世界五分間仮説

如月繊維

世界五分間仮説

 教室に、涼しい風が吹き抜けた。

 「ねえ、〝世界五分前仮説〞ってさ、知ってる?」

 いつもと変わらない、凛とした目をこちらに向けながら、彼女は唐突に問いかけてきた。なんの脈絡もなくいきなり訊かれたものだから、僕は不意に、

 「えっ?」

 と、気の抜けた返事をしてしまった。

 「だから、世界五分前仮説、って知ってる?世界は五分前に始まったんじゃないか、っていう、哲学の問題」

 「ちょっとだけ知ってる。世界が五分前に始まったとして、それを誰も否定できない、っていう問題でしょ?」

 「そうそう!流石だね」

 「それで、世界五分前仮説……が、どうかしたの?」

 僕の彼女は、成績優秀、容姿端麗、温厚篤実と、四字熟語でよく表される「良さ」のすべてを兼ね備えた人だ。彼女と一年と少し付き合って知ったのは、その「良さ」と対象的に、ときどき突然に変わったことを訊いてくるということだ。

 「あの仮説、実は本当なんだ、って言ったら、信じる?」

 そう言って彼女は、僕にクロノグラフを見せた。十一時から十二時までの五分間だけしか目盛りのないもので、秒針はカチカチと時を刻んでいた。何かの表示版は、四十八億九千百七万五千百七をカウントしていた。

 「僕は──多分、信じない。君と過ごした一年ちょっとは、多分偽造された記憶じゃない。僕は、君と出会ったときのことを、ずっと覚えているから。」

 「ふぅん。そっか。じゃあ、もうすぐかな」

 彼女はクロノグラフを見つめて、テディベアのキーホルダーがついた彼女のバッグに、それを放り込んだ。そして、

 「なんてね!冗談だよ。それじゃ」

 そう言って、後ろのドアを勢いよく開け、誰も居ない廊下を走っていった。

 教室に、涼しい風が吹き抜けた。




「ねえ、〝世界五分前仮説〞ってさ、知ってる?」

 いつもと変わらない、凛とした目をこちらに向けながら、彼女は唐突に問いかけてきた。なんの脈絡もなくいきなり訊かれたものだから、僕は不意に、

 「へっ?」

 と、気の抜けた返事をしてしまった。

 「世界五分前仮説、って知ってる、って訊いたの。世界は五分前に始まったんじゃないか、っていう、哲学の問題」

 「少しだけ知ってる。世界が五分前に始まったとしたら、それを誰も否定できない、っていう問題でしょ?」

 「そうそう!知ってるんだ!」

 「それで、世界五分前仮説……が、どうかしたの?」

 僕の彼女は、才子佳人、容顔美麗、山紫水明と、四字熟語でよく表される「良さ」のすべてを兼ね備えた人だ。彼女と一年と少し付き合って知ったのは、その「良さ」と対象的に、ときどき突然に変わったことを訊いてくるということだ。

 「あの仮説、実は本当なの、って言ったら、信じる?」

 そう言って彼女は、僕にクロノグラフを見せた。十一時から十二時までの五分間だけしか目盛りのないもので、分針だけが付いている。何かの表示版は、四十八億九千百七万五千百八をカウントしていた。

 「僕は──多分、信じない。君と過ごした一年ちょっとは、多分ニセモノの記憶じゃない。僕は、君と出会ったときのことを、今も覚えているから。」

 「そっか。じゃあ、もうすぐかな」

 彼女はクロノグラフを見つめて、テディベアのキーホルダーがついた彼女のバッグに、それを放り込んだ。そして、

 「なんてね!冗談だよ。じゃあ、またね」

 そう言って、前のドアを勢いよく開け、誰も居ない廊下を走っていった。

 教室に、涼しい風が吹き抜けた。




「ねえ、〝世界五分前仮説〞ってさ、知ってる?」

 いつもと変わらない、凛とした目をこちらに向けながら、彼女は唐突に問いかけてきた。なんの脈絡もなくいきなり訊かれたものだから、僕は不意に、

 「ん?」

 と、気の抜けた返事をしてしまった。

 「世界五分前仮説、って知ってる?世界は五分前に始まったんじゃないか、っていう、哲学の話」

 「多分、知ってる。世界が五分前に始まったとしても、それを誰も否定できない、っていう問題でしょ?」

 「そうそう!やっぱり君は賢いね」

 「それで、世界五分前仮説……が、どうかしたの?」

 僕の彼女は、文質彬彬、一笑千金、才色兼備と、四字熟語でよく表される「良さ」のすべてを兼ね備えた人だ。彼女と一年と少し付き合って知ったのは、その「良さ」と対象的に、ときどき突然に変わったことを訊いてくるということだ。

