第12話 雪葉という人間
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深い、深い水底へ落ちていく。
静寂が作り出す、音のない世界。
——暗い。冷たい。
周りは真っ暗で、今自分が生きているのか、死んでいるのかも分からない。
この感覚にももう慣れた。
誰かが耳元で囁く。
己の目的を忘れるなと。
そうだ。私がここにいる理由。目的。
……それは、私が消えるため。
予め結末が決まっている物語なんて、つまらないだろうけれど、私の物語に傍観者が居ることを信じて少し話をしよう。
救いようもない、罪にまみれた女の子の話を。
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ある時、ある家族に女の子が産まれました。双子の可愛い赤ん坊。両親は姉の方に「雪葉」と名付けました。
雪葉は愛情をたっぷりと貰って育ちました。親に愛され、双子の妹に愛され。友人に愛され。
けれど雪葉はふと気が付きます。誰かから愛情を貰うことはあっても、自分から誰かを愛したとはない、と。
雪葉は決して友達が居ない、という訳ではありません。けれど誰に対しても特別な感情は抱きませんでした。
高校に入り、少しして。雪葉は同級生に告白されます。その時『私を愛してる人がどういう気持ちでいるのかを知りたい。』と考え、雪葉はその告白に頷きました。
けれど、やっぱり何もありませんでした。一緒に居ても何も感じない。
心が満たされない。
付き合い始めて2ヶ月した頃、彼氏はこう言いました。
「俺の事好きじゃないよね」
雪葉は肯定も否定も出来ませんでした。
自分の我儘で選択した事が、この人をこんなにも傷付けてしまった。
何も言えないまま、その場で立ち尽くす雪葉に、彼氏は別れを告げたのです。
結局、愛とは何かも分かりませんでした。
何故人は誰かと恋に落ちるのだろう。
何故人は愛を育みたいと思うのだろう。
何故人は誰かを愛すると幸せになるのだろう。
——愛とは何だろう。
そう悩んでいる時、父親から「冬休みの間、おじいちゃん家に行かないか」と提案されます。
雪葉はそれに頷きました。
そして冬休み初日。学校に用事を済ませてから、隣街のおじいちゃんの家に向かいました。
その道の途中。河川敷で体育座りをしている学ランの男の子。
その人に声をかけようと思ったのは、多分気の迷い。
——それから、彼女の長い長い冬休みが始まったのです。
そう。そうして私は永遠くんに出会って。恋をした。長い長い初恋を。
暗闇の中が少し心地よい。ここではありのままの私がいる。私の中の私が目を覚ます。
少し眠たくなってきたな。
そんなふわふわした感覚が私の中を巡る。誰かが「少し休んで」という。なら、お言葉に甘えてそうしようかな。
ゆっくりと意識が消えていく。これが現実か夢か。それが分からなくなってきた時、誰かが私に見せる。
それは遠い記憶。私が忘れてはならない大事な記憶。
そうか、きっとこれは夢だ。悪夢だ。ならば少しだけ、この悪夢を見ていよう。
自分がどれほど愚かしい人間かを忘れない為に。
自分への罰をしっかり刻む為に。
目が覚めるまでの少しの間だけ……。
「——ねぇ、そこで何してるの?」
見知らぬ誰かに自分から話しかけに行ったのは、人生で初めてだった。
振り返るのは男の子。学ランを着て、体育座りをしている。お尻に当たる小石は痛くないのかな、なんて思いながら、彼に近づいた。
あ、サラサラの黒髪。いいなぁ、私の髪なんかアイロンで傷んでるから。日に日に茶色くなってきちゃって、遂には地毛登録しちゃったよ。
「……別に。川を見てただけ」
私と目線を合わせないようにしてる。愛想悪いのかな。
隣に来て思ったけどまつ毛も長いんだ。
名前の知らない彼の横に腰を下ろす。横顔が私よりも上にあるのを見て、やっぱり男の子だな、と感じた。
人間観察、というやつをしながら会話を続ける。
「そっか。川って寒そうだけど。」
別に会話を続けなくたっていいはずだ。名前すら知らないし。
もしかしたら、不審者だって怪しまれているかもしれない。
でも私は気になってしまったんだ。この男の子を。
川の流れる景色を見ながら話をする。マフラーを首に巻いているけれど、やっぱり冬の水辺は寒い。
足に当たる空気はピリッと痺れて痛い。なのに、ここから動きたくない。
「制服着てるけど、学校行ってたの?」
彼の肩が、ピクっと動く。私に頭の後頭部を見せながら、ボソッと言った。
「……昨日、彼女に振られて……。それで学校行こうとしたけど、今冬休みだって気づいて……。」
あれ。どこかで聞いたことある話だ。
ふと思い出した人影に、私は全てを悟ってしまった。
そして、ああ、そうか。と嫌でも理解してしまう。でもこれは彼には言えないな。きっと言ってしまったら彼は私を嫌うだろう。
「……そっか。」
言ってしまおうか、とも思った。けれど、何故か今を壊したくなくて。出かけた息を飲み殺した。
「私もね、先月彼氏に振られたの。『本気で好きじゃないだろ』って。私否定出来なかった。ほんと、最低だよね。人の気持ち踏みにじって。こんなんだから私、誰かを好きになんてなれないんだ。」
私はゆっくりと流れる雲を見ながら、自分語りをした。
初めて誰かに本心を言った気がする。空っぽのありのままの私の話。この話を聞いて、彼はこんな私を軽蔑するのだろうか。「最低だ」と蔑むのだろうか。
そんな私の予想を、彼はいとも容易く踏み越えていく。
「——なら好きになれる『誰か』を見つければいい。」
その言葉に彼の方を見る。
初めて彼の正面を見た。
初めて彼の笑顔を見た。
それまで空っぽだった何かが満たされていく。
それまで知らなかった何かが現れる。
その時に吹いた風が少し冷たいのを気持ちと感じた。この風が私の中にあった黒いものを吹き飛ばしていく。
新しく芽生えたのはまだ小さな感情。
けれどそれを知ってしまったから、私は許されないんだ。
『稲月永遠』。それが彼の名前だった。私と永遠くんは何故か冬休みを共に過ごすことになった。言い出したのは永遠くん。
「つまらない冬休みの暇つぶしに付き合ってくれないか?」
私に差し出された手を、私は自ら望んでとった。
彼と一緒にいると、知らない感情が増えていく。
誰かと居てこんなに楽しいと思ったのは初めてだ。
誰かと居てこんなにすぐ時間が過ぎたのは初めてだ。
誰かと居てこんなに幸福で満たされたのは初めてだ。
——やがて、これが『恋』だと知る。
あの時の同級生がどういう気持ちで告白してきたのか、やっと分かった。
ふとした時に彼を思い浮かべて、一緒に笑い合っている妄想をして。でもそれがすごく幸せに感じる。
でもそれは長くは続かない。けれど今のこの気持ちだけは伝えたいから。
永遠くんと一緒に過ごしていく中で、自分の中に測りきれない思いが押し寄せてくる。
彼と共にいると、自分の本心をさらけ出してしまう。
今までは誰にも話せなかった事が嘘のように、スラスラと口から零れていく。
永遠くんの隣に居ると心が安らいで、それが心地よくて。
そんな時に思い浮かべたのは、一人の女の子だった。
天真爛漫で、気が強くて、私に持っていない物を全て持っている子。
あの子に、ずるいって言われるかもしれない。嫌われるかもしれない。でも私にとって初めての心だから。
そうして私は決心する。最後の日、永遠くんに告白することを。
一月七日。冬休みが終わろうとする。あぁ、家に帰りたくない。永遠くんと別れたくない。お願い神様。もう少しだけ。この気持ちを。『愛』を伝えるまでは、どうか……。
神社の鳥居をくぐった私は、前を歩く永遠くんに話しかける。
心臓がバクバクして、鼓動が早くなる。
伝えたいのに、心の何処かで怖気付いた私は、自分の中にある勇気を奮い立たせた。
「あのね、永遠くん! 私——」
『お前のそれは叶わない。』
突然だった。今まで見ていた世界は光を失い、私は闇に囚われる。
さっきまで目の前にいた大好きな人の背中も、見えなくなっていた。
静寂が、その空間を支配し、私は一人取り残される。
自分の足元すら認識できないまま、私は大声で叫んだ。
「何!? 何なの! 」
暗闇の中で私の声だけが響く。
訳も分からずに、ただ混乱している私に、その声は話しかけた。
『お前には罰をやらないとな。雪葉。』
霧のように静かに現れたのは、幼い容姿の女の子。白髪の髪は何メートルもあり、この世のものとは思えない金色の蛇の目。
鋭い目線をは私を捕らえて離さない。
体が動かなかった。怖い、殺される。そう思うくらいのオーラだった。
「あ……うっ……」
ドクンと飛び跳ねる心臓が、酷く痛んで私を苦しめる。
声すら出ない。私、どうしてしまったんだろう。
睨みつけるだけで精一杯の私に彼女は嘲笑った。
その瞳に光は無く、人を卑下しているようにも思う。
何となく、この子が人間では無い事を察した私は、自分の命が危機に瀕している事を悟る。
けれど私に逃げ場は無く、唇を震わせる事しか出来ない。
『ああ、そうか。これでは人間は声すら出せないのだったな。何せ我が姿を見せるなど久方ぶりだったからな。忘れていた。』
彼女が指をパチッ鳴らすと、それまで硬直していた体が動いた。
「あ……あー」
喉に手を当てて、声が出るかを確認する。
今まで自分の意思で体が動かせなかったのが不思議なくらい、簡単に声が出た。
さっきまで、ピクリとも動かなかった指先は、小刻みに震えている。
自分の声に安心していたのも束の間。
『さて、雪葉。貴様には失望したぞ。まぁ良い記録が取れたから何とも言えないが。しかしこれで我の研究も捗るというもの。一応感謝の意を伝えよう。御苦労だったな。』
大人びた言い方。彼女の口は動いていなかった。
丸で私はの脳に直接話しかけているかのように。
私は彼女が言っていることが何一つ理解出来ない。
私は威勢だけは負けないように、と声を上げた。
「何言ってるの? っていうか貴方はだれなの! こんなことして……私は永遠くんに言わなくちゃいけないことがあるの! 邪魔しないで!」
それを聞いて彼女は更に目付きを尖らせ、ニタリとと笑う。
その笑顔に、私の背筋は凍った。
『ほう。我にそんな言葉を吐くとは。中々根性のある女子ではないか。ふむ。ならば一つ教えてあげよう。我は神。産神のヤノハハキオオカミだ。』
何を言っているのだろう。神……?何かのイタズラ?
聞いた事もない名前に、私は目を丸くした。
『貴様のその顔。信じていないようだな。まぁもう少し経てばいずれ分かる。さて。本題だ。貴様に今から呪いを与える。』
「……呪い?」
『そうだ。これは貴様の罪。貴様には愛を持つ心などあってはいけないのだ。貴様という人間は愛することを知らない人間として我が作ったのだからな。』
ヤノハハキは少しずつ私に近づいてくる。
裸足がひたひたと音を立てる。
長い髪を引きずらせながら、私をじっと見ていた。
現実的では無い話を聞いた私は、頭が混乱しながら、彼女の言葉を否定する。
「何言ってるの! 人間を作るなんて、そんなこと……!」
神の威厳、という物だろうか。私の体は次第に震え始め、喋ることすら躊躇する。
全てを見通すようなその目は、また私の体を硬直させた。
逃げることすら許されないこの場面で私は必死に息をした。
心臓に空気が届いているのか分からなくなる。
『できる。少なくとも産神である我には。その昔、出産とは穢れだった。しかし我は穢れとは思わなかったのだ。我だけが母親と腹の中の子を守り続けた。我こそは出産に立ち会う神。そんな我だからこそ、人間を作り上げることすら可能なのだ。』
「そんなこと信じるわけ——」
言いかけた時、ヤノハハキは私に指を指した。歩いていた足をピタリととめて、薄気味悪い笑みを浮かべる。
それはまるで、世界の破壊を目論んでいそうな笑顔だった。
『信じる。お前を作ったのは我だ。他の神にも、親にも貴様を作るのは不可能だろう。しかし我は違う。信じないと言うので有れば、信じさせるまでのこと。特別に全てを教えよう。雪葉という人間が一体どんな罪を犯したのかを——。』
そうして語られたのは私の知らない私の話だった。
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