フォーゲット・ミー・ノット

桔梗晴都

プロローグ

 少女が一人、横断歩道の脇に立っている。

 長く綺麗な藍の髪は三つ編みで編まれ、おさげに結わえられている。夜の闇を投影したかのような漆黒の瞳は、静かに俺を映している。クリーム色のカーディガンから微かに見える白い指先は、少しだけ透けていた。

 俺はこの少女を知っている。・・・知っている、はずなんだ。

 知っているはずなのに、俺の記憶の中に彼女はいない。俺は、彼女の名前も分からない。

「ねえ、先輩。私、貴方のことが…、」

 桜色の唇から紡がれるのは俺宛の言葉。だけど、その言葉を最後まで聞くことはできなかった。

 とう所として鳴り響いたのは、耳障りなブレーキの甲高い音。その後に通行人の怒号。悲鳴。何かの潰れる音。さまざまな音は彼女の言葉を奪って俺の耳に届いた。

 その音に思わず耳を塞ぎ、目を瞑った。再び目を開けると、視界に映ったのはあの、冬のように白くて透明で綺麗なあの子じゃなくて、真っ黒な世界。手にぬるりとした感触を感じて手を見れば、真っ赤に染まった自分の手が、そこにはあった。声にならない叫びをあげた。

 声が出ない。喉が痛い。体が重い。

 イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ

誰か、助けて。

 薄れる意識の中、そんなことを想いながら目を閉じる。そして、再び目を開けると、そこは俺の部屋。血まみれだった手を見てみると、傷はなく、マメだらけの手がそこにある。

 部屋を見渡してみると、あの少女はいるわけなくて、布団とクローゼットといつも勉強する机しかなかった。

 そう、さっきのは全て俺の夢。最近よく見る、俺の夢。

「達哉ー?優君が来てるわよー。」

 下から母さんの声が聞こえる。優がもう来てしまったらしい。時計を見ると、約束の時間を10分以上過ぎていた。

「すぐ行くー。」

 間延びした返事を返す。俺は気怠い体を起こして布団から這い出て、母さんがアイロンをかけてくれた皺ひとつないワイシャツに腕を通す。ネクタイを締め、最後にブレザーを着て、階段を下りる。下からは、みそ汁の出汁の匂いが漂ってきた。

「早いね優。」

「いやそんなことないけど。約束の時間より10分近く遅刻だぞ。」

 俺の方に振り返るのは、幼馴染の七緒優。俺らは毎日交差点で待ち合わせをしていて、一緒に登校するようにしている。今日のように優が家まで来ることは稀だ。

「お前が心配になって家まで来たんだよ。」

 俺の疑問を見透かしたかのように、優が言った。

「たかが10分だろ。心配するようなことでもない気がするが。」

「滅多に遅れないだろ。だから余計に心配になったんだよ。」

 はあ、と優がため息を零す。俺は「そっか~。」と気の抜けた返事をしながらトーストに噛り付いた。数分もしないうちにトーストは手元からなくなり、俺は立ち上がった。洗面所で身支度を整え、荷物を持って玄関に向かうと、既に優が靴を履いて待っていた。

「遅い。」

「準備してたんだよ。」

「今からじゃ朝練少ししかできないぞ。」

 そう。俺たちは毎朝武道場で朝練をしている。大会が近いということもあるが、入部してからというもの、二人ですることが日課になっていた。

 少し暖かくなった道を歩く。通学路にいくつも植えられた桜は満開で、風に吹かれて幾つもの花びらが空気の中を舞っていた。

「もうすぐ俺たちも引退だな。」

「そうだな。」

そんな会話をしながら、学校の武道館へと向かって歩く。生暖かい空気がふわりと眠気を誘う。大きなあくびをしながら、ふと、武道館の前に誰かいることに気づく。

「あ、先輩!」

 こちらに気付いたのか、その誰かが駆け寄ってくる。だんだん近づいてくるその子は、三つ編みのおさげで、うちの制服に身を包んでいた。「あっ!」と言ったかと思うと、つんのめって前に倒れそうになる。それを見ていた優はその子を受け止めた。

「あ、すみません七緒先輩・・・。ありがとうございました。」

「全く、気をつけるんだぞ。」

 優は笑って、 彼女の頭をポンポンと軽く撫でた。その光景に、俺は戸惑いながらも優に彼女のことを聞いた。

「えっと、優。彼女は・・・誰だ?」

 すると、優はわずかに顔を顰めた。彼女もビクッとしたようだった。

「・・・もう、そんな時間だったのか。」

 優が何かぼそりと言った。だけど、あまりに小さくて、俺には聞こえなかった。

「えっと、この子は・・・」

「大丈夫ですよ、先輩。自分で自己紹介くらいできますから。」

 優が紹介しようとしたのを、彼女が止めた。「でも・・・」と食い下がる優に、彼女は小さく静かに首を横に振った。それでやっと優は黙り込んだ。

「ずっと入院していたので、お会いするのは初めてですね。」

 そうやって自己紹介を始める彼女に、既視感を覚えた。だけど、記憶のどこを探しても彼女はいない。気のせいだろうかと思い、彼女の目をじっと見つめて言葉を待つ。

「・・・今年2年になる、名取和(かなう)と言います。所属部活は薙刀部。・・・先輩の、新しい後輩です!」

 ニッコリ歯を見せて笑いながら、彼女はそう告げた。優は心配そうな顔をしながら彼女を見ていた。そんな彼に気付いたのか、彼女は優にピースをして見せた。最初は驚いていた優も、一つため息をついた後、

「お前がそれでいいなら、それでいいよ。」

「私は、大丈夫ですよ!」

と言った。

 会話を聞く限り、あまり初対面の人とのコミュニケーションが得意ではないイメージが付いたが、それが本当かどうかは、俺が分かるところではない。

「今日からよろしくお願いしますね!成瀬先輩!」

 目も眩むようなまぶしい笑顔で、新たな後輩は俺の名前を呼んだ。それに対して俺も「ああ、よろしく。」と応えた。

 そうして、高校3年生の春、俺は桜の似合う藍色の髪をもつ少女・名取和と出会った。

 俺は、その少女が、夢の中の少女と気づくことなく、彼女を受け入れた。

 しかし、何故だろうか。

 自己紹介をしてくれた時、彼女はどうしてあんなにも痛々しそうに顔を歪めていたのだろうか。

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