 「あれ、実は本当なの、って言ったら、信じる?」

 そう言って彼女は、僕にクロノグラフを見せた。十一時から十二時までの五分間だけしか目盛りのないもので、分針だけが付いている。何かの表示版は、四十八億九千百七万五千百九をカウントしていた。

 「僕は多分……多分、信じるかもしれない。なんとなく、そうだったら面白いなって」

 「その言葉が聞きたかった!」

 彼女はクロノグラフを見つめて、そのボタンを押した。カウンターがリセットされて、ゼロに戻る。

 「世界の秘密、教えてあげるね」

 そう言って、僕の手を取り、その柔らかな唇を押し当てた。

 顔の赤くなった僕を横目に、彼女は教室から駆け出していった。




 教室に、涼しい風が吹き抜けた。

「ねえ、〝世界五分前仮説〞ってさ、知ってる?」

 いつもと変わらない、凛とした目をこちらに向けながら、彼女は唐突に問いかけてきた。なんの脈絡もなくいきなり訊かれたものだから、僕は不意に、

 「ん?」

 と、気の抜けた返事をしてしまった。

 「世界五分前仮説、って知ってる?世界は五分前に始まったんじゃないか、っていう、哲学の話」

 「多分──その話、前にも聞いたかも、君から」

 彼女は目を丸くして、バッグからクロノグラフを取り出した。1とだけ表示されているカウンターを見て、

 「やった、やったー!」

 と、声を大にして喜び始めた。やったんだ、できたんだ、としきりに繰り返す彼女の目には、涙さえ浮かんでいる。大事そうに両手で僕の手を握って、その手を自分の頬に当てた。

 「助けられたんだ」

 「えっと、何が?」

 凄まじい歓喜を全身で表現する彼女と、全く話についていけない僕。教室には涼しい風が通り抜けていて、カーテンを休むこと無く揺らし続けている。窓の外に見える海は青く輝いていて、照りつける太陽が反射してその輝きを増す。

 「詳しいことは次のループで説明する。とにかく、今はこうしていたいの」

 彼女は涙を拭きながらそう言って、僕に抱きついた。彼女は僕を強く抱いて、泣きながら話した。

 「君が居れば、どうにかなるって。どうにでもなるって思ってた。ありがとう」

 泣いたまま、彼女は続ける。

 「君なら、気づいてくれるって────────




 教室に、涼しい風が吹き抜けた。

「世界五分前仮説、知ってる?」

 いつもと変わらない、凛とした目をこちらに向けながら、彼女は唐突に問いかけてきた……何か変だ。

 この光景を見たのは三度目だ、多分そう。確か、この次は、その仮説を信じるか否か訊いてくるはず。

 「僕は信じるよ。えっと、前に、君は僕を助けた……と、思う」

 彼女は安堵の表情を浮かべて、机に腰を掛けた。僕も窓枠に腰を掛けて、彼女を見つめる。

 「じゃあ、一つ前の事は覚えてるよね。リープ、について話そうか」

 彼女はクロノグラフを取り出して、その長針を僕に見せた。二分半ほど経過したことを指している。

 「まず、この世界はループしているみたいなの。この夏休みの、今日の五分間だけを、延々と。周りの人はそれを何も知らなくて、ループごとに記憶が消えてるみたいなの。ループ前のことを覚えているのは、私達だけ」

 次々と衝撃の情報が飛び出してくるが、いちいち質問することはやめて、彼女の話を聞くことにした。

 「このクロノグラフの針が真上まで来ると、世界はリセットされて、もう一度同じ世界が作られる。ループが発生するごとに、このカウンターの数字が一つ増えるの。カウンターはこのボタンでリセットできるけど、リセットしたところで何も起きなかった」

 「じゃあ、つまり、この世界は五分間を延々とループしていて、それを知っているのは僕と君だけ。そのクロノグラフで、残り時間と回数が分かる。そういうこと?」

 話に付いていけないのは確かだが、これが夢でないことは太ももに刺さる窓枠の痛みが証明している。それに、彼女の目はまっすぐとこちらを見ていて、彼女が嘘をつく時の顔をしていない。だとしても、到底信じられる話ではない。

 「話が早くて楽だよ。それで──もう時間が残ってないから、次のループで」

 「うん、次のループで。ループしたらちゃんと信じるよ」

 彼女が笑った、その顔を目に焼き付ける。あるのかもしれないループとやらに、負けないために。




 教室に、涼しい風が吹き抜けた。 

「ループ、してる」

 何度も感じたこの涼風。海から吹き抜ける潮の匂いを有した風。教室に充満する磯の香り。

 間違いない。ループしている。

 「ほらね!それじゃ、話の続きをするよ」 

 彼女はもはや慣れた運びで、前の世界の続きを話す。

 「それで、ループしているわけだけど、なぜループが起こっているのかわからないのね。そして、ループから脱出する方法もわからない。だから、今の所、私達には何も出来ない」

 「なにか方法があるのかもしれない。探してみよう」

 「すべて探した。君がループに入る、四十九億回ぐらいの間に、できることは何でもした。でも、だいたいは方法が完了する前に、いつも〝タイムアウト〞が来る」

 クロノグラフの針は既に半分を過ぎていた。文字通り刻一刻と迫るリセット。

 「それでも、二人ならなにかできるようになるかもしれない」

 「そうだね。ありがとう」

 彼女は凛とした目をこちらに向けながら、少し微笑んだ。

 もう一度教室に風が吹いた。窓の外は変わらない、青く輝く海と白い雲の散る空が見える。

 クロノグラフはリセットが近いことを示している。彼女はそれをバッグに押し込んで、すくと立ち上がってスカートをたなびかせながらこちらを振り向いた。

 「じゃあ、二人で頑張ろうね」

 「うん」

 僕は乾いた声で返事をした。クロノグラフの針が動き、十二時を───────




 教室に、涼しい風が吹き抜けた。

 「さて、何から試す?」

 「何を試したか聞かせてほしい」

 彼女はいつものように机に座り、僕はその椅子を引き出して座る。

 「じゃあ、覚えている限りから話すね。まずは、周りの人に説明してみた。もちろん、信じてくれるはずはないよね。皆〝何を言ってるの?〞ってビョーキの人みたいに言われた。お父さんやお母さんにも電話してみたけど、まあお察しって感じ。警察とか、救急車とか呼んでみたけど、来る前に時間切れだった」

 たった五分間では、できることにどうしても限りがある。移動距離にして五〇〇メートル弱、話すにしても談笑程度の時間しか得られない上に、ループ前の記憶は、僕らしか受け継がれない。仮に一度説得に成功したとしても、世界がリセットされてしまえば熱弁も無に帰すのだ。

 「学校から出てみたことは?」

 「何度も試した。多分、ループ回数の半分以上は学校から出たと思う。でも、走るにしても自転車にしても遠くまでは行けないよね」

 彼女は少し俯いて、ため息をつきながら続けた。

 「他人に助けを求めるのは諦めた。だから、最近のループは君と過ごすことにしてた。世界がリセットされて、どこかに向かうため全力で走って。君の驚きと失望っていうのかな、そういう顔を見るのが辛くなっちゃってね」

 彼女がついたため息を、風がそっと攫う。

 「よし、じゃあ、二人でできることを考えよう。一人だから、っていう理由でできないことはあった?」

 落ち込む彼女の横顔を見るのは辛い。苦し紛れか励ましか、僕はポジティブに話しかける。

 「それがさ、正直な所、あんまりないんだよね」

 彼女ははっきりとそう言った。




 教室に、涼しい風が吹き抜けた。

 「えっ。じゃあ、君は、どうして僕を?」

 それは、単純な驚きだった。

 「皆、ループのごとに全部忘れちゃうの、辛かったの。でも、君と会えるなら良いな、って。だから私は、ループから抜けるのを諦めて、無限に続く五分間を君とずっと過ごしてた。君がいるならいいや、君とループできるなら良いや、って。そうしたら、君もループし始めた」

 彼女の頬がみるみる赤くなる。目に涙を浮かべて、震える声で告げた。僕はただ混乱するばかりで、笑顔で涙を流す彼女を見ることしか出来なかった。

 「エゴだよね」

 嗚咽に紛れた小さな声を、僕は聞き逃さなかった。それは、時間の辺獄に巻き込んでしまったことに対する謝罪と、彼女自身への鋭い自覚だった。

 「違うよ。君のせいじゃない。君は何もしていない、そうなんだろう?だったら、僕と一緒に脱出の方法を探すだけだ」

 彼女の肩を抱いて、僕は決意する。彼女と一緒に、このループを突破する。そのためには、僕はなんだってする。

 「ごめんね」

 「もう泣かないで」

 彼女を抱きしめて、そっと囁いた。

 「僕も、君と居られるならそれでいい、そう思ってる。こんなに素晴らしい晴天と、涼しくて気持ちのいい風が吹く昼前の教室で。最高の青春じゃないか!だから、もう泣かないで」

 彼女が僕をループに誘い込んだときのように、僕は涙で濡れた彼女の手を優しく握って、そっとキスをした。

 涙の塩の味がした。彼女は笑ってくれた。

 「大好き。さすが私の────────




 教室に、涼しい風が吹き抜ける。

 彼女の頬に涙の跡は無く、腫れきっていた目もいつもの凛としたそれに戻っていた。

 「じゃあ、作戦会議だ」

 僕は椅子を引いて、彼女に「座って」と声をかける。今度は僕が机に座った。

 「まずは、僕たちの状況をしっかりと知りたい。そのためには、他にループしている人を探すのが一番早いと思う。今まで他にループしていたり、そういった素振りを見せたりした人はいる?」

 「私の行動圏内には、居なかったと思う。この学校の中で八五人、学校の周辺に二〇五人いるんだけど、その全てに一〇〇回ずつぐらい話しかけた。でも、誰も前の会話を覚えてないんだよね」

 「じゃあ、僕の原付でも見て回ろうか。学校近くの──一分もかからない駐車場に停めてあるから、二人で乗って、他に人を探しに行こうか」

 そういって僕はバッグから鍵束を取り出す。ジャラジャラと鳴る四本の鍵の中に、マークが描かれた特徴的な形状の大きめの鍵が一つぶら下がっている。

 「でも、今からじゃリセットが近い。場所だけでも案内するから、次のループでスムーズに行けるようにしよう」

 そういって僕は机から飛び降り、教室のドアを開けて彼女に手招きする。彼女はクロノグラフを掴んで椅子を発った。

 「やっぱり君は頼もしいや」

 走りながら、彼女は僕に笑いかける。この笑顔が僕を射抜いたのだ!

 廊下を走り抜けて、階段を三段飛ばしで駆け下りる。正面玄関のドアを開けて、彼女が付いてきていることを確認してさらに走る。細い路地を抜け、学校から三〇秒ほどで、僕の原付が停めてある駐車場に到着した。

 「ヘルメット、二つある?」

 「さすが優等生。この際、法律なんて無視しちゃおう」

 彼女の頭を撫でてからかうと、彼女は照れ隠しに僕をつついた。




 教室に、涼しい風が吹き抜けた。

 「よし、行こう!」

 「うん!」

 僕は鍵を握り、彼女はクロノグラフを握り、教室を飛びだして、階段を素早く駆け下りる。正面玄関を蹴飛ばして、入り組んだ路地を抜けた。彼女の方はと言えば、たったの一回でルートを完璧に記憶したらしく、僕に並走していた。

 鍵を差し込んで、ヘルメットを彼女に差し出す。僕が座ったその後ろに、彼女が座る。僕の胸を抱いて、

 「行けるよ」

 と小さく声をかけた。僕はそれに呼応するように、アクセルをひねり急加速した。

 「駅に行って。一番人がいるし、まだ行けてない」

 了解、とハンドルを切る。駅はここから三分ぐらいだが、できる限り飛ばせば一分もいらないだろう。いつもの何倍もアクセルを強くひねって、けたたましいエンジン音とともに昼前の住宅街を抜ける。

 どうにか到着した駅は、時間の割に賑わっていた。仮にループが発生している人がいるとすれば、数分間のループの中に存在しなかった人間が二人、しかも突如現れたのだから、状況さえ把握できていればこちらに気づくだろう。

 「僕は北口、君は南口を」

 線路を跨いで二つの出口があるこの駅は、それぞれの出口に商店街が広がっている。発見・被発見の可能性を高めるため、別行動になる。彼女とは電話番号を交換しているから、何かあれば連絡が飛んでくるだろう。

 賑わっていると言っても、商店街にいるのは老人ばかりで、目立つ者はいない。すぐさま彼女にダイヤルする。

 「こっちには居ない。クロノグラフは?」

 「こっちも居なさそう。あと一分もないぐらい」

 「じゃあ、次のループでもう一度探そう。周る場所を変えれば見つかるかもしれない」

 話し中の携帯を片手に立ち尽くす学生。目立つのは確実だが、ループを超えれば誰も────────




 教室に、涼しい風が吹き抜けた。

 「次行こう。目的地は──」

 「モール。ショッピングモール。話してる暇は無さそう」

 学校からはそれなりに離れたモール。バイクでもそれなりに時間はかかる。最大限飛ばして、三分、四分というところだ。もはや慣れた足取りで、三回目の駐車場へ向かう。ヘルメットを投げ渡し、鍵を差し込んでバイクを走らせる。

 「間に合うか怪しいよ!」

 けたたましいエンジン音に負けないように、激しく揺れるハンドルを握りしめて叫ぶ。

 「きっと行ける!」

 メーターは時速八〇キロを指し、まだ加速している。交差点に差し掛かったところで、右から迫る車に気づいた。

 「うわっ!」

 ブレーキを握りしめた時には遅かった。車に突っ込んだバイクは宙を舞い、僕と彼女を乗せたまま壁に激突した。

 歪む視界と、赤く染まった腕。そんなことはどうでもいい、彼女は──

 道の端にできた、バイクと同じ大きさの赤い水たまり。その中心に、彼女は居た。ふらつく足で向かう。

 「私は大丈夫……次のループにはすべて戻る」

 死をも克服したらしい彼女の目は、いつも通り凛としたままだった。

 「でも、この世界ではもう無理ね……これは多分、背中が折れてる」

 彼女の背中は大きく変形し、肩甲骨の下に新たな突起が出来ていた。折れたらしい背骨は、確かに凄まじい内出血が惨状を示していた。

 「ねえ、来て」

 横たわる彼女は、その怪我を物ともせず起き上がり、火事場の馬鹿力というのだろう怪力で僕を引き寄せた。

 そっと彼女は僕にキスをして、僕を見て────────




 教室に、涼しい風が吹き抜けた。

 先の世界で負ったはずの重症は、僕も彼女も全くなくなっていた。

 「ほらね。世界がリセットされると、何もなかったことになるの」

 彼女は凛とした目をこちらに向けて、僕をじっと見ている。

 「ねえ、それ……何?」

 「えっ?」

 何回目だろうか、気の抜けた返事。彼女が手を伸ばして指したのは、僕の胸ポケット。その中には、彼女のものと似たようなクロノグラフが収まっていた。

 「これは……君の?」

 「違う。私のは金色で、ペンダントが付いてて、そこがボタンになってる。押すとカウンターがリセットされる」

 このクロノグラフは銀色で、彼女のそれと異なり、長い針と短い針の二つが付いている。ボタンも二つ付いていて、アナログ式のストップウォッチに近い形をしている。彼女のクロノグラフと同じなのは、長針の指す文字盤が十一時から十二時までの五分間しかないこと。一方、短針は正確に秒を刻んでいる。内側に書かれた六〇本の目盛を、一秒一秒。

 「見て、その長針。私のクロノグラフと同期してる」

 彼女のクロノグラフも、僕のクロノグラフも、確かに残り二分を指していた。

 「私のスイッチはカウンターのリセット。そのスイッチ、押してみたくない?」

 「試せるものは何でもやろう。押すよ」

 僕はスイッチをしっかりと押した。カチリ。分針が十二時を指したのが見えた。




 教室に、涼しい風が吹き抜けた。

 「あれ、まだ五分経って無かったよね」

 僕が彼女に訊くと、彼女はぱちんと指を鳴らして、

 「そのボタン、五分間をスキップする機能があるんだ」

 「でも、使いみちが思いつかない」

 「そうだね、さっきみたいに怪我したときかな。あれ、普通に痛いんだよね。もう気にしないけどさ」

 なんでも、彼女が言うに、痛みは感じる。しかし、既に今までのループで何度か事故に巻き込まれたことがあるらしく、苦しんだり、死にかけたり、実際に死んだりしているうちに、痛みを感じなくなったのだという。

 「じゃあ君は、四十九億回のループの中で進化したんだね。すごいことじゃないか」

 「そうみたい。〝新人類〞って呼んでいいよ」

 彼女と笑い合うと、もうこのままでも良い気さえしてくる。四九億回の五分間。二百四十五億分、実に四万と六千年あまり。彼女はその中でも、ずっと僕を愛してくれていたのだろうか。

 「四十九億回って、どのくらいの時間になるか知ってる?」

 〝いつも〞と違って、今度は僕が質問する。

 「知ってる。四万六千五百二十八年と、二百十一日、九時間、四十分。正確にね。多分私は、世界の誰よりも長生きね」

 「君はとても賢いね」

 「もちろん!さあ、もう一つのボタンを試しましょ」

 僕は言われるがままもう一つのボタンを押す。カチリ。毎秒を刻む短針が止まり、風が一瞬の間静かになった。

 「止まった、のか」

 「待って。まだわからない。もうそろそろだから」

 彼女が疑い深いところは初めて見た、たしかに、何れにしろそろそろ世界がリセットされるはずで、それを待てばこの秒針が止まったその真意が分かる。彼女は自分のクロノグラフを凝視して、ぽつりと呟いた。

 「これ、針が進んでない」

 彼女はまた、僕をループに引き込んだときのように喜んだ。僕の手を固く握って、ぶんぶんと降った。彼女が僕に飛び込んできて、ふたりとも倒れた。

 「やった!やったんだ!ループを止められた!」

 窓の外を見ると、翼を羽ばたかせた鳥が空中で停止している。ただ、風は吹いたままで、海には波が見える。

 「外を見に行かない?これ、ループから出られたんじゃ無さそうだ」

 涙目になっている彼女を連れて、僕たちは外へ出た。


 「なに、これ」

 目の前は、想像を超えた世界だった。すべての人が、完全に動きを止めている。道を通る野良猫も、電線でさえずる雀達も、ゴミを漁るカラス達も。すべてが蝋人形になったように固定されて、動かない。誰も通らない横断歩道の信号が赤青点滅を繰り返し、角を曲がりかけた車はウィンカーを点滅させたまま動かない。いつもテレビの付いているラーメン屋は、湯切りの瞬間の店主、麺を吸い込んだ瞬間の客が固まっている一方、テレビだけが唯一動いている。ちょうど天気予報をしていたらしいアナウンサーは、熱帯低気圧を指差したまま固まってしまっている。

 「これは……私達以外の時間が停止している、ということかしら」

 「正確には、僕たち以外の〝生物〞全ての時間が停止している、というのが正しいかもしれない」

 歩きスマホの少年が握るスマートフォンはアンテナ四本で完璧に電波を受信しているし、固まった彼の指に操作されて、「あ」が延々と入力されている。電気も通っているし、テレビだって映る。

 「じゃあ、とりあえず、私達は五分間の呪縛からは開放されたのね」

 「とりあえず、はね」

 僕がそう言うと、彼女は僕にキスをした。僕まで固まってしまったかのような瞬間だった。

 彼女は顔を真赤にしたまま、

 「四万六千年も学校に居たままだった。皆勤賞を何個取れるかな」

 続けて、その妖艶な唇で

 「遊びに行かない?」

 と囁いた。

 「でも、いいの?ループを抜けることが先決、じゃなかったっけ」

 「もう、また言わせる気?四万年以上、この教室で、ほとんど一人みたいな状況で過ごしたの。数千年ぐらい、楽しんでもいいでしょう?」

 彼女は頑固だ。自分が正しいと思ったら、絶対に退かない。実際、彼女が間違っていたことは無い。彼女は自分の言いたいことが理解してもらえるまでずっと粘るし、きっと今もそうだ。時を超越した彼女なら、数百年間でも粘るだろう。僕は彼女と口論になると、いつも負かされる。

 「よし。じゃあ、どうせなら何世紀も遊ぼうじゃないか。どこへ行く?」

 「屋上。屋上の、プール。」

 彼女から出た答えは、意外と近場の、こじんまりした我が校のプールだった。僕は彼女の言われるままに、停止した先生たちが乱立する職員室から鍵を失敬し、サビの目立つ屋上の鍵を開けた。


 「わあ、綺麗」

 屋上には太陽が真上から差していた。針金フェンスの向こうには海が見える。プールの水底には塩素玉が黙して座し、止まない海風が水面を揺らし続け、曇ることを知らない高気圧と真夏の太陽がプールサイドを焦がしていた。

 「熱い!」

 彼女はおもむろに靴を脱ぎ、靴下を丸めて放り投げた。束ねてポニーテールにしていた髪を解いて、扇情的ですらある漆黒の長髪を解き放った。彼女は短いスカートを更に持ち上げて、水深の浅いプールに飛び込んだ。

 「ねえ!君!」

 僕は呼ばれるままに靴を脱ぐと、刺すような熱さが足裏に滲みた。

 「本当だ、熱い!」

 プールサイドで踊る僕を見て、彼女は笑った。

 「夏は終わらないよ」

 すると彼女は僕の手を掴み、プールの中に引き込んだ。水色の中に、青や黄色のラインが見える。彼女のほっそりとした長い脚が、水色を反射した。水底を蹴って立ち上がった僕を、彼女はまた笑った。

 「君の彼女で良かったって、本当に思うよ」

 そう言って、僕らは塩素香る水を掛け合った。


 その後、僕たちは長く、永く遊んだ。誰もが停止した遊園地に行って、二人で観覧車に乗った。電子音だけが聞こえるゲームセンターで、何百曲もカラオケをした。ひとりでに流れ続ける映画を、二人で何百と観た。内線放送の曲だけが聞こえる流行りの服屋で、二人きりのファッションショーをした。スクランブル交差点でかくれんぼをした。地下鉄で肝試しをした。最高級のホテルの、最上階の何十万円もする部屋で、リビドーに身を任せた。世界を歩いて何十周もした。永遠に来ない十二時を、文字通り時を忘れて遊び呆けた。

