体のバランスが崩れるのを感じた。なんで。
「あっ。」
間抜けな声が出た。
体に衝撃を感じた。不思議と、痛くなかった。
ヒナミは砂浜にいた。
家の近所の砂浜だ、小さいときから、何度も遊びに来ている。
季節によってはそれなりに賑わう砂浜なのに、見える限りでは誰もいない。今って何月だっけ。
そんな砂浜で、ヒナミはうつぶせで横たわっていた。
どうしてこんなところにいるのか。どうして横たわっているか。思い出せない。
空が暗い。雲だ。灰色の雲に覆われている。今にも雨が降りそうだ。
家に帰らなきゃ。
ヒナミは起き上がろうとした。でも、起き上がれなかった。
足が動かない。足に力を入れようとしているのに、まるで力が入らない。二日連続でマラソンを走った日の次の日の筋肉痛の千倍ひどいような感じだ。
そのとき、心臓を直接つかまれるような、ドキッとしたものを感じた。いやな汗が出てくる。
もしも、このまま帰れなかったらどうしよう。
急に怖くなった。手が、小刻みに震えている。
ヒナミは腕の力を使い、体を引きずりながら進む。
家に、帰らなきゃ。帰らなきゃ。
足で歩くときの半分にも満たないはやさで砂浜を進む。
手のひらを砂に突いた瞬間、鋭い痛みが走った。
手をよけると、とがった小石が転がっていた。手のひらから血が流れ出る。
ヒナミは、倒れ込んだ。
「もっとトットットって歩きなよ。」
ヒナミはつぶやくようにいった。
目の前を亀が横切る。甲羅の大きさが十センチくらいの、小さな亀だ。
ヒナミは目を覚ました。よかった。夢だった。
でも、眠いな。もうちょっと、寝ていよう。こんどは、いい夢が見られますように。
「……ミさん。……めです。……いで。」
体が大きく揺さぶられる。
大丈夫だよ。ちゃんと、学校には遅刻しないようにするから。ヒナミは足がはやいんだよ。
「ヒナミさん。寝ちゃだめです。起きてください。」
もう、しょうがないなあ。
ヒナミは目を開けた。見えたのは、白い天井と、髪をサイドテールにした女の子の泣きそうな顔。知ってる顔だな。誰だっけ。
「ヒナミさん、おきて、くれたんですね。」
そうだ。チサトちゃんだ、チサトちゃん。思いだした。
そうだった。車が突っ込んできて、チサトちゃんを突き飛ばしたんだった。とっさのことだったから力いっぱい突き飛ばした。
「ごめんね。怪我、しなかった?」
ヒナミは、小さな声でいった。小さな声しか出なかった。
「なんで、なんで私の心配してくれるんですか。」
チサトちゃんは、泣きそうな顔で笑った。
「怪我したら、嫌でしょ。」
ヒナミはそう答えた。だって、そうでしょ。
「お医者様呼んできます。」
チサトちゃんはそういって、病室を出ていく。病院の中は走っちゃダメなんだよ。チサトちゃん。
そっか、ここ、病院なんだ。
ヒナミは顔だけを動かして周囲を見渡す。個室のようだ。ヒナミはベットの上に寝ている。あ、点滴だ。チューブの先は、そうかヒナミの腕につながっている。
お医者さんと、看護師さんが入ってきた。お医者さんは男の人で、大柄で、髪の毛がない。スキンヘッドってやつだ。
「おはよう。僕が、ヒナミさんの担当になった、山西だ。よろしくね。」
山西と名乗ったお医者さんは、優しい口調で話しかける。
「おはようございます。」
山西先生は満足げにうなずく。
「声はちゃんとでるかい。辛かったら、無理しないで首や手を動かして、返事して。」
ヒナミは小さくうなずいた。
「ベットをおこすね。」
看護師さんはベットの背もたれを起こす。
「ヒナミさん、僕の指を見ていて。」
山西先生はヒナミの目の前でゆっくりと指を左右に動かす。ヒナミは、目だけを動かして、それを追った。
「ありがとう。もういいよ。いろいろと気になることが多いと思うけど、今日はゆっくり休んで。」
診察はここまでらしい。なんだかあっけない。
山西先生の後ろ、開けっ放しの病室のドアの影から、心配そうにこちらの様子をうかがうチサトちゃんが見えた。
「チサトさん。もういいよ。」
山西先生がいうと、チサトちゃんは遠慮がちに病室に入ってきた。
「ヒナミさん、いろいろ気になると思うけど、ちゃんと説明するから、今日はゆっくり休んでね。」
山西先生はそういい残して、病室を出ていった。
「ヒナミさんのご両親も、すぐに来て下さるそうですよ。」
チサトちゃんは丸椅子をベットの横に置いて、そこに座る。
「ありがとうございます。ヒナミさんに助けてもらわなかったら、今頃ここにはいませんでした。」
助けた。ヒナミが、チサトちゃんを。車が突っ込んできたから。でも、なんであんなところを歩いていたんだっけ。なんで、チサトちゃんと知り合ったんだっけ。
「リリちゃんは、また逃げてしまって、今も行方不明です。」
「……リリ。」
リリ。そうだ。リリだ!
