青い瞳のウミ
千曲 春生
第一話 走れ、ヒナミちゃん
亀がいる。
甲羅の大きさが十センチくらいの亀だ。
春の日差しの浜辺で、仰向けになって、前と後ろの足をバタバタと動かしている。
亀の前でしゃがむ。
「起き上がれないの?」
ヒナミの声にこたえるように、亀はさらに足をバタバタと動かす。
「しょうがないなあ。」
ヒナミは、亀を掴むと、足が地面に着くむきにして、砂の上に置いた。
亀は早足で、海にむかって歩いていく。
「バイバーイ。」
ヒナミは、亀の甲羅と尻尾にむかって、手を振る。やがて、亀は白波に飲まれて見えなくなった。それでも、ヒナミは手を振っていた。
振っていた手を下したとき、波打ち際が、赤く光っていることに気が付いた。何か、光るものが落ちているようだ。
ヒナミは光に近付く。押し寄せる波が、くるぶしまでぬらす。
しゃがんで、赤い光に手を伸ばし、掴む。
その時、大きな波が押し寄せた。
「うわっ!」
ヒナミは思わず、しりもちをついた。
指を開いてみる。握られていたのは、石だった。赤い石だ。ツルリとした肌触りで、かたちは数字の『9』みたいだ。
はじめ、石は光っていたが、徐々に弱い光となり、やがて消えた。
ヒナミは立ち上がる。着ていたワンピースの裾から、海水が滴る。
「おとうさーん。」
防潮堤にもたれるように立っていたお父さんのところへ、ヒナミは拾った石を持って、走っていった。
「お父さん、これなあに。」
お父さんはヒナミの手の中をのぞき込む。
「これは、勾玉だね。」
「マガタマって?」
「大昔の人のアクセサリーだよ。拾ったのかい。」
「亀さん助けたら、くれたの。持って帰っていい?」
「亀が、それはすごい。持って帰って、大切にしなさい。」
ヒナミは大きくうなずいて「うん」といった。
「そろそろ帰ろっか。」
お父さんはいった。
「うん。帰る。」
ヒナミはお父さんと並んで歩く。
「ヒナミね、さっきの亀さん、竜宮城から来たと思うんだ。」
「竜宮城って、浦島太郎のかい? どうしてそう思うんだい。」
「だって、海に帰っていったから。」
ヒナミは、家に帰るまでずっと勾玉を握っていた。
ヒナミは目を覚ました。
時計のアラームは鳴っていない。あのけたたましい音に起こされないというのは、気持ちがいいものだ。珍しくはや起きできたんだろうか。
時間を確認しようと、上半身を起こし、時計を見て、時計を見て。見て。
「うにゃー!」
変な声が出た。
そうだった。昨夜、テレビでやっていた映画が面白くて、あくびをしながら最後まで見て、そのまま寝たんだ。時計のアラームをセットせずに。
ベットから落ちるように降りると、床に脱ぎっぱなしにしていた制服に着替える。袖口に水色のラインが入った半袖のカッターシャツ、それと紺色のジャンパースカートだ。スカートの下には、短パンを履くのも忘れない。
部屋のすみに置いていたランドセルを背負い、部屋を飛び出し、階段を駆けおりる。
「あら、おはよう。」
お母さんは、のんびりした口調でいった。
「おはよっ。いってきます。」
ヒナミは早口でいうと、玄関にむかって走る。
「朝ごはんは?」
お母さんが言った途端、クルリとむきを変え、ダイニングに飛び込む。テーブルの上には、朝ごはんが用意されていた。いつも通り洋食だ。おいしそうだけど、全部食べている時間はない。
牛乳が入ったコップを掴み、一気に飲み干した。
「いってきます。」
再び玄関へいくと、靴を履き替える。学校へは、ローファーを履いてくる人が多い。でも、ヒナミは入学してからの四年間、ずっとスニーカーだ。
「そんなに急いで……あら、時計が止まってるわ。」
お母さんの声を聞きながら、玄関のドアを開けた
海辺の道を走る。海面をなでた風が、短く切りそろえたヒナミの髪をすり抜ける。
息が荒くなってきた。苦しい。
ううん。まだまだ走れるよね。走るペースを上げた。
曲がり角を曲がる。その途端、人の姿が目に入った。
ぶつかる。
ヒナミは慌てて止まる。間一髪、ぶつからなかった。
相手は、ジャージを着た女の子だ。むこうも、驚いた表情を浮かべている。
「ごめんね。急いでるんだ。」
ヒナミは、顔の前で手を合わせて、軽く頭を下げると、再び走り出した。ここからは下り坂だ。ヒナミは一気に加速した。
駅に近付くと踏切の音が聞こえる。電車がやって来た。あれに乗れなきゃ遅刻だ。
定期券は、改札にタッチするタイプのものだ。ヒナミはピッとやって、電車に乗る。その途端、ドアが閉まった。ギリギリだった。
「間に合ったんだ。」
声がした。
ドアのすぐ横の席に、弟のヨウタが座っていた。
「先におきていたなら私もおこしてよ。」
ヒナミがいうと、ヨウタはあきれたようにため息をつく。
「おこしたのにおききなかったの、ねーちゃんだよ。それに、間に合ったんだしいいじゃん。」
「朝ごはん、食べそこなったのよ。栄養たんなくて、身長のびなかったらどうしてくれんのよ。」