 「ねえ、どのくらい経ったかな」

 結局戻ってきたのは最初のプールサイドだった。未だ時の進まない十一時五十八分三十四秒の中、彼女は遠くを見たまま呟いた。

 「さあ、ね。とても長い間ということは確か」

 溶けないままの塩素玉は、ずっと昔から水底に座している。あの鳥は空中に固定されたままだし、鍵の刺さったドアは際限なく吹き続ける風にいつも揺られている。

 「そろそろ、脱出の方法を──」

 「まだ」

 おそらく反射的に、彼女から飛び出した言葉。こちらを見る気配もなく、ずっと海を見ている。僕は彼女を凝視する。〝ループからの脱出〞を目的に、四十九億回を耐え抜いた彼女の決意は、僕というトリビアルな存在で、こんなにも簡単に崩れてしまうのだろうか。

 「ねえ」

 彼女は僕の目を見ない。頑なに、波に揺れる海を見続けている。

 僕は偶然に、ループに招かれた。だが、それは本当に偶然の産物か?

 ループに入る直前に、彼女がやったこと。クロノグラフを手に入れる直前に、彼女がしたこと。共通点はキスだ。

「隠し事、してるでしょ」

 僕の突き止めた一つの結論。五分毎に生成される世界の、その原因。

 彼女だ。

「気づいちゃったんだね」

 彼女がそう言うと、指を鳴らしながら立ち上がった。すると、世界が一変した。晴れ渡った昼前から、雲散る夕方に。

「じゃあ、全部話すよ。君は耐えられる?」

 彼女は夕日を背負い神々しく輝いていた。今まで吹いていたものよりも強い風が吹く。

「君が何であろうと、それを受け入れる」

 ふう、と彼女はため息をついて、ついに口を開いた。

「私、君たちの言うカミサマなんだ」

 もはや、僕が驚くことはなかった。僕がそっと頷くと、彼女は続けた。

「簡単に説明すると、私は君たちの世界よりずっと上の次元にいる……君たちの言葉なら、〝高次元生命体〞」

 数千年前に見たように、彼女が指をぱちんと鳴らす。すると、夕暮れだった屋上のプールは、彼女と行ったスクランブル交差点に再形成された。

「君たち三次元プラス一時間次元の人間は、二つの目で三次元世界を二次元映像として受け取る。そして、絵を書くことで一次元世界と、二次元世界を創造できる。でも、時間次元を創造することは出来ない。分かる?」

「自分の存在する次元より下の次元は、自由に作編ができる、ということか」

 もう一度彼女が指をパチンと鳴らす。世界が歪んで、たくさんの廃墟が並んだ都市に再形成された。

「そう。そして、私は六次元プラス四時間次元の住人。君たちの世界からすれば、神と等しい存在、一〇次元人」

「じゃあ、この世界は君の創造物だって言うのかい」

 「その通り」

 彼女はスカートを翻して、その場でくるりとターンして僕に背中を向けた。もう一度指を鳴らすと、見たこともない巨大な樹木が並んだ、熱帯雨林のような場所が再形成された。

 「私は、世界を自由に想像できる。君たちの観測する宇宙も、私のシミュレーションの一つ。本当なら、君もシミュレーションされたニンゲンという低次元生物の一個体だった。私の娯楽のための宇宙の、ちっぽけな生物の一つ」

 指を鳴らす。また夕暮れのプールに戻ってきた。

 「でも、君はイレギュラーだった。初めは私がエミュレートした意識のままに、私の気に入る関係を作り出す、バイオ・オートマトンでしかなかった。究極の形而上学メタ的存在である私に、君たちのような低次元な繁殖行動は必要ない。その前段となる、恋愛とやらも」

 彼女が振り向いたかと思えば、一瞬にして僕の目の前に転移した。

 「君はさ、私をおかしくしたんだよ」

 そう言い放った彼女の顔は真っ赤だった。

 「本来存在しない感情を作り出した。だから、私は君を高次元の存在に昇華させた」

 そう言うと、彼女はまた背を向けて元の場所に転移し、そのまま語る。

 「君は本当にイレギュラーだ。君の感情エミュレートだけが、私の制御を離れて独立し始めた」

 突如、ポケットに入ったままだったクロノグラフが光りだす。急いで取り出したそれは、燃えていく紙のように、くしゃくしゃになりながら灰化し、風に流されてその粉塵が飛ばされた。