こんなところにいる場合じゃない。リリを探しにいかないといけない。必ず見つけるって、ユイにいったから。
「ユイのとこ、いかなきゃ!」
ヒナミは起き上がろうとした。なのに、まるで足に力が入らない。
なら、腕の力で。
ヒナミが伸ばした腕は、何度か空を切ったあと、ベットの手すりを掴んだ。
「駄目ですよ! 安静にしていてください!」
チサトちゃんのあせった声を無視して、ヒナミは腕に力を入れる。体が、重い。それでも、いかなくちゃ。
「落ち着いてください。ヒナミさん。」
チサトちゃんは、ヒナミの肩を持ちベットに押し付けた。ヒナミは抵抗したけれど、チサトちゃんの力の方が強かった。まるでかなわなかった。
「大きいね。チサトちゃん。なんで。」
見間違いじゃない。どう見ても、チサトちゃんはヒナミより体が大きい。
「一年と十カ月です。」
チサトちゃんは、丸椅子に座りながらいった。
「ヒナミさんが、私を助けて車に轢かれて、一年と十カ月が過ぎました。身長だって伸びますよ。」
ヒナミにはチサトちゃんが何をいっているのかわからなかった。単語一つ一つの意味はわかるのに、文章としての意味が、頭に入ってこない。
「ヒナミ。」
それから十分ほどでお母さんが、病室に飛び込んできた。のんびり屋で、いつも呑気なお母さん。泣いてるところを見たのははじめてだな。
消灯時間をすぎてからの病院というのを見るのははじめてだ。
手で、髪をなでる。
ヒナミが長髪にするのは、覚えている限りで、はじめてだ。まるで手入れしていない髪は、指に引っかかる。
病室のドア開く音がした。
見回りに来た看護師さんだろうか。ヒナミは、顔だけを動かして、ドアの方を見る。
女の子が立っていた。五、六歳くらいだろうか。銀色の髪をおかっぱにしていて、瞳は青色。なんだか不思議な感じの子だ。薄いピンク色のパジャマを着ている。この病院に入院している子だろうか。
「どうしたの。病室、わかんなくなっちゃったの?」
ヒナミはゆっくりと声をかける。
女の子は病室に入ってくる。
「この病院に入院しているんでしょ? 元の病室に戻りなよ。場所、わかる?」
ヒナミの声を無視して、女の子はベットの横までやって来た。
ナースコールで看護師さんに来てもらおうか。ヒナミがそんなことを考えていると、女の子はヒナミの腕を掴んで、何かを握らせた。女の子の手は、体温というものをまるで感じない、冷たい手だった。
女の子は、満足げに笑うと、小走りで病室を出ていった。
ヒナミは、手の中にあるものを見た。それは石だった。赤い石だ。ツルリとした肌触りで、形は数字の『9』みたい。勾玉だ。穴のところに、皮の紐が通してある。
「そういや、こんなの持ってたっけ。」
ヒナミは暗い中で、勾玉を見つめる。
あれ、勾玉の中で何かが光ったような気がした。一瞬だけど、小さな炎のように、勾玉の中で光が揺らいだ。
ヒナミは、皮の紐を首に回すと、後ろでくくって、勾玉を首から下げた。なぜか、そうしなきゃいけないような、強い思いがあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます