(10)

 内線電話の呼出音で目が覚めた。時計を見ると朝の6時前だ。

「どうしたんですか?」

 昨晩、2人で飲みあかした後に、私の部屋に泊る事になったロンベルグ少尉も目を覚ましたようだ。

「さぁ?」

 そう言って、私は電話を取る。相手先の電話番号を見ると……。

『すまない、ミリセント少尉。他に誰に相談して良いか判らないのでな……』

 テルマだった。しかし、一体、何の話だろう? 昨日、水の力を持つ上霊ルシファーと話した内容は、全てを上に報告した訳では無いので、その関係の話では無いとは思うのだが……。

「だから、どうしたんですか?」

『まず、私は、他の神の秩序アーリマンの巫女と記憶を共有しているが全ての記憶では無い。例えば、ちょっとした怪我をしただの、よくある病気になっただのの極めて個人的な記憶は、共有記憶の中から短期間で消える。そして、私の肉体は、いわば、少女と大人の女性の中間だ。そしてだ……』

「すいません。単刀直入に言ってもらえますか?」

『今の私ぐらいの肉体年齢の頃に、君の体にも起きたであろう事が、私の体にも初めて起きたので相談しているんだよ。君が実は男性だったとか、生殖能力に問題が有るとか云うなら、他を当たるが。私も知識としては知っているが、実際に自分の身に起きてしまうと、具体的にどうすれば良いか、さっぱり判らない』

「えぇぇぇ⁉ ま……まさか、つまり、その……」

『そう云う事だ……』

 昨晩、眠りにつくまでは、古典文学の名作の主人公のような実存主義的な重々しい悩みを抱えていたのに、一夜明けた途端に、どんな下品な通俗小説でも、あえて書くような馬鹿な作者は居ないであろう、あまりに生々しく生活感溢れる騒動に巻き込まれる事態になったようだ。

「なにか、マズい事態ですか……」

「その……何を説明すれば良いのか……」

『待て、少尉。君の部屋に誰か居るのか?』

 待て、と言いたいのはこっちだ。この時間に、私の部屋に私以外の誰かが居たと知って、何故、貴方の声が、急に不機嫌そうになるのだ?

 そして、一時間ほど後、色々有って、騒動は終息し、我々は、朝食の為、食堂に向かった。

「やはり、こう云う事に関しては、君の方が頼りになるな、コ事務官」

「……こんな事で感謝されても、素直に喜べないんですが……」

「ところで少尉、何故、こちらの女性士官が朝方、君の部屋に……」

「待って下さい。個人的な事まで、貴方に話す必要が……」

「……そうか。私としては残念な事では有るが状況は理解した。とは言え、これからも軍務の上では良いパートナーとなるように努力しよう」

 いや、だから、待ってくれ。何故、この状況で、貴方が失恋でもしたような表情になるのだ? そもそも、何をどう理解したと云うのだ。

 それに、何故、コ事務官が、私を、そんな目で見ているのだ。この目は何度か見た事が有る。「兄」に捨てられた女性の友人・知人が、女性関係に関しては不実極まりない「兄」を睨み付けた時の目だ。もう、勘弁してくれ。

 食堂で朝食を取っていると、後から肩を叩かれる。

「昨日は大変だったようだな」

 ヴェールマン中尉だった。

「あ……おはようございます」

「今日、何も無いのなら、訓練に付き合って、もらえるか?」

「は……はい……。具体的には、どんな訓練を?」

「近接戦闘の訓練だ。グルリット中佐も、昨日、あんな事が有ったので、気持ちを切り替える為に、部下の訓練の指導をしたいそうだ。9時に中佐の部屋に来てくれ」

「了解しました」

 だが、中尉の目は、一瞬、コ事務官に向けられていた。おそらく、本当は訓練ではなく、昨日頼んだ件だろう。

 そして、9時。中佐の部屋には、中佐と中尉だけでなく、中尉附きの下士官も居た。

「話は長くなる。食いながら聞け」

 中尉がそう言うと、中尉附きの下士官が机の上に中国服を着た子供達が描かれた大きめの紙箱を置いた。

 中には上等そうな菓子が入っている。

「何ですか、これは?」

「香港の有名菓子店の名物だ。せっかく、香港に来たんでな」

「は……はぁ……」

 折角なので、その内の1つを手に取った。

「なぁ、新入り。お前の事務官は信用出来るヤツか? そして、お前は、あの事務官をどうしたい?」

 グルリット中佐は、私が部屋に入るなり、そう言った。

「一体、彼女は何者なんですか?」

 そう……私は、彼女が禁軍の事務官になるまでの経歴をよく知らない。いや……中尉に出された菓子を口に運んだ時に、迂闊にも、ようやく気付いた。よくよく考えれば、食べ物は何が好きで、休みの日は、どんな本を読み、どんな映画を観て……遊びに行く時は、どんな私服を好むのか? ……「コ・チャユ」と云う女性の「禁軍事務官」以外の側面を何も知らないし、気にした事も無かったのだ。

「私の部下が、コ事務官の親を突き止めて、学者としての業績を調べたら……よく見ると妙な点が有った」

「妙な点?」

「ある数年間だけ、論文を一切発表していない事になっていた。しかし、論文を発表していない大学教員など居たら、普通に考えて馘だ。念の為、大学に問い合わせたら、休職などの記録は無いから、論文は書いていたが、書いた論文は無かった事にされていたようだ」

「それが機密扱いされたものだと?」

「そうだ。そして、主要な公立図書館や大学に問い合わせても、コ事務官の親が、よく寄稿していた学術誌が、その期間の特定の号だけ、どこにも残っていない。そこで、中佐に相談したら……」

「一部の人間……禁軍なら佐官以上しか知る事が出来ない情報に絡んだ話だ。昔……機密指定されている情報を、偶然にも独力で突き止めてしまった学者が2人居た。朝鮮の京城大学に居た同じ研究室の講師と助教授だ。講師の方は日本人で名前は原涼太郎。助教授の方は朝鮮人で、名前は成彬ソンピン。その2人の学者の書いた論文の存在を『世界政府』が知って以降、それらの論文の多くは機密指定されたが……ここに落とし穴が有った。この2人が重大機密を独力で突き止めた、と云う事実そのものを禁軍の中で知る事が出来るのは、佐官より上なんだ」

「何が、どうなってるんですか?……それに、『落とし穴』とは、どう云う事ですか?」

「中尉、説明を頼む。俺の単純な頭じゃ、何が何だか、判んねぇんでな」

「了解しました。念の為に、禁軍の人事に問い合わせたら、事務官の採用に関わるのは、一番上でも尉官待遇の文官だそうだ。……つまり、コ事務官の採用を決めた者は、知る手段が無かったんだよ」

「何をです?」

「彼女の実の父親が、機密指定された論文を多数執筆した者である事。そして、その父親が死亡した後に、成人までの後見人となったのが、それらの機密指定された論文のほぼ全ての共同執筆者だった事」

「そ……そんな……」

「もっとも、戸籍上では、彼女は、朝鮮の済州島に住んでいる父方の親類の養子になっているので、例えば、禁軍事務官の採用試験を受ける際の経歴に、実の父や原涼太郎との関係を書いていなかったとしても、法的な問題は無い」

「戸籍?」

「日本に居たのに知らないのか? 日本および日本の旧植民地で使われている住民管理台帳だ。他の地域の住民管理方法に比べて、家族関係を辿るのが容易なのが特徴の1つだ。それと、原と云う学者の方も妙な事になってる。その『戸籍』を日本の役所に洗ってもらって判った事だ」

「妙な事?」

「原と云う学者の出生時の名前は眞木まき震介。どうやら、その男が生まれた眞木家では、代々、一番齢上の娘の夫が家長…つまり、家の代表者の地位を継承し、男の子供は、大人になると新しく『家』を作るか、大人になる前に他家の養子になる風習が有ったらしい。そして、原涼太郎も父親の兄の養子になってる。父親の兄に子供が無かったので、家を存続させる為にな。そして、その時、何故か、名字だけではなく、名前も変っている。しかし、原涼太郎が生まれた眞木家も、養子に行った原家も今は無い。眞木家は、たった1人の子である涼太郎を養子に出したせいで途絶えた。原家は、養子にもらった涼太郎が、結婚もせず、養子も迎えず死んだせいで、やっぱり途絶えた」

「ちょっと、待って下さい。片方の家は、自分達の家が途絶える事を前提に子供を養子に出して、もう片方の家では、家を存続させる為にもらった筈の養子が、家をわざと途絶えさせたのですか?」

「調査を依頼した日本の地方の役所の役人も驚いていた。日本では、かなり非常識な事らしい。それも、非常識な事が2つか3つ重なってるそうだ。普通なら、コ事務官か、その妹を養子にすれば良いようなモノだが、あくまで後見人と被後見人の立場だった」

「い……妹? コ事務官の妹ですか? 本人から家族の話は聞いた事が何度か有りますが、妹の事は……」

「居たんだよ、双子の妹が。5年前、まだ2人が日本の大学に通ってた頃に台風による洪水で行方不明になっている。それと、お前が戦った、水の力を持つ上霊ルシファーは日本人……少なくとも、日本語を話していたと言ったな」

「ええ」

「しかし、良く食うな……。私達の分も残しておいてくれ」

「……あ、すいません」

「飲み物も要るか?」

「……あ、どうも……」

「原涼太郎は、後に日本の九州大学に勤務する事になり、福岡県久留米市と云う場所に有る原家の父親から相続した自宅から職場に通っていたらしい。そして、コ事務官と、その妹も日本の大学に通う為に、原の自宅に下宿していた」

「それが?」

「偶然だとは思うが、同じその久留米市内に、日本では結構有名な『水の神』を祀る神社が有る。そして、原の生家の眞木家は……その神社の宮司の家系の……端っこの方らしいが分家だ」

「……コ事務官の妹とは……何者なんですか?」

「通っていた大学は、その久留米市内の医科大学。看護婦や薬剤師になる為のコースではなく、本当に医者になるつもりだったらしい」

「ゆ……優秀だったんですね……」

「何を言ってる? コ事務官が通っていたのも、日本で『七帝大』と呼ばれている日本の国立大学の中では上位7つに入る大学の1つの法学部だぞ。大学卒業後にすぐに禁軍の事務職になったので、実務経験こそ無いだろうが、彼女は日本・朝鮮・台湾の3ヶ国で活動出来る弁護士資格を持っている。知らなかったのか?」

「……は……はぁ……」

「で、彼女の妹の名前は……コ・ミンジュ。日本でも朝鮮でも漢字は使われなくなりつつ有るから、戸籍の方には『ハングル』と云う朝鮮の表音文字でしか名前が記載されていない……そうだ。調査を依頼した朝鮮の役所によればな。なので……名前の意味までは判らんらしい。それと、更にややこしい話が有るぞ」

「一体、これ以上、どんな話が?」

「コ事務官の実の父および後見人と、かつて、共同で論文を執筆した者が居る。それも、お前がよく知っている者だ」

「えっ? まさか……」

「お前の『鎧』の整備を担当している技術大尉のエメリッヒ博士だ。もちろん、その論文も機密扱いだ」

「俺の権限なら、その論文を全部、お前らに見せる事が出来るが、その場合、俺が見た記録は残ってしまう。つまり、少なくとも俺は、ヤバい橋を渡らなきゃいけねぇって事だ。……そして、もし、お前らが内容を知ったら……引き返せなくなるぞ。どうする?」

「引き返せなくなる、って何から引き返せなくなるんですか?」

「ちょっと、俺のガラじゃねぇ、気障な言い方をするけど良いか?」

「どうぞ」

「知ってしまった時に、何から引き返せなくなるかを知る事そのものが、ある一線を越える事を意味する」

「中佐……私達に、何をさせたいんですか?」

「今、俺達が関わってるのがヤバいヤマだって事は判ってるよな。下手に、このヤマが無事に解決した時こそ、お前らは消される。だから、俺は、お前らに生き延びるための武器を与えてやろう。その武器を、どう使うかは、お前らに任せる」

「中佐……もし、中佐には別の目的が有って、私達を利用しようとしているだけだとしたら……」

「さて、どうするね、ファウスト博士。俺はメフィストフェレスかも知れんぞ」

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