 「だから、君を監視することにした。本来ありえないことだから。だから私は君の彼女になった」

 彼女が持っていたクロノグラフも、同じように灰化していた。彼女はそれを高く掲げて、風の吹くままに、灰色の煙を形成して飛んでいく、さっきまでクロノグラフだったものを見つめていた。

 「いつも君に会って、十二時が来る直前に君の見えないところで世界の再形成を続けていた。クロノグラフなんて、舞台装置に過ぎなかったの。君の目の前で、気付かれないように再形成するために」

 「じゃあ、僕は」

 「そう。私のエゴで造られて、私のエゴで確立した存在」

 「そんなことじゃない」

 次々飛び出してくる言葉は、その一つも僕に届いていなかった。ただ巻き起こる疑問は一つ。

 「じゃあ君は、僕を好きなんだね?」

 僕とは比べ物にならないほどの〝高次元生命体〞の彼女を、面食らわすことに成功した。

 「なぜそんなことを?」

 「正直な所、もう世界がどうとか、ループがどうとか、そんなことはどうでもいいんだ。僕にとって重要なのは、僕にとって君がどういった存在か、ということと、君にとって僕がどんな存在か、というだけなんだ。第一、僕がそんなことを知ってしまったら、他のことは全てどうでも良くなると思わない?」

 世界にあまねく人々の殆どが、いわゆる脇役モブでしかないと、告げられたのだから。彼女が主人公の、彼女が遊ぶゲームの登場人物。彼女が作った宇宙セーブデータのなかで繁栄する存在。全ては彼女のゲームの中でのみのもので、この世は限りなく精巧に造られたシミュレーションでしかない。彼女が現れなかったら、到底考えもしなかったコペルニクス的転回。それを聞いてしまった僕は、世界の意味を失った。

 「君は……私にとって……」

 また、高次元存在を困らせることに成功した。

 「大切な、ヒト」

 彼女はそう言って、もう一度指を鳴らした。また再形成されたそこは、ループを知った教室だった。

 「ずっと昔、私を狂わせた君。責任はとってくれるよね?」

 向き直った彼女は、僕の目をじっと見つめる。〝いつも通り〞の、凛とした目で。

 「もちろん。これを」

 彼女と同じ、高次元生命体になった僕の力で創造した、僕が持っていたクロノグラフ。それを彼女に差し出す。

 「さあ、世界をもう一度動かそう」

 もはや時間など意味を失った世界は、昼前にも関わらず太陽と月が空に浮かび、晴天の空に天の川が輝いていた。

 彼女はそっと時計を受け取って、そのボタンに指をかける。

 「ねえ」

 僕が返事するより早く、彼女は僕にキスをした。

 カチリ。

 時計の針が十二時を指した。




 教室に、涼しい風が吹き抜けた。

 「ねえ、〝世界五分前仮説〞ってさ、知ってる?」

 いつもと変わらない、凛とした目をこちらに向けながら、彼女は唐突に問いかけてきた。なんの脈絡もなくいきなり訊かれたものだから、僕は不意に、

 「えっ?」

 と、気の抜けた返事をしてしまった。

 「だから、世界五分前仮説、って知ってる?世界は五分前に始まったんじゃないか、っていう、哲学の問題」

 「ちょっとだけ知ってる。世界が五分前に始まったとしても、それを誰も否定できない、っていう問題でしょ?」

 「そうそう!流石だね」

 「それで、世界五分前仮説……が、どうかしたの?」

 僕の彼女は、成績優秀、容姿端麗、温厚篤実と、四字熟語でよく表される「良さ」のすべてを兼ね備えた人だ。彼女と一年と少し付き合って知ったのは、その「良さ」と対象的に、ときどき突然に変わったことを訊いてくるということだ。

 「あの仮説、実は本当なんだ、って言ったら、信じる?」

 「信じない、って言えると思う?」

 世界はループをやめた。クロノグラフはもう無いし、今日の午前十一時五十五分からの五分間は、一度だけ来る。

 「何もかもが懐かしいね」

 彼女は凛とした目で僕を見つめたまま、僕の手を取って、何度目かのキスをした。

 「なんてね。冗談だよ。行こう!」

 そう言って、後ろのドアを勢いよく開けて、誰も居ない廊下を走っていった。

 僕もその後を追って、走り出した。空は変わらず青いままで、全てが動いている。

 もう誰も居ない教室に、もう一度涼しい風が吹き抜けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界五分間仮説 如月繊維 @Kisaragi_Fiber

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