四年生のヒナミは二年生のヨウタより少し低いくらいの身長だ。ちなみに、ヨウタの身長は年相応で、特別に高いわけではない。
ヨウタは「そんなの知らねーよ」とつぶやいていた。
途中の駅で路面電車に乗り換え、五つ先の電停で降りた。
そこから歩いたところが、ヒナミとヨウタの通う小学校だ。広い敷地の中に、幼稚園から中学校までがそろっている。
一時限目。
少しだけ夏の匂いがする日差しが、グラウンドに差し込んでいる。
親友のユイは、膝を抱えて座った体勢で、大きなため息をついた。
「どうしたの?」
ユイの隣に、あぐらをかいて座っていたヒナミは声をかける。
「日差し、嫌だなって。」
ユイは、いつも茶色がかったレンズの眼鏡をかけている。目が弱くて、強い光が苦手らしい。
「もうすぐ、夏だもんね。」
ヒナミは空を見上げた。まぶしいな。
「次、高浜ヒナミ―。」
先生が呼んでいる。
「いってくるね。」
ヒナミは立ち上がり、体操服のズボンに付いた砂を叩き落とした。
スタートラインに立つと、横にいる女の子たちは皆、不満そうな表情を浮かべる。
走るのは、はやさの順。ヒナミと同じグループにいるということは、何かしらのスポーツを習っていて、 それなりに運動に自信とやる気のある方々。
それでも。
「位置について、よーい。」
合図のピストルの音が響く。
ヒナミの敵ではない。
体育の授業が終わり、教室へ帰る途中、ヒナミは掲示板の前で足を止めた。校内新聞が貼ってある。
『四年一組 高浜日波さん。百メートル走の学校代表に。』
ここを通るたびに、この記事を見るようにしている。はしの、小さな記事だけど、何度見てもいいもんだ。素晴らしい。
「また見てるの。 口元、にやけてるよ。」
声をかけたのは、ユイだ。
「だって、嬉しいんだもん。」
ヒナミは頬をなでて、にやけた表情を消した。
「四年生で代表に選ばれるのって、はじめてらしいね。この前、先生がそういってたの聞いたよ。」
ユイがいうと、ヒナミは得意げに笑い、大きくブイサインをする。
そのとき、二人の近くを女子が通りかかった。気の強そうな女の子で、身長はヒナミはもちろん、ユイよりも高い。
「調子乗んなよ。高浜ヒナミ。」
女子はヒナミの耳元でささやくようにいうと、足早に立ち去る。
楽しい気分が、一発で消えた。
「今の、誰?」
ユイは不安そうな顔で、ヒナミを見る。
「六年の岡田さん。」
短く答えてから、岡田さんの背中をにらんだ。素直に負けを認めればいいのに。年上のくせに往生際が悪いんだから、もう。
「何かあったの?」
ヒナミはユイを安心させるために笑った。
「大丈夫。たいしたことじゃないからさ。教室戻ろ。」
岡田さんは、六年生では一番走るのがはやい。でも、ヒナミより遅い。たったそれだけのことだ。
ヒナミは歩きはじめ、ユイもそれに続く。
「ねえ、ヒナミちゃん。ちょっとお願いしたいことがあるんだけど。」
歩きながらユイがいった。
「なにか知らないけどいいよ。」
ヒナミはすぐに答えた。だってユイの頼みだもん。
「まだ、なにもいってないよ。」
「ユイが無理なこと頼むわけないかなって、思って。」
ユイはあきれたような、それでいて嬉しそうな表情をしている。
「リリがまた逃げちゃって。探すの、手伝ってほしいんだけど。」
「うん。わかった。私が必ず見つけちゃうから。約束する。」
ヒナミは元気よくこたえた。
リリ、というのは、ユイの飼い猫だ。頭のてっぺんから、尻尾の先まで真っ黒だ。よく家出をする。
「でも、リリってどうして家出するんだろうね。」
ヒナミはふと、不思議に思った。
「わかんない。とりあえず、首輪に家の住所書いといたんだけど……。」
ユイにわからないなら、誰にもわからないかな。リリは人間の言葉を話さないし。
ヒナミはユイと教室にむかった。
リリは、どのあたりにいったかな。どこから探そうかな。そんなことを考えているうちに放課後になった。
路面電車は、車両が二種類走っている。床が高くて、入口に段差がある車両と、床が低い車両だ。
やって来たのは床が高い車両だった。
「じゃあ、また後でね。」
ヒナミはユイに手を振り、ひとっ跳びで電車に乗った。電車の木製の床が、ドンッと大きな音をたてる。
本当は家に帰らず、そのままユイと一緒にリリを探しにいきたい。でも、学校の帰りに寄り道をしているのがバレたら先生に怒られてしまう。制服ってやつはこういうときに重くなる。
路面電車は走り出す。車内の座席は大方うまっている。ヒナミはドアの近くに立っておくことにした。
窓の外を見ていると、電車と反対方向へ、歩道を歩いている女の子が見えた。長い髪をサイドテールにしている、小学校低学年くらいの女の子。その腕に抱かれているのは、黒猫だ。
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